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社会の現在地で有効なのか~濫読日記 [濫読日記]

社会の現在地で有効なのか~濫読日記


「日本の保守とリベラル 思考の座標軸を立て直す」(宇野重規著)


 戦後長く続いた55年体制は、東西冷戦を国内に抱え込む形で保守・革新の対立という構造をもっていた。勢力図はほぼ2対1で推移、革新の側が護憲に回り、憲法改正を唱える自民などの3分の2議席獲得(=改憲発議)を阻止する、絶妙のバランスにあった。1991年にソ連が崩壊、東西冷戦が終わると、防共=日米安保条約をベースとした軽武装、経済優先を骨格とする55年体制は一気に空洞化、宮沢喜一内閣を最後に崩壊した。以来、いくつかの試行錯誤を経て今日に至るが、大半の期間は「空白の30年」と呼ばれた。多くは経済の停滞に起因するが、一方で保革対立に代わる政治構造を構築できない政治の側の責任も問われている――。

 時代の現在地は、ざっとこんなところだろうか。この現状にいら立つ人間は他にもいたようだ。宇野重規は、時代を取り巻く問題解決のため「保守とリベラル」という構図を提示する。果たして、この構図は有効なのだろうか。
 日本では「保守」も「リベラル」も、日常的に使われてはいるがきちんとした定義(誰が言い始めて、どんな定義のもと)があるわけではない。なんとはなし、ムードを表す言葉として使われている、といっていい。第一、保守とリベラルは同一平面上にある概念なのか。宇野もそこから説き始める。
 保守主義の原点は18世紀の英国政治家エドマンド・パークであるとか、リベラリズムの源流はフランス・ナポレオンに攻められたスペインにあったとか、いくつかの「へえ~」話が続き、戦前日本の保守主義の流れとして伊藤博文、陸奥宗光、原敬、西園寺公望、牧野伸顕らの足跡をたどる。リベラルとしては福沢諭吉、石橋湛山、清沢洌。戦後になるとリベラルはむしろ自民党内で命脈を保ち、吉田茂(牧野伸顕と義理の父子)から池田勇人、大平正芳。これは、吉田を源流とした保守本流でもあった。つまり、保守リベラル。
 ここで先の問いに答える形で書けば、保守主義の対極は改革主義もしくは急進主義、リベラルの対極は専制主義、もしくは事大主義であろう。もちろん。同一平面上にはない。従って、保守でありリベラルという立場は可能なのだ。
 戦後なぜ、リベラル左派の影が薄くなったか。もちろんわけがある。米ソ冷戦によって世界は東西の陣営に分かれ、日本でも保守対革新が前面に出たためだった。リベラル左派は革新の陰に隠れ、存在感が薄れた―。

 日本の高度経済成長は1973年のオイルショックで終わりを告げた。この時代は、転換点としてもう一つの側面を持つ。1968年に世界的に始まった「革命の時代」が終わりを告げた。新左翼の運動にとどめを刺した連合赤軍事件があったのも7172年だった。カウンターとして国鉄の「ディスカバージャパン」が70年に始まり、78年に山口百恵はキャンペーンソング「いい日旅立ち」を歌い、81年には元新左翼活動家・糸井重里が「おいしい生活」と高度資本主義下、豊かさからの転換を説いた。しかし、日本再評価の流れはバブル経済の崩壊とともに消えた。

 宇野の著作はこうした時代の裏側には目もくれず、大平から宮沢政権、そして55年体制崩壊後の非自民・細川護熙、羽田孜政権にリベラルの流れを追う。自社さ政権の村山富市内閣にも「リベラル」を見るが、この辺りになると消化不良を感じざるを得ない。
 自社さ政権は直前の細川、羽田内閣とは決定的に違っていた。むしろ55年体制への郷愁が生んだ政権ではなかったか。その意味では「反動=保守」だったように思う。

 急ぎ、著書の骨格を追ったが、リベラルへの過剰な期待と合わせ、物足りなさを感じる。「いま」という時代を直視すると、見えてくるのは長年の経済の停滞(それは社会の停滞でもある)と、それに伴う貧困層の拡大、埋めがたい貧富の格差、セーフティネットのない「滑り台社会」、そこから生まれる「生きにくさ」ではないか。保守であろうがリベラルであろうが、この問題を直視せずに何の存在理由があるのだろう。読後感としてそんなことを考えてしまった。
 中公選書、1600円(税別)。


日本の保守とリベラル-思考の座標軸を立て直す (中公選書 131)

日本の保守とリベラル-思考の座標軸を立て直す (中公選書 131)

  • 作者: 宇野 重規
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2023/01/10
  • メディア: 単行本

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あの熱い季節はもう蘇らないのか~濫読日記 [濫読日記]

あの熱い季節はもう蘇らないのか~濫読日記


「対論1968」(笠井潔 絓秀実 聞き手 外山恒一)


 世界的な運動だった「1968」は日本でも一定の盛り上がりを見せた。しかし、世界に比べ「果実」が少なく、一面の焼け野原のようだ。なぜこうなったのか。「1968」の渦中にいた二人が、あの時代を振り返った。
 笠井はいいだももをトップとした共労党の活動家、絓は学習院大全共闘のメンバーで「1968年」(2006年、ちくま新書)の著書を持つ。二人は三派全学連や全共闘ノンセクトが入り乱れた中で小セクト、小集団(東大や日大に比べれば)の一員だった。1970年生まれの外山はファシストを自称、若いころは極左思想を持ち、現在は全共闘運動の研究家でもある。
 必ずしもメーンストリームにいなかった人たちが運動を語ることには意味がある。中心点より辺境にいたからこそ全体の流れが見えるというのが世の常だからだ。

 ポイントは三つある。

 一つは、国民的大闘争だった60年安保と「1968」はつながっているか。言い換えれば70年安保闘争は存在したのか。
 この点で笠井、絓とも否定的である。「1968」の起点は前年の10.8にあり、佐世保のエンプラ阻止など激動の7か月を経て、学園闘争が燎原の火のごとく全国に広がった。10.21新宿騒乱があり、この時点までは「いけるかもしれない」という気分があった。忘れてならないのは10.8の前段としてセクト主導による砂川基地拡張反対闘争があったこと。一連の流れは砂川闘争→国会前デモという60年安保の再来を狙ったものだった。
 しかし、10.8はともかく、学園闘争になると自然発生的な群衆(学生)が主役で、大学自治会、労組が運動の受け皿だった60年とは全く違う様相となった。セクトの思惑とは違って60年とは切断された闘争になったのである。その意味で60年の再来はなかったし、70年安保闘争も実体としてはなかった。この点は私も同感する。そのことの象徴として、樺美智子は国民的英雄になれたが山崎博昭はなれなかった。

 二つ目、戦後民主主義をどう見るか。
 「1968」といえば小熊英二の大著がある。高価なので読んでいないが、二人とも小熊史観に異議を唱える。文献主義によって事実を整理しただけで当事者の声、現場感覚からはかけ離れているという。例えば全共闘とべ平連は対立的存在として書かれているが、両者は共闘関係にあったとする(そうだろう)。
 こうした錯誤はなぜ起きたか。60年安保はブントを含めて戦後民主主義の枠内での運動で(吉本隆明がこのことを批判して「擬制の終焉」を書いた)、延長線上に「1968」や全共闘運動を置くと進歩派対暴力学生という構図になる。小熊史観もこうした限界内にあるというのが笠井、絓の見方である。
 そのことは、新左翼が「世界革命戦争」を主張した背景にもかかわる。日本は無条件降伏によってヤルタ・ポツダム体制を受け入れた。戦わずして得た「平和と民主主義」が戦後体制を象徴している。ヨーロッパ各国では、結果はともかく市民がファシズムと軍事的に対決したが、日本の市民はファシズムとも連合軍とも戦わなかった。戦後民主主義に日和見体質を見た新左翼が旧左翼に対抗するため「戦争も辞さず」と叫ばざるを得なかったと、笠井は言う。新左翼が戦後体制を虚妄(吉本の言葉では「擬制」)と呼んだ背景である。

 三つ目、ポスト「1968」が胡散霧消したのはなぜか。
 世界に比べてもその度合いは激しい。そこで常にあげられるのが陰惨な内ゲバと連合赤軍事件である。内ゲバが大衆を闘争から離反させた、とする見方には笠井、?とも同意している。原因にレーニン主義=ボルシェビズムの前衛党主義があるという。前衛で指導する党は一つでなければならない。その結果、他党派は必然的に淘汰される。この究極が内ゲバだったという。
 連合赤軍事件については笠井、絓の見方は少し違っている。笠井は「人民なき人民戦争」と、戦略論として否定するが、絓は「ピンとこなかった」という。「革命戦争」を主張した一派の幹部と党派に距離を置いたノンセクトラジカルの違いであろうか。
 ポスト「1968」の果実は―と問う前に、今の大学構内ではビラさえ撒けないという話には慄然とさせられる。

 「1968」を語るとき、重要なのは「いま」とのかかわりだと思う。「以後」と「これから」という章立てでそのことにも言及しているのだが、見るべきものはなかった。親ブントからポストモダンに転じ「湾岸戦争に反対する文学者声明」に加わった柄谷行人は、明らかに戦後民主主義の枠に収まることを選択した(憲法9条による平和の選択)。それ以外の道はあるのか、ないのか。笠井、絓の両氏にはこの難問を突破してほしかったが…。
 とはいえ、熱い一冊である。
 集英社新書、1000円(税別)。

対論 1968 (集英社新書)


対論 1968 (集英社新書)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2022/12/16
  • メディア: 新書



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三好達治は生活に敗北したか~映画「天上の花」 [映画時評]

三好達治は生活に敗北したか~映画「天上の花」


 昭和10年代、抒情派詩人として知られた三好達治の愛と破綻を描いた。原作「天上の花―三好達治抄―」は萩原葉子。三好の師である萩原朔太郎の娘である。三好が亡くなった昭和39年、鎮魂歌として書かれた。破綻した愛の相手は朔太郎の妹アイ。原作は葉子と思われる女性の視点で描いた達治を前後に、中央に「逃避行―慶子の手記―」を置いた。慶子はアイの仮名である。映画は「手記」の部分をほぼそのまま映像化した。

 慶子(入山法子)は母によって自由奔放に、言い換えれば我儘に育てられた。そのためか2度の離婚を経て詩人・佐藤惣之助と結婚した。如才ない惣之助は流行歌の歌詞にも手を出し(「赤城の子守唄」「湖畔の宿」「青い背広」)、金回りはよかった。その点で不自由させることはなかった。しかし、惣之助は急死。世田谷の朔太郎(吹越満)の家に出戻った慶子に達治(東出昌大)が求婚。佐藤春夫(浦沢直樹)の娘と離婚した達治を見て、慶子はようやく承諾した。
 二人が暮らし始めた地は福井県の三国。日本海を臨む寒村の古びた屋敷だった。惣之助との暮らしとのあまりの落差に慶子の心は荒んでいく。
 「手記」は、もちろん実在のものではなく、葉子が本人に取材したうえでまとめたフィクションである。しかし、一人称の文章は達治の偏愛や身勝手ぶりを凝視し、すさまじい迫力をたたえる。映画は多少ソフィスティケートされているが、今の時代ならDVかストーカー行為で訴えられるだろう。結局、周囲の手を借りて脱出するが、映画では原作にないエピソードとして、達治が時代の求めに応じて「国民詩」を書くシーンがある。原作にあった室生犀星や宇野千代、葉子自身との交流より、戦時下の達治を描くことへのこだわりが、映画の作り手にあったことがうかがえる。では、当時の達治と時代の関係はどうだったか。

 私が、かつて三好達治の詩に触れたのは、吉本隆明の詩論によってであった。そこで、かすかな記憶をもとに「『四季』派の本質―三好達治を中心に―」にたどりつき、再読した。
 昭和10年代、プロレタリア詩文学が消滅した後「詩的庶民の多数感覚に、全能のイメージをもってむかえられた」のが「四季」派の叙事詩だった。吉本は「抒情概念のなかに最初からもっていたモダニズム意識と、伝統的な永続感性との統合された要素」と、三好らの詩の構造をとらえたうえで「戦争期の支配体制に順応していくために」「都合のよくないモダニズム的要素を失っていけばよかった」。こうして、ボードレールなどの訳者でもある三好は「神州のますらを」などとうたった。「伝統的な感性の秩序」を「せっせと掘り下げていく」ことで日本の恒常民衆の独特な残忍感覚と、やさしい美意識を共存させる―というのが、三好の「国民詩」に対する吉本の理解だった。
 ここまでくると、外来思想に立脚したインテリゲンチャが土着の思想に足をとられ、全面降伏するという「転向の論理」が頭をよぎる。戦時下の三好も同じ道筋をたどったのか。
 しかし、吉本はそこから全く違う方向へと転回する。三好の「先祖かえり」は現実社会からの逃亡ではなく「強靭な生活者」であることが「恒常民的な感性につきあたるおおきな原因」だったと推定する。そのことの傍証として、ある座談会での小林秀雄の発言を引用する。
 ――三好の詩の本当の美しさは生活に勝ったところにあるのだよ。三好がワイフに勝ち、子供に勝ち、貧乏に勝ったところからくる。(「文学界」昭和174月号)

 葉子が描いたのは、生活者として敗北した達治の姿だった。映画もまた、そうした達治を登場させた。しかし、小林は全く逆のことを言っている。「四季」派には中原中也がおり、中原と小林、大岡昇平らは濃密な交友関係にあった。小林にも、達治の暮らしぶりは耳に届いていたはずだ。どう理解すればいいのか。
 一つの手がかりは、慶子(アイ)が、達治の男尊女卑ぶりに強烈な反感を持っていた点だ。中原はよく知らないが、小林、大岡は古い女性観の持ち主として知られる。その辺の食い違いが詩人の像の落差を生んでいるとも考えられる。
 原作、映画のタイトル「天上の花」は、達治が生前好んで色紙に書いていた詩の一節
 山なみ遠に春はきて
 こぶしの花は天上に
 からとられた。詩に生きることと暮らしを対比したうえで、天上の花とは詩人の魂、もしくは詩そのものと読める。
 2022年、片嶋一喜監督。


天上の花.jpg



天上の花―三好達治抄 (講談社文芸文庫)

天上の花―三好達治抄 (講談社文芸文庫)

  • 作者: 萩原 葉子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2023/01/14
  • メディア: 文庫



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世論も加担した「戦争への道」~濫読日記 [濫読日記]

世論も加担した「戦争への道」~濫読日記


「昭和史研究の最前線 大衆・軍部・マスコミ、戦争への道」(筒井清忠編著)


 昭和の時代、日本はどのようにアジア・太平洋戦争への道筋をたどったのか。この、永遠ともいえるテーマをめぐって「最前線」の研究はどのような現状にあるかが、筒井清忠ら13人の研究者によってまとめられた。

 最大の特徴は政財界、軍部の動きだけでなく、メディアと世論が時代の流れにどう影響したかが、一貫した問題意識(視点)として据えられていることだ。次に、時代の変遷を単色ではなく、複数の色合いを丹念に読み解きながら追っている。
 そのことがよく分かるのが「統帥権干犯」をめぐる章である。大元帥である天皇を絶対的な存在に押し上げた厄介な言葉だが、だれが言い始めたかは、はっきりしていない。ロンドン軍縮条約締結をめぐって政府に批判が集中したのが発端だが、軍の編成権はもともと政府にあり、この時の政府の動きはなんら批判に値するものではなかった(天皇も当時、内容を了解したとされる。従って天皇無視という批判も当たらない)。第4章でこの問題を取り上げた畑野勇も、最初に言い出したのは「北一輝・右翼団体・陸軍・政友会・マスコミのいずれか」断定は困難、と書いている。政友会が入っているのは当時の野党第一党であり、政権批判として行った、とするものである。北や政治団体だけでなく、新聞を含めた世論の醸成が統帥権干犯という殺し文句を独り歩きさせた。
 「日中15年戦争」という括り方にも異論を唱えている(第5章、熊本史雄)。「15年」とは満州事変が起きた1931年から終戦の1945年までを指すが、その間は「戦争」一色ではなく、上海事変直後のトラウトマン駐華ドイツ大使の動きに見られるように、停戦を模索してもいたのである。これらをとらえ、満州事変→満洲建国と、その後の日中戦争とは区切って考えるべきだとする。停戦の動きを封じ込めたのは、世論の沸騰であった。

 世論の動向が時代の流れに多大な影響を与えたとする背景には第一次大戦後、つまり戦間期の大正デモクラシーの高揚がある。人権や平等意識が浸透し大衆社会が生まれ、政界や軍部もそれらの動きを無視できなくなった。無産政党の台頭があり、両者の結びつきによる「昭和維新」の動き―血盟団事件、5.15事件、そして2.26事件へと至る。
 2.26事件の思想的背景には、北一輝も含めて、大正デモクラシーの平等主義があることは周知と思われる。大恐慌下、農村の疲弊に対する若手将校の義憤があったとされるが、1936年の時点で日本は不況から脱しており、政党政治の混迷と腐敗に対する将校らの怒りが色濃かったとみるべきであろう。
 将校決起後の天皇に向けた上部工作(宮中工作)が丹念に再現されている(第9章、筒井清忠)。あまり目にしなかった記述だ。事件の背後で石原莞爾が収拾に動いたことは知られており、決起した皇道派将校に対して石原ら統制派という対置がなされるが、統制派自体は実態がなかったようだ。少なくともここではそう読める。

 三国同盟か米英協調かをめぐって揺れた世論を佐藤卓己が解き明かしている(第11章)。判りやすく読みやすい。日本は独伊との三国同盟に単線的に突っ走ったわけではなかった。しかし、メディア議員(メディア出身議員)やメディアが仕掛けたイベントによって世論の大勢はドイツ支持へと雪崩を打ったのである。
 「戦争への道」を振り返るとき、軍や政治がやり玉にあがることが多いが、メディア機関と世論も少なからぬ加担をしていることも、しっかり見ておくべきであろう。
 朝日新聞出版、910円(税別)。



昭和史研究の最前線 大衆・軍部・マスコミ、戦争への道 (朝日新書)

昭和史研究の最前線 大衆・軍部・マスコミ、戦争への道 (朝日新書)

  • 作者: 筒井 清忠
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2022/11/11
  • メディア: Kindle版


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