SSブログ

自立した個人を認める社会に・映画「ⅰ 新聞記者ドキュメント」を観て~社会時評 [社会時評]

自立した個人を認める社会に・

映画「ⅰ 新聞記者ドキュメント」を観て~社会時評

 

 昨今の安倍晋三政権の腐敗ぶりは目に余る。森友学園、加計学園疑惑に続いて、今度は「桜を見る会」である。見境なく「お友達」に招待状を送る。後援会パーティーの会計は「なあなあ」、ばれれば子供だましの方便で言い訳をする。森友、加計に通じる体質が見え隠れする。国民の知る権利がないがしろにされる。国会における野党、社会におけるメディアの力が弱体化した(弱体化された?)結果の体たらくである。

 「ⅰ 新聞記者ドキュメント」を見た。最近、話題に上ることの多い東京新聞社会部の望月衣塑子記者を追った。監督はオウム真理教を題材にした「A」「A2」、佐村河内守を追った「FAKE」の森達也。

 沖縄、森友、加計問題、前川喜平元文部事務次官問題を通じ政治権力と闘う望月記者に密着。彼女のタフネスぶりに驚嘆するが、一方で「森ドキュメンタリー」に共通するあるシーンに気づく。映像のフレームに、さりげなく森が入ってくる。第三者でなく、あくまで森の映像と主張する。

 このドキュメンタリーを、安倍政権対反・安倍政権の構図でのみとらえるのは、適当でないように思える。

 問題なのは組織ジャーナリズムの横並び意識であり、その上に乗った官邸のメディア操縦術である。結果として国民の知る権利はなおざりにされ、政権は専横な振る舞いに終始する。作中、籠池泰典氏の言葉だったか、安倍政権は、国民はバカだとタカをくくっている、嘘をついてもすぐ忘れてしまう、というのがあった。こうした政権の傲慢な態度がまかり通るのは、結局は国民の知る権利をないがしろにし、批判に耳をふさいだ結果であろう。

 しかし、繰り返される菅義偉官房長官とのバトルでも、望月記者は孤独である。だから、官邸は巧妙にそこをついてくる。では、どうすればいいか。望月記者を孤立させないことである。それは政党、市民運動、労組が支援すればよい、ということではない。

 森が言いたいことも、そこだと思う。組織ジャーナリズムが横並び意識を捨てること。記者が自立的に動くことをきちんと認めること。結果として、政権に不都合な振る舞いがあれば批判、修正の圧力が働くこと。右とか左とか関係ないのである。ドキュメンタリーの最後で、1944年8月25日のパリ解放の映像が挟まれていた。このとき、ナチスに協力した人々1万人が正当な手続きなしに命を奪われた、とのナレーションがかぶせられた。ナチスにしても反ナチにしても、集団が一色に染まることはいいことではない、とこのドキュメントは締めくくっていた。

 自立した個人を認める社会、一人称単数の主語を大切にする。その視点こそがいま問われているのではないか。タイトルにある「i」の意味もそこにあると思う。だから、森もフレームの中で背中を見せている。

 それにしてもこの映画、広島県内の上映館は尾道市内と広島市内の各1カ所。なんという寒々しさか。


i新聞記者.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

大岡文学の総体に分け入る~濫読日記 [濫読日記]

大岡文学の総体に分け入る~濫読日記

 

「大岡昇平の時代」(湯川豊著)

 

 私の中で、「俘虜記」や「野火」を遺した大岡昇平は優れた戦場小説家(戦争小説家ではない)であった。世間では、これらの小説を評価して「戦後派作家」の典型とみなす向きもある。こうした見方に対して、湯川豊はこう断言する。

 ―-大岡昇平は昭和の作家である、と私は考えている。

 作家としてのスタートは、敗戦翌年に書いた「俘虜記」だった。亡くなったのが19881225日。「昭和」が「平成」に変わる10数日前だった。この昭和の作家が身を賭して何を遺そうとしたのか、それはきちんと受け継がれているのか。死から30年たった今、忘れ去られてはいないか。この焦燥感にも似た思いが、湯川に「大岡昇平論=大岡昇平の時代」を書かせたようだ。

 大岡の文体に対する評価の入り口は、私も同感だが、非情なまでの正確さである。死が日常である戦場においても、わが身を正確に分析する。こうした態度が「俘虜記」や「野火」を名作に押し上げ「レイテ戦記」という分厚い戦記を生み出した。

 湯川はこの点について、次のように語る。

――感情ばかりでなく、衝動すらこのように正確さの秤にかけられる。「俘虜記」は(略)数ある戦争体験の記録のなかでも際立っている。

 大岡は敗戦の前年7月、35歳の通信兵としてミンドロ島に上陸した。大本営は当初、ルソン島を米軍との決戦場と見たが、後にレイテ決戦に変更した。こうした変更はなぜなされたか。一兵卒である自分は、なぜミンドロ島に送られたのか。こうした戦いの全貌をできる限り明らかにすることが、フィリピンで死んで行った者たち(ほとんどは戦死ではなく病死または餓死だったが)への供養ではないか。それが、正確極まりない大著「レイテ戦記」を書くに至った動機であろう。

 「俘虜記」を書きあげた後、大岡は二つの長編小説に取り組んだ。「野火」と「武蔵野夫人」である。この二つ、「孤独」というキーワード(大岡の言葉でいえば「孤影悄然」)を除くと、対照的な内容である。「野火」は一人敗走する兵の飢餓と、その先に見える「神」の横顔を描いた。「武蔵野夫人」は中産階級の男女の関係を通して「戦後」の空気を描き出した。その微妙な感じを湯川はこう指摘する。

――道子の中に「戦前」があるから、彼女を取り巻く勉とか親戚の大野の「戦後」がいよいよ際立ってくる。あの戦争の及ばなかった場所と時間が小説の中に封じ込められているのがかえって感じ取られるのだ、と思われる。

 「戦後」の空気をもっと如実に表現したのが「花影」であろう。複数の男の間を行きかい、自死した銀座のホステスを描いた。モデル小説といわれる。心理描写の克明さにおいて傑作と評価が高い。

 こうした一連の作品とは別に、大岡には明治の時代を描いた小説がいくつかある。例えば「天誅組」や「境港攘夷始末」である。こうした小説群がなぜ書かれたのか、これまでよくわからなかったのだが、「堺事件」をめぐる大岡の鴎外批判―「堺事件疑義」「『堺事件』の構図―鴎外における切盛と捏造」の項を読むに至り、なぜ大岡がこれら明治初頭の事件にこだわったのか、多少腑に落ちる部分があった。政治権力との構図の中で、愚直に尊王攘夷を貫いた下級武士への鴎外の冷たいまなざし(それは、今風に言えば明治政府への過剰な忖度)が許せなかったのだ。それは、明治という時代に対して斜に構えた夏目漱石への共感でもあるのだが。その心情は、そのまま参謀本部に無責任に操られた戦場の兵士への思いにつながっている。そのことを湯川の言葉でいえば、次のようになる。

――近代日本という一筋縄ではいかないような社会がどうしてできたのか、その解明をしようとした試みなのである。近代日本のゆがみは昭和に繋がっている。大岡の発想には、自分が生きている昭和時代がいつもあった。

 このほか、裁判小説の傑作「事件」や昭和初期の小林秀雄、中原中也との交友にも、当然ながら触れている。「大岡の文学があまり読まれていない」ことと「私のなかにある大岡の存在感の大きさの、あまりにかけ離れた隔りに茫然とする」湯川の嘆きが聞こえてくる一冊である。著者は元「文学界」編集長。私には「イワナの夏」の著者として身近だった。

 河出書房新社、2300円(税別)。

 

大岡昇平の時代

大岡昇平の時代

  • 作者: 湯川豊
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2019/09/03
  • メディア: 単行本

nice!(0)  コメント(0) 

活劇としては楽しめるが~映画「ホテル・ムンバイ」 [映画時評]

活劇としては楽しめるが~映画「ホテル・ムンバイ」

 

 2008年のムンバイ同時多発テロを映画化した。伝統と外観の美しさで知られた五つ星のタージマハルホテルを主な舞台とした。

 事件後、テロリストの司令塔としてパキスタンのある組織が浮かび上がったが、詳細はつかめないまま今日に至っている。つまり、テロの背後関係は不明である。インドとパキスタンは独立後、宗教対立を核にした流血の歴史があるため、こうした事件との因果関係には簡単には踏み込めない部分がある。そうした中でこの映画は作られた。

 武装したテロリストとホテル従業員、宿泊客らの対決が大きな構図。テロリスト=絶対悪、対するホテル関係者と宿泊客=絶対善が座標軸となっているため、ナチスの所業を描いた戦争映画、ネイティブアメリカンと対決するかつての西部劇と基本的には変わらない。パニック映画でもあるという点で「タイタニック」ともつながる。

 従業員では貧民街に住むアルジュン(デブ・パテル)、宿泊客では乳児を連れた富豪夫妻、デイヴィッド(アーミー・ハマー)とザーラ(ナザニン・ボニアディ)、謎めいたロシア人実業家ワシリー(ジェイソン・アイザックス)あたりが目立った存在。後はテロリストとの追いつ追われつや従業員と宿泊客との不信と和解、生きのびたものと銃弾に倒れたものとの運命的な選別…。という形でドラマが構成され、最後はインド治安部隊が到着、テロリストを倒し事件は解決(このあたりは西部劇調)。

 それにしても、1300㌔離れたニューデリーからとはいえ治安部隊到着に数日かかるとは信じられない話。実際もそうだったのだろうか。軍用ヘリで運べば数時間で着くだろうに。そして、インド、パキスタンの抜きがたい宗教対立にどうしても目を向けざるを得ない。この歴史を描いた作品としては「ミルカ」が記憶に残る。ネイティブアメリカンとの容易ではない和解を描いた「荒野の誓い」も最近、日本で公開された。こうした作品と比べれば、やはり底の浅さは隠せない。

 小難しいことを言わなければそこそこ楽しめる活劇映画、ということになるのか。

 2018年、オーストラリア、アメリカ、インド合作。

 


ホテルムンバイ.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

せめぎあう現実と虚構~映画「永遠の門―ゴッホの見た未来」 [映画時評]

せめぎあう現実と虚構~

映画「永遠の門―ゴッホの見た未来」

 

 社会学者・吉見俊哉の「平成時代」を読んでいて、1980年代に日本人が経験したものは現実との緊張関係を失った地平での「浮遊する<虚構>の言説」だったというくだりに行きあたった。

 この問題意識のベースにある現実と虚構、リアルとバーチャルの格闘ないしせめぎあいのようなものは、考えてみればいつの時代、どんな個人にもあった。特に芸術家を語る場合、重要になる。画家のゴッホも、そうした文脈上で語られてきたことの多い人物だ。記憶するところ、多くは「狂人」かそれに近い人物としてデッサンされた。さて「永遠の門―ゴッホの見た未来」はどう描くのか。関心の的はそこにあった。

 ――さまざまなゴッホ像がある中、比較的ゴッホに寄り添ったのではないか。

 そういう評価に落ち着きそうだ。突き放すことなくゴッホの創作活動を追った。カメラはゴッホの側にあった。象徴するのが、ゴッホとゴーギャンの論争シーンだ。普通なら二人のカットを背後や斜めから撮るが、映画ではセリフごとにそれぞれアップで撮った。小津安二郎が使った手法だが、観るものが感情移入しやすい。ゴッホの視点を追体験している気分になる。ハンディカメラの多用も同じ発想だ。

 パリで不遇をかこっていたゴッホ(ウィレム・デフォー)はやがてゴーギャン(オスカー・アイザック)という知遇を得て仏南部のアルルに向かう。そこで「黄色い家」を借りたゴッホは毎日、農村風景を精力的に描く。そうした日々を送るうち、ゴッホには特別なものが見えるという感慨がわいてくる…。

 「平らな風景を前にすると永遠しか見えない」とか「意識が自分の外に流れだしていく」とか、ランボーの詩を思わせるセリフ群。冒頭にあげた「現実と虚構」のせめぎあいである。しかし、あるのは現代日本が抱えるような「浮遊する<虚構>」ではなく、リアルな緊張関係の中のそれであった。挟まれた二つのエピソード、ゴッホと女性や子供たちとのトラブルがそれを物語る。だからこそゴッホはゴッホだった(ここで吉見の示唆にしたがって平成の「ポストモダン」なポップス、小室哲哉や安室奈美恵を思い出してみよう。誰でもない誰か、どこでもないどこか、いつでもないいつかが美しくカッコよく歌われた。現実との摩擦などみじんもなく、ゴッホとは対極の世界だった)。

 ゴッホとの論争の中で、ゴーギャンはたとえ風景画であっても描いているものは自分の内面だという絵画観を主張。「見えたものを描く」というゴッホとの「別れ」につながっていく。

 良くできた作品だが、30代で亡くなったゴッホを60代のウィレム・デフォーが演じるのは若干無理な感じもする。なお、ゴッホの死因は自殺が定説だが、ここではそばにいた少年のピストル誤射説をとった。

 2018年、英米仏合作。作品中、なぜか英語とフランス語のセリフが入り交じる。監督は「潜水服は蝶の夢を見る」のジュリアン・シュナーベル。


ゴッホ.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

「愚かな戦争」という教訓~濫読日記 [濫読日記]

「愚かな戦争」という教訓~濫読日記

 

「ノモンハン 責任なき戦い」(田中雄一著)

 

 日本史の教科書では「ノモンハン事件」という。事件? ソ連(当時)とモンゴルの国境地帯で起きた出来事は、偶発的な紛争といった響きで伝えられた。1939年5月から8月にかけ3次にわたった抗争で、日本は1万5千、ソ連は5万を超す兵力を投入。ソ連軍の圧倒的な機甲力(「ノモンハン…」によれば1938年時点でソ連の戦車1900両、日本は170両だったという)の前に日本軍は兵の8割が死傷した。これは「事件」でも、当時日本が常用した「事変」でもなかった。戦争そのものだった。なぜ「事件」として矮小化されたのか。

 日本は「ノモンハン」から2年後に太平洋戦争に突入した。そしてソ連は「ノモンハン」直後、ドイツに続いてポーランドに進駐(ポーランド分割)、第2次大戦の火ぶたを切った。

 巷間、「ノモンハン」は「イーブン」の戦いと伝えられた。しかし、実態は日本にとって惨憺たる負け戦だった。この実態がそのまま広く伝えられていれば、米国との無謀な戦争に突入することもなかったのではないか。逆に言えば、なぜ日本は「ノモンハン」を教訓として国の針路を転換できなかったのか。おそらくここに「ノモンハン 責任なき戦い」を世に問うた意味がある。

 著者はNHKのディレクター。2018年8月に放映したNHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」の取材成果を活字にまとめた。NHKのニュース番組はろくでもないのでほとんど見ないが、ドキュメンタリーの水準の高さはいつも驚嘆する。民放のようなCM頼みでない、公共放送の強みが出ている。人材もカネも惜しみなくつぎ込んだ結果だろう。これまで「インパール」や「火野葦平」なども映像化されたが、この「ノモンハン」も同列のものとして評価したい。

 「ノモンハン」に戻る。日本は明治維新以降、日清、日露、第一次大戦を戦い、いずれも「勝ち戦」を経験した(日露については別の見方もあるが、少なくとも負けはしなかった)。こうした成功体験の中で日中戦争に突入した。「寄らば斬る」という関東軍の傍若無人ぶりは、さまざまな歴史書で指摘された通りである。最たるものが強硬派で知られた辻政信少佐だった。

 しかし、ソ連は「日露」のころとは全く違っていた。革命を経てスターリンの生産力理論のもと、2次にわたる5か年計画で工業国へと変貌していた。それが前述のような機甲力の圧倒的な格差を生んだ。そうした戦力分析もなく「ノモンハン」の戦いは行われた。

 情勢分析の不足とともに、問題は上級将校の無責任ぶりである。兵を小出しに前線へ向かわせ、敗因分析もせず再び兵を小出しにする。これに参謀本部と関東軍の意思疎通のなさが輪をかけた。犠牲になるのは兵である。明治時代に開発された三八式歩兵銃で戦車に立ち向かった。

 こうした前線の実態を、当事者や遺族らの証言によってあぶりだす。戦車や砲弾にとどまらず、あらゆる物量で日本はソ連に圧倒されていた。そして兵站への無関心、将校らの撤退を潔しとしない精神構造、前線の兵の訓練度の低さ。ここには、後の太平洋戦争で明らかになった日本軍の無責任の体系、失敗の本質の芽が、ことごとく表れていた。

 「ノモンハン」を負け戦としてひた隠しにするのではなく(「事件」と呼んだ軍部の意図もそこにあった)、教訓として冷静に分析していれば、その後の破局的な戦争はなかったと思われる。少なくとも今の時代に再び愚挙を起こさないために、読む意味はある。

 講談社現代新書、900円(税別)。


ノモンハン 責任なき戦い (講談社現代新書)

ノモンハン 責任なき戦い (講談社現代新書)

  • 作者: 田中 雄一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/08/21
  • メディア: 新書

nice!(0)  コメント(0) 

永遠に答えの出ない問い~映画「ひとよ」 [映画時評]

永遠に答えの出ない問い~映画「ひとよ」

 

 「弧狼の血」の白石和彌監督が「家族」をテーマにした作品を仕上げた。

 ―といえば全く違う内容と思えるが、根底の部分は共通している。「弧狼の血」は、マル暴担当の刑事・大上章吾(役所広司)が暴力団の上層部と通じて常軌を逸した捜査手法をとる。そのことに若い刑事は疑問を抱く。しかし、大上には、それがカタギの市民を救う道だという信念があった…。

 世間から見れば道を外れた行動が、実は信念に満ちた行動だった。その行動は許されるのか、否か。「ひとよ」が問いかけたテーマだが「弧狼の血」と通底するテーマでもある。

 家庭内暴力が止まらない夫を見かね、稲村こはる(田中裕子)はある夜、殺してしまう。「お前たちはもう自由だ。好きなことがやれる。なりたいものになれる」と言い残し刑に服した後、各地を転々、15年たって子どもたちの前に現れた。

 しかし、15年は彼らにとって「自由」を得た歳月ではなかった。人殺しの子と呼ばれ、それぞれの人生に事件は影を落としていた。

 菊池寛の「父帰る」を思わせる出だし。もちろん「父帰る」ではなく「母帰る」なのだが。

 長男・大樹(鈴木亮平)はかつて稲村家が経営していたタクシー会社で働いている。次男・雄二(佐藤健)は週刊誌のライター、長女・園子(松岡茉優)はキャバクラのホステス。それぞれ挫折の経験を持つ。もちろん、遠因はあの事件だった。母親の帰還は、そうした兄妹の心象に固いしこりとなって残った。そんなとき、タクシー会社に一人の男(佐々木蔵之介)が職を求めて訪れた。酒は一滴も飲まないというこの男、「過去」がありそうだった。

 雄二は自分たち家族の事件をネタに記事を書く。母親が「自由に生きろ」というのだから、あの事件を踏み台に自分の人生を切り開きたい、との思いからだった。しかし、記事は兄妹とタクシー会社に複雑な波紋を巻き起こす。そんな中、母親はいう。「私は間違っていない」と。

 母親が本当に間違っていないと思ったかどうかは分からない。心底では間違っていたと思っているかもしれないが、それを言っては子供たちが救われない、との思いがあったとみるのが自然だ。罪はどこまでも一人で引き受ける、というのが母親の心情であったのだろう。

 では、刑法上ではなく人の世のならいとして、この母親の行為は許されるのだろうか。これは永遠に答えの出ない問いに思える。

 力の入った作品であることは疑いようがない。反面、作品としてのゆとり=あそびがないのも気になる。特に、脇を固めた佐々木蔵之介演じる過去ありそうな男、筒井真理子演じる認知症の祖母を抱えた女のそれぞれの「事情」が回収されておらず、後半にかけてドタバタ感が否めないのは残念だ。松岡は「蜜蜂と遠雷」の天才少女役とは対極のキャラクターを演じて安定感。

 「ひとよ」は家族にとって重い「一夜」のことを指すようだが、私には「人世」の意味も込めていると読めて仕方なかった。

 2019年、日本。


ひとよ.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

閉塞状況から立ち上がる~映画「閉鎖病棟 それぞれの朝」 [映画時評]

閉塞状況から立ち上がる~映画「閉鎖病棟 それぞれの朝」

 

 精神病棟が舞台。これ以上ない閉塞状況に追い込まれた人たちが、それぞれに再生の道を求める。

 秀丸(笑福亭鶴瓶)は妻と父の情交現場に出くわし、逆上して二人を殺してしまう。さらに寝たきりの母を不憫に思い絞殺する。死刑判決を受けたが、刑執行後も死ぬことができず、前例のない事態に慌てた当局によって精神病棟をたらいまわしにされる。

 由紀(小松菜奈)は、義父による性的暴力によって妊娠、自殺を図るが死ねない。チュウさん(綾野剛)は幻聴に苦しみ、妹夫婦からも見捨てられる。

 こうした三人がいる病棟である日、殺人事件が起きた。病棟内で由紀に暴行を加えた男を、秀丸は許せなかったのだ。こうして秀丸は再び被告席に。そこで弁護側の証人に立ったのは由紀だった。世間的には生きる価値のない男と見られていた秀丸のために、自らの傷口を広げる証言を行ったのだ。チュウさんもまた、由紀に暴力を振るった男が許せなかったが、結果として彼も秀さんに救われる。

 二度目の殺人を犯し、生きる意欲を失った秀丸だが、二人の励ましによって再生への努力を始める…。

 原作はもう少し筋立てが複雑なようだが、残念ながら読んでいない。死にきれなかった死刑囚を演じた鶴瓶は熱演だが、死刑囚には見えなかった。しかし、死刑囚には見えなさ加減が、ちょうどいいのかも。あまりにもピタリはまる役者だと救いのない作品になってしまいそうだ。かつて「キューポラのある街」で吉永小百合が定時制高校生には見えなかったその加減が観るものの救いになったように。小松菜奈はなかなかの名演。綾野剛はあちこちの作品で活躍。昨年は菅田将暉の年だったが、今年は綾野剛の年かも。

 2019年、日本。山本周五郎賞の原作は精神科医師でもある帚木蓬生。監督は平山秀幸。

 2016年に神奈川の施設で19人が殺害される事件が起きたが、その時の加害者と対極をなす思想が流れている。

 


閉塞病棟.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

アメリカの「原罪」を直視した作品~映画「荒野の誓い」 [映画時評]

アメリカの「原罪」を直視した作品~映画「荒野の誓い」

 

 「クレイジー・ハート」(2009年)で落ち目のカントリーウェスタン歌手の再生を、「ファーナス 決別の朝」(2013年)で、トランプ現象の背景にもなったプアホワイトの閉塞状況を描いたスコット・クーパー監督が西部劇を作った。

 クーパーの作品にひかれるのは、いずれも魂の物語を紡ぎだすからだが、はたしてこの「荒野の誓い」も期待を裏切らなかった。

 ネイティブアメリカン(先住民)との戦いも終わった1892年、米国西部ニューメキシコ州の刑務所に勤務する騎兵隊大尉ジョー(クリスチャン・ベール、「バイス」での演技が記憶に新しい。「ファーナス」でもクーパー監督とタッグ)は、ある任務を言い渡される。ガンの末期症状にあったシャイアン族の族長イエロー・ホーク(ウエス・ステューディ)を故郷モンタナまで護衛しろというのだ。先住民との戦いで多くの友を失ってきたジョーは、いったんは断る。しかし、退役とその後の年金生活を待っていた彼は、拒めば軍事法廷という上官に抗しきれず命令を受け入れる。

 こうして「聖なる地・熊の峡谷」と呼ばれる地を目指すシャイアン族の家族と、彼らを守る騎兵隊の1000㍄の旅が始まった。そのころ、コマンチ族と呼ばれる先住民族が荒野に住む一家を襲撃、馬を略奪する。戦いの末、ロザリー(ロザムンド・パイク)を残して夫と3人の子は殺される。心に傷を負ったロザリーは偶然現れたジョーの一行に合流。旅をする中で、コマンチと同じ先住民族イエロー・ホークらを警戒していたロザリーも徐々に心を開く。

 過酷な長い旅路の末、一行は「熊の峡谷」にたどり着いた。ここでイエロー・ホークは荘厳な死を遂げる。

 …で、物語は終わりではない。目的地に着いた一行の前に「ここは俺たちの土地だ」と主張する白人グループが現れた。この時のために、とジョーは任務の証である大統領令をかざす。しかし、白人グループは「そんなものはただの紙切れ」と取り合わなかった。すると、決然と大統領令を捨て去ったジョーは「ここは彼らの土地だ」と戦いを挑む…。

 先住民との残虐な戦いに疲れ彼らへの憎悪にとらわれていたジョーが、旅の中での対話と協力関係を通じてだれの土地をだれが奪ったのかを明確に認識した瞬間だった。

 原題は「Hostiles」。敵意、敵対行為を意味する。このタイトルこそ物語の核心を伝えており邦題はいかにも安っぽい。そして、白人=正義、インディアン=悪という勧善懲悪の構図の中でつくられたかつての西部劇とは違う、アメリカの建国にまつわる原罪的事実にきちんと目を向けたクーパーに拍手したい。

 観終わって、冒頭にあるD.H.ロレンスの言葉が突き刺さる。

 アメリカの魂は孤独で禁欲的で人殺しだ。いまだに和らがぬ

 ラスト、モンタナからシカゴへと向かう列車。そこでロザリーに対してジョーがとった行動は、泣かせますね。

 2017年、アメリカ(日本公開は2019年)。

 

荒野の誓い.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

日本の「慣性の法則」に切り込む~濫読日記 [濫読日記]

日本の「慣性の法則」に切り込む~濫読日記

 

「日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学」(小熊英二著)

 

 制度や慣習を変えたいのに変わらない。そんなとき、よく使われる言葉がある。「慣性の法則」―。

 著者の小熊英二は、総合的な戦後史の記述を目指しているという。政治、経済、外交、教育、社会、文化、思想を連関させ、世界的な同時代動向とも比較しながら、日本の戦後史を描く(この部分「日本のしくみ」の「あとがき」から)。これまでの「仕事」から見て、小熊なら可能であろう。時代のトレンドやムーブメントを組み込んだ、戦後のシステムの成り立ちを解明する試みといえる。ところがここで問題が起きた。戦後の各分野を連関させるためには、それらを串刺しにする共通の視座が必要になる。世界史の中で日本の戦後史を位置付けるということであれば、視座は世界的に普遍性のあるものでなければならない。そうした視座の獲得は可能なのか。おそらくここに「日本社会のしくみ」を執筆した直接の動機がありそうだ。そしてそれは、冒頭にある日本の「慣性」とは何かを解明する道にもつながっている。

 日本の政治や経済、文化、それらを形成するおおもととは何か。著者はそれを「慣習の束=しくみ」と名付けた。暮らしの中で意識的、無意識的を問わず、我々はさまざまな慣習を持っている。慣習が長期にわたって続けば集団のルールとなり、原理ともなる。そしてシステムが形成される。変更するためには、関わっている人間の同意が必要にさえなる。

 ここを出発点として、著者はまず日本のしくみは「カイシャとムラ」から成り立っていると喝破する。「カイシャ」の論理が貫かれているのは大企業であり、「ムラ」の論理が貫かれているのは「地元」と呼ばれる社会である。もちろん、この二つからはみ出した部分はある。これを著者は「残余型」と呼ぶ。この三分野は戦後ずっと同じ比率を保ってきたわけではなく、終戦直後には一時的に「地元型」(自営型産業)が増え、高度経済成長につれ地元型の多くは残余型(ムラにもカイシャにも属さない)に移行した。ただし、大企業の占める比率は戦後一貫して変わらないという。

 日本社会のもう一つの特徴は、雇用のしくみである。著者も指摘するように、欧米では雇用関係において比較的、横の移動は可能だが縦の移動はむつかしかった。日本では、縦の移動は恒常的にあるが、横の移動はむつかしい。これは、日本の経営者が、経営権の浸食を恐れて被雇用者の丸抱えを行い、その代償として年功制、終身雇用を保証したためだという。これに対して欧米ではギルドなどの歴史的形成過程があり、職人の資格認証制度、賃金の横並び(これらは日本では経営権の侵害ととらえられた)が保障されたためだという。

 そのため、欧米では被雇用者の三層構造(意思決定者、事務処理方、現場)が今でも厳然としてあり、日本では戦前まではあったが、戦後は社員の平等化の名のもと、解消された。ただし、日本近代化の出発点である官僚制では、昔も今もこの三層構造が生き延びている。

 こうした構造を反映して顕著なのは、欧米と日本の給与体系の違いである。欧米では仕事に応じて支払われる職務給が大勢だが、日本では生活保障の色彩が給与に込められており、そのため年功と職能という労使妥協の産物としての給与体系が一般的である。最近では成果主義という考え方が一時もてはやされたが、これは職務給の延長線上で成り立つ。これを年功、職能という給与体系と同居させるのは木に竹を接ぐようなもの、と著者は批判する。

 もう一つ、格差の問題がある。この点、欧州と米国、日本でそれぞれ事情が違っている。欧州では職務給の考え方が一般的であるかわりに社会保障制度が充実している。米国では労働の自由市場という考え方から、社会保障は貧弱である。その分、生活の格差が生じやすい。日本ではどうか。企業内では、社員の平等化が一定には図られている。しかしその分、大企業と中小企業、自営型産業の間で顕著な格差が生まれた。近年では「正社員」の外側の身分(非正規社員、アルバイト)の比率が高まり、これも格差を生む要因になっている。

 企業の人材評価や給与体系の欧米との違いなど、これまで社会的に論じられてこなかった部分にメスを入れた好著。日本はなぜ戦後の一時期、経済大国としてもてはやされたか。そして今、なぜ政治、経済は停滞しているのか。日本が変わるためには何が必要なのか。そうしたことを考える好材料でもある。

 講談社現代新書、1300円(税別)。

 

日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書)

日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書)

  • 作者: 小熊 英二
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/07/17
  • メディア: 新書

nice!(0)  コメント(0) 

「まなざしの地獄」にあえぐ一人の女性~映画「よこがお」 [映画時評]

「まなざしの地獄」にあえぐ一人の女性~映画「よこがお」

 

 「淵に立つ」で、刑期を終えたある男の出現によって破滅へと向かう家族を描いた深田晃司監督が、ある事件を契機にいやおうなく加害の立場に立たされ苦悩する女性を描いた。二つの作品に共通するのは、私たちを取り巻く日常の板子一枚下は地獄であり不条理である、ということである。

 白川市子(筒井真理子)は、訪問看護士をしていた。日本画家だった女性・大石塔子(大方斐沙子)も彼女の受け持ちだった。塔子の娘洋子(川隅奈保子)、その娘基子(市川実日子)とサキ(小川未祐)が一つの家族として暮らしていた。基子やサキは市子を慕い、看護士と家族の関係以上の付き合いをしていた。ある日、喫茶店で待ち合わせた3人のところへ市子の甥・鈴木辰夫(須藤蓮)が顔を見せる。辰夫は市子に頼まれた介護福祉士の参考書を置いて、その場を去った。

 事件はその後に起きた。サキが行方不明になったのだ。数日後に発見され、辰夫が略取誘拐容疑で逮捕された。そのことをテレビのニュースで知った市子は、容疑者は甥であることを洋子に伝えようとしたが、基子の反対で断念した。その日以来、市子は辰夫との関係を胸に秘めたまま大石家へ出入りするが、週刊誌やテレビが秘密に気づくのは遅くはなかった。さらに、基子によって悪意に満ちた「証言」がなされ、市子は追いつめられていった。マスコミの取材攻勢は市子の自宅や訪問看護ステーションにまで及び、仕事もやめざるを得なくなってしまった。

 市子には結婚を約束した医師がいたが、その話も途中で壊れてしまう…。

 甥が起こした事件に市子が責任を負う必要は全くないのだが、世間の見る目は市子を追いつめていく。見田宗介が永山則夫事件のキーワードとした「まなざしの地獄」である。そんな中、市子は基子に対してささやかな復讐を試みようとする。

 物語は善意と悪意、慰安と復讐が経糸、横糸となって展開され、タイトル「よこがお」の意味が明らかになっていく。市子はもとより基子も、そして世間も、見えているのは片面だけである。つまり、横顔しか見せていないし、見えていないのだ。

 最後の部分、「ささやかな復讐」のかたちが、小説と映画で変えてある。善意にとれば文字と映像それぞれの可能性を追求した、と読めるし、悪意にとれば「商売上手」とも読める。さて、どちらか。

 映画では原作にないヘアーサロンの男・米田和道(池松荘亮)が登場する。ストーリーの幹の部分には関わらず、舞台回し的な役回り。しかし、この男の存在で単線的なストーリーが複線的になっている。

 2019年、日仏合作。  

 

yokogao.jpg

 


nice!(0)  コメント(0)