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せめぎあう現実と虚構~映画「永遠の門―ゴッホの見た未来」 [映画時評]

せめぎあう現実と虚構~

映画「永遠の門―ゴッホの見た未来」

 

 社会学者・吉見俊哉の「平成時代」を読んでいて、1980年代に日本人が経験したものは現実との緊張関係を失った地平での「浮遊する<虚構>の言説」だったというくだりに行きあたった。

 この問題意識のベースにある現実と虚構、リアルとバーチャルの格闘ないしせめぎあいのようなものは、考えてみればいつの時代、どんな個人にもあった。特に芸術家を語る場合、重要になる。画家のゴッホも、そうした文脈上で語られてきたことの多い人物だ。記憶するところ、多くは「狂人」かそれに近い人物としてデッサンされた。さて「永遠の門―ゴッホの見た未来」はどう描くのか。関心の的はそこにあった。

 ――さまざまなゴッホ像がある中、比較的ゴッホに寄り添ったのではないか。

 そういう評価に落ち着きそうだ。突き放すことなくゴッホの創作活動を追った。カメラはゴッホの側にあった。象徴するのが、ゴッホとゴーギャンの論争シーンだ。普通なら二人のカットを背後や斜めから撮るが、映画ではセリフごとにそれぞれアップで撮った。小津安二郎が使った手法だが、観るものが感情移入しやすい。ゴッホの視点を追体験している気分になる。ハンディカメラの多用も同じ発想だ。

 パリで不遇をかこっていたゴッホ(ウィレム・デフォー)はやがてゴーギャン(オスカー・アイザック)という知遇を得て仏南部のアルルに向かう。そこで「黄色い家」を借りたゴッホは毎日、農村風景を精力的に描く。そうした日々を送るうち、ゴッホには特別なものが見えるという感慨がわいてくる…。

 「平らな風景を前にすると永遠しか見えない」とか「意識が自分の外に流れだしていく」とか、ランボーの詩を思わせるセリフ群。冒頭にあげた「現実と虚構」のせめぎあいである。しかし、あるのは現代日本が抱えるような「浮遊する<虚構>」ではなく、リアルな緊張関係の中のそれであった。挟まれた二つのエピソード、ゴッホと女性や子供たちとのトラブルがそれを物語る。だからこそゴッホはゴッホだった(ここで吉見の示唆にしたがって平成の「ポストモダン」なポップス、小室哲哉や安室奈美恵を思い出してみよう。誰でもない誰か、どこでもないどこか、いつでもないいつかが美しくカッコよく歌われた。現実との摩擦などみじんもなく、ゴッホとは対極の世界だった)。

 ゴッホとの論争の中で、ゴーギャンはたとえ風景画であっても描いているものは自分の内面だという絵画観を主張。「見えたものを描く」というゴッホとの「別れ」につながっていく。

 良くできた作品だが、30代で亡くなったゴッホを60代のウィレム・デフォーが演じるのは若干無理な感じもする。なお、ゴッホの死因は自殺が定説だが、ここではそばにいた少年のピストル誤射説をとった。

 2018年、英米仏合作。作品中、なぜか英語とフランス語のセリフが入り交じる。監督は「潜水服は蝶の夢を見る」のジュリアン・シュナーベル。


ゴッホ.jpg


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