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内面への踏み込み今一つ~映画「HOKUSAI」 [映画時評]

内面への踏み込み今一つ~映画「HOKUSAI」


 江戸後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760-1849)の生涯を四つの章に分けて映画化した。前半は柳楽優弥、後半は田中泯が演じた。破天荒な生き様を描いた、ということになるのかどうか。「行儀のよさ」という枠を今一つ、はみ出していないようにも見えた。それは、北斎はなぜ北斎でありえたか、という基本的な問いがそのまま胸の奥に残ってしまうことでもあった。言葉を変えれば、動きの激しさに比べ内面のドラマの彫りが浅かったようにもみえた。
 北斎といえば、当時の人気浮世絵師が歌舞伎役者や吉原の花魁を画題とする中で、北斎漫画や富嶽三十六景など庶民の暮らしや自然に目を向けたことで知られる。華やかさより「わびさび」を選んだのである。なぜか。「好み」の問題なのか。映画では判然としなかった。

 勝川春草から素行の悪さを理由に破門され、その日の生活にも困る春朗(柳楽)に、江戸で一番の版元・蔦屋重三郎(阿部寛)が目をかけるところから始まる。蔦屋は、喜多川歌麿(玉木宏)や東洲斎写楽(浦上晟周)を世に出した目利きである。一匹狼を身上とする春朗は、蔦屋に抵抗感を抱きながらも何枚かの浮世絵を見せた。当代の人気者を描いたが、いずれも似せてはいるが「心がない」と酷評される。苦悩する春朗は山野を放浪、自然の描写に活路を見出す。蔦屋にも評価され、以後「北斎」を名乗る。
 晩年の北斎は病に見舞われながらも「旅」をやめなかった。「富嶽百景」を世に出したのは70歳を過ぎてからであった。
 北斎の生き様とともに、もう一つの物語のフレームは、浮世絵の流行を不穏なものとして取り締まりの対象とした幕府の強権ぶりである。象徴的な人物として柳亭種彦(永山瑛太)が描かれる。武士でありながら身分を隠し戯作者として生きた。北斎とも交流があり、時に戯作文の挿絵を北斎に頼んだ。映画では、武士として生きるか、戯作者として生きるか問い詰められ殺害される(けん責されたのは事実だが、実際は病死だったようだ)。

 冒頭の疑問に戻ろう。「なぜ絵を描くのか」と、蔦屋に問われて春朗が「世の中をのし上がるため」と答え、「それならやめちまえ」とたしなめられるシーンがある。直後、写楽は「浮世絵は道楽」と答える。結局、北斎は何のために絵を描いたのか。蔦屋との問答にあるように、何も考えず心の赴くまま、つまり無心といえば聞こえはいい。だがそんなものだろうか。確固とした身分制があった時代、底辺から這い上がるため絵を描いた、というほうがリアルで格好いい気もする。
 そんなわけで北斎の内側に何があったかは今一つしっくりこないが、ドラマチックな仕立てと、田中泯の演技には脱帽。
 橋本一監督。2020年、日本。

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滅びの美しさ~映画「椿の庭」 [映画時評]

滅びの美しさ~映画「椿の庭」


 写真家・上田義彦の監督デビュー作。葉山の海を見下ろす一軒家を舞台に、老境の穏やかな日々を送る女性と孫娘の心の交流を描いた。スチールを思わせるショットが印象的だ。庭に咲く四季の花々、海と空、古民家が二人の女性の心象を映す。
 絹子(富司純子)の夫の四十九日法要が営まれた春の日、一匹の金魚が死んだ。絹子と孫の渚(シム・ウンギョン)は椿の花弁にくるんで埋葬してやった。法要には絹子の娘で渚の叔母の陶子(鈴木京香)も姿を見せた。一人になった絹子に、東京で一緒に住まないかと声をかけたが、この家に愛着がある絹子は断った。
 税理士の黄(チャン・チェン)から、相続税対策として家を売らないかと持ち掛けられた。絹子は迷いながら受け入れた。
 夏の盛り。夫の親友だった幸三(清水紘治)が訪れた。懐かしいレコードをかけ、思い出話に花が咲いた。絹子は「この地を去ってしまえば、ここでのことは思い出せなくなってしまうの…」といいながら倒れてしまった。命に別状はなかったが、退院後の絹子は生への執着をなくしたようだった。
 やがて、買い主の戸倉(田辺誠一)が家を見に来た。絹子は家財道具の整理を始めていた。訪れた陶子には指輪を、渚にはブローチを渡した。その夜、渚は異国の地で結婚し、若くして亡くなった母から聞いた思いを陶子に話した…。

 ここにあるのは、滅びの美しさである。成立させているのは、富司の所作の美しさであり(かつて「緋牡丹博徒」がヒットしたのは修羅場をくぐる藤純子の所作の美しさにあった)、葉山の四季を切り取ったフレームの美学である。思い出にふける絹子のシーンに何度か流れる「トライトゥリメンバー」。古民家と音楽の融合は鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」を彷彿とさせる。時折挿入された空と海と雲のカットはソール・ライターの写真集を見るようである。
 セリフは極端に少ない。というより、画(え)のためにセリフがある、という作品である。この、画(え)自体がストーリー性を持つ、という点がソール・ライターを思わせるのである。
 2019年、日本。


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シアトリカルな天皇像~濫読日記 [濫読日記]

シアトリカルな天皇像~濫読日記


「三島由紀夫 悲劇への欲動」(佐藤秀明著)

 白眉は演劇論から天皇論に至る部分である。
 著者の佐藤は、三島の演劇観を「シアトリカル(劇場的)」という。そのうえで、三島自身の言葉を引用する。

――役の人物があらはれる一瞬前に、役者が登場しなければならぬ。役の人物が退場した一瞬あとに、役者が退場しなければならぬ。

 役者にとって役は衣装のようなもので、この点でスタニスラフスキー・システム【注】の「俳優は役を生きる」とは異なっていた、と佐藤はいう。
 この考え方は天皇観にも引き継がれる。三島の天皇観が表れている作品として「英霊の声」がある(文学的な評価とは別)。そこで霊の声として

――(「陛下は人間であらせられた」ことは「よい」が)ただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだった。(略)この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだった。それを二度とも陛下は逸したまうた。

 と書いた。「二度」とは、二・二六事件のとき、特攻隊の死から遠くない時期の「人間宣言」を指し、いずれも三島は許せないという。天皇は人間でもいいが、歴史上、二度だけ「神」でなければならない時期があった、というのだ。一見分かりにくいが、三島のシアトリカル演劇論をかぶせれば、よく分かる。三島はゾルレン(あるべき姿)の天皇(=忠義を尽くすべき存在)を求めており、ザイン(存在)とは必ずしも一致しない。そこから「文化概念としての天皇」を頂点に置く「文化防衛論」も生まれた。
 「シアトリカルな天皇」観は、三島の天皇論を理解する上で「目からウロコ」かもしれない。

 三島は作家のほか様々な分野で活動した。時に映画に出演、一方で民兵組織「楯の会」を結成。自衛隊市ヶ谷に乗り込んで壮絶な最期を遂げた。作家としても純文学、風俗小説といったジャンルを越えて作品群を発表。脚本も評価は高かった。
 こうした三島ワールドを、大澤真幸は彼が抱える虚無の深さから読み解き、菅孝行は天皇論を手掛かりに切り込んだ。精神科医の内海健は、金閣寺に放火した修行僧とともに、彼を題材にした小説を書いた三島自身にも精神病理学のメスを振るった。活動が多岐にわたるため、一つのキーワード、もしくは道筋をたどってその世界を解明していく方法がとられた。
 佐藤による標題の三島論の手がかりは「前意味論的欲動」である。佐藤の造語らしいが、無意識下で抱える欲望、もしくは衝動といったところであろうか。情念という言葉が近いかもしれない。この言葉で文学に限らない三島の行動と思想の領域を横串に差し、解明を図ろうとした。
 結果として、三島の生い立ちから「仮面の告白」「金閣寺」にいたる「生きづらさ」の問題、LGBTへの関心、戦後社会に対する虚無感情まで、三島の世界のほぼすべてが盛り込まれた。
 岩波新書、860円(税別)。

【注】著者はこの前段で三島と文学座の演劇観をめぐる議論を紹介している。当時の演劇集団の多くがスタニフラフスキーの演劇理論を採用していた。

三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)


三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)

  • 作者: 佐藤 秀明
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2020/10/21
  • メディア: 新書


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少女の眼を通した「家族」を繊細に~映画「夏時間」 [映画時評]

少女の眼を通した「家族」を繊細に~映画「夏時間」


 父の事業の失敗によって、オクジュ(チェ・ジョンウン)は祖父ヨンムク(キム・サンドン)の家に引っ越した。しばらくして離婚寸前の叔母ミジョン(パク・ヒョニョン)も住み始めた。こうして父ビョンギ(ヤン・フンジュ)、弟ドンジュ(パク・スンジュン)を加え5人の生活が始まった。
 10代の少女の眼を通した、ひと夏の家族物語である。祖父は認知症が進み始め、施設に入れる話が持ち上がる。今住んでいる家をどうするか、ビョンギとミジョンが話し合うが、容易に答えは出ない。いっそ売却してカネを分けようか。そのうち祖父は入院先の病院で亡くなってしまう。オクジュは悲しみの淵に沈む。
 複雑な人間関係の妙が繊細に描かれる。韓国映画にありがちなけれん味はない。淡々とだが正攻法で家族の日常を描いていく。この手法、誰かに似ていると思い心当たりを探ったが、是枝裕和や小津安二郎あたりだろうか。少女の成長物語といってしまえない苦さも備えている。
 2019年、韓国。新鋭ユン・ダンビ監督の次作に期待したい。


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アンチ・ロマンの映像~映画「水を抱く女」 [映画時評]

アンチ・ロマンの映像~映画「水を抱く女」


 観おわって「うーむ」とうなった。恋愛もののようであり、ホラーのようであり。何より、モチーフはギリシャ神話に端を発する。日本でいえば悲恋の怪談めいたつくり、といえばいいだろうか。
 原題は「Undine」。「オンディーヌ」で流通している水の精の物語を下敷きにしたことをうかがわせる。映画では、主役の女性がUndineを名乗る。
 ウンディーヌ(パウラ・ベーア)はベルリン史の研究者である。ベルリン市住宅都市開発省の資料館でガイドをして生計を立てている。彼女にはヨハネス(ヤコブ・マッチエンツ)という恋人がいた。映画の冒頭、カフェの野外席に座る二人の間に気まずい雰囲気が漂う。男が別れ話を切り出したのだ。「わたしを捨てたら、殺すわよ」とウンディーヌは答えた。単なる脅し文句ではなかった…。
 「Undine」はもともと水に住み、男に愛された時だけ人間としての魂を得る。裏切られた時は相手を殺し水の世界に戻らなければならない、という。
 入れ替わるように、ウンディーヌの前に一人の男が現れた。潜水士のクリストフ(フランツ・ロゴフスキ)で、二人は潜水を楽しむようになった。しかし、ウンディーヌにはためらいがあった。
 潜水作業中のクリストフを事故が襲った。機器の故障で12分間の酸欠に陥り、脳死状態になったのだ。そのころ、ウンディーヌは、裏切った男の自宅プールで殺害を決行する。
 ウンディーヌが人間の魂を失ったと同時に、クリストフは奇跡的に脳死状態から脱する。こうしてウンディーヌは湖の底に戻っていく…。
 文字にすればファンタジックな印象が漂うが、映画自体はホラーやミステリーの味わいが濃い。そこにバッハのピアノ曲がかぶさる。濃密である。主人公のキャラクターもインテリに仕立てられ、硬質である。つまり、ファンタジーとは対極にある。
 監督は「東ベルリンから来た女」のクリスティアン・ペッツォルト。精密画を描くような手腕は健在だ。ヤコブ・マッチエンツは「ある画家の数奇な運命」、フランツ・ロゴフスキは「希望の灯り」で知られる。実力派が組んだアンチ・ロマンの映像。好みが分かれる作品かもしれない。
 2020年、ドイツ、フランス合作。


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悠久と猥雑~映画「春江水暖」 [映画時評]

悠久と猥雑~映画「春江水暖」


 一言でいえば、映画らしい映画である。そして、スクリーンには二つの時間が流れている。一つは、中国の自然のなか、大河のようなゆったりとした時間。もう一つは、古い町並みに再開発の波が押し寄せるなか、民衆の暮らしが醸し出す温かみを帯びた時間である。

 中国・杭州市。富春江の河べりにある富陽(フーヤン)。顧(グー)家の老いた母ユーフォン(ドゥー・フォンジュン)の誕生日会が開かれた。彼女には4人の兄弟がいた。長男ヨウフー(チェン・ヨウファー)は黄金大飯店を経営する。誕生日会もここで開いた。次男ヨウルー(ジャン・レンリアン)は漁師。長男の店に魚を卸すが、代金をもらえず困っている。三男ヨウジン(スン・ジャンジエン)は離婚後、ダウン症の子を育てている。ばくちに手を出し金策に困って、ついにいかさまばくちに手を出す。危うい生活を送っている。四男ヨウホン(スン・ジャンウェイ)は気ままな独身暮らし。長男には娘グーシー(ポン・ルーチー)がいた。教師をしているジャン(ジュアン・イー)という恋人がおり結婚を考えるが、親は乗り気でない。

 そんな三代の大家族の物語が、長回しによる山水画のような風景を借景に繰り広げられる。一方で富春江の河べりでは、高層ビルの建築が進む。
 ストーリーの細かい展開をこれ以上追っても意味はないだろう。時間の対比と風景の対比の妙。悠久と猥雑。退屈なようでいて人間味のある田舎町が、再開発によって「一律」を押し付けられていく。日本の地方にもありそうな光景である。三部作の初編という。次作が楽しみだ。
 2019年、中国。監督・脚本は、富陽を故郷とするグー・シャオガン。33歳の若さである。


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時代の転換点に何が必要か~濫読日記 [濫読日記]

時代の転換点に何が必要か~濫読日記


「主権者のいない国」(白井聡著)

 「カネと政治」が問われた2021年4月25日投開票の参院広島選挙区再選挙の投票率は33.61%で、問題の発端となった2019年を下回った。大規模買収への怒り爆発どころか、3人に1人しか投票所に足を向けなかった。腐敗しきった政治と、政治に関心を失った主権者。この国はどこへ行くのか。そうした怒りと憂国の情にあふれた著作が白井聡の「主権者のいない国」である。

 白井には、戦後史に大胆な視座を与えた「永続敗戦論」と、そこから戦後史の意味をとらえ直した「国体論 菊と星条旗」がある。前者は、アジア・太平洋戦争での敗戦を否認することで日本の戦後はスタートしたとし、後者はそうした戦後日本が戦前の天皇に代わり国体としたのが「米国=ワシントン」であったとする。「主権者…」は、二つの著作を受け、敗戦否認と米国追随がどこまで現代日本を腐敗させ、空洞化させてきたかをえぐった。

 コロナ禍で日本が迷走している。原因はどこにあるのか。2011年に福島第一原発事故を経験。あらわになったのは「原子力ムラ」という無責任体制であった。10年後、同じ光景が再現された。1年たっても満足に行われないPCR検査。背後にあるのは利権と無責任にまみれた「ムラ」の構造であろう。白井もこのことの指摘から始める。
 あぶりだされるのは、安倍・菅政権の無能と統治システムの崩壊である(官邸官僚の専横はそれを象徴する)。しかし、ここは一方的な政権批判で終わってはならない。政権を生み出したのは有権者自身だからだ。安倍・菅政権は国民の自画像でもあると白井はいう。

 では、国民は今どんな位置にいるのか。白井は重要な指摘を行っている。「社会の喪失」である。新自由主義の進展は、人々から「社会」を奪い去った、という。これには世代間格差がみられる。若い層ほど「社会の喪失」に無自覚である(受け入れている)。これには思い当たるフシがあり、少し脱線する。

 若者に受けた映画「君の名は。」や「風立ちぬ」を見て、ある種の苛立ちを覚えた。極私的関係はあっても公共空間への広がりがない。「君の名は。」は男女二人の出会いと別れにSFとオカルトを合わせたようなストーリーが絡む。「風立ちぬ」はゼロ戦の設計技師のラブストーリー。ゼロ戦の兵器としての側面や戦場は出てこない。だからプラモデルの愛好家のような堀越二郎が描かれる。なぜこんな物語が受けるのか不思議だったが、少し分かった気がした。ここには「社会」が存在しない。しかし、若者はそんな映画に喝采を送る。

 白井は、そんな没社会的空間を「セカイ系」という若者言葉で表現する。極私的空間からいきなり宇宙に到達する感覚であろう。手に入れられるものは万能感である。普通の人間は社会に出て自己の卑小さと無力さを思い知り、適度な居場所を見つける(人間的成熟)が、「セカイ系」にはそれがない。
 しかし、若者だけではなかった。都合の悪い報道には圧力をかける。「敵対意見の否認」である。安倍政権で見られた光景だった。実行者は総務相から官房長官になった菅だった。

 昭和から平成というタイミングをにらみ、白井は三つの「終わり」を挙げる。①昭和②東西冷戦③戦後日本の経済成長―の終わりである。「昭和」と「冷戦」は、良くも悪しくも日本の歴史に陰と陽、尾根と谷筋をもたらした。したがってこの後は陰と陽のない、のっぺりとした時代になった。さらに「経済成長の終わり」は、日本国民が持っていたナショナルアイデンティティーの喪失につながった。こうして「平成」は漂流と喪失の時代になった。「永続敗戦レジーム」が揺らぐ。「菊と星条旗」と隠喩した「戦後国体」も、冷戦終結とともに意味を失った。こうした転換に安倍・菅体制は対応できないでいる。

 戦後体制(米軍駐留・安保・民主主義の共存)は朝鮮戦争を踏まえて出来上がった、という白井の指摘は当たっている。冷戦終結から30年、朝鮮戦争は終わらせるべきなのだ。そこから新しいアジアと日本の構図が出来上がる。しかし、戦後の国体の指導者はそんな意識のかけらもない。ひたすら戦後レジームの延命を図る。

 アジア・太平洋戦争で国家は何をしたか。それを考えると、日本人の政治不信は理解できなくもない。しかし、歴史は明らかに転換点にある。「敗戦否認」と「米国=国体論」を乗り越えて新局面に進むには何が必要か。主権者たろうとする気概と精神態度ではないかと、白井は締めくくる。
 レーニン研究から出発した著者の、刺激的な一冊。
 講談社、1700円(税別)。

主権者のいない国


主権者のいない国

  • 作者: 白井聡
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2021/03/29
  • メディア: Kindle版




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