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経済全能でない生き方~映画「モリのいる場所」 [映画時評]

経済全能でない生き方~映画「モリのいる場所」

 

 画壇の仙人、超俗の画家と呼ばれた熊谷守一(1880~1977)のある一日を映像化した。守一に山崎努、妻の秀子に樹木希林。このうえないコンビと思えるが、この作品で初共演という。驚きだ。

 1974(昭和49)年、東京。画家としての名声を得た94歳のモリはこの30年間、自宅の庭から出たことがない。雑草と虫たちをながめ、インスピレーションを得て深夜、アトリエにこもる。秀子(76)は毎日、それを見守っている。俗世間からかけ離れた生活だが、なぜか人が集まる。もちろん、背後には世俗的な打算がある。そのことを鬱陶しく思うモリは、文化勲章受章の知らせにも、「いらない」とそっけなく答える。

 庭の生き物たちと交歓するモリの姿に、二つの言葉が浮かんだ。

 

 ――井の中の蛙は、井の外に虚像を持つかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像を持たなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながっている。(吉本隆明「日本のナショナリズム」)

 ――酷使されたからだは次第に山の気のなかに溶けだしてゆく。この、山に向かって開かれた「わたし」が実在感を失い、限りなく無になってゆく感覚が「悟りの境地」に似るゆえ、山は古くから修業の場でもあったのだろう。(南木佳士「山行記」)

 

 吉本の言葉は、いささか場違いかもしれないが、この作品で描かれたモリの心境を言い当てている気がする。モリは外界との交流を断つことで永遠と無限の世界(宇宙)との交流、交歓を手に入れた(そのことを示唆するシークエンスもある)。一方、南木の言葉は、自らの登山経験に即してのもので、その点でモリの日常とは違うが、そこを除けば、「自然との交歓」から「悟り」に至る心境、言い換えれば心眼で見えてくるものを見ようとする境地をよく表している。

 1974年という時代設定がさりげなくなされているが、このことの意味は大きい。60年安保闘争と70年安保闘争に挟まれた高度経済成長期を経て、日本が経済大国という幻影に踊らされていたころ、そうした国家の路線=経済全能主義=に無縁な生き方があったことを提示している(考えてみれば60年、70年の闘争で問われたのも、このこと=経済だけが豊かさをもたらすのか=であった)。

 モリの庭=彼にとっては宇宙であった=は時代の流れの中で、思わぬ危機を迎える。向かいにマンションが建つというのだ。そこでモリがとった行動と取らなかった行動とは―。

 2018年、監督は「滝を見にいく」(2014)の沖田修一。思いのほか、内容的に深い。それは山崎努、樹木希林によるところが大きい。言わずもがなだが、タイトルはもちろん、現代日本の状況への反語である。モリのいる場所は、今の日本にあるのか、という。


モリのいる場所.jpg

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