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反目や憎悪、繊細に~映画「3つの鍵」 [映画時評]

反目や憎悪、繊細に~映画「3つの鍵」


 「隣の芝生は青い」という。ローマ市内の高級アパート。いくつかの世帯が住んでいる。一見裕福そうだが、それぞれに煩悶を抱える。ひとたびドアを開ければ、その事情が垣間見える。そんな映画である。邦題は「3つの鍵」だが、見終わってみれば出てくる家族は4つだと分かる。そこで原題を見るとイタリア語で「Tre Piani」、英語で「Tree Floors」、つまり「3階建て」。 3階建てアパートでの人生の悲喜劇を描いたことが分かる。意味としてはこちらが正確だろう。ただ、「鍵」というキーワードに魅力を感じた心情も理解できないわけではない。

 始まりは、ある交通事故。酔ったアンドレア(アレッサンドロ・スペルドゥティ)の車が暴走、女性を死なせたうえ、アパートに突っ込んだ。そのアパートの3階に住む両親、裁判官ヴィットリオと妻ドーラ(マルゲリータ・ブイ)は息子の後始末に困ったが、結局5年の刑に服することになる。1階にはルーチョ(リッカルド・スカルマルチョ)とサラ(エレナ・リエッティ)が住んでいた。仕事場を壊され、娘のフランチェスカを向かいの老夫婦に預けた。ところが夫のレナートは認知症が進み、ルーチョが娘を迎えに行くと二人は行方不明という。探し当てた公園で失禁し意識を失っていたレナートに、ルーチョは娘への性的ないたずらを疑った。2階ではモニカ(アルバ・ロルバケル)が出産寸前だったが、夫のジョルジュ(アドリアーノ・ジャンニ―ニ)は所在不明。出産を終え病院から帰ったモニカは育児不安にさいなまれながら、詐欺で手配されていた夫の兄が部屋に現れる妄想を見た…。

 3つのフロアに住む4つの家庭が、それぞれ悩みを抱えて暮らしている。相互に関わりを持っているようで持っていない、という微妙な関係。ストーリーとしてしっかりしているのは、1階と3階。1階では、レナートの孫娘シャルロット(デニーズ・タントゥッチ)がパリから帰省、かねて関心を持っていたルーチョを誘惑する。娘に告白された両親はルーチョを相手に訴訟を起こす。「性的衝動」をめぐる疑惑が2つの家庭を行きかう展開。3階では、不肖の息子が服役後、養蜂家として自立する姿を描く。アンドレアが反抗し続けたヴィットリオは、10年前に亡くなった。ドーラと息子の和解はなるのか…。

 反目や憎悪が繊細に描かれ、小津安二郎の流れを引く日本的な「家族」の物語をみるようだ。ところで、それぞれの家族の煩悶を描くことで、この映画は最終的に何を提示したかったのだろう。そこが見えてこないのが、やや残念。
 2021年、イタリア、フランス合作。監督ナン二・モレッティ。


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過去の自分が立ち現れるスリル~映画「宮松と山下」 [映画時評]

過去の自分が立ち現れるスリル
~映画「宮松と山下」


 アイデンティティーをめぐる問題作、というと「ある男」とかぶるが、「宮松と山下」もまたそうした作品である。「ある男」が小説的な手法であるのに対して「宮松と山下」はあくまでも映画的な手法でテーマに迫る。
 宮松(香川照之)はエキストラ俳優だった。時代劇では切られ、射られ、現代劇では撃たれて、宮松本人の弁によれば「1日4回殺されることも」。渡された台本通りの演技をこなす。しかし、画面ではほんの片隅に出るだけ。それでも生真面目に演じた。
 彼には過去の記憶がなかった。ある日、谷(尾美としのり)という男が訪ねてきた。「同僚だった」という。宮松は、12年前まで「山下」としてタクシーの運転手をしていたらしい。12歳下の妹・藍(中越典子)がいることも判明した。実家の大きな屋敷で藍と夫・健一郎(津田寛治)との共同生活が始まった。

 エキストラとして他人の人生の切れぎれを演じてきた宮松。彼にとって本当の人生とは。その脈絡の中で、印象的なセリフがいくつかある。もう一度、タクシー運転手に戻るのか、と問われ「タクシーの運転手は気楽でいい。自分で行き先を決めなくていいから」とつぶやく。あるいは、エキストラ俳優の傍らロープウェーの整備をしながら「この宙に浮いてる感じは嫌いじゃない」という。

 記憶喪失は外傷性ではなく心因性で、藍が絡むある事件が契機となっていた。「ショートホープを好んで吸っていた」という藍の言葉で吸ってみると、突然記憶の断片がよみがえった…。
 記憶のない過去の自分が突然立ち現れる、というのはスリリングであり、不条理である。現実と虚構の境目があいまいになっていく映像構成が、不気味さに拍車をかける。彼はかつての小市民的な生活に戻るのか、それとも他人の人生の断片を演じ続けるエキストラ生活を続けるのか。香川照之の怪演が光る。

 監督、脚本は佐藤雅彦、平瀬謙太朗、関友太郎でつくる集団「5月」。2022年製作。


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アイデンティティーとは何か~映画「ある男」 [映画時評]

アイデンティティーとは何か~映画「ある男」


 私たちにとって名前(戸籍)とは何だろうか。名前には、どれほどの実体が伴うのだろうか。それとも単なる記号なのだろうか。名前を名乗ることで、どれだけの存在証明がなされるのだろうか。そんなアイデンティティーの問題を追究したのが平野啓一郎の小説「ある男」である。この原作が映画化された。
 テキストと映像の二つに触れていつも思うが、それぞれ特性が違うため、同じ出来にはならない。総じていえばテキスト(小説)のほうが重厚だし、映像はエモーショナルではあるがその分、簡略化されてもいる。どちらが優れているかではなく、メディアとしての差異ということだろう。例えば原作では導入部で、たまたま「私」がバーで会った「城戸さん」から聞いた話、という形で本編にフレームがはめられる、というつくりになっているが、映画ではカットされているし、ストーリーの核心をなす戸籍交換の手順も、かなりの部分簡略化されている。

 宮崎県S市で文房具店を切り盛りする里枝(安藤サクラ)の夫「谷口大祐」(窪田正孝)は寡黙な男だった。ふらりとこの町にやってきて林業を覚えたが、伐採中に下敷きになり死んでしまった。1年後、大祐の兄・谷口恭一(眞島秀和)が線香をあげに来た。伊香保温泉の老舗旅館の跡取りだった。彼は仏壇の遺影を見て「弟ではない」と断言した。息子の悠人(坂元愛登)とともに「私は誰と生活していたのか」と悲嘆にくれた里枝は、初婚の時の離婚調停で世話になった弁護士・城戸章良(妻夫木聡)に調査を依頼した―。

 城戸の手によって戸籍交換の実態が明らかになる。本物の谷口大祐(仲野太賀)が、伊香保温泉の旅館の跡を継ぐことに抵抗、他人に成りすましたこと。戸籍交換の相手・原誠(一時曽根崎義彦、後に谷口大祐を名乗る)もまた、死刑囚の息子という人生の烙印に決着をつけるため、名前を変えたがっていたこと。戸籍ブローカーで詐欺師の服役中の小見浦憲男(柄本明)。城戸もまた、在日朝鮮人三世であること…。
 これらを結ぶ一貫したテーマは、アイデンティティーとは何か、である。人間の存在の根源にあるものは、名前や国籍によって揺らぐものではないのではないか。決して記号化されない何かから、愛や信頼は生まれるのではないか。このことを掘り下げるため、原作者は死刑制度の是非、関東大震災での朝鮮人虐殺、ヘイトスピーチと人種差別といった社会問題をちりばめた。しかし、残念ながらこれらは映画ではほとんど取り上げられていない。
 そのためか、映画はストーリーを追うことに手いっぱいになり、それぞれがどんな動機で行動に走ったのかが、ややあいまいになった感がある。言い換えれば、内面の厚みが物足りない。よくできた作品だけに、惜しい。
 2022年製作。監督は「蜜蜂と遠雷」の石川慶。


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ある男 (コルク)


ある男 (コルク)

  • 作者: 平野啓一郎
  • 出版社/メーカー: コルク
  • 発売日: 2021/09/01
  • メディア: Kindle版



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日常の危うさを繊細に描く~映画「LOVE LIFE」 [映画時評]

日常の危うさを繊細に描く~映画「LOVE LIFE


 かけがえのない日常が、ある日突然崩れていく。目の前に現れた亀裂には、悪意に満ちた過去が渦巻いている。そんな物語を、深田晃司監督は「よこがお」や「淵に立つ」で描いた。「LOVE LIFE」もまた家族の物語であるが、前二作とは明らかに何かが違っている。
 「さよならだけが人生だ」といったのは井伏鱒二だが、この作品は「すれ違いだけが人生だ」と言っているようだ。登場人物はそれぞれの思いを抱き、生きようともがいている。しかし、周囲はその思いを受け止めきれないでいる。すれ違いの中で、転がる石のように物語が展開する。

 妙子(木村文乃)は夫の二郎(永山絢斗)、息子の敬太(嶋田鉄太)とともにある団地で暮らしていた。二郎の両親も、同じ団地にいた。絵に描いたような、平穏な中流の暮らし。しかし、ある出来事を契機に妙子の過去がのぞく。
 二郎の父、つまり妙子の義父の誕生日を祝っていた。子連れ再婚の妙子に義父は引っ掛かりを持ちながらも、パーティーは盛り上がった。そのさなか、敬太が風呂場で水死した。「水を抜いておけばよかった」と悔やむ妙子。しかし、だれが責めるわけでもなかった。
 葬儀場に現れたのは、韓国人でろうあ者の前夫パク(砂田アトム)だった。妙子を殴りつけ、二人は号泣。誰がみても夫婦の所作で、二郎の胸中は複雑だった。
 一度は家を捨て、舞い戻ったパクは近くの公園でホームレスをしていた。国籍も違いろうあであることで不自由な生活を強いられていた。妙子は「放ってはおけない」と手を差し伸べた。博愛精神だったが、周囲はそうは取らなかった。感情のすれ違いが生じた。
 パクの元へ郵便物が届いた。韓国の父が危篤状態だという。帰国の旅費を妙子は出しただけでなく、韓国まで同行した。しかし、危篤は嘘で、パクの前妻の息子の結婚式という。どんちゃん騒ぎの中ひとり取り残され、呆然とする妙子。ここでも、思いはすれ違った。
 帰国した妙子を待っていたのは二郎だった。「散歩でもしようか」という二郎にうなずく妙子。すれ違いのない「日常」が得られた瞬間だった…。

 ホームレスをしていたパクになぜ郵便物が届くのか、とか小さな疑問はあるが、ごく普通の家庭の人間模様や心理は繊細に描かれている。イランのアスガー・ファルハディ監督作品を見るようだ。
 2022年、脚本も深田晃司。

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「食」をめぐる上品な作品~映画「土を喰らう十二ヵ月」 [映画時評]

「食」をめぐる上品な作品~映画「土を喰らう十二ヵ月」


 軽やかなジャズとともに、一台の車が山間へと向かう。北アルプスと思われる山並み(おそらく白馬三山あたり)を望む古民家風の山荘に、初老の作家が住んでいる。訪れるのは出版社の編集者である。

 水上勉「土を喰う日々―わが精進十二ヵ月」をアレンジした「土を喰らう十二ヵ月」。「土を喰らう」とは。軽井沢の別荘にこもって精進料理への思いをつづった水上の書にはこうある。
 ――何もない台所から絞り出すことが精進だといったが、これは、つまり(略)、畑と相談してからきめられるものだった。ぼくが、精進料理とは、土を喰うものだと思ったのはそのせいである。旬を喰うこととはつまり土を喰うことだろう。
 土と相談しながらつくるのが、すなわち精進料理だと言っている。水上は貧困のための口減らしとして京都の禅寺に小僧として出され、やがて東福寺管長の隠侍をしたという。簡単に言えば老師の世話係である。こうした体験の中で覚えた精進料理の知恵を披歴してほしいという出版社の求めに応じた歳時記風の随筆だった。

 作家ツトム(沢田研二)と編集者真知子(松たか子)は恋人関係だった。ツトムは13年前に亡くなった妻の遺骨を墓所に納め切れないでいた。一緒に住もうといわれた真知子は、いったんは了解したが、心筋梗塞で死線をさまよい「人間はしょせん一人」というツトムの言葉を聞き心境に変化が生じた…。
 精進料理のような作品かと思いきや、若干の艶っぽさがアクセントを添える。この辺りは料理と同じ、上品さの中のバランスを思わせる。四季の料理にツトムが腕を振るうシーンが楽しい。料理の監修は土井善晴。さりげなくシンプルな構成だが、人間ドラマの主要な要素が詰まっている。
 2022年、監督中江裕司。


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作家と妻と愛人の奇妙な関係~映画「あちらにいる鬼」 [映画時評]

作家と妻と愛人の奇妙な関係~映画「あちらにいる鬼」

 「全身小説家」【注1】と呼ばれた井上光晴の、虚構と現実入り混じる生活、そのうちの奔放な男女関係を描いた。瀬戸内晴美は20代で夫と娘を捨て出奔、二人の男の間を揺れ動いた。このときの心模様を描いたのが「夏の終り」(1963年)【注2】である。その後も一人の男と同棲を続けた。そのころ出会ったのが戦後派作家として頭角を現した井上だった。抜き差しならない関係に陥った井上には妻がいた=以下、映画のキャスト名で表記。

 白木篤郎(豊川悦司)は長内みはる(寺島しのぶ)の講演先を訪れ、男女の関係になった。みはる44歳、1966年のこと【注3】。ほかにも白木には女性関係が絶えなかった。それらを知りつつ、妻笙子(広末涼子)は諦念にも似た感情を抱いていた。娘が一人おり、近く出産の予定もあった。
 やがて白木は調布市内に土地を買い、家を建てることにした。このことが、二人の関係に転機をもたらした。みはるにとって家庭や夫婦関係はどうでもよく、ただの制約にすぎなかった。しかし、白木は、表面上はともかく、そこにこだわっている。みはるはそう見て取り、関係を断つため出家を決意した。1973年のことだった。
 白木夫婦は、剃髪したみはる(出家名寂光=実際は瀬戸内寂聴)を自宅に迎え入れた。3人の新たな関係が始まった。妻と元愛人が自宅で談笑するという、はたから見れば奇妙で不思議な関係だった。なお、原作にある井上の墓所は瀬戸内が心を砕いて岩手の寺に求め、妻もそこに入ったというエピソードは3人の関係をよく表している。笙子の浮気未遂のつまらない話より、こちらを盛り込むべきではなかったか。

 原作を書いたのは、井上の娘・荒野である。この小説は本ブログでも取り上げ【注4】、父母と愛人の三角関係を描くという、困難な作業に取り組んだ覚悟のほどに驚嘆した覚えがある。その覚悟は、水準の高い心理小説として結実した。中でも興味深いのは、愛人関係を続けた女性と「同志」的連帯感を持ち、夫に対しては憐憫と愛情の入り組んだ視線を投げかけた妻(原作・映画では笙子)の存在であろう。その点が鮮やかに描写されているかが、作品の評価につながると思われる。
 原作と映画を比較する愚はあまり犯したくないが、映画というメディアの特性上、ビジュアル面に比重がかかり、内面の描写がややおろそかになった感がある。
 2022年、監督廣木隆一。

【注1】「ゆきゆきて、神軍」の原一男監督が井上光晴を題材にしたドキュメンタリー(1994年)のタイトル。もともとは、自らの経歴も虚構化する井上を形容した埴谷雄高の言葉。埴谷は井上の葬儀委員長をした。
【注2】2013年9月17日の本ブログ「アンチ・モラルな女性像」
【注3】作中でも触れているが、井上と瀬戸内は誕生日が同じだった。井上は瀬戸内よりちょうど4歳下だった。
【注4】2019年7月23日の本ブログ「スリリングな心理小説」

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極私体験と歴史記憶を結ぶ細い糸~映画「パラレル・マザーズ」 [映画時評]

極私体験と歴史記憶を結ぶ細い糸
~映画「パラレル・マザーズ」


 同じ日、同じ病院で出産した二人が取り違え事件に遭遇、苦悩する姿を描く。一方でうち一人はスペイン内戦で不明となった曾祖父の行方を追い、ファランヘ党(スペインのファシスト党)による村人虐殺の真相を突き止めようとする。二つのエピソードをつなぐ糸は―。

 マドリードの写真家ジャニス(ペネロペ・クルス)は法人類学者アルトゥーロ(イスラエル・エルハルデ)の撮影を引き受けた縁で、内戦下の村で起きた虐殺事件の真相解明へ協力を頼んだ。アルトゥーロは快諾、男女の関係になったジャニスは妊娠。アルトゥーロには妻がいたため、シングルマザーになることを決意する。病院には10代のアナ(ミレナ・スミット)もいた。二人はほぼ同時に出産した。
 ある日訪れたアルトゥーロが、浅黒い肌を見て「自分の子じゃない」と言い切った。悩むジャニスはDNA鑑定をする。結果は「生物学上、親子関係は認められない」。考えられるのはアナの子との取り違えだった。たまたま訪れたアナから検体を入手、鑑定で「99.9999%の確率で親子」とされた。アナが引き取っていた子の現在を聞くと、突然死したという…。

 虐殺事件の真相追求のため、アルトゥーロを中心に発掘調査が本格化した。村人の証言通り多数の白骨が発見され、歴史的な記憶に新たな1㌻が加えられた。「声なき歴史などない」とのガレアーノ(ウルグアイ出身のジャーナリストのことだと思う)の言葉が画面に流れる。

 実を言えば、乳児取り違えという極私的体験とスペイン内戦の過酷な体験がどう結びつくのか興味深かったが、そのあたりはあいまいに終わった。「家族のかたち」がキーワードかもしれないが、結ぶ糸を読み解くには至らなかった。残念。わが子の取り違え事件では「そして父になる」(是枝裕和監督)が記憶に残るが、育ての親か血縁上の親かをめぐって葛藤する男の内面を丹念に描いたこの作品には及ぶべくもないようだ。
 2021年、スペイン・フランス合作。監督は女性を描くことで定評のあるペドロ・アルモドバル。


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