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占領下を生き抜いた女性~映画「ソニア ナチスの女スパイ」 [映画時評]

占領下を生き抜いた女性~
映画「ソニア ナチスの女スパイ」


 米ソ冷戦時代にはノルディックバランスで知られた北欧三国も、第二次大戦下ではナチスの脅威にさらされた。ノルウェーは1940年、ドイツ侵攻から2カ月で降伏、フィンランドはロシア革命後、ソ連とドイツのはざまで深刻な内戦状態に陥り、第二次大戦では枢軸国の側についた。大国スウェーデンは辛くも中立を保った。そんな第二次大戦下のノルウェーに実在した女性スパイ、それもダブルクロスと呼ばれる二重スパイを描いた。

 ナチ占領下のノルウェー。ソニア・ヴィーゲット(イングリッド・ボルゾ・ベルダル)は美貌で知られた女優だった。出演作を選ばず、ナチ礼賛映画にも出た。傀儡政権のノルウェーで実権を握るヨーゼフ・テアボーフェン国家弁務官(アレクサンダー・シェーア)は彼女の人気に目をつけ、プロパガンダ利用を画策する。そんな折り、ゲッペルス宣伝相が出席する晩さん会への招待状がソニアに届いた。彼女の夫で映画監督のライフ・シンディングは、映画作りが有利になると出席を頼むが、ソニアは断った。父と弟がレジスタンスに参加しており、ナチに嫌悪感を持ったためだった。
 ソニアに、一人の男が接近してきた。スウェーデンで保険会社を経営するトルステン・アクレル(ロルフ・ラスゴード)。裏ではスウェーデン諜報部員としてナチの内情を探っていた。そのためのスパイに仕立てようという意図だった。一方、ゲッペルスが出席した晩さん会はソニア不在のため不興だった。怒ったテアボーフェンはソニアの父を拘束、強制収容所に送った。ソニアは父を解放するためアクレルに助力を頼んだ。アクレルは、スウェーデン大使館で開くある会合への出席を指示。ソニアはその席でテアボーフェンに詫びを入れ、修復に成功する。やがてテアボーフェンの寵愛を受けたソニアは、彼の部屋からナチの軍事機密を盗みだした。
 ソニアの前にハンガリー大使館員アンドル・ゲラート(ダミアン・シャペル)が現れた。ジャズをピアノ演奏する洒脱さにソニアはひかれる。しかし、謎の動きが多い彼もまたスパイなのか。そして、テアボーフェンから、父を自由にする代わりにスウェーデンなど北欧各国の情報を収集するよう依頼された…。

 戦後、ソニアはスウェーデンで家族と暮らしたという。ナチの追跡を逃れたアンドルともついに結ばれることはなかった。二重スパイの汚名は消えず、戦後のスクリーンに復活することはなかった。
 フィンランドの過酷な内戦を描いた映画に「4月の涙」(2009年、フィンランド、ドイツ、ギリシャ合作)がある。インテリ男のひ弱さを乗り越えて生きる女性のたくましさがあった。この「ソニア…」もまた、ナチ占領下を生きる女性のたくましさがある、といえようか。複雑な事実を淡々と描いた秀作である。
 2019年、ノルウェー。英題はずばり「The Spy」。


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世界の「いま」を見直すために~濫読日記 [濫読日記]

世界の「いま」を見直すために~濫読日記


「ドイツ統一」(アンドレアス・レダー著、板橋拓己訳)


 ベルリンを訪れた際、「壁」を見にいった。6年前のこと。部分しか残っていないそれは、落書きともイラストとも判別できないものでおおわれていた。ブランデンブルグ門では、痕跡しかなかった。「鉄のカーテン」の象徴とされた壁は、既に歴史のかなたの存在なのだろうか。
 第二次大戦が終わって75年、東西冷戦が終結して30年たった。
 二つの出来事は確かに時代を画期した。では世界はその後、安定したかといえば、そうとも思えない。新たな枠組みを求めて胎動が始まったようにも、カオスの世界へとなだれ込んでいるようにも見える。
 その結果、といえるかどうか分からないが、世界中に新たな壁が出現している。代表例はトランプ大統領がメキシコ国境に築いた。かつて東欧崩壊の突破口となったハンガリーは、セルビア国境に壁を作った。難民流入防止のためだ。世界はどこへ行くのか。
 こんな時は、原点に立ち戻ってみる。原点とは。歴史の分岐、時代を画期した地点だ。

 東欧社会の全面崩壊はハンガリー・オーストリア国境の開放に始まり、198911月のベルリンの壁通行自由化によって最終局面に至った。その後、東西ドイツは統合されたが、考えてみると、この歴史的推移は必然だったのだろうか。ほかに選択肢があったかもしれない。そんな視点で東西ドイツ統合の流れを見直してみることは、世界の「いま」を見直すことに通じる。
 訳者である板橋氏は、こう解説する。
 ――ドイツ統一は、冷戦の終焉を象徴する出来事であると同時に、現代ヨーロッパ、ひいては現代国際政治の在り方を規定するものであった。
 具体的には、ドイツ統一はその後の、共通通貨を持つEU誕生につながり、NATOの東方拡大の契機となった。それはユーロ危機やウクライナ危機につながった。
 著者のレダーは、ドイツ統一のプロセスを大きく二つに分ける。第一段階は東独内の一党独裁体制の崩壊。第二段階は多元化した東独の、国内世論主導による西独への編入である。
 しかし、この行程は傍で見るほど平たんではなかったようだ。ドイツ社会主義統一党(SED)の崩壊後、東独内には西との併合ではなく第三の道を探る声もあった。しかし、それは圧倒的な西側への移住を望む声にかき消された。東ベルリンのアレキサンダー広場ででの50万人デモは、以下のように描写される。
 ――国家政党の代表者たちは、必死に改革の意思を示そうとしたが、デモ参加者たちによって繰り返し話を遮られ、野次られた。
 一党独裁体制で40年間耐えた市民は「もう結構だ」という気分だった。同時に、西側社会のように豊かになりたいと熱望していた。このことが歴史の歯車を回す大きなエネルギーになった。
 SED崩壊で事実上の権力空白地帯となった東独に手を差し伸べたのが、西独のコール首相だった。国家連合構想を含む10項目計画を議会に提案。ソ連のゴルバチョフ書記長は当初、激怒したが後に統一を承認した。米国のブッシュ大統領(父)は肯定的な態度をとった。こうして、国際情勢の中での協議が進められた。とりわけNATOの帰属問題がナイーブな問題だった。英仏には、統一ドイツが再び軍事的脅威にならないかという危惧もあった。
 日本語訳のタイトルは「統一」だが、著者は実は「ドイツ再統一」としている。訳者が「解説」で述べたところでは、東独は統一へのプロセスの過程で、オーデル・ナイセ線以東の旧領土を放棄した(経緯は書の中で詳述)。したがって、厳密にいえば戦前のドイツが復活したわけではない、という意味で「再統一」でなく「統一」とした。そのうえで、著者が「再統一」にこだわるのは市民が一つになったという側面を重視したからでは、という。著者はそのことを、市民運動の目標として掲げられた以下の言葉で表す。
 ――「われわれこそが人民だ」「われわれはひとつの国民/民族だ」

 「希望の灯り」(2018年、ドイツ)という映画で、ライプチヒの人間模様が描かれていた。「あのころはいい時代だった」と旧東独時代を回顧する元トラック運転手が出てくる。東西間の経済格差がなくならない現状に「二級市民」という言葉もあるという。「ひとつの国民」の裏側で、なお厳しい現実がある。
 岩波新書、820円(税別)。

 ドイツ統一 (岩波新書)

ドイツ統一 (岩波新書)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2020/09/19
  • メディア: 新書



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素材は面白いが、観客置き去りの感~映画「博士と狂人」 [映画時評]

素材は面白いが、観客置き去りの感
~映画「博士と狂人」


 OED(Oxford English Dictionary=オックスフォード英語大辞典)編纂という野心的プロジェクトは暗礁に乗り上げていた。あらゆる英語の変遷が分かる内容を目指したが、その困難さゆえに担うものがいなくなったのだ。スコットランドの仕立て屋に生まれたジェームズ・マレー(メル・ギブソン)は14歳で学校を離れ、独学で言語学を極めた。そのマレーに大役が回ってきた。
 ウィリアム・チェスター・マイナー(ショーン・ペン)は米国の軍医だったが南北戦争で精神を病み、強迫観念に襲われていた。そんなおり幻覚にとらわれ、ある男を射殺してしまう。心神耗弱と判定され無罪判決となったが、精神病院に収容された。
 マレーは編纂に当たって、一般の人たちにも語彙と用例を郵送してもらうことを思いつく。国民に向けたメッセージの紙片が、たまたまマイナーに差し入れた書物に交じっていた。無類の読書好きだったマイナーからマレーに、大量の的確なメッセージが届く。編纂は再び動き始めた。
 マイナーは誤殺した男の妻イライザ(ナタリー・ドーマー)に年金全額を送ろうとするが拒否される。罪悪感から抜け出せないまま、症状は悪化する。そんな中、第一巻が完成。マレーは博士号を受ける。しかし、「不備がある」との批判が絶えなかった。一方で、マイナーの存在がメディアに報じられ、編纂は再び暗礁に乗り上げたかに見えた…。

 英語辞書の最高峰といわれるOEDの存在は、私でも知っている。しかし、どのような経緯で出来上がったかは知らなかった。この謎に挑んだノンフィクション「博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話」(サイモン・ウィンチェスター著)が刊行され、編纂にたずさわったのは学会の重鎮などではなく在野の言語学者と、精神に異常をきたした殺人犯―という興味深い事実が明らかになった。全10巻が完成するまでに70年を要したというOEDの秘話にメル・ギブソンが関心を寄せ、20年かけて映画化したという。
 辞書の編纂を扱った映画に「舟を編む」がある。加藤剛の軽妙な演技が光る「蘊蓄モノ」とでも呼ぶべき作品だが「博士と狂人」はこれとは全く違い、時に血なまぐさいシーンが連続する重い作品である。
 OEDがプロジェクトとして動き出した時代背景をみる。ロンドンの言語学協会が編纂を始めたのが1857年。「長い19世紀」を唱えたエリック・ボブズホームは17891848年を「革命の時代」、4878年を「資本の時代」、781914年を「帝国の時代」と呼んだ。このうち、産業革命後は「資本の時代」「帝国の時代」で「パクスブリタニカ」の時代でもある。OEDは世界に冠たる海運国・英国の権威を裏付けるものとして企画されたことが分かる。そうした国家的プロジェクトが在野の2人の「天才」によって担われたところが興味深い。
 素材としては面白いのだが、全編通して力みが目立ち辟易とする感じもある。説明不足もあって、観客が置き去りにされている印象だ。演出にやや難あり、というところか。
 2018年、イギリス、アイルランド、フランス、アイスランド合作。監督・脚本P・Bシェムラン。


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目をそらさないで、真実は美しい~映画「ある画家の数奇な運命」 [映画時評]

目をそらさないで、真実は美しい
~映画「ある画家の数奇な運命」


 まだ訪れていないが、愛媛県の沖合に浮かぶ豊島に小さな施設があり、不思議なものが展示してあるそうだ。190㌢×180㌢のガラス板が14枚。置かれた角度は少しずつ違っていて、陸側から海側にしか見通せないようになっている。「Futility」(無用)とタイトルがつく。作者はドイツの芸術家らしい。

 「ある画家の数奇な運命」は、第二次大戦をくぐり抜けた一つの人生を描く。
 クルト・バーナード(トム・シリング)の叔母エリザベト・マイ(ザスキア・ローゼンタール)はある日、奇矯な行動がもとでナチに連行された。ナチはユダヤ人だけでなく精神的、身体的障害者も安楽死の対象としていた。エリザベトは統合失調症と診断の上、収容所に送られた。待っていたのはガス室だった。
 戦争が終わり、クルトは東ドイツの看板屋で働いた。画才を認めてくれたエリザベトと美術館通いをしていたクルトは画家の夢がたてず、美術学校に通う。出会ったのは、エリザベトの面影を持つエリー(パウラ・ベーア)だった。やがて妊娠したエリーはクルトと結婚しようとするが、彼女の父カール・ゼーバント(セバスチャン・コッホ)が反対。虚偽の理由をでっち上げて中絶させてしまった。実はカールは、エリザベトに収容所行きの診断を行ったナチの軍医だった。
 ベルリンの壁ができる直前、クルトは西ドイツに移住する。エリーの父カールも、ナチ時代の追及を恐れて東ドイツを出た。カールとクルトとエリーの、西ドイツでの生活が始まる…。
 クルトは身を寄せた美術学校の教授から「君の絵ではない」と批判を受け煩悶するが、やがて写真を模写してわざとぼかす、という手法こそ自分のアイデンティティの表現だと気づき、個展を開くまでになる。エリーは中絶の後遺症を克服、妊娠する。

 戦争を芸術家の視線を通して描いた作品として名作「戦場のピアニスト」(2002年、ロマン・ポランスキー監督)を既に持つが、「ある画家の数奇な運命」もまた同じ構造を持っている。神の眼ではなく、地上に住む芸術家個人を通して見た戦争の姿がある。ただ「戦場のピアニスト」ほど「戦場」に密着してはいない。もう少し軸足が芸術家の心象にある。叔母エリザベトへの思慕と妻エリーへの愛にそこそこ比重があり、背後に戦争のもたらした傷跡がある。主人公はドイツ現代美術の巨人カール・リヒターになぞらえた、といわれる。しかし、ドナースマルク監督によるとすべてが事実ではなくフィクションが混じっており、線引きは曖昧にしたという。2020年、ドイツ。

 さて、冒頭の不思議な作品。カール・リヒターの手による。映画では二つの言葉が心に残った。二つともエリザベトの言葉で、一つは原題ともなった「Never Look Away」(目をそらさないで)、もう一つは「真実はすべて美しい」。瀬戸内海の小島の作品もまた、この二つの言葉でその価値の扉が開くように思える。いつか訪れてみたい。


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のし上がった作家の孤独と飢餓感~映画「マーティン・エデン」 [映画時評]

のし上がった作家の孤独と飢餓感
~映画「マーティン・エデン」


 米国の作家ジャック・ロンドンの自伝的小説を、イタリアを舞台として映画化した。労働者階級に育ったマーティン・エデンは貧しい生活の中で自らの文才に目覚め、のし上がっていく。しかし、つかんだ栄光は彼の孤独感をいやすものではなかった…。
 どこかで観たな、この物語。この既視感はどこからくるのか。1970年前後に一世を風靡した「あしたのジョー」そのものではないか。そういえば、マーティンを演じたルカ・マリネッリの風貌は、リング上で灰のように燃え尽きた矢吹丈に通じるように思える。
 マーティンはナポリで、船乗りとして日銭を稼いでいた。ある日、港で大男に絡まれた少年を助ける。ブルジョア家庭に育った少年は、マーティンを自宅に招いた。そこで会った姉のエレナ・オルシーニ(ジェシカ・クレッシー)に一目ぼれしたマーティンだが、エレナの周囲は彼の育ちの悪さと粗暴さを敬遠した。ブルジョア階級にのし上がりたいとマーティンは独学で文法を覚え、ひたすらタイプライターを打ち込んで出版社に原稿を送った。そしてやっと、雑誌に掲載がかなった…。
 時代は戦争を前にして【注】、不穏な空気が漂っていた。労働者は社会変革を求めていた。そんな中で、マーティンは革命家として祭り上げられる。しかし、彼にはかつてのような労働者階級の魂は持ち合わせてはいなかった。焦燥と孤独が彼の心を覆っていった。
 2020年、イタリア、フランス、ドイツ合作。監督はドキュメンタリー作品で名高いピエトロ・マルチェッロ。16ミリフィルムを使い、いかにもイタリア映画的なザラザラした画面が主人公の精神的な飢餓感を浮き立たせる。

 【注】ジャック・ロンドン自身は1876年にサンフランシスコで生まれ、第一次大戦最中の1916年に自殺した。映画は「戦争が始まった」時点で終わるが、現実に照らし合わせればこれは第一次大戦ということになる。もっとも、全編を通じて作り手は、史実との整合性をあまり求めていないようにも見える。


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ジャーナリズムの原点を問う~映画「はりぼて」 [映画時評]

ジャーナリズムの原点を問う~映画「はりぼて」

 保守王国富山県内をエリアとするチューリップテレビ。開局は1989年だから日は浅い。社員は100人に満たない。TBS系列の番組を多く流す。典型的な地方局である。この局の報道が4年前、全国的な注目を浴びた。
 富山市で起きた議員辞職ドミノ。発端は市議会のドンと呼ばれた議員の政務活動費の架空計上だった。議員辞職に追い込まれ政務活動費は返上した。架空計上は次々に明るみに出て、最終的に辞職議員は14人、返上した政務活動費は計4000万円以上に及んだ。2016年のことである。
 なぜこんなことが突然起きたか。全国で報道されたのでニュースは関知していたが、起爆剤がなんであったかはよく知らなかった。火をつけたのは、チューリップテレビのキャスターと前線記者だった。公開された政務活動費報告を丹念に調べ、領収書と照合し、嘘を暴き出した。疑惑を報道された議員は自民党系の有力者だけでなく議長、野党にも及んだ。
 政務活動費は、ともすれば第二の議員歳費と受け取られる。領収書をでっち上げ、架空の活動報告を仕立てて帳尻を合わせる。そんなことが富山だけでなく、おそらく全国の地方議会でまかり通っている。チューリップテレビの記者は報道の原点に立ち、極めてまっとうな手段で事実を暴き出し、議員を追及した。その結果、2015年に100%だった政務活動費の使用状況は翌年62%にダウンした。税金の無駄遣いが、それだけ減った。
 その経緯を丹念に追ったドキュメンタリーが「はりぼて」である。報道は菊池寛賞受賞という栄誉に輝いたが、映画自体は気になる終わり方をしている。中心となったキャスターは社をやめ、記者は配置転換によって取材現場を離れた。何があったのか。キャスターが示唆したように、経営方針が変わったことは明らかだ。報道が必ずしも万人に好感を持たれていないことが推測される。
 そんな懸念は残るものの、報道は極めてプリミティブにジャーナリズムの原点とは何かを考えさせる。ある地方の特殊な出来事ではない。いいかえれば、題名となった「はりぼて」とは何を指すのか、というところまで行きつく。昨今、メディアを賑わす広島三区の選挙資金ばらまきもそうだろう。安倍晋三前首相後援会の「桜を観る会」前夜祭の会費補てんもそうだろう。掘り起こせばもっと多くのことが明るみに出るに違いない。映画の射程は、そこまで届いている。
 2020年、日本。監督は五百旗頭幸男、砂沢智史。だれだろう、と思う向きがあるかもしれない。チューリップテレビでキャスター、記者を務めた二人である。


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ねじれた共同体意識が気になる~映画「朝が来る」 [映画時評]

ねじれた共同体意識が気になる
~映画「朝が来る」

 一人の子どもを介して、二人の女性が登場する。一人は「産みの母」で、もう一人は「育ての母」である。平行線の人生を送っていた二人はある日、交錯する。
 横浜に住む栗原清和(井浦新)と佐都子(永作博美)には子供がなかった。不妊治療も効果がなかった。そんな折り、テレビで里子里親制度のことを知る。二人はこの制度によって子供を育てることを決意する。広島の施設で、生まれたばかりの子と顔を合わせた。母親(蒔田彩珠)は中学生だった。「片倉ひかり」と名乗った。
 6年がたった。子供は朝斗と名付けられ、小学校入学を心待ちにしていた。そんな佐都子に、時折電話がかかってきた。いつも無言だった。やっとつながった相手はか細い声で「子供に会わせてください」という。「もしダメならお金を用意して」とも。会って話を聞くことにした。現れたのは、6年前の中学生とは似ても似つかない荒んだ少女だった。佐都子は、朝斗に会わせることを一度は拒絶した…。
 ざっとこんなストーリーであるが、気になったのは、二人の女性の心象風景である。どこかねじれてはいないか、あるいは「ねじれ」への批判的視点が欠けてはいないか。佐都子と夫は、子供に恵まれないことを奇妙なほどに気に病んでいる。世の中には子に恵まれない人も少なからずいるが、みんなが気に病んでいるわけではない。必要以上に世間の常識に縛られている、そんな気がする。一方のひかりは、もっと露骨に世間の常識という圧力に押しつぶされていく。中学生での妊娠という体験を、周囲から「してはならない失敗」とだけ受け止められている。相手の少年も、そうしたねじれた意識空間の中で離れていく。
 佐都子もひかりも、孤立の中でしか生きるすべを見出せない。何かもっと違う道筋があるのでは、という思いが去らなかった。作品の結論部分こそ、新たな命を産む行為の神聖さ、というところに落ち着くが、そうであるからこそなおさらである。
 全編で、例えば朝もやの風景、波打ち際の風景が挟まれているが、あの映像の必要性が今一つ理解できなかった。私にとってストーリーが醸し出すテーマは社会の同調圧力、もしくはねじれた共同体意識、としか感じられず、そのことへの批判的視点が薄いままでは自然が醸し出す安寧、悠久、優しさの空気が今一つしっくりと融け合うことがないように思えた。
 2020年、河瀨直美監督。原作は辻村深月。


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カオスの中の政策決定~濫読日記 [濫読日記]

カオスの中の政策決定~濫読日記


「ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日」(ジョン・ボルトン著)

 ドナルド・トランプ米大統領も退場の時が迫った。そんな折り、側近として約1年半仕えたボルトン前大統領補佐官が回顧録を出した。大きく二つのポイントがある。一つは、およそ政治家として定見を持たないトランプの言動を、側近の眼からあからさまに暴露したこと。もう一つは、ホワイトハウスの政策決定がどのようなプロセスでなされているかを、当事者として暴露したことである。いわゆる「内幕もの」として、この二つの特徴がよく表れている。
 ボルトンは高校生のころ、共和党タカ派として知られたゴールドウォーター候補の応援に参加した。この時の米大統領選(1964年)以来、一貫して共和党の最も保守的な路線を歩んだ。同世代のヒラリー・クリントン元国務長官が共和党から民主党へとスタンスを変えたのとは対照的である(この部分、巻末の池上彰「解説」を参考にした)。200506年に駐国連大使をつとめ、レーガン政権、ブッシュ政権(親子2代)で司法省、国務省などの高官に就任。安全保障部門の論客としてトランプ政権初期はFOXニュースのコメンテーターでもあった。この時の発言がホワイトハウス入りの契機になったといわれる。安全保障担当の大統領補佐官に任命されたものの、周辺では当初から「そりが合わない」とささやかれた。事実、2018年4月から翌年9月までの年半で任を解かれた。「ディーラー」(取引商人)とタカ派論客は、当然ながら違った道を歩む。

 回顧録ではイラン核合意からの離脱、北朝鮮との交渉、プーチン大統領との対話、安倍晋三首相との対話、その他諸々が語られる。その中でトランプの気まぐれな性格が浮き彫りになる。もっとも興味深いのはイラン攻撃をめぐるくだりである。米国の無人攻撃機をイランが撃墜、報復措置としていくつかの攻撃目標を設定した。ところが、周辺のスタッフが曖昧な情報を大統領の耳に入れたため、土壇場で攻撃を中止してしまう。それも、安全保障チームに事前相談はなくツイートで発信する。ボルトンをはじめ、スタッフは茫然…。まるでドタバタ喜劇をみるようだ。

 そのほかにも、いくつかの重要事項が大統領ツイートで発信されるが、ついにボルトン自身もあきらめ、慣れっこになってしまう。ボルトンは常に「上から目線」でトランプを批判するが、大統領は大統領である。選挙で選ばれたものとそうでないものとは違う。スタッフにできることは選択肢の提示まで。そこから先、大統領が意思表明すれば覆すことはできない。
 安倍首相のイラン訪問についても、はじめから成果の期待などしていなかったことが、あからさまに語られる(ボルトンに言わせれば、対話とは弱みを見せることだった)。日本国内で報じられた評価と大きく違い、興味深い。関連して、日本迎賓館での日米首脳会談でトランプがほとんど寝ていた、というのは笑い話。
 ポンペオ国務長官、マティス国防長官、ムニューシン財務長官らの人間模様がからみ、世界の覇権国の意思決定がこれほどのカオスの中で行われているのか、と愕然とする。

 話は変わって、読了後に指摘すべきことが二つ。まず、回顧録全体を覆う文体の特異さ。細部にこだわる。俯瞰図はあまり見えない。誰と誰がどんな発言をし、どんな感情を持っていたか。それが延々と語られる。おそらくボルトンの個性からくるものであろう。したがって、内容を要約するのはとても難しい。

 もう一つ。語り口に困難さが潜んでおり、読んでいて迷路に入り込んだ気分にさせられることが多々。2、3度読まないと文意がつかめないこともある。理由はエピローグで明らかになる。著者がホワイトハウス高官であったため、機密情報がないかを確認する出版前審査が必要だった(著者は「この本を出すために渋々受け入れた」と書いている)。その際、「引用符を外せ」という指示があったらしい。トランプと他国指導者との対話については「ほぼすべて」にわたったという。重要発言は当事者の発言としてではなく、ボルトンを介した発言とせよ、ということのようだ。これが文脈を分かりにくくしている。このほか、いくつか機密事項が伏せられ、例えばイランへの攻撃目標があからさまに伏字になった。もちろん、ボルトン自身が抗議の意味を込めたのだろう。
 朝日新聞出版、2700円(税別)。



ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日

ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2020/10/07
  • メディア: Kindle版


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