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「明治維新後論」が必要だ~濫読日記 [濫読日記]

「明治維新後論」が必要だ~濫読日記

 

「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」(加藤典洋著)

 

 「戦後思想」というやつはどうしてここまで薄っぺらで嘘くさいのか。

 

 そう思うのは私だけではないらしい。「敗戦後論」や「戦後的思考」の加藤典洋が、その源流~戦後思想の薄さと浅さの~を探り、一つの手ごたえとして得たのが明治維新以後に見る「わけの分からなさ」であった。「わけの分からなさ」とは何か。それを追究しまとめたのが「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」である。「敗戦後論」にちなめば「明治維新後論」ともいうべきものである。奇しくも今年は維新から150年。

 といっても、冒頭のテーマに沿った文章は全体4部構成のうち最初の章だけである。あとは鶴見俊輔との出会いであったり、水俣病とのかかわりであったりする。その中で、もしあげるとすれば、ヤスパースと日本平和思想のあいだを論じた「戦争体験と『破れ目』」が出色だ。

 

 冒頭のテーマに戻る。第1章は「二一世紀日本の歴史感覚」と題され「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」と「三〇〇年のものさし」からなる。最初の文には「丸山眞男と戦後の終わり」と副題がつく。

 加藤はまず、若手研究者の一人伊東祐吏の書いた「丸山眞男の敗北」を紹介。戦後思想の構築に大きく寄与した丸山は、前半に比べ後半はほとんど失速した、という伊東の指摘を引く。そこから、こう問いかける。

 ――二〇一七年、なぜ戦後民主主義の思想は世の中の動きに対する抵抗の足場としての力を、ほぼ失い尽くしているのか。(略)退落の、遠い淵源は、丸山の後半の苦しい戦い、その停滞のうちに、顔を見せているのではないだろうか。

 丸山は晩年、「山崎闇斎と闇斎学派」を残した。かなりの努力を払ったとみられるが、評価は芳しくなかった。山崎闇斎は江戸前期の思想家で、幕末期の尊王攘夷思想に影響を与えた人物。加藤はこの論考に、丸山の「尊王攘夷=反時代性」への関心を見てとる。

 明治維新は知られているように尊王攘夷思想を変革のエネルギーとしつつ、維新後は尊王開国へと集団転向を果たした。その過程でいくつかの反乱~例えば西郷隆盛の西南戦争~はあったが和魂洋才、富国強兵をスローガンに「近代化」が進められた。いつしか、その構図は尊王=国権と万機公論=民権の対立構図にすり替わり「攘夷」は抜け落ちていった。

 そこで「攘夷」をもう一度近代日本の形成過程に組み込んでみようというのが丸山の晩年の視点だったと、加藤は指摘する。なぜ、そうした視点が必要か。

 「尊王攘夷」から「尊王開国」への思想の転移(転轍)をきちんと見なければ、それはさらに劣悪化した「尊王攘夷」思想を生み、無意識的な「尊王開国」への転轍を生み出す~まさにそれが「戦後」思想である~からだ、と加藤は言う。この論を展開する上で、加藤は吉本隆明の「内在」と「関係の絶対性」の概念を援用する。

 「攘夷」は内在的エネルギーであるが、国際関係の中での日本の位置を認識すれば「攘夷」を国策とすることはかなう話ではなく「開国」が必然となる。これが「関係の絶対性」である。

 しかし、こうした思想的葛藤は明治維新後に行われなかった。こうして、不十分なままの「明治維新後論」が80年後、劣化した尊王攘夷思想(戦中)と尊王開国思想(戦後)を生み出したと、加藤は指摘する。日本が日中戦争の泥沼に足を踏み入れてさらに80年を経たのが現在である。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」史観はよく知られるところだが、その欠陥もまた今日では広く認識されている。司馬史観では、幕末期から明治期までは日本の近代化が比較的うまく進んだが昭和に入り、軍部の独走によって道を誤ったとする。明治と戦後はよかったが、昭和の前半だけ道を間違えたとする説である。この説も取り上げられ、当然のことながら、明治か戦後か、ではなく明治も戦後も否定されるべきだ、と加藤はいう。

    ◇

 200912月、ノーベル平和賞の受賞記念演説でオバマ米大統領(当時)は「Just War(正しい戦争)」という言葉を繰り返した。日本のメディアと平和運動に携わる人たちは、一斉に疑問の声を上げた。「正しい戦争はあるのか」と。この時の騒ぎを想起させたのが「戦争体験と『破れ目』―ヤスパースと日本の平和思想のあいだ」だった。日本ヤスパース協会の大会での発言を文字化した。

 加藤は二つの発言を紹介する。一人は英国人哲学者エリザベス・アンスコム。原爆投下命令を下したトルーマン大統領(当時)を批判して、ほかに手段があるのに原爆を投下したのは「謀殺」(自分の目的の完遂のために人を殺害する)に当たるとしたうえで、ユダヤ人絶滅政策のような極限的な「不正」をただすための戦争は許容される、と主張した。正しい戦争とそうでない戦争があるから、正しい戦争手段と不正な戦争手段があるのであり、戦争がすべて「悪」であるなら、戦争行為としての原爆投下は「相対的な罪」を問われるだけだ、という論である。ちなみにヤスパースは「全体主義支配の現実は原爆以上に悲惨で深刻である」と、ある著書で述べている。

 しかし、これは日本人にはなかなか受け入れがたい論である。そこで、加藤は「正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」という井伏鱒二「黒い雨」の主人公の述懐を紹介する。

 両極の思想のどちらが正しいかを判定することに大きな意味はないだろう。そのことを認めたうえで加藤は、論理的な不整合、破れ目の上にこそ日本の平和思想は再構築されるべきだ、と書いている。

 幻戯書房、2600円(税別)。

 

もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために

もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために

  • 作者: 加藤 典洋
  • 出版社/メーカー: 幻戯書房
  • 発売日: 2017/09/21
  • メディア: 単行本

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