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ねじれた共同体意識が気になる~映画「朝が来る」 [映画時評]

ねじれた共同体意識が気になる
~映画「朝が来る」

 一人の子どもを介して、二人の女性が登場する。一人は「産みの母」で、もう一人は「育ての母」である。平行線の人生を送っていた二人はある日、交錯する。
 横浜に住む栗原清和(井浦新)と佐都子(永作博美)には子供がなかった。不妊治療も効果がなかった。そんな折り、テレビで里子里親制度のことを知る。二人はこの制度によって子供を育てることを決意する。広島の施設で、生まれたばかりの子と顔を合わせた。母親(蒔田彩珠)は中学生だった。「片倉ひかり」と名乗った。
 6年がたった。子供は朝斗と名付けられ、小学校入学を心待ちにしていた。そんな佐都子に、時折電話がかかってきた。いつも無言だった。やっとつながった相手はか細い声で「子供に会わせてください」という。「もしダメならお金を用意して」とも。会って話を聞くことにした。現れたのは、6年前の中学生とは似ても似つかない荒んだ少女だった。佐都子は、朝斗に会わせることを一度は拒絶した…。
 ざっとこんなストーリーであるが、気になったのは、二人の女性の心象風景である。どこかねじれてはいないか、あるいは「ねじれ」への批判的視点が欠けてはいないか。佐都子と夫は、子供に恵まれないことを奇妙なほどに気に病んでいる。世の中には子に恵まれない人も少なからずいるが、みんなが気に病んでいるわけではない。必要以上に世間の常識に縛られている、そんな気がする。一方のひかりは、もっと露骨に世間の常識という圧力に押しつぶされていく。中学生での妊娠という体験を、周囲から「してはならない失敗」とだけ受け止められている。相手の少年も、そうしたねじれた意識空間の中で離れていく。
 佐都子もひかりも、孤立の中でしか生きるすべを見出せない。何かもっと違う道筋があるのでは、という思いが去らなかった。作品の結論部分こそ、新たな命を産む行為の神聖さ、というところに落ち着くが、そうであるからこそなおさらである。
 全編で、例えば朝もやの風景、波打ち際の風景が挟まれているが、あの映像の必要性が今一つ理解できなかった。私にとってストーリーが醸し出すテーマは社会の同調圧力、もしくはねじれた共同体意識、としか感じられず、そのことへの批判的視点が薄いままでは自然が醸し出す安寧、悠久、優しさの空気が今一つしっくりと融け合うことがないように思えた。
 2020年、河瀨直美監督。原作は辻村深月。


朝が来るのコピー.jpg


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