SSブログ

滅びていく哀しみ~映画「やくざと家族 The Family」 [映画時評]

滅びていく哀しみ~
映画「やくざと家族 The Family


 ある地方都市でヤクザ社会に足を踏み入れた一人の男が、その後の暴対法強化の中で居場所をなくしていく。その生きざまを追った。
 1999年。19歳の半グレ山本賢治(綾野剛)は、行きつけの居酒屋で柴咲組組長・柴咲博(舘ひろし)が対立する侠葉会に襲撃される現場に出くわした。たまたま組長を助けた賢治は、侠葉会に拉致され報復リンチに遭う。そのことを知った柴崎は、賢治を組に誘う。
 6年後、組幹部になった賢治は、侠葉会とのいざこざで若頭補佐・川山(駿河太郎)にけがを負わす。柴崎が手打ちに乗り出すが不調に終わり、逆に襲撃され組員一人が命を落とす。責任を感じた賢治は侠葉会に乗り込むが、柴崎組若頭・中村(北村有起哉)が川山を刺殺するのを目撃、中村に代わって自ら罪を負う決断をする。
 14年後、服役を終えて出所した賢治は組の零落を目にする。背景に暴対法があった。かつての侠客は「反社会勢力=反社」と呼ばれ、居場所をなくしていた。柴崎もがんに侵され、死期が迫っていた。
 服役中、賢治の心の支えになったのはキャバレーのホステス由香(尾野真千子)の存在だった。由香との間には、刑に服する直前にできた子がいた。心の休まる場所が欲しいと賢治は所帯を持とうとするが…。

 二つの映画の記憶が蘇った。一本は「竜二」(1983年、川島透監督)。狂暴のゆえに居場所のない竜二(金子正二)は、いったんは妻のまり子(永島瑛子)への未練から堅気になる。しかし、地道な生活に耐えきれず、ヤクザ社会へ戻っていく。ヤクザと家族の関係を切ない映像で描いた。もう一本は「灰とダイヤモンド」(1958年、ポーランド)。A・ワイダ監督の名作である。右翼テロリストのマチェクは共産党地区委員長の暗殺に成功するが、逃亡中に保安隊に見つかりゴミ捨て場で惨めに死んで行く。タイトルにある「灰」のように。

 「ヤクザと家族」とはなんと即物的なタイトルであることか、とまず思う。私なら、少なくともただ「The Family」もしくは「家族」としただろう。そのうえで、ここでいう「家族」は何を指しているのだろうと思う。由香と築きたかった親子団欒のことか。あるいは柴崎組長の下、侠客としての「一家」のことか。いずれも、結局は賢治の瞼に映った幻に過ぎないのだが、どちらかといえば前者に比重があったように思える。だとすれば「竜二」が描いた「家族志向」に近いものを、この作品は持っている。

 賢治は最後、防波堤で刺され命を落とすが、このシーンがきれいすぎる。もっと切なく惨めであって欲しかった。「灰とダイヤモンド」のラストシーンのように。そしてその中に滅びていく哀しみがにじむなら、作品の価値はもっと上がっただろう。
 2021年、日本。監督は「新聞記者」の藤井道人。細かい不満はあるが、総合点としては骨太で観るべき映画である。綾野剛は熱演。彼にとって記念碑的作品になるだろう。尾野真千子はさすが、確かな演技。


ヤクザと家族.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

真実と虚構、皮膜一枚~濫読日記 [濫読日記]

真実と虚構、皮膜一枚~濫読日記


 「雪の階」(奥泉光著)

 「階」は「きざはし」と読む。雪の階段。雪に覆われた石段が、後半で重要シーンとして登場する。その場面を物語の象徴としていることが、タイトルから伝わる。
 主人公は、笹宮伯爵家の令嬢惟佐子。たぐいまれな美女であり、囲碁は素人の域を超え、「数学世界」を愛読し、乱淫の血を継ぐ20歳。奔放な彼女の周辺で、不可解な事件が発生する。惟佐子の唯一といっていい親友・宇田川寿子と陸軍将校・久慈が、富士山ろくの樹海で心中死体として発見された。しかし、二人がそれほどの仲だったとは、と疑いを抱く惟佐子は事件の真相解明に乗り出す。
 いわゆる11月事件(陸軍士官学校事件)を「去年の事件」と書いていることや、永田軍務局長斬殺事件(相沢事件)をさりげなく背景に置いていることで、時代は1935(昭和10)年からと分かる。このころ美濃部達吉の天皇機関説が論難の的になり、惟佐子の父・笹宮惟重は機関説批判の急先鋒として登場する。
 こうした時代背景の中で、大河のようなもう一つの物語が進行する。惟佐子の「血」をめぐる物語である。彼女には伯父がいた。「狂人」とされた彼はドイツに住み、一冊の本を出す。「真正日本人とは何か」を問うものだった。荒唐無稽とも思われたが、そこに惟佐子の出自も関わっていた。
 大小の物語が、絡み合い進行する。巧妙に時代のトピックが挟まれる。巻末の加藤陽子の「解説」の表現を借りれば「歴史の真実と虚構の被膜の巧みさに舌を巻く」。
 そして時代の大河は、ある事件に収斂する。1936(昭和11)年の2.26事件である。陸大出・近衛師団と軍のエリートコースを歩む惟佐子の兄・惟秀大尉が絡むが、最終的に蹶起には加わらない。このあたりは三島由紀夫の「憂国」を思わせる展開である。
 暗雲漂う時代の、浪漫主義的な人々の振る舞いと息遣いが、生きいきと蘇る。それは物語の巧みさに拠るだけではない。奥泉光の重厚で衒奇な文体に拠るところが大きい。
 気になる一冊だったが、このたび文庫本化されたことを奇貨として読むに至った。
 中公文庫、800860円(税別)。

雪の階(上) (中公文庫)


雪の階(上) (中公文庫)

  • 作者: 奥泉 光
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2020/12/23
  • メディア: 文庫



雪の階(下) (中公文庫)

雪の階(下) (中公文庫)

  • 作者: 奥泉 光
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2020/12/23
  • メディア: 文庫


nice!(0)  コメント(0) 

「1968」の空気を濃厚に~映画「シカゴ7」 [映画時評]

1968」の空気を濃厚に~映画「シカゴ7」


 1968年に起きたある暴動を指導したとして起訴された7人の闘いを映画化した。なぜ今、68年なのか、という問いと答えが、当然ながら作品中に仕込まれている。
 この年、世界を席巻した運動を吉田徹は著書「アフター・リベラル」で「反システム運動=戦後システムへの反乱」(社会学者ウォーラスティン)と規定し「1968 世界が揺れた年」の著者マーク・カーランスキーは、この年を築き上げた要因として①公民権運動②反権力世代の登場③ベトナム戦争④テレビ時代の到来―を挙げた。運動はフランスに始まりヨーロッパ各国、米国、日本に及び、共産圏でも「プラハの春」をもたらした。このうち米国では、拡大するベトナム戦争と黒人差別への異議申し立てとして反乱の炎が拡大した。その中の象徴的な事件が、シカゴ暴動だった。
 
 68年夏、シカゴ民主党大会が開かれた。参加者は暴徒化し警官隊と激突、多くの負傷者が出た。暴動を共謀したとして当初8人の社会運動のリーダーが起訴された。彼らはそれぞれ3つの組織に所属、統制や団結とは程遠い行動をとった。中でもブラックパンサーの活動家ボビー・シールは、反動的でレイシストでもある判事ホフマンを口汚くののしったため公判を分離され、法廷侮辱罪に問われた。こうして公判は途中から被告7人で進められた。
 判事の偏向した訴訟指揮で審理は被告に不利に進められたが、弁護団が前司法長官ラムゼイ・クラークを召喚し暴動のきかっけは警察側が作った、との証言を得たため一筋の光明がさしたかに見えたが…。
 最終陳述の機会が与えられた被告団は、判事の反対を押し切って公判中にベトナムで戦死した5000人近い兵士の名を読み上げた。むろん、ベトナム戦争への異議を込めてである。
 判決では、共謀罪は無罪となったが、7人のうち一部が暴動を扇動したとして有罪。しかし、2審では判事の指揮に偏りがあるとして司法省が訴訟維持を断念。7人は最終的に無罪を勝ち取った。

 「1968」の空気が濃厚に漂う作品である。スピルバーグがメガホンをとるとの情報が流れたこともあったが、シナリオを書きあげたアーロン・ソーキンが最終的に監督した。
 冒頭の「アフター・リベラル」に戻ると、社会システムに対する「個」の反乱は68年に始まり、今も続いているという(著者の表現を借りれば「すべては1968年に始まった」)。そのことを念頭に置けば、68年の1つの事件を描いたこの作品が現時点でも少しも古くなく、したがって今の時代に作ることの意味(=有効性)があることがよく分かる。
 2020年、アメリカ。


シカゴ7.jpg


タグ:シカゴ7 1968
nice!(0)  コメント(0) 

アイデンティティーと共同体を考えるヒント~濫読日記 [濫読日記]

アイデンティティーと共同体を考えるヒント
~濫読日記

 「アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治」(吉田徹著)

 この一冊を読んで頭に浮かんだのは、糸井重里のキャッチコピー「おいしい生活」だった。「便利」でもなく「豊か」でもなく「おいしい」生活。「一行力」(2004年)の著者岩永嘉弘は「時代の気分をとらえていた」から「長らく人々の記憶に残った」と書いた。1982年の西武百貨店のコピーだった。人と同じ、ではなく自分にとっておいしい(いい)生活、という資本主義社会での欲望のありようをうたった。それが時代の潮目に合致したため、人々に受け入れられた。
    ◇
 米国ではこれまでの民主党路線とも共和党路線とも脈絡のないトランプ政権が誕生した。日本では戦後レジームからの脱却を唱える安倍晋三政権が登場した。ともに退場となったが、これらの政治潮流はどう位置付ければいいのか、今も戸惑いの渦中にある。そんな時、「いま」という時代の思想潮流の見取り図を示すのが「アフター・リベラル」である。
 タイトルが示すように、著者はまず「リベラル」をめぐる思想軸を基本に置き、そこから現在の思想潮流を俯瞰する。手順は、こうである。
 政治は大きく変容しつつある。従来の「共同体」「権力」「争点」という政治のトライアングルが崩れつつある、ということでもある。戦後世界が築いた「リベラル」な国家像が崩れ、「怒り」の政治が取って代わっている。
 従来の政治の三要素はどのように築かれたか。世界は二つの大戦でファシズムを打倒し、冷戦終結で共産主義にも勝利した。見えてきたのは、F・フクヤマがいう「歴史の終わり」、即ち米国型民主主義が世界を平定する時代ではなく、経済的リベラルの一定の抑制(資本主義の囲い込み)と政治的リベラルの一定の取り込み(社会保障制度の拡充)による妥協的社民国家の誕生だった。言い換えれば、リベラルと民主主義の結合である(この二つはもともと方向性の違うもので、一体化するためには人為的な力が必要である)。
 しかし、この国家像は破たんする。背景にあるのは、製造業の頭打ちによってやせ細り展望を失った中間層の存在である。ここにグローバリズムという要素が加わった。トランプのアメリカによってこの図式は一段と明確化された。
 著者は「リベラル」を政治的、経済的という二つの側面に分けて説明する。政治的リベラルは価値の平等化と個人の解放を迫り、経済的なリベラルは無制限の資本主義を希求する。したがって経済的リベラルは富の不平等化を黙認する。しかし、戦後世界はこの二つの「リベラル」を、一定のバランスの中で取り込んだ。こうして出来上がった世界の政治のトライアングルが崩れつつある、というのが著者の現状認識である。
 では、トライアングルはどのように崩壊しているか。共同体の代表格は国家であるがグローバリズムの進展で国境は流動化▽権力のリソースである労組や家族は衰退▽政治の争点であった富の分配は後退し、家庭の在り方や生き方をめぐる価値の分配(解放)が優先的に考えられるようになった。この変化に政治が有効に対応できないため、かつて社会の中心にいた中間層は没落、取り残され、政治的なアプローチ方法を見出せないまま「怒り」を噴出させている。
 こうした政治の現状は「アイデンティティーの空白」を生んだ。その間隙をぬって登場したのが権威主義である。こうして、かつての保守対革新という政治の構図が、リベラル対権威主義に変わりつつある。著者もいうとおり「法と秩序」はトランプの常とう句だった。「反リベラル」が今日のニューライト、極右ポピュリズムを生んだ。
 個人のアイデンティティーを基軸にした思想は、いつ、どのように生まれたか。著者は1968年革命が源流だとする。フランスに始まり世界を席巻した若者の運動である。しかし、運動の後退で思想の内閉化が進んだ。こうした価値観の変革に対抗して生まれたのが新自由主義であり、ニューライトの思想である。
 著者の視点はここから歴史認識の問題、テロリズムと宗教の問題、ヘイトクライムの問題へと展開する。
 結論として言えば、著者はここであるべき未来絵図を示してはいない。あくまで現状の「見取り図」の提示である。しかし、現代思想の原点は「アイデンティティー」と「リベラル」であり、問われているのは、これと共同体の間にどのような紐帯を築けるか、ということになる。そうした文脈の上で、この一冊は重要なヒントになりそうだ。
 講談社現代新書、1000円(税別)。

アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 (講談社現代新書)

アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 (講談社現代新書)

  • 作者: 吉田徹
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/09/16
  • メディア: Kindle版

nice!(0)  コメント(0)