得意と失意、嘘と真実の人生~濫読日記 [濫読日記]
得意と失意、嘘と真実の人生~濫読日記
「トルーマン・カポーティ」(ジョージ・プリンプトン著)
嘘と真実、虚と実、愛と憎が入り混じる、得意と失意の人生を描いたノンフィクションが読みたいと思っていた。知る限り、そうした本は2冊。ジェラルド・クラーク著「カポーティ」(未読、文藝春秋社刊)と、標記の一冊である。同じ人間を対象としながら、手法は正反対だ。「カポーティ」は、従来の「評伝」「伝記」スタイルと思われるが、この「トルーマン・カポーティ」は、著者の「読者へ」と訳者(野中邦子)の「あとがき」によればオーラル・バイオグラフィ(聞き書きによる伝記)なのだ。カポーティにかかわった人々の証言やコメント、感想を、そのまま載せている(もちろん多少の裏付け取材はしているだろうが)。最終的に真実かどうかは、語り手に預けられている。
著者のジョージ・プリンプトンはある文芸誌の編集長で、インタビュー記事を得意とするノンフィクション作家。カポーティの人物像を浮き彫りにするため取材した友人、親戚、マスコミ、映画、ファッション関係者は170人に上るという。
その結果、浮かび上がった「トルーマン・カポーティ」は嘘つきの名人であり(だから作家になれた?)、取材対象者の内側に入り込み、まるで彼がしゃべったかのように話すことができ(ノンフィクション・ノベルの手法)、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」のように上流社会を描こうとして挫折し、文学の天才であり、金持ちのペットのような存在でもある、とらえどころがなく、めくるめく存在として、我々の目の前にいる。このような人生をオーソドックスな手法で描いても、魅力と存在理由は伝わってこないのではないか(といいながら、ジェラルド・クラークも一度読んでみようと思う)。
そんなわけで、この書の内容を体系的に語ることは困難と判断(そもそも、スタイルそのものが体系を拒み細部にこだわっている)。印象に残ったコメントを紹介するにとどめたい。
――一時期、ノートに創作メモをつけていたことがあった。しかし、そうすると頭の中のアイデアが生命を失ってしまうことが分かった。その思いつきが十分に価値のあるものなら、本当に自分のものになっていれば、忘れるはずがない…文字に書かれるまでつきまとうはずだ。(T・カポーティ)
――彼(カポーティ)は、ノーマン・メイラーが「冷血」の真似をしているくせになんの断りもないと言いふらしてまわった。プロの作家がそんなことをいうなんてどうかしていると思った。だから、それ以後、彼との関係は冷たくなった。(略)しかし、あのスタイルはトルーマンの考案ではない。(略)つまり、「ノンフィクション・ノベル」は彼の発見ではないってことだ。(N・メイラー=作家)
――彼の予想では、あのレディたちは大目に見てくれるはずだったんだ。「まあ、あのおチビのいたずらっ子、今度の悪さときたらどう? ちょっとやりすぎだわね!」と。それから、またヨットに招待してくれる。まあ、何をしようと勝手だが、わざわざ通りのど真ん中でやって馬をびっくりさせちゃいけない。(略)そんなわけで、連中は熱いジャガイモを放り出すように彼を捨てた。彼にとっては夢にも思わない事態だ。(J・ノウルズ=編集者)
新潮社、3500円(税別)。
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1999/12/01
- メディア: 単行本
狂気と裸眼の境地が生んだ名作…~濫読日記 [濫読日記]
狂気と裸眼の境地が生んだ名作…~濫読日記
驚愕の書き手が現れた。これが読後の第一印象だった。帯にあるように、取り上げられた二人は「国民的作家」といっていい、日本人になじみ深い存在である。若いころ新聞記者を務めたが、何をしていたかは意外に知られない。著者(ホンダ・アキノ)はこのキャリアの中に「美術記者」という共通の体験を引き出し、どのように後の作家活動に影響したかを丹念に探った。
ホンダも、彼らと似た道を歩んだ。奈良の大学を出て京大院へ進み美術史を学ぶ。そこから地方新聞に籍を置いたがわずか3年で退職。出版社で編集作業を経験した後、フリーに。新聞社で美術記者を目指したがかなわなかったので転職した、という点が違っている。
毎日にいた井上と産経にいた司馬。ともに関西で勤務した。彼らにとって新聞記者とは何であったか。井上は「おりた」記者だと自称し、最初から社会部など報道の前線を志していなかったようだ。一方の司馬は「火事があれば走っていくのが記者」といい、文化部で美術担当を命じられ「車庫入りした気分。落魄の思い」だったという。ホンダを含め3人とも、報道の前線にいて情報を手際よく処理するという行動類型と「文体」には馴染まなかった(馴染めなかった?)とみることができる。むしろ「美術」という窓を通して思索を深めていくことに適性を見出した、といえよう。感性の共通土壌が見えてくる。
ただ、記者を卒業してからの二人の道筋はかなり違う。司馬は「美術記者は、本当の自分ではない」との思いから「美術オンチ」を自称した(実際はそんなことはなかったらしいが)。井上は職場にいたころから「美術記者向き」とされた。こうして美術に一定の距離を置いた司馬に対し、井上は生涯、向き合った。
1975年と77年の2回、二人は中国の旅に同行した。この時の井上を見る司馬の視線が興味深い。西域の山河を前に、井上は時代を超えて人々を肉眼で見たいとの思いに駆られていた、という。司馬は「こういう衝動の多発-悪魔的ななにか―に体が刻々ひきずられているとしかおもえなかった」と書いている。関心ある対象を目の前にしたとき、井上には何者かが憑依したような行動、静かな狂気が頭をもたげる瞬間があったという。こうした狂気と詩が、小説「敦煌」につながったのかもしれない。
井上は50代でスペイン・プラド美術館を訪れ、ゴヤの作品と出会った。中でも衝撃を受けたのは「カルロス四世の家族」で、集団肖像画の背景にある、誰も書かなかった物語を書いてしまう。名作を前にしたときの、悪魔が憑依したかのような傾倒ぶりがわかる。
司馬は、ゴッホの絵が好きだった。ホンダはその根っこに狂気があるとみる。司馬が、ゴッホと同じ「文学性」を持つ画家として鴨井玲の絵に出会ったのは、新聞記者をやめてからだった。司馬はここで「裸眼で」という言葉を使った。「ただ生きている、という最後の生命の数滴」を「すばらしい描写力」によって描く。ここがゴッホと共通するという。美術記者としてではなくただ人間として、裸眼として絵画の衝撃力を受け止める。これが、司馬の到達点だった。
陶芸の分野は、接し方がやや違った。柳宗悦のいう「民芸」の思想を根底に置いた「用の美」であり、仏像や絵画とは違う世界。そこで、陶芸には「持つ」という行為が生じる。井上は「持つ」ことに大胆であったようだ。一方の司馬は嫌悪を感じる。「コレクターになる」ことへのそれである。ただ、柳の「民芸」思想には彼なりの理解を持っていた。
--伝統工芸は、九割までが技術で、あと一割が魔性である」。その魔性がどう昇華するかで作品が決まってしまう、と司馬はいう(155P)。
説得力のある指摘である。
司馬は記者時代、八木一夫という陶芸作家と出会う。「用の美」「無名性」と対極の存在。柳を「読みすぎていた」司馬は衝撃を受け、理性では抗えなくなる。やきものは司馬にとって「荷厄介」であった。陶工から、魅力的な壺をもらうことをためらわなかった井上とは違っていた。
二人は「宗教記者」でもあった。考えてみれば当然だが、美術の世界は宗教の世界に通じる。寺社仏閣、仏像、絵画は美術、宗教と同根の世界を持つ。二人が宗教記者でもあったのは、当然の成り行きであったろう。
後から思えば、二人にとって「美術記者」という体験は回り道だったかもしれない。ホンダは「おわりに」で面白い指摘をする。もし二人が美術記者にならなかったとしたら―。井上はゴヤをあのように豊かな世界に再創造しただろうか。司馬は「裸眼」に目覚めることなく、ゴッホにあそこまで執着しなかったかもしれない。八木一夫に出会わなければ、やきものへの思索をあれほど深めただろうか―。「回り道」が生み出したものを、ホンダは逆説的に語っている。
平凡社2800円(税別)。
- 作者: ホンダ・アキノ
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2023/09/13
- メディア: Kindle版
歌は世につれ~濫読日記 [濫読日記]
歌は世につれ~濫読日記
「昭和街場のはやり歌 戦後日本の希みと躓きと祈りと災いと」(前田和男著)
いつの世にも、はやり歌がある。中でも昭和は、時代の明と暗、尾根筋と谷底がくっきり見えたため、変わり目ごとにはやり歌があった。社会の下部構造がきしみ、上部構造に幻影が生まれる。つかの間、大衆が酔いしれた共同幻想。歓喜と失意、希望と蹉跌。どこか甘く、魂をとらえる旋律があった。
書かれたのは、こうした社会とはやり歌の共同歩調である。歌は、歌だけの魅力によって時代に受け入れられてはいない。表現の深部で世の動きの本質をとらえたため、大衆に響き受け入れられた。そのことが一つ一つ、立証されている。「歌は世につれ」である。
著者は1947年生まれ。いわゆる団塊の世代である。大学時代、東大闘争を経験した。極私的体験を骨格とするこの著作では、当然ながら世代は重要なファクターである。そうした位置関係から、二つの安保闘争の高揚と挫折を見た一文が興味深かった。
西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」は60年安保闘争のレクイエムとする説が根強い。しかし、著者は(私もだが)どこかでこの説に違和感を覚える。それは何かがたどられる。70年当時、いささかの自嘲を込めて歌われたのは「網走番外地」であり「圭子の夢は夜ひらく」だった。何が違ったのか。著者の見立てでは「アカシア―」はあまりに“詩的”で「網走-」や「圭子の―」は“散文的”という。そうかもしれない。わずか10年の間に、この違いはどこから生まれたか。闘いの質ではないか、という。60年安保は日本社会の将来のエリート候補によって主導された。70年安保は中間管理職候補だった「学生大衆」が街頭でゲバ棒を振るい、火炎瓶を投げた。結果、挫折の質にも変化が生まれた。背景に大学進学率の大幅な向上(学生の大衆化)があった。こうした時代の位相の変化を、著者はこう表現する。
――「アカシアの雨がやむとき」は「敗北と挫折」の鎮魂には似つかわしいが、「自滅と自壊」を癒してくれそうにはない。それには「網走番外地」と「圭子の夢は夜ひらく」が適役だったのである。
「一本の鉛筆」という歌がある。横浜で空襲にあった美空ひばりが、反戦の願いを込めた。作詞は松山善三。1974年、広島平和音楽祭で披露された。しかし、広島でこの歌を知る人は少ない。ましてや全国的にはほとんど無名である。ひばり自身は、この歌を「自薦ベスト10」の6位に挙げて遺言とした。ひばりと日本社会、あるいは広島との間で、何が行き違ったのか。
ひばりが反戦歌を歌うことに、被爆者団体が抗議したという。理由は、反社会勢力との関係が言われていたこと▽一本の鉛筆で書けるほど被爆者の苦しみは甘くはない―というものだった。これに対して松山は、一本の鉛筆は鉄砲玉より強い。だからこそ平和の心を伝えることができる、と反論したという。
ひばりの歌唱力を疑う者はいない。だからこそ、ひばりは時代を超越し、日本からアジアへと越境した。そうして、戦後の大衆が背負ってきた罪と穢れを一身に引き受けた。さながら浄化のため川に流す形代(かたしろ)のよう、と著者はいう。私には、戦後日本が異形のものとしてひばりを排除したとしか見えなかった。その抜け殻-空疎でいびつな―が、目の前にある(前田はそこまで書いていないが、暗示はしている)。戦後日本の平和思想の辺境を見る思いがするのである。
「時代とは何か」を考えさせる一冊。
彩流社刊、2500円(税別)。
- 作者: 前田和男
- 出版社/メーカー: 彩流社
- 発売日: 2023/08/04
- メディア: Kindle版
単純でない戦争の構図~濫読日記 [濫読日記]
単純でない戦争の構図~濫読日記
「ウクライナ動乱 ソ連解体から露ウ戦争まで」(松里公孝著)
ロシアとウクライナの戦争は、どうやら膠着状態にあるようだ。この戦争、どんな出口が待っているのだろう。
日本人も、明治以降いくつかの戦争をくぐった。その中で、戦争を極めて単純な構図で見てきた。例えばアジア・太平洋戦争。四方を海と国境に囲まれた日本人という同胞(本当は単一の民族ではないが)がいて、言語も人種も違う相手と戦う。さすがにアジアに対しては人種的に似ているため「大東亜共栄圏」というプロパガンダ(これは現地=占領地域=の治安維持のため必要だったと天皇自身が弁明している)を展開、英米に対しては明らかに人種・言語とも違うので「鬼畜」という形容詞を平気で付けた。
ウクライナとロシアの場合。国家のアイデンティティが確立されたのはウクライナが20世紀初頭に中央ラーダ政府を樹立、やがてソ連に取り込まれるまでの短期間と、ソ連崩壊後。ロシアもソ連崩壊後である。ロシアについてややこしいのは、ソ連の正統な後継者という思い込みが指導部にあることだろう。ロシアはソ連ではないし、その前の帝国ロシアでもない。
こうした経緯により、ウクライナとロシアは大きな領土的問題を抱える。一つは、クリミア半島。黒海に臨む戦略的要衝は歴史上、占領した勢力の地政学的関心を集めた。ソ連崩壊後、クリミア・タタール【注】は独自の共同体組織を持った。もう一つはドンバス。石炭と鉄の産地で、かつてソ連の垂直的指導体制にあった。ソ連崩壊後、ウクライナ領とされた。
ソ連崩壊後、ウクライナは二つの大きな革命(動乱)を経験した。西欧志向、ロシア志向、自立志向(連邦志向)と、さまざまな運動体(政党)が生まれた。よって立つところ(アイデンティティ)はさまざま。そして、この二つの国ではロシア語がほぼ共通言語である。そこで行われる戦争を想像できるだろうか。乱暴な言い方をすれば、クリミアもドンバスも、戦争がはじまったころ、たまたまウクライナ領だったのである。
著者は巻末でこう書いている。
――今後、万一ロシアがザポリジャ州、へルソン州をウクライナに返さなかったとしても、それらが普通のロシア南部州になるとは思わない。それらはロシアの中のウクライナになるだろう。
10年にわたる戦火と流された血の代償は果てしなく大きい。
私たちの戦争体験からアナロジーされた侵略国ロシアと被侵略国ウクライナ、という構図に、大いなる疑問を抱かせる一冊。
ちくま新書、1300円(税別)。
著者には旧ソ連圏の政治体制を見た労作「ポスト社会主義の政治」がある。どちらも足で稼いだ著作だが、現実が未整理のまま放り出されている印象があり、読み下すのにエネルギーがいるのが難点。
【注】チンギス・ハンのモンゴル帝国が12世紀、キエフ・ルーシを征服。名残が「クリミア・タタール」である。「タタール」は韃靼民族のこと。チンギス・ハンの後裔がクリミア・ハン国を創設した。ロシアの歴史家がモンゴル支配を「タタールのくびき」と呼び、暗黒の時代としたが、納税さえすれば自治権は認められ、有力な交易地であったクリミアも直轄領となった(この部分「物語ウクライナの歴史」=中公新書から)。独自の自治組織は、これが引き継がれたと思われる(「ウクライナ動乱」はソ連崩壊後を描いており、こうしたくだりはない)。第二次大戦時、スターリンはクリミア・タタールにナチ協力の疑いをかけて中央アジアに強制移住させ、スラブ系民族を送った。スターリン批判を行ったフルシチョフが、ウクライナ領とした。
ウクライナ動乱 ――ソ連解体から露ウ戦争まで (ちくま新書)
- 作者: 松里公孝
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2023/07/06
- メディア: Kindle版
「増補 昭和天皇の戦争 『昭和天皇実録』に残されたこと・消されたこと」 [濫読日記]
戦争回避の手段を持たなかった皇国~濫読日記
アジア・太平洋戦争において元首であり大元帥であった昭和天皇。政治と軍事の頂点に立ち、戦争を遂行した。しかし、実際に天皇は何を言い、何を行ったかいまだ明確でない。そんな折り「昭和天皇実録」が公開された。天皇の死後24年の編纂作業を経て2014年のことである。側近らが書き留めた肉声が記された(読んでないので「らしい」としか言えないが)。歴史資料として価値があるのか。天皇の戦争責任を追及してきた山田朗が、関連資料と突き合わせ「残されたこと・消されたこと」をあぶりだした。
即位から終戦の「聖断」まで多角的に天皇の言動を探っているが、興味深いのは、戦争の重要な局面で天皇はどう反応し、どんな「指導」をしたのかである。例えば軍部独走が否定しがたい満州事変。天皇はどう動いたのか。
その前段、張作霖爆殺事件から見てみる。1928年6月に「満州某重大事件」として国内でただちに報道された。治安悪化を理由に関東軍が満州全土を制圧する計画だったが、政府が出兵を認めず頓挫した。しかし、事件が「実録」に出るのは12月になってである。田中義一首相が概要を説明、陸軍大臣が詳細を上奏(報告)した。天皇の反応は記述されていない。さらに半年後の6月、田中首相が責任者を行政処分する旨を報告。前回とあまりに相違するため、「強き語気にてその齟齬を詰問」、首相の弁明に「その必要はなし」と突き放したという。
山田によれば「実録」は天皇の感情が直接見て取れるような記述をしていないが、この部分は「例外ともいえる」という。寺崎英成がまとめた「昭和天皇独白録」を全面的に採用した結果だという。
1931年9月、満州事変の発端となる柳条湖事件が起きた。事件の翌日、天皇に報告された(事前の相談ではない)。近現代史でよく取り上げられるが、このときの朝鮮軍司令官による独断的出兵が批判的に天皇に報告され、天皇から「この度はやむを得ざるも、今後気をつけるように」と戒める発言があったという。朝鮮から満州へ、軍が国境を越えるという一司令官の独断に対して、微温的な対応である。関東軍の行動については、その後、次第に容認の度合いを強めていった。年が明けた32年1月には、「皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ」と称える勅語を発した。
軍の独断的行動に戸惑いつつも、結局は追認し、最後には称えるという無責任な行動ぶりがよく出ている。ただ、これらが天皇の本心から出たかは分からない。「実録」は、編纂過程で天皇の感情が生のまま出ている個所は切り捨てられたと考えるのが自然であり、それは御前会議の段階から側近が、天皇が先頭に立った発言をすることに警戒感を持っていたとも考えられるからだ。
日中戦争から対英米戦争へと戦火を拡大するにあたって、天皇はどんな対応をしたのか。山田によると、開戦決定は1941年後半の4回の御前会議を経てなされた。9月までは慎重姿勢だったが、近衛内閣総辞職・東条内閣成立を経て11月には開戦論に理解を示した。何が天皇の姿勢を変えたのか。
9月6日の御前会議前後、天皇の憂慮は「頂点に達した」と山田は書いている。実録には5日の近衛首相・杉山元参謀総長・永野修身軍令部総長とのやり取りを記している。軍令部総長が「勝算はある」と奉答すると、天皇は了解したと答えたという。このときのやり取りを「杉山メモ」は詳細かつ生々しく記述している。天皇が「絶対に勝てるのか」と大声でただしたところ、総長(永野、杉山の発言が混同しており、確定が困難)は「絶対とは申しかねます」などと答え、天皇は大声で「ああ分かった」と答えたという。この時の空気が本当であれば、実録にある「了解」などではなく「勝手にしろ」とのニュアンスに近い。この時から天皇は開戦論へと急傾斜していった。もはや外交では展望が切り開けないと思ったのだろう。
「実録」では、外交によって国難を回避すべき、とか武力の行使はあくまで慎重に、といった平和主義者・天皇像が描かれた。しかし、天皇にはそのビジョンのもとに日本を導く方法がなかった。山田も「あとがき」でそのことに触れ「第二次世界大戦期において、日本という国家には、世界規模の、なおかつ高度なテクノロジーを集約した戦争を統括し遂行できるシステムがなかった」と書いた。「戦争を遂行するシステムがなかった」は「戦争を回避するシステムがなかった」に通じる。
読後、丸山眞男が「軍国支配者の精神形態」などで明らかにした無責任の体系=矮小なファシズムを想起したのは私だけではないだろう。
岩波現代文庫、1670円。
増補 昭和天皇の戦争──「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと (岩波現代文庫 学術469)
- 作者: 山田 朗
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2023/09/16
- メディア: 文庫
悲惨な体験は継承されるのか~濫読日記 [濫読日記]
悲惨な体験は継承されるのか~濫読日記
アジア・太平洋戦争が終わって、もうすぐ80年。当時の20歳は100歳である。戦争を知る世代がいなくなっていく。
「兵士たちの戦後史」の著者・吉田裕は、軍人恩給の受給者数などから「2006年度末の兵士体験者の生き残りが下限で40万人」とする新聞報道を紹介。こうした軍隊体験者の減少を表す現象として戦友会解散を挙げる。この調査から17年が過ぎた。体験者の減少は加速度的に進んでいるだろう。
吉田は、加藤典洋の一文を引き、こうも指摘する。日本とドイツは義によって死者を弔えない戦争を戦った。そのため敗戦の責任のすべては軍部に押し付けられ、兵士体験者たちは個人レベルの戦争体験が社会的に意味づけられることはなかった。そうしたわだかまりを抱えたまま、戦後を生きてきた。
戦場体験者がいなくなり、一つの時代が終わる。「戦後」の終わりといっていいだろう。吉田が「兵士たちの戦後史」に手を付けた背景には、こうした切迫感がある。
本書で、戦後史は大きく五つに区切られる。戦場体験が出発点である。①戦病死という名の事実上の餓死者が大量に発生した②艦船沈没による海没死が多かった③従来なかった特攻死の出現。こうした体験を抱えた復員兵が帰還した。船内では旧上官に対するつるし上げが行われたという。興味深いのは、元兵士が必ずしも温かく迎えられなかったこと。
「お前ら兵隊が負けたから内地のものまで…」という罵りの言葉も紹介される(34P)。兵士は国民のためでなく、天皇のために戦った、そうした思いが復員兵に対する視線の冷たさを生んだ(41P)。
講和条約の発効、朝鮮戦争特需によって日本は戦後復興へと踏み出した。戦犯の復権も進んだ。併せて旧軍人団体の結成も見られた。旧陸士卒業者を中心にした「偕行会」は戦前からの組織を復活させた。「水交会」は海軍兵学校の卒業者を中心とした組織で、これも復活した。いわゆる戦友会の始まりといえよう。
講和条約の発効前後から、戦争体験を振り返る「戦記もの」が登場する。初期は将校クラス、続いて兵士による戦記があふれたが、それぞれ限界があった。将校は現場を知らず、兵士は全体の状況を知らされていなかった。そんな中で「二等兵物語」がブームに。「結局、戦争そのものには疑問を持たないものの、軍隊を全面的に肯定する議論にも、また逆に全面的に否定する議論にも反発しつつ、軍隊生活にある種のノスタルジアを感じる人たちが存在することを(略)示している」と吉田は指摘する。こうした心情が、高度経済成長期からその後の戦友会の活発化の力になったのではないか。
高度経済成長を迎え「敗戦のトラウマ」を克服した日本は「平和国家・文化国家」の路線を選択する。このころの経済を支えた中堅世代は戦中派である。彼らが平和国家を選択したといえる。
精神的な余裕が生まれ、戦友会が各地に発足したのもこのころ。「戦友会研究会」の調査では、1960年ごろから増え始めた。性格は一様ではないが、目的の多くは「慰霊」と「親睦」。小規模のものが多く、かつての序列を持ち込むことは嫌われた。「加害行為」への言及もご法度だった。メンバーが高齢化するにつれ記念碑や慰霊碑の計画が持ち上がり、組織の大規模化が進む。一方で、戦時下の体験(体罰など)を受け入れられず、入会を拒否し続けた人も多かった。
「わだつみの会」が寄贈した立命館大学構内の「わだつみ像」が1969年、全共闘系学生によって破壊された。「戦後の平和主義に対する挑戦」と紋切り型の非難を浴びせた共産党は別にして、吉田は「(そこに象徴された)『「戦後民主主義』の日本は管理社会と化した『先進帝国主義』であった」(福間良明「『戦争体験』の戦後史」)を引き、真摯な目を向けた(170P)。戦争体験者が激減した今日、「継承」は大きなテーマだが容易でないことを、この事件は示した。
55年体制の崩壊によって生まれた非自民政権は、かつての戦争の侵略性を認める方向に舵を切った。これに戦場体験者は拒否反応を示した。「英霊」は「加担者」だったのか―。1993年12月8日付読売に「内容が断定的」と掲載を拒否された意見広告のエピソードが興味深い。最終的に翌年の産経新聞に掲載されたが、さすがに「アジア解放のための聖戦」とする文言はなかった。体験者も遺族も、迷いながらあの戦争の意味を考え続けている、ということだろう。
冒頭に書いたように、遠くない将来、あの戦争を知る人たち、特に戦場の悲惨さを知る人たちは確実にいなくなる。どう体験を引き継ぐかを考えるための貴重な一冊である。
岩波現代文庫、1540円。
兵士たちの戦後史: 戦後日本社会を支えた人びと (岩波現代文庫)
- 作者: 裕, 吉田
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2020/02/16
- メディア: 文庫
日本人の戦後思想にも影響~濫読日記 [濫読日記]
日本人の戦後思想にも影響~濫読日記
「B-29の昭和史 爆撃機と空襲をめぐる日本の近現代」(若林宣著)
タイトルの面白さにひかれた。言うまでもなくB-29は米国がつくった戦略爆撃機であり、昭和史は日本の元号に基づく、日本でのみ通用する時代区分である。異質な言葉をくっつけたタイトルは、そのまま位相の転換をのみこんでいる。言い換えればアジア・太平洋戦争末期、日本上空を飛んだ飛行機と、なすすべなく見上げた日本国民の複雑な心情が閉じ込められている。それらをこじ開けようとした思いが、わずか数文字から分かる。秀抜なタイトルといえる。
冒頭、航空機の誕生が戦術攻撃にとどまらず不可避的に戦略爆撃思想へと向かったこと、それを体現すべくつくられたのが4発エンジンを持つB-29であったという経緯が紹介される。全長30㍍、全幅43㍍の機体、上昇限度1万㍍、航続5000㌔、爆弾搭載量9㌧。独自の視点があるわけではないが、一般常識としてここは通過しよう。
ここから180度、視点が変わる。冒頭触れた「位相の転換」である。直接的に言えば、爆撃をする側からされる側の視点に変わる。
米軍による日本本土空襲は1942年の、いわゆるドゥリットル空襲からだった。航空母艦から発進したB-25(B-29ではない)16機、東京や名古屋、神戸を爆撃した後、中国大陸に着陸した。予期しなかった日本軍は迎撃態勢を整えられなかった。2年後、サイパン島が米軍の手に落ち、B-29の日本本土空襲が本格化する(このころ、中国奥地から発進したB-29が九州方面を爆撃したが、後に太平洋側からに一本化した。日本軍の占領地域上空を飛ぶ危険性を避けるためである)。
東京周辺に現れたのは44年11月、偵察用改造機が最初だった。晴れた秋の空を超高高度で飛ぶ機体を「きれいだった」と記憶する向きは少なくない。しかし、この時から終戦まで、B-29は日本国民を恐怖のどん底に叩き落とした。
科学技術の先端を行く戦略爆撃機。恐怖の一方で「美しい」と思う複雑な心情。裏側には何があるか。
67年に「アメリカひじき」「火垂るの墓」で直木賞をとった野坂昭如は78年、テキサスを訪れた。飛行可能なB-29に再会するためだった。野坂は、空襲時に聞いた「ウォンウォンと押さえつけるような」音にこだわった。離陸する機体を見て、何度見ても美しいと思ったとたん、吐き気のように涙が飛び出したという。複雑な心情が伝わる。
B-29の圧倒的な軍事力は、戦後日本人にある種の諦念を植え付けたようだ。あれほどの飛行機は日本にはつくれない。だから負けた、と。これは一方で精神論の無意味さを笑い否定する方向を生み出した。この論法に筆者は釘を刺す。技術力の圧倒的な差が敗戦を生んだ、とするのは戦争責任の問題のすり替えではないか、と。この視点は、終戦直後の日本が原爆=平和の灯論に覆われたことを想起させる。
44年7月、大本営陸軍部はB-29に対する戦訓として「体当たりを以て撃墜するの断固たる決意」を求めた。レイテ沖海戦で神風特別攻撃隊が米艦隊に突入したのが同年10月。それよりも早くB-29への体当たり攻撃は行われたことになる。これは特攻史の書き換えを迫るものだろうか。
時代の傑作機が日本人の戦時のみならず戦後思想にまで影響した、というところまで掘り起こした興味深い一冊。ちくま新書、980円(税別)。
B‐29の昭和史 ――爆撃機と空襲をめぐる日本の近現代 (ちくま新書)
- 作者: 若林宣
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2023/06/08
- メディア: Kindle版
集団の狂気が招いたむごい事件~濫読日記 [濫読日記]
集団の狂気が招いたむごい事件~濫読日記
「福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇」(辻野弥生著)
今から100年前、1923年9月1日に起きた関東大震災の混乱のさなか、流言蜚語によって朝鮮人、社会主義者、無政府主義者が虐殺されたことは、歴史的事実としてある程度知られている。しかし、細部はいまだ明らかになっていないことが多い。千葉県東葛飾郡福田村大字三ツ堀(現在の野田市三ツ堀)であった香川県からの薬の行商一行9人(妊婦がおり、胎児を含めると10人)惨殺事件もその一つだ。
なぜ事件が明らかにされなかったか。二つの大きな理由がある。一つは、加害者にとっては触れられたくない事実で、できれば闇に葬りたいという心理。もう一つは、日本が帝国への道を歩んでいたころであり「帝国イデオロギー」再編の一環として朝鮮人蔑視、社会主義・無政府主義者への警戒感を背景として流言蜚語が生まれたことを権力の側が容認する空気が、当時の社会にあったこと。福田村事件については、被害者が被差別部落の人たちであったことも声を上げにくかった理由と思われる。
これらの壁を越え、事件の概要をまとめたのが辻野弥生だった。1941年生まれ、現在80歳を超えた女性である。まずはその執念に感服する。巻末の特別寄稿で森達也が書くように「ジャーナリストとしてのスタンス」で「精密に資料に当たり」「怒りと悲しみ」を「装飾することなく」明示している。
事件の現場は旧地名で「東葛飾」。私は、一冊の本を思い浮かべた。川本三郎著「『男はつらいよ』を旅する」。こう書いている。
――もともと葛飾区は、関東大震災の時に被害が少なく、被害が大きかった本所深川から多くの住民が移り住んだ。人口が増えた結果、昭和七年(一九三二)に葛飾区が誕生した。同じようなことが東京大空襲によっても起きた。
「葛飾」とは台地や低地が連なる土地とか、かずら(葛)が茂る土地とか、都市化されていない地域を指すらしく、かつては東京、千葉、埼玉にまたがる広大な地域を指した。二つの災難を経て、もともと郊外だった地域に多くの避難民が移り住み、東京の「下町」が出来た。「男はつらいよ」で葛飾柴又が、受難の庶民が寅さんに助けられ緊急避難する場所、と位置づけられたのは歴史の流れに沿っている。
しかし、福田村は、震災から逃げてきた人々と受け入れ住民の間で恐怖と警戒心が行きかい、不幸な結果を呼んだ。背景には朝鮮人への差別感情と恐怖・警戒心があった。
もう一度、時代の流れを俯瞰する。1910年、半ば脅迫的に日本は朝鮮併合を断行した。創氏改名などの植民地政策に対して朝鮮独立を目指す3・1運動が起きたのが1919年。震災はその4年後である。日本の権力者はナショナリズム高揚を恐れ、震災の混乱におびえた。そこから流言蜚語が生まれた。辻野が詳細に検証しているが、当初は内務省が「(朝鮮人の)行動に対しては厳密なる取り締まりを」と発した通達が、住民組織には「朝鮮人は殺してもよい」と理解された。不自然な日本語を使う人間はいないか、地域の自警団が「朝鮮人狩り」を行った。香川から来た四国弁の一行も「あやしい日本語」の集団とみられ、集団の狂気と呼ぶべき行為が始まった。
事件を引き起こしたのは日本人固有の特性か、すべての人間が持つ資質か。ただ、集団が狂気に陥ったとき、個人とは全く違う行動へ走ってしまうことは、歴史上多々ある。肝要なのは事実に蓋をすることではなく、教訓として胸に持ち続けることだと思う。その意味で、この労作は貴重である。
五月書房新社、2000円(税別)。
福田村事件―関東大震災知られざる悲劇 (ふるさと文庫 206)
- 作者: 辻野 弥生
- 出版社/メーカー: 崙書房
- 発売日: 2013/08/01
- メディア: 単行本
敗者や弱者への優しい視線~濫読日記 [濫読日記]
敗者や弱者への優しい視線~濫読日記
キネマ旬報に連載の「映画を見ればわかること」2017―2022年掲載分を中心にまとめた。同欄から6冊目の単行本化という。
川本三郎の映画評論は読んでいて心地いい。理由は二つある。一つは「あとがき」にある「作品の良し悪しを論じない。よかった映画についてだけ書く」姿勢。「評論とは、読者に感動を数倍にして再体験してもらうものではないか」という信念からきている。読み手は余計な悪罵や批判を目にすることがない。映画の「良さ」を純粋に再体験できる。もう一つは、極私的なことだが、川本と共通の感性土壌を感じることからくる「心地よさ」である。好きな作品が似ていたりする。しかし、視線がまったく同じかといえば、そうではないようだ。プロとアマの差であろう。違いは深さであったり、広がりであったりする。それを知ることもまた「心地いい」。
松本清張「砂の器」では、原作と映画の違いについて鮮やかに分析(既に知られていることかもしれないが)、参考になった。活字と映像というメディアの差異とともに、松本清張と野村芳太郎というクリエイターとしての感覚の違いが背景にあるように思われる。
原作では昭和30年代半ばに登場した「ヌーボー・グループ」(「若い日本の会」がモデル)の一員として音楽家・和賀英良を描くが、映画は一切をカットした。その結果、加藤剛が演じる和賀は野心にあふれた文化人ではなく、出生に秘密を持つ悲しい男になった。もう一つ、原作で数行の父子の旅が映画で後半のクライマックスになり、和賀の演奏会と捜査会議をかぶせ、同時進行にした。悲惨な過去を持ちながら栄光をつかみかけた男に捜査の手が迫る。その構図を見事に映像で見せた。試写を見た清張は「小説では絶対に表現することができない」「この作品は原作を越えた」と絶賛したという。
読む我々にとって、この文章は感動の再体験である。
「ドライブ・マイ・カー」も、切り口の鮮やかさに舌を巻いた。「チェーホフの劇が静劇といわれるのはよく知られている」で始まり「人の心の動きの静劇」をみていく。
妻に死なれた男は、ある地方で演出の仕事を請け負う。その間、ドライバーとして雇われた女。二人の「静劇」が進む。一方で男はチェーホフを多言語演劇で上演しようとする。日本語、北京語、韓国語。手話も加わる。最初はぎこちなかった本読みが次第にならされ、なじんでいく。これもまた「静劇」。
男と女の「静劇」はどのように進んだか。二人の車内での位置に注目する。当初は運転席と後部座席。北韓道の女の生家に向かう旅では運転席と助手席。生家の焼け跡の前では向かい合い、互いの悲しみを語る。二人の位置から「静劇」を読み解く。鮮やかだ。
「三度目の殺人」は、役所広司と福山雅治の息詰まる法廷ドラマ、ダイアローグだと思っていた(おそらくこれが普通の見方であろう)。
川本はそこには触れず、風景論を切り口にする。役所演じる殺人犯が死体に火を放つ場所は多摩川の川崎側の河川敷らしい。格差社会で追い詰められ、行き場を失った者たちが行き着く場所。
福山演じる弁護士は最初の犯行の地、留萌を訪れる。過疎化のあおりで留萌本線は廃線の道をたどっている。こうした街で殺人を犯し、出所後に河川敷に流れ着いた男。二つの地をつなぐ底辺の風景。私には思いつかない視点だった。
川本は「シェーン」を「優しい西部劇」という。第二次大戦に従軍した監督のジョージ・スティーヴンスが帰国後、ジョン・ウェインが「ギターを弾くように気楽に銃を撃つ」シーンに違和感を持ったという。そこから女性や子供の心情に思いをはせる「優しさ」を西部劇に取り込んだ。
川本はいつもスクリーンに敗者や弱者の悲しみを見る。それらを浮き彫りにして読み手に感動を伝える。70代後半に達したというが、もっと映画評論を読ませてほしい。心からそう思う。
キネマ旬報社、3300円。
- 作者: 川本三郎
- 出版社/メーカー: キネマ旬報社
- 発売日: 2023/01/31
- メディア: 単行本
日本の曲がり角で放たれた光芒~濫読日記 [濫読日記]
日本の曲がり角で放たれた光芒~濫読日記
「サークル村」は、標題の3人を中心に企てられた文化運動。拠点は1950年代後半、エネルギー革命の現場だった九州・筑豊。その運動は何だったかを、それぞれの思想のかたちを見る中で浮き彫りにしたのが本書である。
「サークル村」については、水溜真由美の労作「『サークル村』と森崎和江」がある。発行年と著者の生年を押さえると以下になる。
「サークル村の磁場」2011年、「『サークル村』と森崎和江」2013年。新木1949年、水溜1972年。
なぜこんなデータを出したか。「サークル村」が歴史上の事実というほど古くはなく「いま」というほど生々しくもない、という「中途半端さ」に理由がある。福岡県生まれの新木に、筑豊の闘いは幼いころの記憶の端にはあったはずで、一方の水溜は大阪に生まれ、物心ついたころは1980年代。三井三池の闘いを直接には知らないと思われる。
二つの著書はほぼ同時期に刊行されたがアプローチには相当の違いがある。理由の一端が、上記のような時代性にあると考えられる。水溜はまず森崎の思想と文体の独自性にひかれ、そこから「サークル村」へ、さらに時代論へと行き着いた(著作自体は順番を逆転させ、時代論から入っている)。対して新木は、3人の思想の原点と展開(転回)をそれぞれ追う形で著書を構成した。あくまで森崎論にこだわった水溜に対して、3人をほぼ同格に見たのが新木だった。
そこで、新木に対してある違和感が生じる。3人への距離感が微妙に違っている点である。端的な例が、上野と谷川の「死」をめぐる記述であろう。谷川は「谷川雁の東京」の章の末尾2行のみ。上野は「上野英信と晴子」の1章を立て、二人の死地への旅立ちを細かく追った。もっとも、詩「東京へゆくな」で「水仙いろした泥の都」と嫌悪をぶつけた東京へさっさと向かい、1960年代後半に「テック」重役に収まった後半生は書きにくかったかもしれない。
上野と谷川に対する温度差の謎は「あとがき」を読むとかなり氷解する。新木は松下竜一の「草の根通信」を1975年から手伝い始めた。松下を通じて師である上野を知り、森崎と谷川を知った。そこで、まず「上野英信と松下竜一」を竜一忌のために書き、森崎と谷川を加筆したと明かしている。
暗喩と逆説に満ちた谷川の詩を「理解できない」(102-103P、【注】)と率直に言う新木にとって、谷川は3人(松下を入れれば4人)の中で最も遠い存在だったのだろう。「サークル村」とは谷川、森崎、上野の異なった思想の形を持つものが相対した「磁場」としてある時期成り立ったとみられるが、新木が0・5極として松下を加えているのも理解できる(松下がいるなら石牟礼道子も、と考えられるが、それは別の議論かもしれない)。
「大正のたたかいが崩壊し、何もしないために東京へ去った」。新木は渡辺京二の言葉を引き、谷川の「東京ゆき」を説明している。谷川の後を追い筑豊に来た森崎は、海峡を挟んで近代日本の長い精神史の旅路に出、上野は古い炭住を買い取って筑豊文庫とし、集会所を兼ねて拠点としたが病魔に勝てず死去した(1987年、64歳。谷川は1995年、71歳、森崎は2022年、95歳で亡くなった)。
日本が近代から現代へと脱皮する中、思想戦の前線に立って光芒を放ったものたち。光は、地底から今も放たれていると信じる。
海鳥社刊、2200円。
【注】「しかし、正直に言うけど、素僕な田舎者である僕は谷川の詩が多分一行も理解できない。(略)言葉が言葉を相殺し、どんなイメージも湧き起こってこない(彼自身なったことがあるという)失読症になったのかと思った」―かなり辛辣であるが、一般的な理解だったと思う。ただ、同じ「田舎者」として谷川の詩に接したとき「分からなさ」の中に惹かれるものを、私は感じていた。今となってみれば、新木のように分からないものは分からん、という態度がまっとうだと思う。