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どこへ行きつく「アメとムチ」…~三酔人風流奇譚 [社会時評]

どこへ行きつく「アメとムチ」…~三酔人風流奇譚

 

公共空間へのリスペクトがない

松太郎 菅義偉政権がスタートしてカ月余り。いろいろあったが、どうとらえたらいいか。その前に一つ言いたいのは、前回の座談会で安倍晋三の「大きな政治」に対して菅の「小さな政治」という評価をしたが、間違っていた。学術会議の任命拒否に関する問題で顕著だが、高圧的な姿勢が目立つ。官房長官会見での木で鼻をくくったような対応ぶりはさすがに政権トップになれば変わるだろう、と思ったら、相変わらずの高圧ぶりで一切説明がない。前回、例に出した池田勇人政権の「小さな政治」は「低姿勢」とセットで、岸信介政権下、安保改定を強行した際の国民の分断を修復しようとの努力が見られた。今回も、安倍政権で深まった亀裂を修復すべく低姿勢で臨むのでは、と思ったが眼鏡違いだった。

竹次郎 その辺は同感だ。学術会議問題が菅政権を特徴づけるものとなった。権力を行使する際の乱暴さが目につく。学術会議の在り方を変えたいならその旨国会で議論すればいい。緊急課題でもないこの問題、なぜこれほど荒っぽく処理したのだろうか。

梅三郎 学術会議の問題は既にいろんな見方、考え方が出ており、新しい視点での意見を出しにくいが、一つ痛切に思うのは、菅政権には公共空間への意識、リスペクトがあるべきだが、それがないように思う。政治的空間では目先のことを課題とし、私的な利益が尊重される。いわばエゴとエゴがぶつかり合う私的な空間で、その限りで権力が発生するが、もっと大きな、時間的にも長いスパンを見通す空間があっていい。それが公共空間であり、そこへのアプローチの一つとして学問がある。そこを考えたら、今回の政権の対応に対する学識者や多くのメディアの批判は当然だ。

松 いまだに疑問なのは、菅政権はこの問題がこれほど議論を呼ぶと思って下した判断だろうか。言い換えれば確信犯として問題に対応したのだろうか。

竹 これほどの反発、批判を覚悟してのことではないのではないか。NHKをはじめメディアに対して行ったように、最初にガツンとやれば相手がひるむという成功体験に基づいてのことだろう。

 

強権政治が神話を形成する

梅 菅政権のこのカ月は、冷徹な権力行使の一方で国民受けしそうな政策を次々と出してくる、いわゆるアメとムチが色濃く出ている。

松 菅政権の現状を見ていて一冊の本が頭に浮かんだ。戦時中、「日本のヒムラー」と恐れられた鈴木庫三を取り上げた佐藤卓己の「言論統制」(中公新書)。言論界ににらみを利かせたというこの将校について詳細に検討してみると、実は「ヒムラー」像は被害者の仮面をかぶるため言論界自体が作りあげたもので、鈴木自体は暴力的でもないインテリだったという。菅と、この鈴木という将校が同じとは思わないが、学術会議問題で見られるように、権力を行使するが説明はしない、という菅のやり方は、必然的に周囲を恐れさせ、一つの「神話」を形成する。

梅 ユダヤ人虐殺の執行人だったアイヒマンの裁判を傍聴したハンナ・アーレントが、アイヒマンをただの小役人と喝破したことと似ている。権力は神話によってつくられる。

竹 官邸が人事権を握り霞が関を震え上がらせたように、今度はアカデミズムの世界を操作しようとしているのか。

梅 まあ、でもそんなにうまくいくかねえ。官僚は基本、上ばかり見ているヒラメ人間だが、学者は必ずしもそうとは言えない。でも、メディアの世界もこの方法でうまく行ったからねえ。

松 学者の中にも、菅方式に反発するものもいればお追従をいう輩もいるだろう。巧妙に分断してアカデミズムを強権的に従わせ、一方で国民にはアメを与える。ふるさと納税という名の住民税引き下げ、そしてこれから行われる携帯料金引き下げ。ハンコをなくす、というのは本来どうでもいいことだが、ハンコという人的コスト、つまり手間をなくすという効果がある。

 

ドラスチックな転換が必要なとき

竹 菅はバスの運転手としてはとても優れている、しかし、バスの行き先が見えない。こんなことを田中秀征が毎日新聞で論評していた。

松 菅を政治家として評価する、もちろん保守政治家としてだが、そういう向きは多い。でも、菅という政治家は思想というものの持ち合わせがあるのだろうか。とても疑問だ。安倍は「戦後レジームからの脱却」をうたっていたので、戦争法など一連の行為はわからないでもない。もちろんこれは良しとして言っているわけではないが。これに対して、菅という政治家は「戦後」に対してどう向き合うかさえも分からない。そんな中で、戦争への反省から生まれた学術会議に強引に手を突っ込むというのは、とても不気味だ。

梅 小泉純一郎、安倍、菅と続く自民党政治、間に短期の政権がいくつか挟まっているが、これがどんどん細って硬直化していく気がする。今の日本が抱えるいくつかの課題、例えば少子化、沖縄、原発、いずれも日本社会の構造的な問題だ。少し視野を広げれば対米一辺倒の外交、歴史認識の問題を克服できない対中、対韓関係、そして安保体制。いずれもドラスチックな見直しを図る必要があるのに、現政権で取り組むとは思えない。

竹 この文脈でいえば、菅首相が盛んに口にする「自助・共助・公助」も気になる。どんな社会を目指すのかも示さずに、いきなり「まず自助を」という。「自助・共助・公助」自体、特に意味ある言葉ではないという向きもあるが、そうは思えない。一国の首相、「公助」に最も責任のある地位の人間が言えば、公助の前に自助を、と自助の部分が強調されてしまう。そこは、町内会長あたりが言うのとは違う。

梅 政治が目先のことに集中するばかりで、過ちを修復する瞬発力が失われている。その意味では、党内に五つか六つの有力派閥があり、窮地に陥れば主流から反主流へと権力が移行するかつての自民党の方が修復力はあったように思う。もっとも、派閥政治とか政治とカネとか批判もされたが。今の官邸独裁とどちらがいいのだろう。

松 多様性と復元力こそ民主主義という樹の幹部分。そこがどんどん細っていき、一元性と硬直化が幅を利かす。政治の現状かもしれないね。

 


言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

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  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2004/08/01
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「ぼけ味」こそが魅力~映画「スパイの妻」 [映画時評]

「ぼけ味」こそが魅力~映画「スパイの妻」

 

 映画評論家・蓮實重彦が「傑作」と評した「スパイの妻」を観た。時代は1940年。日中戦争は泥沼化し、太平洋戦争前夜の不穏な空気が漂う。そんな時代を生きた一人の女性を描く。

 映画を観る前に、行成薫の「小説版」(ノベライゼイション?)を読んだ。映画との関連性がよくわからないこともあり、ここで両者の細部の違いを取り上げる気はない。ただ、一点だけ指摘するなら、カメラレンズでいう「焦点深度」の違いである。背景には、もちろん文字と映像という媒体の特性の違いがある。その中で小説版は現代と過去という入れ子構造をとり、時代の細部まで具体的に描く。

 これに対して映像は主人公・福原聡子(蒼井優)の生きざまに焦点を当て、そのほかの事柄はフォーカスの外に置く。例えば貿易商である聡子の夫・優作(高橋一生)は満州に渡り、国家の機密事項に触れてその証拠を持ち帰り、密かに米国に渡るよう企てるのだが、機密が何であるか映画では最後まで曖昧である(小説版では満州での細菌兵器研究=人体実験とかなり明確化されている。つまり焦点深度が深い)。「あなたがスパイなら、私はスパイの妻になります」ときっぱり語った聡子は夫の計画に従って密航を企てるのだが、なぜか計画が事前に漏れ、幼なじみで憲兵の津森泰司(東出昌大)らに摘発される。なぜ計画が漏れたか、だれが何のために密告したかも曖昧である。

 夫は日本を捨て、聡子は残される。その後の優作の生死は不明である。神戸大空襲(1945317)を生きのび、海辺で泣き崩れる聡子にナレーションがかぶさる。戦争が終わった翌年、優作の死が確認されるが死亡診断書には偽造の跡が見られる。そして数年後、聡子も米国に渡る。二人の戦後の足跡はフォーカスの外に置かれる(実は、小説版ではもっと現実的で違う結末が控える)。

 しかし、この映画では、蓮実も評しているが、曖昧さこそが特質である。焦点深度の浅さによって花弁の繊細さ、美しさが引き立つがごとく、この映画は作られている。ヴェニス映画祭で評価されたように、ここは黒澤清監督の手腕であろう。作中、9.5㍉フィルム映写機が小道具として頻繁に登場するが、蒼井の存在感=狂気と紙一重の情愛=に支えられた中心部は鮮明で四辺がぼけた画面、味わい深いそれ、を見ている趣がある。

 2020年、日本。

 

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スパイの妻 (講談社文庫)

スパイの妻 (講談社文庫)

  • 作者: 行成薫
  • 出版社/メーカー: 講談社
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  • メディア: Kindle版
 

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平凡な日常を襲う事件の波~映画「望み」 [映画時評]

平凡な日常を襲う事件の波~映画「望み」

 

 埼玉県戸沢市(架空の市)に住む石川一登(堤真一)は建築設計士。マイホームはその人の生き方を表すというのが持論である。事務所に隣接し、折に触れ顧客に披露する自宅もそうした建築思想にあふれていた。アイランド方式の流し、2階へと通じる階段はオープンで、玄関は明るい吹き抜け。出版社をやめ、今はフリーの校正者をしている妻・貴代美(石田ゆり子)の仕事場もリビングの一角にある。親子の意思疎通を優先した結果と説明している。

 夫婦には高一の規士(岡田健史)と中三の雅(清原果耶)がいた。だれもがうらやむと思われた家庭にさざ波が立ち始めた。規士は中学までサッカーに熱中していたがひざを痛めて断念。挫折感が心にわだかまりを生み、生活が荒れ始めていた。その規士が突然、消息を絶った。同時に、少年の遺体が発見される事件が起きた。規士は事件にかかわりがあるのか。あるとすれば被害者なのか加害者なのか。

 被害者とすれば、もう生きていないかもしれない。加害者とすれば、殺人犯なのか。そのうち、事件との関連をかぎつけたメディアの取材攻勢が始まる。週刊誌記者の内藤重彦(松田翔太)も個別に貴代美と接触を図る。貴代美は、どんな形でもいいから生きていてほしいと願う。一登は、もし殺人犯だとすれば、家庭は跡形もなく崩壊すると憂う。どちらにしても一家は、これまでと同じ生活を送ることはできなくなる…。

 雫井侑介の原作は、事件に直面した家族の心理の襞を丹念に追い、事件小説というより家族小説といった趣を醸し出す。映画は、そうした原作の味わいを殺さないよう、丹念に映像化している。冒頭に書いた、一家のマイホームの構造と規士の心の闇とが鮮明な対比となって浮かび上がる。いつでもどこでも、平凡な家庭の日常の中で生まれるかもしれない亀裂を描いているだけに迫真力がある。

 事件によって引き裂かれる一家の姿は痛ましいが、描かれた陰画をそのまま反転させれば、家族とはどうあるべきかが見えてくる。そこに希望を見出すことができれば、この映画を観た価値があるというものだろう。

 2020年、日本。監督は「人魚の眠る家」の堤幸彦。

 

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望み (角川文庫)

望み (角川文庫)

  • 作者: 雫井 脩介
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/04/24
  • メディア: Kindle版
 

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