SSブログ

「悪魔」は少年か、それとも~映画「異端の鳥」 [映画時評]

「悪魔」は少年か、それとも~映画「異端の鳥」

  ダンテ「神曲」煉獄編を思わせる。一人の少年の目を通して、あらゆる人間の欲望と罪が、モノクロの映像美で描かれる。
 第二次大戦中、東欧のどこか。ホロコーストを逃れ叔母のもとに引き取られた少年は、叔母の死と住まいの焼失によって身寄りをなくし、村人から疎外される。黒い髪と黒い瞳が悪魔の使いとされた。少年は放浪の旅に出た。収容所行きの列車から飛び降りた人々に浴びせられるドイツ兵の銃弾。ユダヤ人の処刑。地獄を見た少年は、ある司祭に助けられ一人の男に預けられるが、彼は小児性愛者だった。

 鳥売りの男との奇妙な生活も描かれる。ある日、男は鳥に白いペンキを塗り、空に放つ。鳥の群れに交じろうとするが、羽の色の違いから拒絶される。群れに攻撃され、墜落死してしまう。原題「ペインテッドバード」の解題となるシーンである。異端は排除される。ここにホロコーストの核心がある、と訴えている。そのことを少年の身に置き換えたのが、浜辺のシーンである。悪魔の身代わりとされた少年は砂に埋められる。地上に露出した頭部に、カラスの群れが襲い掛かる。このほか、あらゆる人間の欲望と罪が容赦なく描かれる。
 少年は、かつて迫害を受けた男と遭遇。銃殺する。少年自ら、殺人という大罪を犯したのだ。拳銃はソ連軍の将校からもらったものだった。2年にわたる煉獄の旅の果て、少年はホロコーストを逃れた父と再会。何も語らない背中に、父が問いかける。「自分の名前も忘れてしまったのか」。しかし、少年は帰途のバスの中で、曇った窓ガラスに指で書いた。「JOSKA」と。少年は生きのびた。
 ラストシーンで一筋の光明が感じられるものの、全編アンチヒューマニズムで彩られている。人間とはかくも欲深く、罪深いものか。戦場シーンも、ドイツ=悪、対抗勢力=善という単純な色分けではない。反ナチ・パルチザンと思われる武装民兵も、欲深い人間として描かれる。
 原作はホロコーストから逃れたイェジー・コシンスキ。亡命先の米国で冷戦下の1965年に出版した。ところが「自伝」とした点に疑問符がつき自殺。母国ポーランドで発禁処分を受けた。ソ連軍を「正義」として描いていないことから、その他の社会主義圏でも否定された。監督はチェコ出身のヴァーツラフ・マルホウル。出てくる地名は架空という。使用する言語も人工語「スラヴィック・エスペラント」という設定。こうしてみると、原作者と原作こそが、異端のゆえに排除されていると分かる。コシンスキこそがペインテッドバードなのだ。ヴェネチア国際映画祭では賛否両論だったと聞くが、あなたの賛否は?
 2019年、チェコ、スロバキア、ウクライナ合作。


異端の鳥.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

戦後ドイツ刑法の闇と沈黙の迷宮 ~映画「コリーニ事件」 [映画時評]

戦後ドイツ刑法の闇と沈黙の迷宮
~映画「コリーニ事件」


 しばしば日本では「ナチスの犯罪に時効はない」とされるが、そんなことはなかった。戦後ドイツの法律の変遷をみると巧妙な戦犯隠し、あるいは「裏口からの恩赦」が行われてきたと分かる。舞台裏で動いた人物の一人がエドゥアルト・ドレ―アーだった。連邦司法省刑事部長として刑法改正作業に取り組み、刑法近代化の一つとして正犯と幇助犯の切り分けを唱えた。ナチ戦犯の場合、住民虐殺は本来、謀殺(計画的殺人)とされ、時効はなかった。ここに幇助犯の概念を持ち込み、幇助犯は故殺(故意殺人)としてしか裁かれないとして時効20年とした。ナチ戦犯の場合、最も遅くて起点は1945年。したがって1965年には時効が成立した。悪名高き「ドレーアー法」(秩序違反法に関する施行法)は1968年に施行され、日本でいうBC級戦犯は、ドイツではこの時点で罪を問われないことになった。
 なぜこんなことになったか。
 信じられないことだが、絶滅収容所アウシュビッツで何があったか、敗戦直後のドイツ国民はほとんど知らなかったという。そのことを浮き彫りにしたのが映画「顔のないヒトラーたち」(2014年、ドイツ)である。あまりに残虐な行為があったため、ナチス兵士として行動した多くは善良な市民の仮面の下、口をつぐんだのだ。明らかになったのは1960年代になってからという。戦犯行為を告発する動きと、過去のこととして隠そうとする動きのせめぎあいの中で、ドレ―アー法も生まれた。

 さて、映画「コリーニ事件」。冒頭、あるホテルで会社社長ハンス・マイヤー(マンフレート・ツァパトカ)が殺される。2001年のこと。ロビーに降りてきた犯人ファブリツィオ・コリーニ(フランコ・ネロ)は逮捕後、動機について完全黙秘を貫いた。国選弁護人として弁護士3カ月のカスパー・ライネン(エリアス・ムバレク)が指名された。
 動機不明のまま公判が始まった。審理で凶器はワルサーP38と判明する。ドイツ軍の制式拳銃だったが、今は市場に出回っておらず入手が難しいという。なぜワルサーだったのか。ライネンはコリーニの生地イタリア・トスカーナ地方のモンティカティーニを訪れ、コリーニの父の没したのが1944年と知る。さらにコリーニは「6月19日に何があったか、調べてくれ」と話した。この日何があったのか。
 反ナチ・パルチザンの仕掛けた爆弾で2人のドイツ兵が死んだ。報復として住民20人が殺されたのが、この日だった。幼いコリーニは父が銃殺されるのを見た。とどめに使われたのがワルサーだった。指揮したのは武装親衛隊員ハンス・マイヤーだった。
 マイヤーは戦後、模範的市民として生きた。ライネン自身、父が失踪し貧しい家庭に育ったが、支援してくれたのはマイヤーだった。そんな彼に、半世紀以上たって復讐の銃弾が浴びせられた。
 法廷で事実が明らかになり、コリーニもようやく口を開いた。呻くように語ったのは「なぜ彼は裁かれないのか。どんな法律によって罪を免れているのか」だった。実はコリーニは1968年、法的処分を求めて告発したが翌年却下されていた。彼の言葉に衝撃を受けたライネンは、猛然とドイツ法の歴史を調べた。行きついたのはナチ戦犯を捜査の手から逃れさせたドレ―アー法だった…。
 前出「顔のないヒトラーたち」の原題は「Im Labyrinth des Schweigens(沈黙の迷宮)」。「コリーニ事件」が描いたのもまた一つの「沈黙の迷宮」であり、その先にあるドイツ刑法の闇だった。
 2020年、ドイツ。弁護士で作家のフェルディナント・フォン・シーラッハによるベストセラー小説を映画化した。残念ながら未読。


コリーニ事件のコピーのコピー.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

老いの孤独の飼いならし方~映画「おらおらでひとりいぐも」 [映画時評]

老いの孤独の飼いならし方~

映画「おらおらでひとりいぐも」

 

 小津安二郎の「晩春」だったと記憶するが、大学教授(笠智衆)と婚期を逸しかけた娘(原節子)が暮らしている。娘はなにかと父の世話を焼き、それはそれで不自由のない生活だった。しかし、これ以上迷惑をかけられないと父はウソの再婚話を持ちだし、娘に結婚を決意させる。結婚式がすみ、自宅に戻った父はがらんとした部屋で途方に暮れる。その時の背中に宿る孤独の影が印象的だった。この映画では、その後の父の心の内をうかがい知ることはできない。

 「おらおらでひとりいぐも」は75歳で突然、夫に先立たれ、途方に暮れる桃子さん(田中裕子)の年間の話である。桃子さんはまず図書館に通い、46億年の地球の歴史をノートにまとめることを心がける。その作業をする中でさまざまな自問自答が頭をめぐる。一方で、過去の楽しい出来事が空っぽの家の中でひとときのショーのように華やかに幕を開ける。夫(東出昌大)との出会い、東京オリンピックの高揚…。

 年齢からすると、桃子さんは団塊の世代のはしりに当たる。高度経済成長が始まるころ上京し、飲食店の住み込み店員になった。男性客となじみになり結婚。昭和、平成、令和の三代を生きた。

 過去への回想と孤独感との対話の中で、桃子さんはある境地にたどり着く。夫のためにではなく、自分のために生きてきた。いま大切なのは自由と自立だ、と。こうして桃子さんは、一人で生きていくことに価値を見出す。孤独感(キャラクターを濱田岳、青木崇高、宮藤官九郎が演じる)を飼いならし、氷河期のマンモスを引き連れて住宅街をかっ歩する(シュールな映像だが、意図はよくわかる)。

 若いころの桃子さんは蒼井優が演じる。監督は「滝を見にいく」「モリのいる場所」の沖田修一。どちらもとても好きな作品である。「みる」ではなく「寄り添う」視線で映画を作れる人だと思う。芥川賞をとった若竹千佐子の原作は、残念ながら未読。60代で小説を書き始めたという。見習いたい。

 2020年、日本。

 

おらおらでひとりいぐも.jpg


nice!(2)  コメント(0) 

複雑、精緻な原作を映像化~映画「罪の声」 [映画時評]

複雑、精緻な原作を映像化~映画「罪の声」

 

 ドラマは二本の太い線で構成される。一本は、戦後史に刻まれた事件に偶然かかわったある男の、真相を追い求める旅。もう一本は、ある全国紙記者が偶然かかわった同じ事件の真相を再発掘する旅。二本の線は当初、平行に推移するが、やがて交わる。そして二人の男が出会う。

 原作は、地方紙記者だった塩田武士。モチーフとなったギンガ・萬堂(ギン萬)事件とは1980年代、関西を中心に起き、未解決のまま時効を迎えたグリコ・森永(グリ森)事件。グリコ社長を拉致する荒っぽい手口の一方で消費者を人質に取り、警察や世間を嘲笑する脅迫状を送り付けるなど特異な性格を持ち、いまだに記憶に残る。事件の経過の中で一瞬、犯人らしき横顔が見えたのが、大津での警察とのカーチェイスだった。この夜の一連の出来事は、ある全国紙の「容疑者逮捕」という大誤報を生んだ。

 

 京都でテーラーを営む曽根俊也(星野源)は偶然、一冊の手帳とテープを見つける。手帳は英語で書かれ、再生したテープの声は、忘れていた自分の声だった。その声は、ある事件の記憶を呼び戻した。

 全国紙記者の阿久津英士(小栗旬)は文化部にいたが、突然社会部の年末企画に招集された。昭和・平成の未解決事件を追う。これがテーマだった。「なぜ自分が…」といぶかる阿久津にロンドンでの取材が命じられた。

 俊也が見つけた手帳はイギリス英語で、80年代にオランダであったハイネケンビール会長誘拐事件の詳細が書かれていた。「ギン萬」の直前に発生した事件だった。阿久津がロンドンに飛んだ理由もここにあった。事件を探れば「ギン萬」の真相解明のヒントが得られるのではないか。こうして第一の「カギ」の舞台としてロンドンが浮上する。

 ギン萬事件へのかかわりが明らかになった俊也の、宿命を帯びた旅路が始まる。俊也は事件の被害者ともいえた。もう一つの線では、新聞記者という職業に疑問を持ち始めていた阿久津の自己韜晦に満ちた旅路が描かれる。そこでの自問自答は、塩田の「歪んだ波紋」で描かれた「メディアの責任」への問いかけの原型そのものである。

 実際の事件という土台にフィクションを積み上げた原作は、重厚な建築物をみるように複雑、精緻にしつらえられている。そのストーリーをほぼ踏襲するかたちで映画も展開する。ただ、2時間強の映画で原作に盛り込まれたすべてを語ることはもともと不可能で、事件にかかわった俊也の叔父(宇崎竜童)、母の真由美(梶芽衣子)の人生、事件の「声」にかかわった二人の子の、その後の軌跡が明らかにされる過程など、やや舌足らずで彫りが浅く、バタバタの観もある。その辺りが、宿命が影を落とすミステリーの側面(「砂の器」を思い起こさせる)と、メディアへの辛口の批評の側面を併せ持つという、塩田の原作を生かし切れていないのではないか、という懸念が若干残る。

 監督・土井裕泰。それにしても、最近の日本映画では重量級であることは間違いない。映画をまだ見ていない人は、ぜひ原作を読んでからにしてほしい。その方が確実に楽しめる。



罪の声.jpg


罪の声 (講談社文庫)

罪の声 (講談社文庫)

  • 作者: 塩田武士
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/05/15
  • メディア: Kindle版

nice!(0)  コメント(0)