SSブログ

妄想と狂気と現実~映画「JOKER」 [映画時評]

妄想と狂気と現実~映画「JOKER

 

 自我と社会の折り合いがつかなかったとき、社会が間違っていると思う人間は革命家に、自我に落ち度があると思う人間は狂人になる、とどこかで読んだことがある。もちろんこれはシンボライズされたレトリックで、現実はそこまで単純ではない。その間には無段階の「革命家」と「狂人」とのせめぎあいがあり「革命家」はときに「犯罪者」に置き換えられる。

 革命家を犯罪者と同列に扱うのはいささか乱暴では、と思うかもしれないが、マルクスやレーニンさえもある人々から見れば犯罪者だし、ダッカ事件で単純な刑事事件の受刑者を日本赤軍が釈放を求めた例があった。社会と自我という構図の中で、革命家と犯罪者の障壁はさほどないといえる。

 さて、映画「JOKER」である。「バットマン」で、主人公と戦う悪のヒーロー。彼がどのように生まれたかを描いた。

 ゴッサムシティでコメディアンを目指すアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、街頭の宣伝マンとして働くうち若者らに暴行される。そのことを聞いた同僚から、護身用にとピストルを渡された。

 彼には笑いが止まらなくなる精神的疾患があり、それがもとでさまざまなトラブルに巻き込まれる。地下鉄車内でも笑い病を発症、3人の男に絡まれた末に彼らを射殺。フレックは逃亡するが、事件は大きなニュースになった。

 彼には母親ペニー・フレック(フランセス・コンロイ)がいたが、彼女はある男の手紙を待ちわびていた。社会的な成功者トーマス・ウェイン(ブレット・カレン)。盗み見た手紙によると、フレックの父親らしい。「きっと私たちを救ってくれる」と彼女は待つが、いつまで待っても手紙は来なかった。そんなときテレビでは「マレー・フランクリンショー」をやっていた。

 射殺された3人の男は、ウェインの会社の社員だった。その射殺犯である「ピエロの仮面をかぶった男」(フレックのこと)は、富裕層に不満を持つ群衆からヒーローとして持ち上げられた。母親の手紙を届けるべく、トーマス・ウェインに会ったフレックは、彼が父であるというのは母親の妄想であることを知る。そのことを確かめにある公立病院の30年前のカルテを見て、フレックの実の父親は虐待の常習者であり、そのときの暴力が脳にも影響して現在の笑い病のルーツになっているらしいことを知った。

 一方、たまたま「マレー・フランクリンショー」から出演オファーを受けたフレックは、承諾する。しかし、笑いのダシにされただけだった。そのことを思い知ったフレックはテレビカメラの前でマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)を射殺する。警察に連行途中、事故で転倒したパトカーから、フレックは、ピエロの仮面をかぶった群衆たちによって救出される。フレックは、街頭を埋め尽くす群衆の中でヒーローだった…。

 妄想と狂気と現実が入り組むこの物語は、群衆の怒りを背景にした革命の物語なのか、それとも狂人の妄想の物語なのか。そのどちらかであるともいえ、どちらでもあるともいえる。

 2019年、アメリカ。

 

joker.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

普通の人たちが織りなすドラマ~映画「真実」 [映画時評]

普通の人たちが織りなすドラマ~映画「真実」

 

 「我が人生を振り返る」式のインタビュー番組、もしくはインタビュー記事というものを、基本的に信じないことにしている。自分に都合よく語られているからだ。改ざん、もしくは嘘が混じっているとまでは言わないが、人間だれしも、自分に都合の悪いことは言わないものだ。そして、自分に都合のいい部分は必要以上に多く語る。だから、あまたある「自伝」と称するものも、一歩引いて眺めることにしている。

 是枝裕和の新作「真実」を観た。

 フランスの女優ファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)が自伝を出した。タイトルは「真実」。彼女には脚本家の娘リュミエール(ジュリエット・ビノシュ)と夫ハンク(イーサン・ホーク)、7歳の娘シャルロット(クレモンティーユ・グルニエ)がおり、たまたまニューヨークからパリへと尋ねてきた。女優と家庭人を天秤にかけ女優を選んだというファビエンヌを、リュミエールは快くは思っていなかった。当然ながら、出版された自伝にも不満を持っていた。最大の問題は、ファビエンヌとリュミエールが公私にわたって交流を続けたサラのことが、一言も触れられていなかったことだった。「真実」と題した自伝が事実とかけ離れていることを伝えると、ファビエンヌは一言「事実なんて退屈だわ」と答えた。

 波紋は、ファビエンヌの撮影現場にも及んだ。秘書リュック(アラン・リボル)が、自分のことに触れていないことに失望し仕事をやめると言い出したのだ。やむなくリュミエールが代役に立ち、撮影現場も立ち会った。

 ファビエンヌが出演していた映画には、若くして亡くなったサラの再来と呼ばれたマノン(マノン・クラベル)が出ていた。マノンは、「サラの再来」と呼ばれることにプレッシャーを覚えると漏らす。そうした彼女を自宅に招き励ますファビエンヌ。そうした心の交流をそばで見ながら、いつしかわだかまりが融け始めるリュミエール…。

 ストーリーは、一つのファミリーとそれを取り巻くわずかな周辺の出来事に終始する。出てくるのはあくまで普通の人たちで、ほのかな心のやり取りがあり、最後は大団円に終わる。是枝作品らしい、安定的でこまやかな演出ぶり。彼の作品群でいえば「海街diary」あたりを観るようだ。あるいは、晩年の小津作品あたりか。世界に羽ばたく是枝としては、破たんのない堅実な路線を選んだ、という印象が強い。「佳作」という形容が似合う作品である。

 この映画評を書くため関連記事を読んでいたら、ジュリエット・ビノシュがインタビューで(是枝監督は)「アントン・チェーホフに似ている」と語った下りに行きあたった。人間を善人、悪人に腑分けするのではなく、そのまま描くという点で、ということらしい。同感する。

 2019年、日本・フランス合作。

 

真実.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

共同体が持つ不気味な排斥力~映画「楽園」 [映画時評]

共同体が持つ不気味な排斥力~映画「楽園」

 

 吉田修一の短編集「犯罪小説集」から編を組み合わせ、一本の作品とした。二つの話を結ぶ糸は「共同体」という名の不気味な圧力である。共同体は常に何らかの求心力を持つ(持たなければ分解する)。求心力は同質性を求め、異物は排斥される。そこで、この作品のテーマは、排斥されるものと、するものとの葛藤である。

 問題はベクトルの方向である。求心力の方向へと向かう人々にとって、眼前の共同体は守るべき「楽園」と映る。その力が、特定の人々には「排斥力」として作用する。この不気味な力学を描くにあたって「楽園」と名付けた背景には、そのあたりの思考経路がありそうだ。

 監督は「ヘヴンズストーリー」「菊とギロチン」の瀬々敬久。復讐の物語に「ヘヴンズ…」と名付けたアイロニカルな思考法が「楽園」のタイトルにもみられる。「ヘヴンズ…」も「菊とギロチン」も、監督の力技を感じさせる大作であった。特に「ヘヴンズ…」は全編で4時間半を超え観るものを圧倒した。このことは逆に、一つの懸念を起こさせた。時に力技が上滑りしてしまう傾向が、この監督にはあるようだ。その辺は見てのお楽しみ、というものだ。

 観終わって、懸念は吹き飛んだ。共同体から排斥される側が綾野剛(役名:中村豪士)であり、佐藤浩市(役名:田中善次郎)であり、排斥する側が柄本明(役名:藤木五郎)であるから、演技は安定的で抑制はきいており、外れようがなかった。

 原作の2編は、栃木の少女不明事件を題材にした「青田Y字路」と、山口・周南市の限界集落で起きた人殺害事件を題材にした「万屋善次郎」である。交差するところがない2編だが、人間模様を紡ぎ直して一本のストーリーにした。

 前半は、少女が忽然と消えた中で、アジア系の外国人母子に疑惑の目が注がれていく過程を描く。疑惑が解けないまま、豪士は衝撃的な行動をとる。後半は、都会からUターンして養蜂業を営む善次郎が、ふとしたことで長老たちと折り合いが悪くなり、村八分どころか村十分の扱いを受け、絶望的な行動へと走る…。

 実は、後半部分のベースにある「万屋善次郎」では、映画よりももっと陰惨な「排斥」が描かれている。映画ではそこで一歩踏みとどまり、原作にはない一人の女性を登場させた。善次郎と同じくいったんは村を出て戻ってきた久子(片岡礼子)である。彼女は善次郎に寄り添おうとするが、結局はその思いを貫くことができない。ただ、善次郎との関係の中で、ただの住民から一人の「おんな」へと変わりゆく演技はぞくぞくするほど見事である。暗い色調のこの作品に、一片の華を添えている。

 見終わってみればやはり佐藤浩市、綾野剛、柄本明、そして杉咲花(不明少女の友達を演じている)、片岡礼子あたりが光った作品だ。そして吉田修一の「犯罪小説集」、言葉から立ち上がるイメージを連ねてストーリーを展開させる「ワザ」は、相変わらず鮮やかだ。

 2019年、日本。

楽園.jpg

犯罪小説集 (角川文庫)

犯罪小説集 (角川文庫)

  • 作者: 吉田 修一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/11/22
  • メディア: 文庫


nice!(0)  コメント(0) 

原作ほどにドラマ性はない~映画「蜜蜂と遠雷」 [映画時評]

原作ほどにドラマ性はない~映画「蜜蜂と遠雷」

 

 恩田陸の直木賞、本屋大賞受賞作を映画化した。原作は、文句なく世上の評価を得た作品だ。それを映画化して何の懸念があろう、と思われるのだが、私には一つ、引っかかるものがあった。

 ピアノコンクールでの天才たちの思いや振る舞いを描いた作品。そのためには、まず音楽自体のかたちを、文字という音から最も遠い表現手段によって手に入れなければならない。恩田は、そのことに並々ならない努力を傾注した。そのことは、幻冬舎文庫末尾に編集者の視点で志儀保博「『蜜蜂と遠雷』の思い出」として書かれていて興味深い。「音」を文字によって実体化するという、ほとんど不可能に近い作業によって「蜜蜂と遠雷」は成立した。

 ところが、今度はその作品を音と映像によって表現するという。いうまでもなく、音楽と映像は極めて親和性が高い。もちろん、それなりの上質な作品に仕上げるにはハードルがあるが、言葉によって作品を作り上げるよりはずっと労力は少なくて済むと思われる。180度反転させたものをもう一度180度反転させれば、元の位置に戻ってしまう。そんなことが映画「蜜蜂と遠雷」で起こりはしないか。

 観終わって、懸念は杞憂ではないと思った。

 ドラマでは人の主要なコンテスタンツが登場する。ペルーの日系三世マサル(森崎ウィン)、かつて天才少女と呼ばれ、挫折の経験を今も引きずる栄伝亜夜(松岡茉優)、謎の少年ジン(鈴鹿央士)、生活者の音楽を目指す高島明石(松坂桃李)。マサルはグローバリズムを象徴するように、今という時代の申し子的存在。亜夜は内面的葛藤を抱え、そのことがドラマの核心を形成する存在。そしてジン(塵)こそ、舞台回し役、いわばジョーカー的な存在。この3人は、いうなれば神に選ばれた存在で、彼岸に生きることを宿命づけられている。これに対して、此岸に立つのが高島である。

 こうして、キャラクタを見ると、ドラマとしてはよく考えられている。人の人間性をどこまで深く掘り下げられるかで、作品の価値が決まってくるといってもいい。

 しかし、原作者が苦労に苦労を重ねて手に入れたドラマとしての深みが、映画ではほとんど感じられなかった。マサルは、ただのアイドルのようだし、ジンの、聴く者の評価を真っ二つに分けるほどの不穏な演奏ぶりも伝わってはこなかった。亜夜と高島は、それぞれに内なる葛藤を抱えている分だけ存在感を維持することができたようだった。

 これはどういうことなのだろう。

 ピアノコンクールをめぐる「天才」たちのドラマを、文字で表現しようという不可能に近い挑戦を行った恩田に対して、映画製作スタッフ(石川慶という監督はよく知らない)は、音楽を音と映像で表現するという近道、あるいは浅瀬を何気なく渡ってしまってはいないか。

 原作でモチーフとしてたびたび登場する雨音、馬の蹄の音、そして標題にもなった遠雷は映像としても登場するが、果たしてそれが何を意味するかは観るものにうまく伝わってこない(蜜蜂は映像としても出てこなかったようだ)。「蜜蜂と遠雷」とは軽やかで重厚な音を出すピアノそのもの、ひいては音楽そのものを表すのだろうが、とてもその深淵が伝わったとはいいがたいのである。

 2019年、日本。

蜜蜂と遠雷.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

いま必要なのは政権交代だ~三酔人風流奇譚 [社会時評]

いま必要なのは政権交代だ~三酔人風流奇譚

 

◆原発をめぐる深い闇

A)関西電力の経営陣が、福井県高浜町の元助役(今年3月死亡)から3億円余り相当の金品を受け取っていたことが分かった。

B)国税当局の調査で発覚し、昨年夏に関電自身が調査したところ、社内の20人に渡っていたらしい。会長、社長が会見し、元助役の森山栄治氏が特異な個性の持ち主で、要するにすごまれて怖かったから返せなかったと子供の使いのようなことを言っていた。構図としては森山氏がもうこの世にいないので「死人に口なし」、森山氏にすべて罪を擦り付けようとしているように見える。

C)その後、関電の幹部が金品を受け取ったのは森山氏だけからではなく、原発関連工事を請け負った建設業者からもあったらしい。

B)元々の情報の出どころが関電自身の内部調査だから、自らの罪状はできるだけ小さく見せようとするだろう。外部の手が入れば、もっと話は大きくなるだろう。

A)そうなると、完全にこれは原発マネーの還流と受け取れる。贈収賄や特別背任罪の成立が濃厚では。

B)当初は、一方の当事者である森山氏が故人のため立件は難しそうとみられていたが、現存する業者が絡んでいれば追及の余地はある。

C)それにしても、国論を二分する、おそらく世論調査では過半数が反対するであろう原発をめぐってこれほどの闇を見せつけられては、原発政策を前に進めるのはもう無理だろう。

 

◆正義が正義でない時代

A)9月19日には東京地裁で、福島第一原発事故をめぐり東京電力トップの責任を問う裁判の判決があった。津波予見は困難だったと、3人に無罪判決が下った。

B)もともと15.7㍍の津波予測は出ており、東電内部でも検討されたがコスト面から対応策はとられなかった。カネがかかるからやめておこう、と判断したら直後に10㍍を超す津波が来たというわけだ。それなのに、そういう経営判断をした当事者は、なんら責任を問われなかった。

C)判決で、さらにおかしいのは「絶対的な安全確保を前提とすれば原発は稼働できない」としている点だ。「絶対的な安全」というのはあり得ないでしょ、といってきたのは原発に反対するグループの方で、いや原発に限っては絶対的な安全を守ります、といってきたのは原発を推進する側だった。判決は開き直りの論理で、それをいうなら原発やめましょう、となる。

A)「あいちトリエンナーレ」も奇妙な雲行きだ。愛知県知事が再開を目指すと言っているが、国が補助金を出さないと言い出した。

B)NHKのかんぽ報道をめぐっても、おかしなことが起きている。問題を取り上げた「クローズアップ現代+」に郵政側が抗議、NHK経営委員会がNHK会長に抗議したというものだ。おまけに郵政の副社長は元総務事務次官だった。現場そっちのけでパワーゲームが行われている。

C)いずれのケースも、目立つのは組織内の風通しの悪さだ。正しいことが正しいといえない雰囲気が見て取れる。最近、やたらと「ガバナンス」という言葉が飛び交うが、裏を返せばそれだけ組織が機能不全に陥っている。

A)最近、テコンドー協会が選手に総スカンを食って批判されているが、全く他人事とはいえない状況だ。似たようなもの、といっていい。

B)テコンドー協会に限らず、どこもが機能不全に陥っているようだ。

 

◆「日本病」だれが立て直す?

C)元号が平成から令和に変わり、平成の30年をそれなりに総括する試みが見られるが、ほとんどがこの30年を否定的に見ている。

A)吉見俊哉著「平成史」を読んだが、共鳴する部分が多かった。日本は明らかに空洞化し没落傾向にあるが、そのことをだれも声を大にして言わない。あるいは、そのことの認識がないのだろうか。経済指標を見ても、明らかに今の日本は30年前とは違う。違っていいのだが、ではそのことをきちんと認識して政治が行われ、民が暮らしているかといえば、違う気がする。日本の人口構成も、かつて人類が経験したことがないような異常な事態に直面しているが、あまり危機感がない。相変わらず、企業を優遇していればそのトリクルダウンが民のもとに届くという政策を取り続けている。それが幻想だととっくにばれているのにだ。

B)この30年を表すキーワードは失敗、漂流、空洞化、そして自己喪失だった。それらをひっくるめて「日本病」と呼んでもいいかもしれない。かつて「英国病」があった英国にはサッチャーがいたように、日本にも誰か新時代の政治家が現れなければならない。

C)それは小泉進次郎のような?

B)彼はとっくに馬脚を現した。あのクラスでは無理だろう。いま必要なのは、国のグランドデザインを変える力量と哲学を持った人間だ。人口構成にあった経済政策、地球が直面したエネルギー事情に見合う環境政策、そしてなにより、極東アジアにきちんとした足場を持てる国の針路図を描ける政治家。こうしたものが描ける政治家、政党がいなければ、日本は滅びるだろう。いつまでもトランプの「ポチ」で通用する時代ではない。

C)そういえば、北朝鮮がSLBMの大陸間弾道弾発射実験を行ったとき、日本海には自衛隊のイージス艦が1隻もいなかったという。アメリカ任せが招いた防衛の空洞化だ。

A)とりあえず必要なことは、安倍政権の現状を変えること。そのためには政権交代が必須条件だろう。安倍政治をそうざらえしてきちんと批判することから始めないと。

 


nice!(0)  コメント(2)