得意と失意、嘘と真実の人生~濫読日記 [濫読日記]
得意と失意、嘘と真実の人生~濫読日記
「トルーマン・カポーティ」(ジョージ・プリンプトン著)
トルーマン・カポーティ。「冷血」でノンフィクション・ノベルというニュージャーナリズムの新境地を切り開き、「ティファニーで朝食を」では高級コールガールの目を通してニューヨークの都市文化を描いた。「叶えられた祈り」(未読)で米国社交界の内幕を暴き、怒りと侮蔑の対象となった。孤独の中で薬物とアルコールにおぼれ、60歳で生涯を閉じた。
嘘と真実、虚と実、愛と憎が入り混じる、得意と失意の人生を描いたノンフィクションが読みたいと思っていた。知る限り、そうした本は2冊。ジェラルド・クラーク著「カポーティ」(未読、文藝春秋社刊)と、標記の一冊である。同じ人間を対象としながら、手法は正反対だ。「カポーティ」は、従来の「評伝」「伝記」スタイルと思われるが、この「トルーマン・カポーティ」は、著者の「読者へ」と訳者(野中邦子)の「あとがき」によればオーラル・バイオグラフィ(聞き書きによる伝記)なのだ。カポーティにかかわった人々の証言やコメント、感想を、そのまま載せている(もちろん多少の裏付け取材はしているだろうが)。最終的に真実かどうかは、語り手に預けられている。
著者のジョージ・プリンプトンはある文芸誌の編集長で、インタビュー記事を得意とするノンフィクション作家。カポーティの人物像を浮き彫りにするため取材した友人、親戚、マスコミ、映画、ファッション関係者は170人に上るという。
その結果、浮かび上がった「トルーマン・カポーティ」は嘘つきの名人であり(だから作家になれた?)、取材対象者の内側に入り込み、まるで彼がしゃべったかのように話すことができ(ノンフィクション・ノベルの手法)、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」のように上流社会を描こうとして挫折し、文学の天才であり、金持ちのペットのような存在でもある、とらえどころがなく、めくるめく存在として、我々の目の前にいる。このような人生をオーソドックスな手法で描いても、魅力と存在理由は伝わってこないのではないか(といいながら、ジェラルド・クラークも一度読んでみようと思う)。
そんなわけで、この書の内容を体系的に語ることは困難と判断(そもそも、スタイルそのものが体系を拒み細部にこだわっている)。印象に残ったコメントを紹介するにとどめたい。
――一時期、ノートに創作メモをつけていたことがあった。しかし、そうすると頭の中のアイデアが生命を失ってしまうことが分かった。その思いつきが十分に価値のあるものなら、本当に自分のものになっていれば、忘れるはずがない…文字に書かれるまでつきまとうはずだ。(T・カポーティ)
――彼(カポーティ)は、ノーマン・メイラーが「冷血」の真似をしているくせになんの断りもないと言いふらしてまわった。プロの作家がそんなことをいうなんてどうかしていると思った。だから、それ以後、彼との関係は冷たくなった。(略)しかし、あのスタイルはトルーマンの考案ではない。(略)つまり、「ノンフィクション・ノベル」は彼の発見ではないってことだ。(N・メイラー=作家)
――彼の予想では、あのレディたちは大目に見てくれるはずだったんだ。「まあ、あのおチビのいたずらっ子、今度の悪さときたらどう? ちょっとやりすぎだわね!」と。それから、またヨットに招待してくれる。まあ、何をしようと勝手だが、わざわざ通りのど真ん中でやって馬をびっくりさせちゃいけない。(略)そんなわけで、連中は熱いジャガイモを放り出すように彼を捨てた。彼にとっては夢にも思わない事態だ。(J・ノウルズ=編集者)
新潮社、3500円(税別)。
嘘と真実、虚と実、愛と憎が入り混じる、得意と失意の人生を描いたノンフィクションが読みたいと思っていた。知る限り、そうした本は2冊。ジェラルド・クラーク著「カポーティ」(未読、文藝春秋社刊)と、標記の一冊である。同じ人間を対象としながら、手法は正反対だ。「カポーティ」は、従来の「評伝」「伝記」スタイルと思われるが、この「トルーマン・カポーティ」は、著者の「読者へ」と訳者(野中邦子)の「あとがき」によればオーラル・バイオグラフィ(聞き書きによる伝記)なのだ。カポーティにかかわった人々の証言やコメント、感想を、そのまま載せている(もちろん多少の裏付け取材はしているだろうが)。最終的に真実かどうかは、語り手に預けられている。
著者のジョージ・プリンプトンはある文芸誌の編集長で、インタビュー記事を得意とするノンフィクション作家。カポーティの人物像を浮き彫りにするため取材した友人、親戚、マスコミ、映画、ファッション関係者は170人に上るという。
その結果、浮かび上がった「トルーマン・カポーティ」は嘘つきの名人であり(だから作家になれた?)、取材対象者の内側に入り込み、まるで彼がしゃべったかのように話すことができ(ノンフィクション・ノベルの手法)、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」のように上流社会を描こうとして挫折し、文学の天才であり、金持ちのペットのような存在でもある、とらえどころがなく、めくるめく存在として、我々の目の前にいる。このような人生をオーソドックスな手法で描いても、魅力と存在理由は伝わってこないのではないか(といいながら、ジェラルド・クラークも一度読んでみようと思う)。
そんなわけで、この書の内容を体系的に語ることは困難と判断(そもそも、スタイルそのものが体系を拒み細部にこだわっている)。印象に残ったコメントを紹介するにとどめたい。
――一時期、ノートに創作メモをつけていたことがあった。しかし、そうすると頭の中のアイデアが生命を失ってしまうことが分かった。その思いつきが十分に価値のあるものなら、本当に自分のものになっていれば、忘れるはずがない…文字に書かれるまでつきまとうはずだ。(T・カポーティ)
――彼(カポーティ)は、ノーマン・メイラーが「冷血」の真似をしているくせになんの断りもないと言いふらしてまわった。プロの作家がそんなことをいうなんてどうかしていると思った。だから、それ以後、彼との関係は冷たくなった。(略)しかし、あのスタイルはトルーマンの考案ではない。(略)つまり、「ノンフィクション・ノベル」は彼の発見ではないってことだ。(N・メイラー=作家)
――彼の予想では、あのレディたちは大目に見てくれるはずだったんだ。「まあ、あのおチビのいたずらっ子、今度の悪さときたらどう? ちょっとやりすぎだわね!」と。それから、またヨットに招待してくれる。まあ、何をしようと勝手だが、わざわざ通りのど真ん中でやって馬をびっくりさせちゃいけない。(略)そんなわけで、連中は熱いジャガイモを放り出すように彼を捨てた。彼にとっては夢にも思わない事態だ。(J・ノウルズ=編集者)
新潮社、3500円(税別)。
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1999/12/01
- メディア: 単行本