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水俣を流れる悠久の時間~濫読日記 [濫読日記]

水俣を流れる悠久の時間~濫読日記

「葭の渚 石牟礼道子自伝」(石牟礼道子著)

 「苦海浄土」の著者石牟礼道子の生涯については元毎日新聞記者米本浩二の優れた評伝「石牟礼道子 渚に立つひと」(2017年)がある。標題の自伝はそれに先立つ2008年から13年にかけて熊本日日新聞に連載された。米本の評伝は詳細にして精緻、2020年に出た「魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二」と併せて読めば彼女の生きざまを立体的に再現して興味深いが、彼女自身の手による「葭の渚」もまた別の意味での魅力を漂わせる。
 彼女の地元紙に年間にわたって書かれた文章は「飛び飛びの連載」だったと明かされているが、そのためか多少の書きムラが見られる。幼少期から始まり、谷川雁との出会い、サークル村への参加にいたる成年期へと、ほぼ時間軸に沿ってつづられていくが、圧倒的に幼年期から少女期にかけての前半が濃密で優れている。
 それは、皮肉なことだが、幼くして自省的な部分が少ない分、周囲の人々、自然環境への目配りがきいているためであろう。言い換えれば不知火の海、水俣の人々との悠久のときの流れが文体の中に共有されている。
 天草を出た祖父は水俣で石工として事業をなし、対岸の宮野河内で道路建設をしているときに道子が生まれた。彼女の名の謂われもそこにある。しかし、祖父は事業道楽といわれるほど損得に無頓着だったため、やがて倒産。一家は「さしょうさい」(差し押さえ)を食って水俣川河口、火葬場の入り口と呼ばれる場所へ掘っ立て小屋を建て移り住む。評伝も自伝も「渚」がタイトルに使われているのは、このころの生活の落魄が文学の礎をなしているとの確信によるものだろう。
 こうした幼少期の生活を通じて祖母おもかさまの異常な振る舞い、長男・國人の「書物神様」ぶり、水俣の栄町通りの人々の暮らしぶりが描かれる。中でも、妓(おんな)たちが商う末廣で繰り広げられた哀しいドラマが浮き立つ。印象的なのは16歳で店に来た「すみれ」の悲劇である。ある日、中学生に刺殺される。その少年もだが、家族も哀れであると道子の視線は語る。犯罪者となった少年の弟から「おやゆびひめ」の絵本をもらった。「嬉しいというより、その家の行き場のない悲しみをもらったような気がした」と書く。
 不知火の海を望む浜に移り住んでの貧しい生活は楽ではなかっただろうが、目の前に広がる自然は豊かだった。

 ――猿郷は一種の里村といってよかった。千鳥洲という響きのよい地名を持った田んぼを前に控え、そこを突っ切って長い土手を浜辺へと歩いてゆけば、松風の音のする広い林があった。林の前は遠浅の海で、潮が引けば沖の方まで干潟があらわれる。月のうち二度、大潮という日があって、特別に起きの方まで潮が引き、砂州があらわれ、実にいろいろな種類の貝がとれた。

 もちろん、海からのめぐみは貝だけではなかった。終戦直後の食糧難ではイワシを取り、塩漬けにして農家の米と交換した。しかし、見知らぬ家の軒先で「イワシと米を交換してください」とどうしても言えない。根っから日常をしたたかに生きる人ではなかったのだ。こうした性格は、熊本の短歌会で出会った「虚無と至純の詩人」志賀狂太とのかけがえのない交友につながる。しかし、志賀は何度かの未遂の末に自殺する。
 「苦海浄土」を書くに至る過程としてあった谷川雁との出会い、サークル村への参加は、ごく簡単にしか触れられていない。生涯の魂の伴侶ともいうべき渡辺京二とのことは全く出てこない。それでも、なぜ「苦海浄土」を書くに至ったかはよくわかる。石牟礼道子という人間の感性の形成ぶりが理解できるからである。谷川雁や渡辺京二とのことを知りたければ、別のかたちで読めばいい。彼女が見定めようとした水俣を流れる悠久の時間と常民の暮らしぶりが見える一冊でもある。それはとりもなおさず、自身が常民ではなかったことに由来するのだが。
 藤原書店、2200円(税別)。

葭の渚 〔石牟礼道子自伝〕

葭の渚 〔石牟礼道子自伝〕

  • 作者: 石牟礼 道子
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2014/01/20
  • メディア: 単行本

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戦争の悲惨、愚直に描く~映画「1941 モスクワ攻防戦80年目の真実」 [映画時評]

戦争の悲惨、愚直に描く~
映画「1941 モスクワ攻防戦80年目の真実」


 194110月、ワルシャワ街道を驀進するドイツ戦車軍団とソ連軍との死闘を描いた。この年の6月、独ソ不可侵条約を破棄してバルバロッサ作戦を断行したドイツ軍は、フィンランドからコーカサスまで数千㌔に及ぶ戦線を構築。9月にはレニングラード包囲網を形成、900日に及ぶ攻防戦で100万人以上の餓死者が出たとされる。そのころの、独ソ戦の分水嶺ともなった戦場を描いた。
 モスクワ正面作戦がソ連軍の強硬な反攻をうけ、ドイツ軍はスターリングラード及びコーカサスへと主力部隊の展開先を変えた。長く延びた補給路確保のため、ヒトラーが南部油田地帯をほしがったことも背景にあった。しかしモスクワ、レニングラード、スターリングラード三方面作戦からモスクワを外した二方面作戦への転換は、短期決着を目指したドイツ軍の優位を揺るがすものとなった。
 このときのモスクワ攻防戦はどんな状況だったか。

 ――モスクワを南北からうかがう態勢にあったドイツ軍も、1942年初頭には、完全に撃退されていた。なかには、250㌔の後退を余儀なくされた部隊もあったほどである。
 ――だが、モスクワ前面の反攻に参加したソ連軍諸部隊は、実は装備豊かでもなければ、潤沢な補給を受けていたわけでもなかった。(大木毅「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」から)

 兵員も、かき集めの新編部隊だった。
 こうした状況下、映画は進む。ドイツ戦車の進攻に危機感を抱いたソ連軍はポドリスク兵学校の士官候補生や看護師らを戦線に送り、防衛線を形成する。しかし、火力で圧倒的に勝るドイツ軍を前に、戦場は地獄と化した…。
 若者の恋愛物語が挟まれ人間ドラマの味わいもあるが、主役はあくまで戦車や大砲である。機械化された戦場で人間の命はかくも軽いものかが見せつけられる。珍しくロシア側から独ソ戦をとらえたこと、タイトルに「80年目の真実」とあること(原題は「The Last Frontier」)から、知られざる史実が盛り込まれているかと期待したが、それはなかった。ソ連側だけで死者500万人【注】を出した独ソ戦の悲惨さを、正面から愚直に描いた。

 2020年製作。監督バディム・シメリエフ。

【注】第二次大戦でのソ連側死者数は非戦闘員含め2700万人。冷戦時代には2000万人とされたが後に上方修正された。ドイツは第二次大戦全体で600万人から800万人と推計される。日本の死者数310万人と比べると、特にソ連の人的被害の過酷さが分かる。


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偉大な父を持ったことの悲劇~映画「ミス・マルクス」 [映画時評]

偉大な父を持ったことの悲劇~映画「ミス・マルクス」


 哲学者であり経済学者でもあったマルクス。彼の思想は、20世紀の世界を二分する原因ともなった。今でも信奉者は多い。そのマルクスの娘の生涯を描いたのが「ミス・マルクス」である。

 1883年、ロンドン。マルクスの葬儀から始まる。思い出を語るのは四女のエリノア(ロモーラ・ガライ)。マルクスの秘書として「資本論」の英語版を刊行した。独身のまま28歳になっていた。やがて劇作家のエドワード・エイヴリング(パトリック・ケネディ)と出会う。恋に落ち一緒に暮らすが、彼には妻がいた。そのうえ浪費家だった。その点は父カールも同じだった。浪費癖のため、よく盟友のフリードリヒ・エンゲルス(ジョン・ゴードン・シンクレア)に無心した。
 エリノアは、ドイツ社会民主党の資金集めのためエイヴリングと訪米するなど、父が亡くなった後も社会主義と労働者のために働いた。貧しい側に立とうとするエリノアにとって、金銭トラブルが絶えないエイヴリングは悩みの種だった。

 あるとき、友人の前で寸劇が披露された。イプセンの「人形の家」を翻案した。
  「私は不当に扱われてきた。最初は父によって、次はあなたによって」とエリノア。喝采を浴びたが、エリノアにとっては本音だった。

 偉大な父を持つことは幸せでもなんでもでもない、とこの映画はいっている。「資本論」を忠実に行動に移しても、父の影を追ったに過ぎない。妻の死後、若い舞台女優を後妻にするなど、実生活ではエイヴリングの不実に悩まされ続け、結婚に至ることはなかった。死の床のエンゲルスから、彼の子と信じていたフレデリック(オリヴァー・クリス)が父カールと家政婦の子と打ち明けられたことも、衝撃だった。
 エリノアは生涯、父の巨大な影に悩まされたファザコン女性というほかない。エイヴリングの一見優しい人間性におぼれたのも、その心象の故ということだろう。彼女は1898年、服毒自殺を遂げた。43歳だった。バックにハードなロックが流れ、一見イケイケムードのつくりだが、ストーリーの核心部は重くて切ない。
 監督・脚本スザンナ・ニッキャレッリ。2021年、イタリア、ベルギー合作。


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マスコミの寵児はいかにして生まれたか~濫読日記 [濫読日記]

マスコミの寵児はいかにして生まれたか~濫読日記


「大宅壮一の『戦後』」(阪本博志著)


 日本の映画史を振り返ると大きく二つのヤマがあった。最初のヤマは大正末期から昭和の初めにかけてで、1920年から30年代。二つ目は戦後、1950年代の後半から60年代の初頭にかけて。58年に日本の映画人口は112700万人で史上最高だった。
 むろん、映画だけがこのような動きを見せたわけではない。背景には社会の様々な動きがあった。中でも大きいのは大衆社会の平準化と高揚であろう。二つの時期は第一次、第二次大戦の直後に訪れた。二つの大戦は世界的に国家総動員体制の確立を迫った。このことの社会的記憶・遺産と戦後の世界的な秩序の安定が相まって大衆社会の平準化・高揚が生まれたと容易に推測できる。 


大宅と戦争体験
 この二つのヤマを生きた著名な人間として大宅壮一がいる。
 大宅と一つ目のヤマの出会いに言論の市場化=批評のマテリアリズムの萌芽を見たのが「批評メディア論 戦前期日本の論壇と文壇」(大澤聡)だった。大宅と二つ目のヤマの出会いに焦点を当てたのが「大宅壮一の『戦後』」(阪本博志)である。
 阪本は、日本の社会史と大宅の個人史を重ねるにあたって二つの視点を導入する。前田愛の大衆社会論と鶴見俊輔の転向論である。前田によれば1920年代半ば~30年代半ばと195560年代にかけての大衆社会化の中で大宅が活動を展開。阪本はこの中で、戦争体験が大宅にどう作用したかを見た。
 戦前、共産主義思想にシンパシーを抱いた時期があった大宅は、国家総動員体制を経て(大宅はプロパガンダ映画製作のためジャワに派遣された体験を持つ)、戦後マスコミの寵児となった。このプロセスを、鶴見は以下のように分析する。
 ――大宅の最初の著作「文学的戦術論」(1930年)と最近の著作「『無思想人』宣言」(1955年)とをくらべてみるならば、当時の前衛的団体のオルグとしての大宅の活動形態と、現在のマス・コミ(原文ママ)諸機関のタレントとしての大宅の活動形態とのあいだにあるとおなじだけのひらきがみえる。
 ――彼の転向は、前衛的知識人から傍観者的知識人への転向のコースの典型であり、またこの時代の日本の知識人としてはもっとも大衆の転向のコースに近い。(いずれも「共同研究 転向」から。「大宅壮一の戦後」から孫引き)
 大宅は戦後、週刊誌やテレビで「大宅の顔を見ない日はない」といわれるほど売れっ子になったが、戦前の思想遍歴や戦争体験、戦後の転向が正面から問われたことはなかった。それは彼が、鶴見が言うように、知識人のそれではなく大衆レベルでの「転向」コースをたどったためであろう。「戦後思想とは、戦争体験の思想化であったといっても過言ではない」(小熊英二「<民主><愛国>―戦後日本のナショナリズムと公共性」から。「大宅壮一の戦後」から孫引き)という「戦後」を、大衆と同じ地平で引き受けたからこそ、大衆文化が高揚した1950年代に、その言説が大衆に受け入れられたのではないか。 


「無思想」という思想
 とはいえ、戦後の論壇への復帰は容易ではなかったようだ。戦前左翼が戦中に軍部の要請に従い、戦後は再び民主主義、共産主義思想に戻るというのは知識人にありがちだが、大宅はそうはしなかった。戦後の一時期、農業で暮らした。自身、このころを「文筆の断食期」としている。一方で「猿取哲」(サルトルに哲学をくっつけた)の人を食ったペンネームで書いたりもしていた。「変革の直後に動き回る人間は、世の中が安定すると一掃されるということが分かっていたから、なにも書かなかった」(1957年)と振り返るが敗戦後、筆を折った時期と猿取、大宅の時期は明確な色分けができるものではなかった。「猿取」と「大宅」が併存する時期がしばらくあったと、綿密な調査の上で阪本は書いている。
 大宅が戦後の論壇に「再登場」したのは、1950年の「『無思想人』宣言」(「中央公論」)によってであった。この「無思想」という「思想」はどんなものだったか。大宅(猿取)の文章から引く。
 ――ジャーナリズムは、それ自体商品の一種であると共に、人類文化のすべての分野を商品化する機能を持っている。幽玄なる思想も、崇高なる芸術も、ひとたびジャーナリズムの手にかかれば、(略)レッテルを貼ってジャーナリズム市場に陳列されるのである。(1949年「前進」)。
 猿取哲のペンネームで左翼系の雑誌【注】に寄せた。この考えはその後も一貫しており、ジャーナリズム→商品→分業は、その後週刊誌で実現させた、データマンとアンカーマンの執筆分業体制にも通じている。
 ともあれ「『無思想人』宣言」によって大宅は戦後ジャーナリズムの方向性を規定しただけでなく自らの位置を定め、戦後マスコミに一時代を築いた。心不全で亡くなったのは19701122日。三島由紀夫が市ヶ谷で自決する3日前だった。阪本は大宅論の締めくくりとして、あらためて「大衆社会化」「転向」「戦争体験」というキーワードを挙げている。大宅と三島は生きた時代こそ違うが、ともに戦後を体現する知識人であった。しかし、上記の三つのフィルターを通してみた時、位相の落差の大きさに愕然とする。
 阪本の労作は戦後マスコミの寵児だった大宅の成り立ち方、成分表を明らかにした、といえるのではないか。
 人文書院、3800円(税別)。

【注】「前進」は、日本社会党労農派の理論的指導者山川均が1947年に創刊した。



大宅壮一の「戦後」

大宅壮一の「戦後」

  • 作者: 博志, 阪本
  • 出版社/メーカー: 人文書院
  • 発売日: 2019/11/22
  • メディア: 単行本


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人気のコンテンツと人気俳優~映画「燃えよ剣」 [映画時評]

人気のコンテンツと人気俳優~映画「燃えよ剣」


 幕末の極めて短期間、剣の最強集団として動乱の京都に登場した「新選組」は、徳川政権の没落とともに落日の運命をたどった。判官びいきもあって、日本人が歴史上最も好むコンテンツであろう。この新選組を題材に原作・司馬遼太郎、岡田准一(土方歳三)、鈴木亮平(近藤勇)の当代人気俳優が配役を担うとなれば当たらないはずがない。それに尽きる映画である。

 1862年の武州。天然理心流道場「試衛館」で「農民剣法」と笑われながらも修行に励む土方、近藤、沖田総司(山田涼介)ら。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたことを知り動乱の時代を予感、京都こそ時代の中心を担うと上洛を決意する。
 京の治安悪化を憂えた一橋慶喜(山田裕貴)は、会津藩主・松平容保(尾上右近)を京都守護職に任命。治安回復の名案が浮かばない容保は、当時京に集まった「浪士組」に目を付けた。多額の報酬につられた面々が浪士組に集まった。
 そこには様々な思想の持ち主がいた。例えば浪士組の発案者・清河八郎(高嶋政宏)は尊王攘夷派だった。近藤、土方は芹沢鴨(伊東英明)らと組み内部抗争(内ゲバ)に走り、倒幕派を追放。京の治安維持という一点で結束する壬生浪士隊(壬生浪)を作りあげた。芹沢は酒と女に狂い、組織の評判を落とす。土方らは芹沢暗殺を決行した。
 土方は組織の整備のため局中法度をしたためた。脱走や不要な金銭要求など、違反すれば即切腹という厳しいものだった。隊はやがて「新選組」を名乗った。活動の頂点が池田屋での尊王攘夷派27人殺害だった。
 時代の流れにつれ近藤、土方らは敗者の道を歩む。近藤は最終的に名を偽って降伏(この行動は土方が説得した結果という説もあるが、映画では土方の制止を振り切った、となっている)、身元が発覚して斬首された。土方は長い退却戦の末、1869年に北海道・五稜郭で銃弾に倒れた。

 見どころをいくつか。司馬の原作でもこの映画でも、中心軸は土方歳三である。彼の組織論的手腕(それは冷徹さにも通じる)の描き方に比重が置かれる。いわゆる「ナンバー2」の哲学とでもいうべきものである。日本の政界を振り返ると、官房長官としての菅義偉、後藤田正晴、野中広務らがこうした役回りの人物として浮かぶ。彼らに通じる動き方が描かれていた。ただ、その分鈴木が演じる近藤の影が薄くなったのが悔やまれる。
 新選組は、日本で初めて生まれた近代組織論を体現する集団といわれる。江戸幕藩体制は藩=家を基礎としており、目的意識によって組織されてはいなかった。新選組と同じく目的論的組織論を基礎としたのが高杉晋作の奇兵隊だった。二つの団体は士農工商という階層を飛び越えて武装した、という新しさを持っていた(二つは、倒幕・佐幕の対立軸を越えているところが興味深い)。この結果としての徴兵制軍隊に対する士族階級の抵抗が西南戦争だったといえる。作品中、「士道」の在り方をめぐって、会津藩とつながりが深い芹沢と土方が論争する場面にも、その辺を見てとれる。
 岡田をはじめとする殺陣は、かなりリアルであると感じた。幕末期の立ち回りはほとんど路上でなく屋内で演じられた。カモイや柱が邪魔になり、桃太郎侍のような大立ち回りは不可能だったと推測される。したがって、突いたりひいたりする剣の使い方がほとんどだったと思われる。農民剣法といわれた天然理心流は、太くて重い木刀をひたすら振ることで腕力を鍛えたという。この点も、屋内での立ち回り(接近戦)に適していた。薩摩の人斬り以蔵(岡田以蔵=村上虹郎、一瞬出てくる)は示現流の使い手で、この流派はひたすら打ち込みと突きの鋭さを鍛えた。やはり、実戦向きであった。農民階級も動員された戦国時代の戦でも、突きと引きが強調されたという。
 土方を慕う女性お雪に柴崎コウ。岡田、鈴木、伊藤英明と、かなりバタ臭い顔が並ぶ。プロローグのキャスト紹介でアルファベットが並ぶ段階で、これは覚悟しなければならない。
 2021年、監督・脚本原田眞人。


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