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「見る」行為が生むアイロニー~映画「天国にちがいない」 [映画時評]

「見る」行為が生むアイロニー~映画「天国にちがいない」


 パレスチナのチャップリンと呼ばれるスレイマンの監督・主演作。私小説的に自らの日常を映像化したと思えるが、映像はそれぞれ完結しており内容はシュールである。現代のゴダールと呼んでもいいのかもしれない。

 ナザレに住むスレイマン。隣人が庭に入り込み、レモンをとっているのを目撃すると、隣人は途端に言い訳を始める。レストランでは料理にいちゃもんをつけ、ちゃっかり酒代をただにする客を隣で見ている。そんな日常を離れて、自作映画の企画を売り込む旅に出る。
 パリの街頭。女性たちが華やかに着飾ってかっ歩する。レストランのオープンテラスで見ているスレイマン。そこへテラスの寸法が規定通りか、調査する検査員。数人の男たちがメジャーで測って立ち去っていく。コミュニケーションはなく、スレイマンは不在者のようにただ座って見ている。
 どのシーンでも、スレイマンはただ「見る人」である。ときおり、不安で刺激的なシーンが挟まれる。轟音を立てて街頭を走る戦車。地下鉄で居合わせた、なぜかすごむタトゥーの男。突如「ブリジッドさんではないですか」とぎこちなく話しかける日本人の男女。なにげない風景の中に不安感が漂う。
 ニューヨーク。「パレスチナから来た」と聞いて、なぜか興奮するタクシー運転手。セントラルパークでは、白い羽のコスチュームの少女を包囲する警察官。軽機関銃を肩にぶら下げた市民…。
 映画の企画案はどうなったかというと「パレスチナ色が弱い」と却下されてしまう。
 スレイマンはパリを、ニューヨークを、じっと見ている。コミュニケーションはなく、したがって明確な意味は付与されない。パレスチナにはないものがこの都会にはあるにちがいない、という思いで見ている。しかし、どうもそんなことはないようだ。人々は喧騒と不安の中にいる。ここは天国にちがいないと思ったのに。
 見るという行為が必然的にアイロニーを漂わせる。それが映像の強さを生む。そんな作品である。
 2021年、フランス・カタール・ドイツ・カナダ・トルコ・パレスチナ合作。


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置き去りの世界史に光~濫読日記 [濫読日記]

置き去りの世界史に光~濫読日記


「ポスト社会主義の政治 ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制」(松里公孝著)

 1990年、崩壊直前のソ連は大統領制を導入、ゴルバチョフが選出された。これによってソ連の最高権力者は書記長から大統領に移行した。当時は国家末期のレームダックと受け止め、それ以上の意味は考えなかった。

 「ポスト社会主義の政治」はソ連崩壊後、旧社会主義圏(いわゆる東側国)がどのような政体変化を起こしたかを見た。すべてを網羅できないので、典型的と思われる標題の五つの国が取り上げられた。それらの国を貫く概念は「準大統領制」である。聞きなれないが、公選による大統領と議会の過半数が支持する首相が同居する。
 あらためて興味深かったのは、なぜこの制度を社会主義を経た国々がこぞって採用したか、であった。
 一党独裁の社会主義国では、党書記長(総書記、第一書記など呼称はいろいろ)が最高権力者となり、最高会議(ソヴィエト)と向き合う。この体制が崩壊し複数政党制に移ると党書記長は権威を失った。ゴルバチョフはそのとき大統領制をとった。旧来の体制と権力配分が似通っており、移行が比較的容易だったためだ。この決断は他の社会主義国にも伝播、大統領と議会選出の行政執行責任者=首相が共存する制度が選択された。旧社会主義国に準大統領制が生まれた背景である【注】。
 この制度には弱点があった。公選の結果生まれた大統領と、公選で議席配分が決まった議会に選ばれた首相。権力者が並び立つ。首相は大統領の部下になるか、それとも双頭体制になるか。分析には制度論にとどまらず人物論、地政学にまで立ち入る必要がある。
 ソ連崩壊後、漂流し迷走する各国の政情を丹念に追ったのが、この書である。

 各国の憲法を分析したうえで政体を五つに分類。①首相を置かない大統領制②大統領が首相を任命する高度大統領制化準大統領制③大統領が首相を任命するが議会の承認が必要な大統領議会制④議会多数派が指名した首相を大統領が任命する首相大統領制⑤大統領、首相とも議会が選出する議会大統領制。③と④の別が分かりにくいが要は、首相は大統領、議会どちらが決めるか、である。
 そのうえで政党の消長をみると、複数政党制に移行した直後は共産党の流れをくむ勢力と民族派(右派)が対峙。やがてイデオロギーから経済政策へと行政の比重が移り、リベラル政党と富の再配分に重きを置いたポピュリスト政党の対峙に変化する傾向が見て取れる。このことが最もよくわかるのがポーランドである。当初は「左派」が優勢だったが、やがて「連帯」の後継が伸長する。「連帯」はカトリック団体の支持を得て富の再配分を訴えた。2000年に入ると「リベラル」を主張する「市民プラットフォーム」が第一党に。
 こうした世論の変化の中で、大統領を強くするか首相を強くするかは、どの国でも難問だったようだ。分岐点は、穏健多党制か二大政党制か、だった。多党制なら連立工作に大統領が手腕を発揮できたが、二大政党制だと大統領が影響力を発揮する場がなかった。それが首相任命権に影響した。前者がリトアニア、後者がポーランドだった。
 政党政治の未成熟もあり、当初は大統領の強権に頼らざるを得なかった政治体制も、各国とも最終的に抑制のきいた首相大統領制に行きつく。首相に実務者を置き、大統領にはポピュリスト的カタルシスに国民を向かわせるキャラクター(例えば俳優など)という取り合わせが上策、とされたようだ。
 ただ、こうした準大統領制が、これらの国々のゴール地点とも思えない。これからどう変化を見せるのか。
 ポーランドやウクライナを除けば、国の動きがニュースとして目に触れる機会の少ない国々(ポーランドやウクライナも、地政学的な観点でのニュースが多いのだが)。世界史の置き去りにされた部分に光を当てた好著といえる。ただ、未知の人名が多く読みこなすのは困難だった。
 ちくま新書、1100円(税別)。

【注】ロシアは共和国単位の党組織を持たなかった(ロシアのトップはソ連邦のトップになる=非対称的連邦制)ため、他の共和国と多少事情が違う。大統領と議会の関係は一時、極度に悪化した。このことも、準大統領制でなく大統領制を選択した背景にあると思われる。





 


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緊迫感溢れる密室劇~映画「KCIA 南山の部長たち」 [映画時評]

緊迫感溢れる密室劇~映画「KCIA 南山の部長たち」

 今も記憶に残る。19791026日、韓国の朴正熙大統領がソウル市内で暗殺された。翌朝、戒厳令が敷かれ街頭を戦車が埋めた。実行者はKCIA部長の金載圭。大統領の最側近といわれた人物だった。動機は今も不明である。
 事件に至るまでの40日間を再現したのが、この作品である。ノンフィクション「実録KCIA―『南山と呼ばれた男たち』」がベースになっている。映画では大統領以外は仮名で、冒頭部分でフィクションと断ってある。したがって、内容をそのまま事実と認定するのは危険であろう。描かれたのは、1961年のクーデター以来、絶対権力者であった人物と側近の権力闘争の構図で、ほぼ密室劇である。事件関係者は、死刑となった金載圭を含め生存者はいない。真相は闇の中である。

 亡命したKCIAの元部長パク・ヨンガク(クアク・ドウォン)が米下院で、韓国大統領の腐敗ぶりを証言した。執筆中の回想録でも明るみに出すという。朴大統領(パク・チョンヒ=イ・ソンミン)はそれを聞き激怒した。側近であるクァク・サンチョン警護室長(イ・ヒジュン)はKCIAのキム・ギュピョン部長(イ・ビョンホン)を激しく追及した。追いつめられたキム部長はパク元部長暗殺に動く。
 釜山で学生や市民の暴動が起きていた。クァク警護室長は軍事力で弾圧する強硬路線を主張、平和裏に解決を求めるキム部長と対立した。大統領は、キム部長の弱腰を批判。崖っぷちに立たされた思いのキム部長は、大統領と側近だけで行われた会合に臨み、大統領に銃口を向けた…。
 映画では、民主化勢力への対応をめぐる路線対立が原因のように描かれているが、真相はやはり闇のままである。事件後、金載圭部長は陸軍に逮捕され死刑判決を受けたが、事件処理を行った全斗煥国軍保安司令官は翌年の光州事件に強行策をとった後、大統領に就任した。民主化勢力にとっての夜明けは遠のいた。

 政界は嫉妬の海という。ノンフィクション作家の塩田潮によると、この言葉を残したのは1995年、自民党総裁選で橋本龍太郎に敗れた小泉純一郎【注】。韓国でつくられたこの映画でも、描かれたのは権力者を中心にした「嫉妬の海」であったのかもしれない。それにしても、韓国映画はこうした緊迫感溢れるドキュメンタリータッチの作品を作るのが実にうまい。
 2020年、韓国。

【注】「欲望と嫉妬の海 日本政治・8人の権力闘争」(2000年、学陽書房)から。


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米国式の大団円で終わる英雄物語~映画「ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実」 [映画時評]

米国式の大団円で終わる英雄物語~
映画「ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実」


 ベトナム戦争が最も激しかったころ、窮地の米軍兵士を救うため命を落とした空軍医療兵がいた。助けられた兵士たちは名誉勲章授与を求めたが、なぜか却下された。30年以上たって一人の空軍省の官僚が調査に乗り出した。そこには軍上層部の作戦の失敗があり、勲章授与が拒否されたのは、失敗を闇に葬るためだった…。

 1966年4月11日、ベトナムのアビリーン作戦の戦場は地獄と化した。包囲された米兵にベトコンが総攻撃を仕掛けてきたのだ。空軍ヘリが負傷者救出に向かったが、密林のため着陸できない。単身、地上に降り立ったのは落下傘救助隊のピッツェンバーガー(ジェレミー・アーバイン)だった。彼によってヘリにつり上げられ命を取り留めた兵士は数十人にのぼった。
 空軍省官僚のハフマン(セバスチャン・スタン)は、ピッツェンバーガーになぜ名誉勲章を授与されなかったか調査を指示され、渋々関係者の証言集めを始めた。
 ピッツェンバーガーの父(クリストファー・プラマー)や、帰還後に精神を病んだジミー・バー(ピーター・フォンダ)ら助けられた兵士の話を聞くうち、真相が分かってきた。勲章の推薦状が紛失していることも謎だった。ハフマンは、推薦状を書いたケッパー元軍曹がベトナムにいると知り、彼を訪れた。ケッパーが案内したのは蝶の飼育小屋だった。「ここが、ピッツェンバーガーが下りた場所。彼は天使に見えた」と語った。
 ハフマンはついに、アビリーン作戦の立案者も突き止めた。ホルト上院議員(デイル・ダイ)だった。彼を直撃した結果、真相が明らかになった。第一歩兵師団C中隊を敵地に突っ込ませ、ベトコンが攻撃を始めたらAB中隊が挟撃するという「おとり作戦」だった。しかし、ベトコンの予想を上回る攻撃にC中隊は混乱を極めた。援護の砲撃を要請したが、射程距離を誤り味方を誤射する事態も招いた。作戦の失敗を引きずるホルトは議会に勲章授与を認めるよう求めたが、門前払いにあった。
 ハフマンはついに真実の公表に踏み切った。メディアで報道され大統領が動き、ピッツェンバーガーの両親に「栄誉勲章」は贈られた…。

 ざっとこんな話だが、ベトナム戦争当時の米国の理不尽さを多少とも記憶する人間には腑に落ちないことが多い。「大義なき戦争」といわれたことは、今やどうでもいいのか。ハフマンの眼を通して証言者たちの「帰還後」がさりげなく描かれてはいるが、戦死した兵士は多くのベトナム人を「殺害」した果ての「犬死」であることに変わりない。一方で、権力者たちの保身をはねのけて真実を明らかにするハフマンの行動は一見美談に見えるが、勲章一つで名誉が回復するわけでもないだろう。戦争の意味を問い直すことなしに、英雄的な行動をした空軍兵士と、地上戦を戦った兵士たちで形成された「愛国」精神がそのまま大団円でラストシーンとして映像化される。これぞアメリカといえばアメリカだが…。「プラトーン」や「地獄の黙示録」に比べても、何かが足りない気がする。

 2019年、米国。


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法廷サスペンスとしては迫真力~映画「私は確信する」 [映画時評]

法廷サスペンスとしては迫真力~映画「私は確信する」


 2000年のある日、フランスのトゥールーズで妻が忽然と姿を消した。残された大学教授の夫に殺人の嫌疑がかけられた。決定的な証拠はないまま起訴、一審無罪。検察はただちに控訴した。映画は、二審の冒頭から始まる。
 夫は法律の専門家。ヒッチコックのような完全犯罪は可能が持論で、世間は「ヒッチコック式完全犯罪か」とセンセーショナルにとらえた。しかし、裏付けの乏しい法廷論争は不毛のまま判決を迎えた…。
 実際の事件をベースにした。妻の死も確定しないままでの起訴。日本では通常ありえないが、事件があったフランスでは起こりうる事態なのだろうか。

 失踪した女性はスザンヌ・ヴィギエ。夫はジャック(ローラン・リュカ)。ヴィギエ事件と呼ばれた。夫婦には3人の子がいた。子供たちを支援していたノラ(マリーナ・フォイス)はジャックの無実を信じて、敏腕弁護士として知られたエリック・デュポン=モレッティ(オリヴィエ・グルメ)に弁護を依頼した。「なぜ本人が来ないのか」といぶかるデュポンだったが、失踪から10年、世間の好奇の眼にさらされたジャックは重度のうつ病にかかっていた。ノラがまとめた一審経過に目を通したデュポンは弁護を引き受けた。彼がそこで出したのは、250時間におよぶ関係者の通話を録音したCDだった。ノラに要点をまとめるよう、注文を付けた。
 録音の解析から、一人の男が有力な容疑者として浮上した。スザンヌの不倫相手デュランデ(フィリップ・ウシャン)だった。失踪直前まで行動を共にしていた彼は、スザンヌを殺害したのはジャックだと知人に電話をかけまくっていたのだ。
 しかし、そこから先、有力な証拠はなく結審に至った。ノラはあきらめず、関係者の証言を求めて奔走。スザンヌとデュランデがナイトクラブを開きたがっていた、との情報をつかみ、これが事件に影響しているのでは、とデュポンに伝えようとしたが、深夜の来客をデュポンはすげなく追い払った…。
 結局、失踪から10年、真相は闇の中だった。

 日本では、検察は起訴に慎重で(逆に言えば有罪率の高さにつながるということでもあるが)、この程度の材料で起訴せず、ただの失踪事件で終わるだろうというのが率直な感想だった。日本とフランスの世相・風土の違いを垣間見た思いだった。ただ、法廷サスペンスとしてはなかなかの迫真力である。デュポンの癖のある役柄もいい味付けになっている。
 2018年、フランス、ベルギー合作。


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3.11の敗戦処理が問われる~濫読日記 [濫読日記]

.11の敗戦処理が問われる~濫読日記

「原子力の精神史―<>と日本の現在地」(山本昭宏著)

 山本昭宏著「戦後民主主義」を紹介した際、いくつか注文を付けた。うち一つは水俣病(に代表される公害病)と戦後民主主義の関係をどうとらえるか、であった。もう一つは、「苦海浄土」を書いた石牟礼道子と交友があった谷川雁の「原点」と戦後民主主義の位置関係であった。前者は、戦後民主主義が標榜した「平等思想」への言及であり、後者は戦後民主主義が持つ一国平和主義に対する批判的視点としてのアジア主義への言及であった。
 前者は、同じ著者によるこの「原子力の精神史」で、部分的にだがカバーされた。
 「核時代」への批判的視点への導入部として取り上げた「開発主義と構造的差別」の章。端的に言うと「ミナマタはフクシマに通じている」ということである。著者は「国益」と不即不離の関係にある開発主義が、一方で犠牲を生む構造を固定化すると指摘する。高橋哲哉がいう「犠牲のシステム」である。
 「戦後民主主義」が戦後体制の表側を、「原子力の精神史」が裏側を、それぞれ見ているといえるかもしれない。ただ、今回の著作は「原子力」をテーマとしており、当然ながら「一国平和主義(への批判的視点としてのアジア主義)」に言及はなく、扱ったフィールドに制限があることは否めない。ただ、戦後体制をとらえるために、この2冊を表裏一体として読めば有益であろう。

 さて、本題に移る。
 「原子力の精神史」が取り上げたのは、日本人の核意識の現在地と、そこに至る道のりである。「核意識の現在地」というのは簡単だが、言い当てるのはむつかしい。たとえば「核」を二つの概念でみる。軍事利用と平和利用。そんな分け方が可能かとする議論は、いったん横に置いて考える。それぞれ世論調査で評価を聞いたとしよう。「軍事」には否定的意見が多数だろう。そこで、兵器としての核をなくせばいいかというと留保がつく。平和利用も同様である。否定論が多数になる。では、原発ゼロにすればいいかというと留保がつく。
 なぜそうなったのか。
 著者はまず「核時代」を批判的に考察するための六つの視点を提示する。ここでは詳述しないが、重要と思われるものを紹介する(「開発主義と構造的差別」は既に取り上げた)。
 民主主義と管理社会にどう影響するか。「核」は必然的に専門家支配と官僚支配を生む。いわゆる「原子力ムラ」である。民主主義社会とは相いれない。広島のジャーナリスト金井利博は、この構造を「核権力」と、ロベルト・ユンクは「原子力帝国」と呼んだ。
 ユニークと思われるのは、反核意識の成り立ちにジェンダー論を絡ませた点。原水爆禁止運動の始まりである杉並区の署名運動は女性が担ったし、その後の反核運動も「いのち」への感受性という視点が重要であった。原爆開発は男性的で、「命を守れ」という女性的視点が対峙しているのは、たしかに見てとれる。
 こうした考察を経て、被爆国日本が原発大国に至る道筋をたどり、さらに福島第一原発事故を体験した日本がどう変わったかを探った。しかし、この部分は著者も書くように消化しきれていない。著者の言葉を使えば、この10年間は「歴史化」しているとはいいがたく、原発の事故処理作業が現在進行形であることも大きい。
 そのうえでいえば「3.11」以後、日本での脱原発の動きが加速したとは思えない。日米原子力協定を含めた「体制」が確固として揺らがない点が大きい。そのことを著者は、193040年代の戦争とのアナロジーという観点で理解しようとする。かつて満洲建国を推し進めた国策体制(無責任体制)が、原発建設推進にも見られる、ということだ。ここで例示された経済史家・安富歩の論は示唆に富む。かつて満蒙開拓団が味わった苦難は原発立地自治体の住民の姿に重なる、という。ともに国策が産み出した負の側面が集約的に表れているのではないか。安富はそう指摘する。だとすれば「戦後処理」はどうするのか。かつての敗戦時と同じでいいのか。それが本書の最終的な問いであるように思える。
 集英社新書、820円(税別)。

原子力の精神史 ――〈核〉と日本の現在地 (集英社新書)

原子力の精神史 ――〈核〉と日本の現在地 (集英社新書)

  • 作者: 山本 昭宏
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2021/02/17
  • メディア: 新書

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さすらう高齢者たち~映画「ノマドランド」 [映画時評]

さすらう高齢者たち~映画「ノマドランド」


 ノマドとはフランス語で「遊牧民」。これが英語に転用された。フランスの思想家ジャック・アタリは「21世紀の歴史」で「ノマド」こそ近未来のキータームだとした。市場主義経済と企業のグローバル化で国家は意味をなさなくなり、一部の有能なクリエーター(作家、デザイナー、企業戦略家など)は世界規模のステージで活動、「超ノマド」と呼ばれる。一方で「下層ノマド」も生まれる。グローバル経済が作り出した「超帝国」は多くの貧困層を生み出し、しかも彼らを経済支援するすべを持たない。

 ネバダ州エンパイアは砂漠の中の企業城下町だった。リーマンショックによる金融危機で企業が倒産。町は郵便番号もなくなる事態に。ファーン(フランシス・マクドーマンド)は住む家とともに夫を病で亡くし、途方に暮れた。やがて家財道具を引き払い、キャンピングカーを購入して全米放浪の旅に出た。生活費は年金と、アマゾンなどでのアルバイトで捻出した。
 同じような旅をする仲間とも出会い、そこそこ楽しい毎日だった。作家でユーチューバーのカリスマ的ノマド、ボブ・ウェルズ(ボブ)の集会に参加。末期がんに苦しみながらも旅をやめないスワンキー(スワンキー)、自らを父親失格と思い旅に出たが、家族のもとに帰るべきか迷うデイビッド(デヴィッド・ストラザーン)…。
 しかし、こんな旅がいつまで続けられるのか、不安はいつも胸をよぎった。そんな折り、車が故障。修理費がないファーンは妹に頼らざるを得なかった。快くカネを貸してくれた妹は「なぜ家族といないのか」と疑問をぶつけるが、ファーンは再び旅立ち、デイビッドが帰りついた家庭を訪れた。歓待されたが、落ち着かない思いでファーンは深夜、ベッドを出て車に向かい再び旅に出た…。

 この映画の「ノマド」は、アタリが描いた「超ノマド」とも「下層ノマド」とも違う。米国的フロンティア精神に突き動かされた中間層の流浪の旅である。ボブの集会や、ファーンと妹との対話でも旅は最終的に肯定される。ただ、経済環境の変化が生活基盤を奪い去ったという意味では、下層ノマドに通じる。旅をするのは高齢者ばかりで、みんな喪失感を抱える。そんな中で自由と誇りを求めるファーンの生き方はただの意固地か、それともありか。
 キャンピングカーで一人日本一周したい、なんて夢は夢だけどね…。
 2020年、米国。


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