時代の閉塞感と映像美~映画「ミツバチのささやき」 [映画時評]
時代の閉塞感と映像美~
映画「ミツバチのささやき」
「瞳をとじて」のビクトル・エリセ監督デビュー作。作られたのは1973年だが日本公開は85年。実はこの製作年が意味を持つ。「瞳をとじて」と同様、いやそれ以上にスペイン内戦が絡むからだ。
物語の舞台は1940年、カスティーリャ地方の小さな村(ちなみに「瞳をとじて」は47年)。スペイン内戦は、36年のフランコ政権発足に始まり39年の人民戦線=共和派敗北で幕を閉じた。内戦直後の閉塞感漂う時代が背景にある。フランコ体制は75年まで続き、映画はこの体制下で作られた。
主人公の少女アナ(アナ・トレント)は姉イザベル(イザベル・テリェリア)、養蜂業を営む父フェルディナンド(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)、母テレサ(テレサ・ヒンペラ)と暮らす。村にある日、映画の興行が来た。姉妹が興味津々で観たのは「フランケンシュタイン」だった。フランケンが少女と遭遇し、結局は殺してしまう。「なぜ殺したの?」とアナが姉に問いかける。イザベルは「本当は殺してないの」と答える。現実とファンタジーの区別がつく姉に対して、妹は境界線が見えていない。フランケンという怪物が生み出す恐怖への言い知れぬ感情(遠ざけたくも、近づいてみたくもあり)を、素朴に抱いている。これが、その後の基調低音になる。
鉄道のレールに耳を当て、列車の接近を実感するシーン。姉妹のそばを、轟音を立てて鉄の塊が過ぎていく。これも、恐怖とともにどうしようもなく無慈悲な存在を思わせる。
姉妹は村の外れの野小屋で遊んでいた。そこへ、列車から飛び降りた一人の男が潜む。アナが偶然会う。彼女にはもう一人の「フランケン」だった。男はフェルディナンドと会うことを望んだが、深夜銃撃され命を落とす。このシーンはロングで撮られている。
時代から、男は人民戦線派の兵士と思われる。捕虜の身だったが脱走してきたのか。フェルディナンドもかつて人民戦線にいたのか。冒頭、テレサが手紙を書くシーン。回想の中、戦地へ向かう兵士を駅頭で見送る。家族か恋人かわからないが、彼女も人民戦線の側にシンパシーを抱いているようだ。フェルディナンドは仕事柄、蜂の巣を扱うが、一匹の女王蜂を戴く動きはフランコ政権下のファッショ体制そのものに見える。
フェルディナンドは夜毎に蜂の生態のレポートを書いている。巣づくりについて「悲しみと恐怖があった」と書き、思い直して取り消すシーンがある。これも、強権体制下の自己検閲に見えてくる。
セリフは極端に少ない。「精霊」を追う少女の視線の先に、詩編のように美しい映像が流れる。狩野良規はこの映画について「モチーフでエピソードをつないでいる作品」としたうえで、そのモチーフは「アナが漠然と〝死〟を感じ取り、兵士の死でそれを実感する物語」とする【注】。背景に、内戦で疲弊した大人たちと、内戦後を見つめるアナという構図がある。ちなみにビクトル・エリセ監督は内戦が終わった直後の1940年生まれ。フランコ体制下の閉塞感と映像美。体制批判の刃を巧妙な技巧で隠したこんな映画、いつか見た…。スターリン体制下のポーランドで体制批判を試みたアンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」を連想させる。原題「El espíritu de la colmena」(蜂の巣の精霊)。
【注】「ヨーロッパを知る50の映画」(国書刊行会)