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3.11の敗戦処理が問われる~濫読日記 [濫読日記]

.11の敗戦処理が問われる~濫読日記

「原子力の精神史―<>と日本の現在地」(山本昭宏著)

 山本昭宏著「戦後民主主義」を紹介した際、いくつか注文を付けた。うち一つは水俣病(に代表される公害病)と戦後民主主義の関係をどうとらえるか、であった。もう一つは、「苦海浄土」を書いた石牟礼道子と交友があった谷川雁の「原点」と戦後民主主義の位置関係であった。前者は、戦後民主主義が標榜した「平等思想」への言及であり、後者は戦後民主主義が持つ一国平和主義に対する批判的視点としてのアジア主義への言及であった。
 前者は、同じ著者によるこの「原子力の精神史」で、部分的にだがカバーされた。
 「核時代」への批判的視点への導入部として取り上げた「開発主義と構造的差別」の章。端的に言うと「ミナマタはフクシマに通じている」ということである。著者は「国益」と不即不離の関係にある開発主義が、一方で犠牲を生む構造を固定化すると指摘する。高橋哲哉がいう「犠牲のシステム」である。
 「戦後民主主義」が戦後体制の表側を、「原子力の精神史」が裏側を、それぞれ見ているといえるかもしれない。ただ、今回の著作は「原子力」をテーマとしており、当然ながら「一国平和主義(への批判的視点としてのアジア主義)」に言及はなく、扱ったフィールドに制限があることは否めない。ただ、戦後体制をとらえるために、この2冊を表裏一体として読めば有益であろう。

 さて、本題に移る。
 「原子力の精神史」が取り上げたのは、日本人の核意識の現在地と、そこに至る道のりである。「核意識の現在地」というのは簡単だが、言い当てるのはむつかしい。たとえば「核」を二つの概念でみる。軍事利用と平和利用。そんな分け方が可能かとする議論は、いったん横に置いて考える。それぞれ世論調査で評価を聞いたとしよう。「軍事」には否定的意見が多数だろう。そこで、兵器としての核をなくせばいいかというと留保がつく。平和利用も同様である。否定論が多数になる。では、原発ゼロにすればいいかというと留保がつく。
 なぜそうなったのか。
 著者はまず「核時代」を批判的に考察するための六つの視点を提示する。ここでは詳述しないが、重要と思われるものを紹介する(「開発主義と構造的差別」は既に取り上げた)。
 民主主義と管理社会にどう影響するか。「核」は必然的に専門家支配と官僚支配を生む。いわゆる「原子力ムラ」である。民主主義社会とは相いれない。広島のジャーナリスト金井利博は、この構造を「核権力」と、ロベルト・ユンクは「原子力帝国」と呼んだ。
 ユニークと思われるのは、反核意識の成り立ちにジェンダー論を絡ませた点。原水爆禁止運動の始まりである杉並区の署名運動は女性が担ったし、その後の反核運動も「いのち」への感受性という視点が重要であった。原爆開発は男性的で、「命を守れ」という女性的視点が対峙しているのは、たしかに見てとれる。
 こうした考察を経て、被爆国日本が原発大国に至る道筋をたどり、さらに福島第一原発事故を体験した日本がどう変わったかを探った。しかし、この部分は著者も書くように消化しきれていない。著者の言葉を使えば、この10年間は「歴史化」しているとはいいがたく、原発の事故処理作業が現在進行形であることも大きい。
 そのうえでいえば「3.11」以後、日本での脱原発の動きが加速したとは思えない。日米原子力協定を含めた「体制」が確固として揺らがない点が大きい。そのことを著者は、193040年代の戦争とのアナロジーという観点で理解しようとする。かつて満洲建国を推し進めた国策体制(無責任体制)が、原発建設推進にも見られる、ということだ。ここで例示された経済史家・安富歩の論は示唆に富む。かつて満蒙開拓団が味わった苦難は原発立地自治体の住民の姿に重なる、という。ともに国策が産み出した負の側面が集約的に表れているのではないか。安富はそう指摘する。だとすれば「戦後処理」はどうするのか。かつての敗戦時と同じでいいのか。それが本書の最終的な問いであるように思える。
 集英社新書、820円(税別)。

原子力の精神史 ――〈核〉と日本の現在地 (集英社新書)

原子力の精神史 ――〈核〉と日本の現在地 (集英社新書)

  • 作者: 山本 昭宏
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2021/02/17
  • メディア: 新書

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