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稀有な旅人の魂を描く~濫読日記 [濫読日記]

有な旅人の魂を描く~濫読日記


「天路の旅人」(沢木耕太郎著)

 中国の最奥地、チベット(西蔵)をアジア・太平洋戦争の最中に放浪した日本人がいた。当初は軍の「密偵」として。戦争が終わっても旅は続き、8年という長さになった。旅程は6000㌔とも。訪れた地は内モンゴルを出発点としてチベット、インド、ネパール。標高40005000㍍のヒマラ峠越えは9回に及んだという(本人は「7回」としたが、沢木は記録を精読した結果「9回」と結論付けた)。
 西川一三。身長は180㌢と、当時としては大柄だった。放浪を終えて帰国後、大部の著書「秘境西域八年の潜行」を出版(当初は単行本、後に文庫化。文庫仕様で約2000㌻。生原稿段階では3000㌻以上あったという)。その後は一時期を除いて化粧品店の店主として暮らした。稀有な体験の中でモンゴル語、チベット語、ネパール語、インド語(ヒンディー語)を学んだが、それらを知識として生かす道を選ばなかった。
 西川は当初、軍の特務機関の任務を帯びて内モンゴルからチベットに向かった。しかし、戦後も放浪をやめなかった胸中には何があったのだろう。帰国後も「旅」へのあこがれは口にしたが、モンゴル・チベット再訪を口にすることはなかった。そのことと、市井の一店主としてひっそりとした日常を送った戦後の人生とはどうつながるのだろうか。
 そしてなにより、分厚い放浪記を残した西川を取材し、その旅をノンフィクションとして書き残すことの意味は何だろう。沢木自身もこの問いを繰り返し自らに問いながら取材と執筆をした。その結果がこの「天路の旅人」である。沢木はこの問いの答えとして「あとがき」にこう書いている。

 ――私が描きたいのは、西川一三の旅そのものではなく、その旅をした西川一三という稀有な旅人なのだ。
 ――私は、この「天路の旅人」が、「秘境西域八年の潜行」という深い森を歩くための磁石のような、あるいは広大な海を航海するための海図のようなものになってくれれば、と願いつつ書き進めていたような気がする。

 「旅」よりも「旅人」を描こうとしていた。

 西川は山口県の生まれ。長男でなかったため家業(農家)は継がず、満鉄に入社した。1941年に退社、興亜義塾という学校に入りなおした。当時の募集広告によれば、蒙古から新彊にかけての地域で国家に挺身する若者を養成する目的で学費は無料。ところが1年半の教育が終わるころ、漢人の若者とのトラブルに巻き込まれ、退塾処分となった。西川は北京経由で内モンゴルに向かい、8年の旅が始まった。ヒマラヤの峠を越え、インド亜大陸を横断し、パキスタンからアフガニスタンへの入国を試みるが、戦後インドやパキスタンが独立したあおりで一帯の治安は極度に悪化。西への旅を断念せざるを得なかった。
 これらは「線」として描かれた旅である。沢木が本当に描きたかったものは、ここではないように思う。

 例えばインドで。死体焼却場の下に洞窟があり、人骨が散乱する中で瞑想する。洞窟の下は絶壁である。はるかにヒマラヤの8000㍍峰カンチェンジュンガが見える。そこでの瞑想で、西川は何を見たのだろうか。
 例えばゴビに連なる砂漠。蛇のような黄河の流れと、かつて隆盛を誇った寧夏城の王たちの半球状の陵墓、地平線に落ちていく巨大な夕日。西川はここに何を見たのか。
 これらには、西川の旅の「行程」ではなく「情景」がある。生と死の世界は分かちがたく、夕日は悠久の時の流れの中で落ちていく。

 1年に及ぶ対話の中で、淡々と答えていた西川が一瞬の執着を見せたシーンが描かれていた。沢木が「深夜特急」での体験を話していたときのこと。「インド、パキスタン、アフガニスタン…」と通過国を挙げていくと「アフガニスタンに行ったんですか」と口をはさみ、どんな国だったか、と聞いてきたという。まだ行ったことのないアフガニスタンに行ってみたい…。そんな西川を見て、沢木は「驚かされた」と書いている。旅を過去のものとして財産にするのではなく、旅人の魂を持ち続ける西川の人生を、沢木は見ている。
 しかし、西川は2008年、89歳で亡くなった。アフガニスタンを見ることはなかった。
 新潮社、2400円(税別)。

天路の旅人天路の旅人


  • 作者: 沢木耕太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/10/27
  • メディア: Kindle版


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