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人生は観覧車か回転木馬のよう~映画「女と男の観覧車」 [映画時評]

人生は観覧車か回転木馬のよう~映画「女と男の観覧車」


 1950年代、ニューヨーク市ブルックリン区のコニーアイランド。名物観覧車が回る海岸沿いの遊園地、とくれば舞台装置は満点だ。繰り広げられるひと夏の女と男の物語。まるでそれは、観覧車か回転木馬を見るようだ。哀愁に満ちた音楽とともにとめどなく繰り返されていく物語。ウディ・アレン監督と実力派女優ケイト・ウィンスレット(「愛を読む人」)のタッグが見事だ。
 ジニー(ケイト・ウィンスレット)は観覧車の見える部屋で遊園地に勤めるハンプティ(ジム・ベルーシ)と暮らしている。ともにバツイチ。そこへ、ハンプティ―の娘キャロライナ(ジュノー・テンプル)が帰ってくる。彼女はギャングと駆け落ちしたが、別れてきたという。平穏だった生活に波風が立ち始める。
 女優だったジニーは、海の監視員をしていた劇作家志望のミッキー(ジャスティン・ティン)と不倫に陥る。ミッキーはキャロライナとも出会い、微妙な関係になっていく。ジニーの心がざわつき始める。そこへ、ギャングの追っ手が迫る…。
 こんな風に書けば、ストーリーは古今東西を問わない男と女のドタバタ喜劇のようだ。しかし、そんな中に人生の哀歓をそこはかとなく醸し出すのは、やはりウディ・アレンの手腕というものだろう。小品だが味わい深い。原題はズバリ「Wonder Wheel」(観覧車)。2017年、アメリカ。



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まさに柄谷ワールド~濫読日記 [濫読日記]

まさに柄谷ワールド~濫読日記

   

「坂口安吾論」(柄谷行人著)

 

 柄谷行人を「文芸評論家」と形容するとき、何かしらの違和感を覚える。寸足らずの上着を着ているかのような違和感である。彼は、文芸評論家に収まらぬ、哲人、もしくは思想家としての存在に思える。その柄谷が「坂口安吾論」を書いた。果たしてこれは、文芸評論と呼ぶべきか。やはり、そうではないように思う。文芸評論をはるかに踏み越えたもののように思う。坂口安吾(柄谷は、必ずしも「小説家」というカテゴリーではとらえていない)をテーマとした思想論集と呼ぶのが、最もすわりがいいだろう。

 

「堕落」は正当に理解されているか

 

 坂口安吾といえば、代表的な著作は「堕落論」であり、それをもって終戦直後の無頼派の一人と一般的に理解されている。ここで安吾が言う「堕落」とは何か。少し長めに引用する。

 

 日本国民諸君、私は諸君に日本人、及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。

 天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花は望むことができないのだ。(略)私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のからくりにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。(「続堕落論」から、「坂口安吾論」から孫引き)

 

 手元の辞書を引くと、堕落とは「まともな道が歩めなくなって悪の道に落ちること。健全さを失って低劣になること」(岩波「国語辞典」)とある。安吾は「からくりにみちた『健全なる道義』」から「真実の大地」へ転落せよといっているのだから、まさしく安吾の説く「堕落」は、一般的な意味とはあべこべである。

 

 では、安吾はどのような「堕落」を説いているのか。柄谷の「坂口安吾論」の肝心な部分もここにある。世間的な常識や一時の皮相な観念を取り払い、人間の根源的な存在の部分にまで降り立ってみる。フロイト風に言えば、無意識的な次元の超自我の世界。おそらくそれを、安吾は「堕落」と呼んでいる。別の言い方をすれば、ラディカル(根底的)な思考こそが必要である、といっている。こうした主張が、終戦直後という時代の風景にマッチし、安吾を一躍、流行作家に押し上げたのではないか。安吾が時代に乗ったわけではなく、時代が安吾に乗ったのである。

 言い換えれば、安吾は「終戦直後」という時代状況が産み出したか、というとそうではない。柄谷がこの「坂口安吾論」を、「日本文化私観」を安吾が戦後に書いたものと誤解していた、という体験から書き始めていることも、そのことと関係している。「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ」という「日本文化私観」で書かれた風景は、終戦直後のそれではなく、戦前の日本の風景に安吾がすでに込めた感慨であったと、柄谷は指摘する。安吾の一時的、皮相的でない、戦前とか戦後とかを問わない、別の言い方をすれば、日本の風景やふるさとにこめた他に類を見ない独自の思想を、柄谷は指摘している。

 

「堕ちきらぬ」戦後思想への絶望

 

 実はここに収められたエッセーは、20年前に書いたものだと、著作の中で柄谷自身が明かしている。ではなぜ今、坂口安吾論なのか。

 「堕ちきるまで堕ちよ」という安吾の言葉に、そしてそこからの新しいモラルの模索に、柄谷自身が今の時代と重ね合わせ、共感する部分が多いからではないか。言い換えれば、上面だけの生半可な救済が横行し、「堕ちきる」ことのない戦後思想にうんざりしているせいではないか。柄谷による、安吾の思想についての根源的な、そして興味深い指摘がある。元マルクス主義者たちとの交友に触れた部分である。安吾の「絶望」の深さと独自性が分かる。

 

 安吾は平野謙や荒正人が弾圧による転向を通してもった「絶望」を最初からもっていたのである。

 

 安吾は、けっして近代的な意味での「小説家」ではなかった。ある作品は小説的エッセーであり、ある作品はエッセー的小説である。ある作品は社会派ファルスであった。しかもその思想は独立峰とも呼ぶべきもので、近代のジャンル分けで特定できるものではなかった。戦前か戦後か、どころか、明治の作家であってもおかしくはなかった。こうした不可思議な安吾という存在を窓口に、フロイトやカント、そしてマルクスを援用した柄谷ワールドが縦横に展開されたのが、この「坂口安吾論」であろう。

 インスクリプト、2600円(税別)。


坂口安吾論

坂口安吾論

  • 作者: 柄谷行人
  • 出版社/メーカー: インスクリプト
  • 発売日: 2017/10/14
  • メディア: 単行本

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アートを気取った駄作~映画「Vision」 [映画時評]

アートを気取った駄作~映画「Vision

 

 河瀬直美監督の作品は、興味はあったが見たことがなかった。10作目という「Vision」の公開で、一度は見てみるか、という気分で鑑賞した。印象は最悪であった。いわゆる芸術的な作品の部類に入るのだろうが、画風にそうした意識が先走りすぎている。難解さの裏側に、何か不快なものを感じさせる。

 仏人のエッセイスト、ジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)は幻の植物ビジョンを求めて吉野の森を訪れる。そこで、一頭の猟犬と暮らす智(永瀬正敏)と出会う。その出会いには、不思議な盲目の女性アキ(夏木マリ)が絡んでいた…。智と深い仲になったジャンヌはいったん母国に帰る。一人になった智は鈴(岩田剛典)と出会い、森を守るための共同生活を始める。そこへ戻ってきたジャンヌとの3人の生活が始まる。

 森の生活の中で、ジャンヌは岳(森山未来)という青年を愛した過去を思い出していた。岳はある老いた猟師(田中泯)の誤射で命を落とす。二人の間に生まれた子はアキの手を介して岳の実家に預けられた。鈴は、その子の成長した姿なのか。

 前半はともかく、後半はバタバタとストーリーを追った、アート系らしからぬ展開。そこに、ビジョンという謎の植物は997年に1回現れるとか、997は素数であり、ほかの数字の介在を許さないとか、中途半端な講釈がつく。全体を通して言いたいことは、人間にとって不条理とも思える畏敬すべき自然の深遠さのように思うのだが、その割には「素数」などという断片的な近代の「知恵」や「意味」が顔を覗かせるから、観るものは戸惑う。

 理解不足かもしれないが、結局のところ鈴はジャンヌの子だったのだろうか。そうだったとして、結局何が言いたいのだろうか。何か霊的なものを全編に漂わせ、ちょっとアートのような理解困難な絵の構成で、最後は大団円。何を主張したことになるのだろう。河瀬直美の過去の作品の名声と、この「Vision」は、あまりにも落差が大きい。

 2018年、日仏合作。


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「破れ目」の思想~映画「万引き家族」 [映画時評]

「破れ目」の思想~映画「万引き家族」

 

 最近読んだ加藤典洋著「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」に「破れ目」という言葉が出てくる。完ぺきに見える思想構築物の中に発見された論理的破綻とでもいうべきもの。加藤はこの言葉をルソーからドストエフスキーへ、という文脈の中で使っている。ルソーの社会契約説の中で説明しきれないもの、それをドストエフスキーが「地下室の手記」で著し、さらに「社会契約」の外側、つまり法の外側の存在=新たな立法者としてラスコーリニコフという存在を造形した「罪と罰」に言及する形で、加藤は「破れ目」を使っている。

 

 是枝裕和監督の「万引き家族」を観た。加藤が言う「破れ目」を追究し、法の外側に視点を置いて、ある人間集団のありようを追った作品に思えた。そこは、社会の吹き溜まりのような場所である。しかし、だからこそ居心地がよく、人間的真実があるような場所でもある。社会の破れ目であり、何かが破たんした場所でもある。破たんしたものはいったい何か。それは作品の後半で明らかになる。

 都会のビルに挟まれて立つ、古びた平屋。5人が「家族」と称して住んでいる。生活費の柱は初枝(樹木希林)の年金。それを、細々とした各自の稼ぎと、父治(リリー・フランキー)と息子翔太(城桧吏)の連係プレーによる万引きで得た収入で補う。治と翔太は万引きの帰り、団地のベランダで震えるゆり(佐々木みゆ)を見かけ、連れて帰る。ゆりにも万引きの特訓が始まる。クリーニング店をリストラされる信代(安藤サクラ)、親には海外留学と偽ってJK専門の風俗店で働く亜紀(松岡茉優)…。

 事件が起きる。初枝が急死するのだ。年金を途絶えさせたくない治らは、遺体を床下に埋めて彼女の死を隠ぺいする。ゆりの親からは捜索願が出る。そして翔太とゆりの万引きが発覚、すべてが明るみに出る。刑事から初枝の死体遺棄、ゆりの誘拐が追及され、世間からはひんしゅくと軽蔑の視線が投げかけられる。しかし、世間の目の裏側にあるのは体裁と建前と根拠のない常識である。世間はそんなもので断罪するが、果たして「万引き」でつながっていた家族に「真実」はなかったのか…。しかし、それを絆と呼んでは、あまりに薄っぺらになってしまう。やっぱりそれは、人間社会の「破れ目」と呼ぶのがふさわしい。「体裁」や「常識」の内側にいると信じている人々には、永遠に見えることのない何か。

 是枝監督はこれまで「そして父になる」(2013)、「海街diary」(2015)、「海よりもまだ深く」(2016、未見)、「三度目の殺人」(2017)で、一貫して家族の姿を見つめた。「海街diary」は、鎌倉を舞台に美人姉妹の共同生活を描き、かつての小津安二郎を想起させる画風だった。小津は、戦後こそ中流階級のモダンな生活を虚無的な視線で描いたが、初期は路地裏の庶民生活に潜む真実を追った社会派ファルス(笑劇)に近いものをつくってきた。底流に「小津調」を秘める是枝作品群は、この「万引き家族」を観てあらためて思うのだが、小津作品の系譜を逆コースで歩んでいるように思える。

 リリー・フランキーはこの怪演をもって不世出の演技者となった。おそらく、それに続くのが安藤サクラであろう。

 2018年、カンヌ国際映画祭最高賞。


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「明治維新後論」が必要だ~濫読日記 [濫読日記]

「明治維新後論」が必要だ~濫読日記

 

「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」(加藤典洋著)

 

 「戦後思想」というやつはどうしてここまで薄っぺらで嘘くさいのか。

 

 そう思うのは私だけではないらしい。「敗戦後論」や「戦後的思考」の加藤典洋が、その源流~戦後思想の薄さと浅さの~を探り、一つの手ごたえとして得たのが明治維新以後に見る「わけの分からなさ」であった。「わけの分からなさ」とは何か。それを追究しまとめたのが「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」である。「敗戦後論」にちなめば「明治維新後論」ともいうべきものである。奇しくも今年は維新から150年。

 といっても、冒頭のテーマに沿った文章は全体4部構成のうち最初の章だけである。あとは鶴見俊輔との出会いであったり、水俣病とのかかわりであったりする。その中で、もしあげるとすれば、ヤスパースと日本平和思想のあいだを論じた「戦争体験と『破れ目』」が出色だ。

 

 冒頭のテーマに戻る。第1章は「二一世紀日本の歴史感覚」と題され「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」と「三〇〇年のものさし」からなる。最初の文には「丸山眞男と戦後の終わり」と副題がつく。

 加藤はまず、若手研究者の一人伊東祐吏の書いた「丸山眞男の敗北」を紹介。戦後思想の構築に大きく寄与した丸山は、前半に比べ後半はほとんど失速した、という伊東の指摘を引く。そこから、こう問いかける。

 ――二〇一七年、なぜ戦後民主主義の思想は世の中の動きに対する抵抗の足場としての力を、ほぼ失い尽くしているのか。(略)退落の、遠い淵源は、丸山の後半の苦しい戦い、その停滞のうちに、顔を見せているのではないだろうか。

 丸山は晩年、「山崎闇斎と闇斎学派」を残した。かなりの努力を払ったとみられるが、評価は芳しくなかった。山崎闇斎は江戸前期の思想家で、幕末期の尊王攘夷思想に影響を与えた人物。加藤はこの論考に、丸山の「尊王攘夷=反時代性」への関心を見てとる。

 明治維新は知られているように尊王攘夷思想を変革のエネルギーとしつつ、維新後は尊王開国へと集団転向を果たした。その過程でいくつかの反乱~例えば西郷隆盛の西南戦争~はあったが和魂洋才、富国強兵をスローガンに「近代化」が進められた。いつしか、その構図は尊王=国権と万機公論=民権の対立構図にすり替わり「攘夷」は抜け落ちていった。

 そこで「攘夷」をもう一度近代日本の形成過程に組み込んでみようというのが丸山の晩年の視点だったと、加藤は指摘する。なぜ、そうした視点が必要か。

 「尊王攘夷」から「尊王開国」への思想の転移(転轍)をきちんと見なければ、それはさらに劣悪化した「尊王攘夷」思想を生み、無意識的な「尊王開国」への転轍を生み出す~まさにそれが「戦後」思想である~からだ、と加藤は言う。この論を展開する上で、加藤は吉本隆明の「内在」と「関係の絶対性」の概念を援用する。

 「攘夷」は内在的エネルギーであるが、国際関係の中での日本の位置を認識すれば「攘夷」を国策とすることはかなう話ではなく「開国」が必然となる。これが「関係の絶対性」である。

 しかし、こうした思想的葛藤は明治維新後に行われなかった。こうして、不十分なままの「明治維新後論」が80年後、劣化した尊王攘夷思想(戦中)と尊王開国思想(戦後)を生み出したと、加藤は指摘する。日本が日中戦争の泥沼に足を踏み入れてさらに80年を経たのが現在である。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」史観はよく知られるところだが、その欠陥もまた今日では広く認識されている。司馬史観では、幕末期から明治期までは日本の近代化が比較的うまく進んだが昭和に入り、軍部の独走によって道を誤ったとする。明治と戦後はよかったが、昭和の前半だけ道を間違えたとする説である。この説も取り上げられ、当然のことながら、明治か戦後か、ではなく明治も戦後も否定されるべきだ、と加藤はいう。

    ◇

 200912月、ノーベル平和賞の受賞記念演説でオバマ米大統領(当時)は「Just War(正しい戦争)」という言葉を繰り返した。日本のメディアと平和運動に携わる人たちは、一斉に疑問の声を上げた。「正しい戦争はあるのか」と。この時の騒ぎを想起させたのが「戦争体験と『破れ目』―ヤスパースと日本の平和思想のあいだ」だった。日本ヤスパース協会の大会での発言を文字化した。

 加藤は二つの発言を紹介する。一人は英国人哲学者エリザベス・アンスコム。原爆投下命令を下したトルーマン大統領(当時)を批判して、ほかに手段があるのに原爆を投下したのは「謀殺」(自分の目的の完遂のために人を殺害する)に当たるとしたうえで、ユダヤ人絶滅政策のような極限的な「不正」をただすための戦争は許容される、と主張した。正しい戦争とそうでない戦争があるから、正しい戦争手段と不正な戦争手段があるのであり、戦争がすべて「悪」であるなら、戦争行為としての原爆投下は「相対的な罪」を問われるだけだ、という論である。ちなみにヤスパースは「全体主義支配の現実は原爆以上に悲惨で深刻である」と、ある著書で述べている。

 しかし、これは日本人にはなかなか受け入れがたい論である。そこで、加藤は「正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」という井伏鱒二「黒い雨」の主人公の述懐を紹介する。

 両極の思想のどちらが正しいかを判定することに大きな意味はないだろう。そのことを認めたうえで加藤は、論理的な不整合、破れ目の上にこそ日本の平和思想は再構築されるべきだ、と書いている。

 幻戯書房、2600円(税別)。

 

もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために

もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために

  • 作者: 加藤 典洋
  • 出版社/メーカー: 幻戯書房
  • 発売日: 2017/09/21
  • メディア: 単行本

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