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日本の曲がり角で放たれた光芒~濫読日記 [濫読日記]


日本の曲がり角で放たれた光芒~濫読日記


「サークル村の磁場 上野英信・谷川雁・森崎和江」(新木安利著)


 「サークル村」は、標題の3人を中心に企てられた文化運動。拠点は1950年代後半、エネルギー革命の現場だった九州・筑豊。その運動は何だったかを、それぞれの思想のかたちを見る中で浮き彫りにしたのが本書である。
 「サークル村」については、水溜真由美の労作「『サークル村』と森崎和江」がある。発行年と著者の生年を押さえると以下になる。
 「サークル村の磁場」2011年、「『サークル村』と森崎和江」2013年。新木1949年、水溜1972年。
 なぜこんなデータを出したか。「サークル村」が歴史上の事実というほど古くはなく「いま」というほど生々しくもない、という「中途半端さ」に理由がある。福岡県生まれの新木に、筑豊の闘いは幼いころの記憶の端にはあったはずで、一方の水溜は大阪に生まれ、物心ついたころは1980年代。三井三池の闘いを直接には知らないと思われる。
 二つの著書はほぼ同時期に刊行されたがアプローチには相当の違いがある。理由の一端が、上記のような時代性にあると考えられる。水溜はまず森崎の思想と文体の独自性にひかれ、そこから「サークル村」へ、さらに時代論へと行き着いた(著作自体は順番を逆転させ、時代論から入っている)。対して新木は、3人の思想の原点と展開(転回)をそれぞれ追う形で著書を構成した。あくまで森崎論にこだわった水溜に対して、3人をほぼ同格に見たのが新木だった。
 そこで、新木に対してある違和感が生じる。3人への距離感が微妙に違っている点である。端的な例が、上野と谷川の「死」をめぐる記述であろう。谷川は「谷川雁の東京」の章の末尾2行のみ。上野は「上野英信と晴子」の1章を立て、二人の死地への旅立ちを細かく追った。もっとも、詩「東京へゆくな」で「水仙いろした泥の都」と嫌悪をぶつけた東京へさっさと向かい、1960年代後半に「テック」重役に収まった後半生は書きにくかったかもしれない。
 上野と谷川に対する温度差の謎は「あとがき」を読むとかなり氷解する。新木は松下竜一の「草の根通信」を1975年から手伝い始めた。松下を通じて師である上野を知り、森崎と谷川を知った。そこで、まず「上野英信と松下竜一」を竜一忌のために書き、森崎と谷川を加筆したと明かしている。
 暗喩と逆説に満ちた谷川の詩を「理解できない」(102-103P、【注】)と率直に言う新木にとって、谷川は3人(松下を入れれば4人)の中で最も遠い存在だったのだろう。「サークル村」とは谷川、森崎、上野の異なった思想の形を持つものが相対した「磁場」としてある時期成り立ったとみられるが、新木が05極として松下を加えているのも理解できる(松下がいるなら石牟礼道子も、と考えられるが、それは別の議論かもしれない)。
 「大正のたたかいが崩壊し、何もしないために東京へ去った」。新木は渡辺京二の言葉を引き、谷川の「東京ゆき」を説明している。谷川の後を追い筑豊に来た森崎は、海峡を挟んで近代日本の長い精神史の旅路に出、上野は古い炭住を買い取って筑豊文庫とし、集会所を兼ねて拠点としたが病魔に勝てず死去した(1987年、64歳。谷川は1995年、71歳、森崎は2022年、95歳で亡くなった)。
 日本が近代から現代へと脱皮する中、思想戦の前線に立って光芒を放ったものたち。光は、地底から今も放たれていると信じる。
 海鳥社刊、2200円。

【注】「しかし、正直に言うけど、素僕な田舎者である僕は谷川の詩が多分一行も理解できない。(略)言葉が言葉を相殺し、どんなイメージも湧き起こってこない(彼自身なったことがあるという)失読症になったのかと思った」―かなり辛辣であるが、一般的な理解だったと思う。ただ、同じ「田舎者」として谷川の詩に接したとき「分からなさ」の中に惹かれるものを、私は感じていた。今となってみれば、新木のように分からないものは分からん、という態度がまっとうだと思う。



サークル村の磁場―上野英信・谷川雁・森崎和江

サークル村の磁場―上野英信・谷川雁・森崎和江

  • 作者: 新木 安利
  • 出版社/メーカー: 海鳥社
  • 発売日: 2011/02/01
  • メディア: 単行本



 


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無意味な戦争の真実を描く~濫読日記 [濫読日記]

無意味な戦争の真実を描く~濫読日記


「亜鉛の少年たち アフガン帰還兵の証言」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著)


 ソ連のアフガン侵攻は1978年に始まり1989年まで続いた。きっかけは、アフガンに成立した共産主義政権と同国内のイスラム勢力との内戦激化だった。日本人にとっては、どちらかといえば遠い話だったが、1980年モスクワ五輪の西側国ボイコットによって一気に身近になった。イスラム勢力が勝利しソ連軍は撤退。時を経ずソ連は崩壊した。米欧の支援を受けたイスラム勢力はその後モンスター化し、アルカイダによる米国中枢同時テロへと発展したことは記憶に新しい。
 ソ連のアフガン侵攻はかつての米国によるベトナム戦争と並ぶ「愚かな戦争」だった。しかし、末期とはいえ全体主義国だけに国内の反戦運動は容易ではなかっただろう。権力者のプロパガンダに踊らされ、無意味に死んだ若者は少なくなかった。

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが独自の手法による作品で脚光を浴びたのは、独ソ戦経験者を取材した「戦争は女の顔をしていない」(1985年)からだった。子供たちが見た戦争の記録「ボタン穴から見た戦争」を経て1988年にソ連侵攻下にあったアフガンを取材、「アフガン帰還兵の証言」をまとめた。著者自身はこの後、チェルノブイリ原発事故の関係者を取材した「チェルノブイリの祈り」や、ポスト社会主義を生きる人々の苦悩を浮き彫りにした「セカンドハンドの時代」へ向かう。

 「アフガン帰還兵の証言」はソ連兵、母親の傷跡や苦悩を浮き彫りにした。当事者への聞き取りだけでなく、スヴェトラーナによる証言の再構成によって文学的価値が高められた。戦場での恐怖、逡巡、罪悪感、母親たちの悔恨。これらがストレートに伝わる。

 しかし、現実を取材したうえで文学的加工を行うという手法(一般的にはノンフィクション・ノベルと呼ばれるが、ここではドキュメント文学と称している。同じものと認識するが、両者に差異があるならご教示願いたい)。取材された側からは、発言どおりに書かれていないとの声が上がり、多くの裁判が提起された。もちろん、アフガン侵攻を国家的正義としなければ気が済まない権力者の思惑が背後にあることは容易に想像がつく。
 事実から真実に迫ろうとするなら、取材した事実をそのままの形で掲載するなど、ありえない。兵士たちはみな死を恐れない英雄であり、母親は喜んで子を戦場に送り出す愛国者ばかりになってしまうからだ。しかし実際は、兵士たち(その多くはまだ少年)は死を恐れ、無意味な殺し合いに絶望し、母親は子を戦場へ送らなければよかった、と悔やむ。そうした真実を描き出すためには、言葉の裏側を読み取ったうえでの文学的加工が必要になる。

 ここで「戦争は女の顔―」と「アフガン帰還兵―」の違いについて簡単に触れる。ポイントは二つ。
 「戦争は女の顔―」は取材時点で、40年前の事実についての証言である。個人史としては、半生を過ぎている。「アフガン帰還兵―」は現在進行中の事実についてだった。もう一つはテーマ性の違い。「戦争は女の顔―」は戦争に従事した女性に特有の苦痛を浮き彫りにした。「アフガン帰還兵―」は愛国者の仮面の下にある恐怖や疑問を暴き出した。前者は証言者の理解を得やすく、後者は反発を招きやすい。このあたりに、二つの作品の世間での受け止めの違いの遠因があるようだ。

 戦場からソ連へ送り返された棺は亜鉛メッキされた鋼板で裏打ちされていたという。戦場の秘密を守るため開かないように、と工作された結果だった。戦場で非人間的な行為を目撃し、自らも手を染めた少年兵たちは心に深い傷を負った。スヴェトラーナはそうした彼らの精神風景を描き出し「亜鉛の(心を持つ)少年たち」と名付けた。
 兵士、母親たちとの訴訟記録を加え、当初より大幅に分厚い一冊になった。訴訟記録は真実とは、ノンフィクション(ここではドキュメンタリー)とは、ノンフィクション・ノベル(ドキュメンタリー文学)とは、といった問題を考えるうえで極めて有意である。

 ここにある「アフガン」を「ウクライナ」と置き換えてみれば、書かれたことが過去の一時期のことと言ってしまえないことが容易に想像できる。悲しいことだが。
 岩波書店、3200円。訳は奈倉有里。



亜鉛の少年たち: アフガン帰還兵の証言 増補版

亜鉛の少年たち: アフガン帰還兵の証言 増補版

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2022/06/30
  • メディア: 単行本



 


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物語を縁どる死生観~濫読日記 [濫読日記]

物語を縁どる死生観~濫読日記


「宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人」(今野勉著)


 宮沢賢治といえば「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」が頭に浮かぶ。童話の作り手=メルヘンの世界の住人と考えがちだが、その思想は深い闇を抱えた死生観に縁どられている。「銀河鉄道」はどこからどこへ行くのか。「風の又三郎」はどこからきてどこへ消えたのか…。
 賢治の実家は浄土真宗の檀家として知られたが、賢治自身は日蓮宗の熱心な信者だった。彼の世界観はその辺に由来するが、そればかりではない。その先を詩論、文学論として究明する方法もあろうが、今野勉はもっと身近な手法によって「賢治の思想」即ち「修羅」の核心に迫った。詩と実生活を重ね合わせ、思想の重要なモメンタムとなった出来事を浮き彫りにした。
 賢治は自身の「詩」らしきものを「心象スケッチ」と呼んだ。心的現象をそのまま文字化したといい、詩としての表現性=自己と他者を言葉で媒介する=を持たない。そのため賢治にしか理解不能な言葉遣いが往々に見られた。今野がとった手法の裏側には、こうした事情もあったと思われる。

 賢治の思想のモメンタムとなった出来事とは何か。
 今野は二つのことを挙げる。賢治が盛岡高等農林学校に入り、知り合った保坂嘉内への友愛。菅原千恵子の研究に基づき、今野はその関係を「恋」とする。もう一つは、妹とし子の恋と死。

 農林学校で賢治と嘉内は文芸同人誌「アザリア」を創刊する。部数は、同人数と同じ12。創刊号の合評会の後、うち4人が盛岡から雫石まで17㌔を夜中に歩きとおした。無意味だが青春のにおいがする。「馬鹿旅行」の1週間後、賢治と嘉内は岩手山に登った。その時の賢治の歌。
 柏ばら/ほのほたえたるたいまつを/ふたりかたみに/吹きてありけり
 「ふたりかたみに」は「ふたりでかわるがわるに」。どのような関係にあったかを暗示する。嘉内はそののち、異性への恋を歌い離れたが、賢治は「岩手山登山でたてた誓いは何だったのか」と悲痛な問いかけをした。
 アザリア5号に、賢治は「心象」を書いた。
  ――私はさびしい、父はなきながらしかる、かなしい。母はあかぎれして私の幸福を思う。私は意気地なしの泣いてばかりいる。
  ――なんにもない。なぁんにもない。なぁんにもない。

 とし子は賢治の2歳下の妹。花巻高等女学校で学業の成績は良く、卒業式では総代として答辞を読んだ。真面目一筋と思われた彼女の「恋愛沙汰」が明らかになった。彼女が残したと思われる「自省録」によって。相手は音楽教師だった。地元紙「岩手民報」が面白おかしく書き立てた。「自省録」は「真偽取り混ぜて」とするが、本当のところはわからない。とし子は追われるように花巻を出て東京の女子大へ進学した。成績が良かったこともあるが、ゴシップからの逃避という事情もあった。
 大学を出たとし子は、なぜか母校の花巻高女の教壇に立った。しかし翌年、結核のため喀血、退職した。宮沢家の別荘を療養所とし、賢治も2階に移り住んだ。
 ――けふのうちに/とおくにいってしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
 賢治の「永訣の朝」である。

 「銀河鉄道の夜」に、架橋演習をする工兵大隊の話が出てくる。「旄」という小さな旗を持ち、朝鮮の兵のようだ。当時、岩手県内には土木工事をする朝鮮人が多かったことから連想したらしい。今野は「架橋」に引っ掛かった。
 天の川西岸に二人の童子を、東岸に兄と妹を住まわせる。これを現実の投影と考えると、西岸にいるのは嘉内で東岸にとし子。その間を行きかうため、橋を架ける。賢治が埋め込んだもう一つの物語。「銀河鉄道の夜」は死者の物語である。
 新潮文庫、800円(税別)。



宮沢賢治の真実 : 修羅を生きた詩人

宮沢賢治の真実 : 修羅を生きた詩人

  • 作者: 今野勉
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/02/28
  • メディア: 単行本



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たった一人の犠牲者に寄り添う~濫読日記 [濫読日記]

たった一人の犠牲者に寄り添う~濫読日記


「カティンの森のヤニナ 独ソ戦の闇に消えた女性飛行士」(小林文乃著)


 ポーランドのクラクフを旅したとき、ガイドの日本人女性に聞いたことがある。①アンジェイ・ワイダ監督を知っていますか②カティンの森の事件を知っていますか。
 ①については「ええ、知っていますとも。クラクフ出身の有名人ですよ」。②については「知らない」と怪訝そうな表情だった。クラクフはアウシュヴィッツ訪問の中継点としてよく利用される。私もそうだった。アウシュヴィッツの知識があるなら…という期待は裏切られた。

 ポーランドを独ソが分割した直後の1940年、連行した将校の多くが虐殺され埋められた。犠牲者の数は今も確定しておらず、2万5000人以上とも言われる【注】。現場はモスクワの南西、ヴェラルーシとの国境に近いロシア領カティン。地名をかぶせて「カティンの森事件」と呼ばれる。真相解明が遅れたのは、冷徹な国際政治のからくりが影響した。第二次大戦後、戦勝国ソ連と衛星国ポーランドは、徹底して事件を闇に葬った。それどころか、虐殺者はドイツだと強弁した。ソ連が自ら主犯であることを公式に認めたのは1990年、ゴルバチョフ大統領のグラスノースチ(情報公開)のさなかだった。事件は今も闇の部分が多い。
 犠牲者の中にただ一人、女性がいた。
 このことを知った日本の女性ライターが3度のポーランド訪問の後、書き上げたのが標題の書である。もちろん、カティンにも足を踏み入れた。

 私はこの書を書店で探す際、まず「ノンフィクション」の棚を見た。だが当該の本は「紀行」の棚にあった。「なぜ?」と思いながら手にした。読んでみると、多少その訳が分かった。
 32歳の誕生日に命を落としたポーランド空軍中尉、ヤニナ・レヴァンドフスカ。彼女はなぜ、たった一人の犠牲者になったのか。ポーランドを旅する中で彼女を知る人物を追い、生い立ちを明らかにしていく。ヤニナの人生に寄り添うことで、ポーランドの悲劇の歴史を浮き彫りにしていく。その中で、ワルシャワ蜂起の無残な結末とスターリンの非情にも、怒りを込めて触れている(蜂起後のワルシャワ市民が劣勢になる過程で、ソ連軍は川一つ隔てて静観した。戦後の主導権をソ連が握るためだった)。これはノンフィクションというより歴史紀行という方が似合っている。
 ヤニナが銃殺されて2か月後、妹のアグネシュカも別の虐殺事件の犠牲になった。ナチスの手によるものだった。その過程も、ただ文献によるのではなく市民らの記憶を頼りに掘り起こされていく。姉妹の悲劇をわが苦難として受け止める人々の声が積み上げられる。ヤニナの父ムシニツキは第一次大戦時、ボルシェヴィキと戦うポーランド軍団の創設者だった。そうしたこともヤニナの人生に影響を与えていると思われる。
 冒頭にあげたワイダ監督も、カティンの森事件で父を失った。映画化を試みたが社会主義下では許可されず、執念が実ったのは2007年、ポーランドが自由化してからだった。「灰とダイヤモンド」のような虚無的で才あふれる映像ではない、ひたすら事件を直視した映画だったと記憶する。そのことが逆に監督の凝縮した思いを感じさせた。

 カティンを訪れた帰途、著者はロシアの夕陽を見て、こう書いている。
 ――やがて日が沈むと、空一面が真っ赤に染まった。なんという赤さ。暴力的なほどの赤で大地がすっぽりと覆われて、その光景に私は思わず震える。
 いったい、何に震えたのか。歴史の闇に流れる血の赤さに震えたのではなかったか。

【注】ヴィクトル・ザフラフスキー「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」(みすず書房)


  • 作者: カティンの森のヤニナ: 独ソ戦の闇に消えた女性飛行士小林 文乃
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2023/03/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
カティンの森のヤニナ: 独ソ戦の闇に消えた女性飛行士

 


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小津作品の「戦争」にこだわる~濫読日記 [濫読日記]

小津作品の「戦争」にこだわる~濫読日記


「小津安二郎」(平山周吉著)


 以前から気になっていたが、著者の「平山周吉」はペンネームで、あの「東京物語」で笠智衆が演じた初老の男と同名である。「平山周吉」が小津安二郎を論じる。こんなバカげた話があるだろうか。そんな思いを抱きながら「小津安二郎」を手にした。
 著者もそのあたりが気になったらしく「まさか自分が小津安二郎の本を書くとは思いもしなかった」と、あとがきで弁解じみたことを書いている。「予感」があったかなかったか、本人以外知る由もないので、この問題はこのあたりでやめておこう。

 平山の著書では「満洲国グランドホテル」を読んだ。文献主義とでもいおうか、テーマに沿って日常的な書簡、雑誌の雑文に至るまで調べ上げ、当事者の行動を明らかにしていく。「小津安二郎」もこの手法は健在で、取材対象は映画や評伝にとどまらない。これを第一とすると、第二の特徴は、戦争の影を微細に拾い上げている点である。小津の作品群は嫌いではないが、なにしろ雑な観賞眼のため「麦秋」「東京暮色」ぐらいしか、戦争の影を意識したことはなかった。「麦秋」のラストシーン、揺れる麦の穂に日中戦線で亡くなった兵士の魂を見るというのは定説であるし「東京暮色」では、主人公の杉山周吉が戦時下の「京城」に赴任。その際に妻が不倫相手と出奔する。そうした過去が、小津作品には珍しい「暗さ」の基調になっている。

 小津は30代で日中戦線に赴き、山中貞雄と再会したことはよく知られる。山中は戦地で没し、小津は帰国。その後、軍の特命で仏印に向かった。国民を鼓舞する映画を撮るためだったが、作品化はならなかった。そうした単純明快な映画は作れなかったのだろう。
 先に挙げた「麦秋」のラストで小津の念頭に山中があったことは明らかだが、平山は、この作品での「異様なキャメラの動き」にも言及する。小津はローアングルの固定キャメラで知られるが、不自然なほど移動させている。山中の浮遊する魂がそうさせたのだ、と平山はいう。もう一つ、歌舞伎見物をするシーン。舞台は映らずセリフだけが流れる。「河内山宗俊」である。山中は中国へ行く前、原作にはない人物に原節子をあてて「河内山宗俊」を撮った。蓮見重彦は、原のシーンを「世界の映画史でもっとも悲痛な場面」と、最大級の賛辞を贈っている。

 「晩春」の壺のシーンにも、山中への思いを託した、とする。笠智衆と原節子の父娘が同じ部屋で就寝し「あたし、お父さんとこのままいたいの」と告げるシーンである。性的なぎりぎりの時間が流れる。キャメラは窓際の壺を凝視する。理解が難しいシーンである。小津は「丹下左膳余話 百萬両の壺」がつなぐ山中へのオマージュをこめた、という。

 「東京物語」。戦争未亡人「紀子」の原節子が「周吉」の笠智衆に別れを告げる。縁側に雁来紅(葉鶏頭)が咲いている。移動可能な鉢植えで、小津のこだわりが見える。小津の追悼文によると、山中は召集令状がきた翌日、小津宅を訪れた。庭を見て「おっちゃん、ええ花植えたのう」という。葉鶏頭が盛りだった。中国でも葉鶏頭は咲いていた。間もなく、山中の陣没を聞いたという。
 「東京物語」はモノクロである。カラーなら赤は目立ったかもしれない。しかし、小津にとってどうでもよかった、と平山は見る。だれにでもわかってしまえば、画面はあざとくなる。

 小津は志賀直哉のファンだった。「東京物語」の舞台が尾道なのも「暗夜行路」の影響だという。そういわれれば、という気もする。志賀も小津作品について「まどろっこしい事もあるけど(略)好意を持って観ているんだ」と、ある座談会で発言している。ただ「東京暮色」に関しては文豪の評価は「余り関心はしなかった」と、低かったようだ。戦時中、妻・喜久子(山田五十鈴)に逃げられた周吉(笠智衆)と夫婦仲が悪く実家に戻った長女・孝子(原節子)と大学生にもてあそばれ妊娠した次女・明子(有馬稲子)の物語。次女は自らの出生に疑問を持ちながら踏切で事故死(事実上の自殺)するというショッキングな結末。問題作に違いないが、キネ旬ベストテンでは19位と、小津作品にあるまじき順位だった。興行的にも不入りで、失敗作とされた。

 しかし近年、周吉が妻の出奔時、京城に赴任していたことに「朝鮮半島支配の残滓=帝国の残影」を見る歴史家・与那覇潤の観点もあり、評価は確定しているとはいえない。
 では、平山はどうか。明子役は当初、岸恵子を念頭に考えられていたが「雪国」の撮影が延びたことから有馬に差し替えられた、というプロデューサーの証言を拾っている。「岸さんだったら、退廃的な感じがもう少し自然にうまく出せたかもしれません」。証言は、シナリオを書いた野田高梧との不協和音にも及ぶ。「野田さんが好むような話ではないんですよ」。野田の娘・玲子も同意見で「小津さんは、父とコンビを解消すべきだったのよ」。失敗が運命づけられた作品、と多くの証言が物語る。

 うーむ、そうか。そうなのか。私は個人的に「東京暮色」は捨てがたい作品だと思う。どこかに、評価を逆転する糸口はないものか。
 新潮社、2700円。



小津安二郎

小津安二郎

  • 作者: 平山 周吉
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2023/03/29
  • メディア: 単行本


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「大東亜共栄圏」の虚妄を突く~濫読日記 [濫読日記]

「大東亜共栄圏」の虚妄を突く~濫読日記


「太平洋戦争秘史 周辺国・植民地から見た『日本の戦争』」(山崎雅弘著)

 「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」と呼ばれる先の大戦は、かつて「大東亜戦争」と称した。大東亜共栄圏の確立を目指し、欧米の植民地支配からアジアを解放する戦いとされた。根拠は、開戦から1か月半たった19421月の東條英機首相演説にあった。そこで東條は「一〇〇年間にわたって米英の搾取に苦しんできたアジア諸国を解放し、大東亜永遠の平和と、帝国(日本)を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立する」と、戦争の意義を述べた(64P)。
 あの戦争に、アジアの国々を解放する大義はあったのか。「太平洋戦争秘史」は、具体的な事例を通して、このことを問い直した。

 例えば仏領インドシナ。フランスはドイツが侵攻した翌年の1940年に親ナチのヴィシー政権が樹立され、ドイツ寄りの国になった。つまり、日本にとっては「味方」の国である。日本がインドシナ半島を重視したのは中国戦線・援蒋ルート(米英による蒋介石軍援助のための兵站ルート)があったからで、これを無効化することが第一の狙いだった。こうした背景のもと41年、日仏共同で仏印全域の防衛にあたるという軍事協定が結ばれた(63P)。
 こうした経緯を見ても、日本は仏印の共同支配者になっただけで「解放の旗手」などではなかった。戦争末期には、食糧不足を補うため日本軍がコメの供出を強制し、深刻な飢饉を招いたことが民族運動の台頭を招いた。

 マラヤ・シンガポールは英国領だったが、日本軍は新たな支配者として登場、英国をはるかに上回る残忍さを発揮した。ここでは中国戦線情勢を受けた中国系華僑の反日ゲリラ行動が背景としてある。ゲリラ活動は中国系人民の海をバックに行われ、判別がつかない日本軍は、中国系人民の無差別虐殺に走った。戦後のマレーシアの資料によると、中国系の犠牲者は数万人に上るという(105P)。日本軍は解放軍どころか殺人鬼だった。

 フィリピンはアメリカの植民地だったが1934年、フィリピン独立法を成立させ、10年後の44年独立を認めていた。侵攻した日本軍に対して初めは歓迎ムードだった市民は、高圧的で偏見に満ちた軍の態度に反発し、抗日ゲリラが増大した。アメリカは日本に比べ寛容で、欧州諸国ほど資源や産物を植民地から入れる必要がなかった(自国で賄える)ためと思われる。

 英国領だったインドの独立に、日本はほとんどかかわっていない。そのこともあって独立の経緯は複雑である。第二次世界大戦は民主主義を旗印にする連合軍とファシズムの枢軸国の戦いだった。一方で、インドから見れば独立を勝ち取るには反英闘争強化が必要だった。民主主義か独立か。インドの民族運動は三つに分かれた。
 まず国民会議派のカリスマ的指導者ガンジーとネルー。非暴力の民主主義を唱えた。これに対して「敵の敵は味方」の立場がチャンドラ・ボース。英国の敵である日本に接近した。もう一つはイスラム派だった。アジア解放の旗手としての日本軍は、ボースの場合を除き、ここでは登場していない。

 このほかにもモンゴルやビルマ(ミャンマー)の事例を通してアジア・太平洋戦争での日本軍の行動が紹介された。いずれも「大東亜戦争」の虚妄を突いている。日本からではなく、アジア各国の視点に立ち、先の大戦のアウトラインを浮き彫りにした。山崎雅弘には、同様の視点での「第二次大戦秘史」がある。2冊とも読むことを勧めたい。
 朝日新聞出版、1200円(税別)。



太平洋戦争秘史 周辺国・植民地から見た「日本の戦争」 (朝日新書)

太平洋戦争秘史 周辺国・植民地から見た「日本の戦争」 (朝日新書)

  • 作者: 山崎 雅弘
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2022/08/12
  • メディア: 新書


 


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戦時下・戦後の大陸を生き抜いた記録~濫読日記 [濫読日記]

戦時下・戦後の大陸を生き抜いた記録~濫読日記


「満映秘史 栄華、崩壊、中国映画草創」(石井妙子 岸富美子著)


 二人の共著の形をとるが、多くは一人称で語られている。映画編集者・岸の体験記をベースに、石井がインタビュー取材したものを付加した。多くが岸個人の記憶によっており、史実として疑問の部分もある。そこで、章ごとに石井が解説を付けた。語りの過不足を補い、記述の信ぴょう性にも言及した。


 日中戦争が本格化した昭和14年、岸は兄たちの誘いもあって満映に入った。19歳になったばかりで、この時から中国大陸を放浪する。戦時下6年、戦後8年。苦難の日々だった。
 満映には社史が存在しないという。この「秘史」がそれに代わるものかは分からない。個人史の部分があまりにも多いからだ。言い換えるなら戦時下、戦後の中国大陸を生き抜いた女性史としては十分すぎる重みを感じさせる。
 岸の実家は、もともと裕福だったが父の事業の失敗もあり生活は困窮した。兄たちが働いていたこともあって映画業界に職を得たのは昭和10年、14歳のときだった。2年後、ある作品と出会う。日独合作の国策映画「新しき土」である。同い年の原節子が抜擢され主演した。製作現場にはアリス・ルートヴィッヒという女性の編集者がいた。この時代に考えられないことだった。アリスの存在が岸の目標となった。

 満映には、日本語のうまい中国女性という触れ込みで実は日本人だった李香蘭がいた。彼女も同い年だった。理事長についた甘粕正彦に、岸は「眼光がひどく鋭い」と印象を持つ。甘粕を理事長に据えた「満洲のゲッペルス」こと武藤富雄のそれと大きく違っていた。武藤は「顔面蒼白」で「残忍酷薄」かと思ったら「案外快活な表情をしているので驚いた」という【注】。どちらが事実に近いのだろう。岸には、大杉栄と伊藤野枝を殺害した男という先入観が作用しているかもしれない。
 甘粕は、日本の敗戦直後に青酸カリ自殺をする。岸はこの行動に極めて批判的だ。

 ――まったく納得できなかった。甘粕のことを卑怯だと思った。(略)困難な状況から逃げずに前面に立って率いていくのが、指導者の取るべき態度ではないのか。(略)日本人は寄る辺を失い、これからどこをさまようことになるのか。

 予感通り、地獄の日々が待っていた。新生中国に映画産業を根付かせる、という目的で多くの映画人が引き留められた。しかし、内戦を抱える中国側に余裕はなかった。
 ソ連軍の撤収後、東北電影公司(旧満映)を接収した中国共産党は、東洋一といわれた撮影機材に快哉を叫んだという。しかし、内戦の激化で北の鶴崗へ疎開が決まり、内田吐夢監督らが同行した。撮影用の資材を梱包、馬車の列は2㌔に及んだ。夕日が沈む広野の隊列を見て内田監督は「この光景をいつか映画にしたい」といったという。

 鶴崗ではさらなる苦難が待っていた。「学習会」と「精簡」である。共産党系の人たちが主催する学習会は自己批判、他者批判の色彩を強めた。そして昭和22年2月、中国共産党員から「精簡」を告げられた。精兵簡政の略で、人員を削減し行政を簡素化する。平たく言えば人員整理である。精簡された人は別任務に就く。人物名は明らかでないが、日本人が日本人を仕分けした。区分けははっきりしなかった。映画技術の有無でも思想性でもなく、はっきりしていたのは、弱者は精簡されたということだった。内田吐夢監督、木村壮十二監督は精簡組で、ひどいことにはならないと思われたが外れた。船とトラックと牛車を乗り継ぎ、着いたのは零下30度の原野に立つ苦力の小屋だった。割り当てられた仕事は、川に沈んだ沈没船の周囲の氷を割る。割っておけば春に船が浮上するという。しかし、翌朝氷は張っている。際限のない仕事だった。
 「精簡」の体験は、それぞれの内部に深い傷を残した。しかし、そのことに触れた回想はほとんどないという。語るには重すぎる事実だった。

 帰国が伝えられたのは昭和28年。そのころには映画の現場に戻っていた。中国だけでなく北朝鮮の映画も手伝っていた。
 石井によると、帰国後について岸はほとんど語らなかった。そこで、最終章は石井の取材に基づく三人称の記述になった。岸はなぜ寡黙になったか。8年間、敗戦国民として大陸に残された末の帰国。しかし、待っていた現実は過酷だった。映画会社は雇用の道を閉ざした。組合運動、左翼運動を警戒してのこと。「アカ」のレッテルが張られた。
 帰国後、果たしたい夢が二つあった。一つは、自分の出発点となったアリスとの再会。もう一つは中国再訪。アリスは亡くなっていたが、中国へは昭和56年、長春電影製片廠(旧満映)創立35周年に招待され訪れた。
 岸らが大陸にまいた種は着実に成長した。張芸謀、陳凱歌ら新世代は世界に知られる監督になった。
 石井は、93歳になった岸と初めて会った時の印象を「ほっそりとした身体からは、確固とした強さのようなもの、自立した精神とでもいうべきものが、やわらかく溢れ出ている」と書いた。岸のたどった過酷すぎる運命が、おのずと作り上げた空気のようなものを感じさせる。
 KADOKAWA1200円(税別)。
【注】「満洲国グランドホテル」(平山周吉著、芸術新聞社)



満映秘史 栄華、崩壊、中国映画草創 (角川新書)

満映秘史 栄華、崩壊、中国映画草創 (角川新書)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2022/07/08
  • メディア: 新書


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取るに足らない人々が紡ぐ物語~濫読日記 [濫読日記]

取るに足らない人々が紡ぐ物語~濫読日記


「ギャバンの帽子、アルヌールのコート 懐かしのヨーロッパ映画」(川本三郎著)

 著者は私より5歳年上。まあ、ほぼ同年代と言っていい。その著者が10代のころ、映画館通いをして見聞した名画32本がラインアップされた。1950~60年代が中心で、好みが反映されたらしくフランス映画が多い。私は9割がた未見で、観たのは「第三の男」や「ヘッドライト」など歴史的な作品ばかりだった。互いの少年期の違いが分かる。
 観てもいない映画の評を読んで面白いのか、といぶかられるかもしれないが、そこが著者の腕であろう。批評とともに粗筋が過不足なく紹介される。書き味のうまさに引き込まれる。末尾あたりに気のきいた歴史エピソードも紹介されている。

 やや唐突感のある長いタイトルは「ヘッドライト」をめぐる一文から。
 ――いつもビニールの安いコートを着ている。それが似合う。アルヌールは「女猫」ではエナメルのコートを着ていた。ジャン・ギャバンには帽子が似合うとすれば、アルヌールはコートだ。
 高価な帽子やコートではない。「ヘッドライト」の原題は「取るに足らない人々」。月の光の下のひかげの花。黒が似合う小柄で華奢な女性と、親子ほど年の離れた中年ドライバーの恋。それが詩情あふれる物語として描かれる。監督はアンリ・ヴェルヌイユ。アルメニア人で、一家はトルコの迫害を受けフランスに移住した。そうした体験も、この映画の「哀しさ」の底流にあるのではないか。
 著者は、スクリーンに流れるもの悲しさやうらぶれたたたずまいに共感をにじませる。そこが、読むものを引きつける。
 フランスのギャング映画の名作「現金に手を出すな」。同じギャバンの主演だが、ここでもさりげないディテールに目をやる。金塊を奪ったことを、うっかり若い女に漏らした友人を、こうたしなめる。
 ――俺たちはもう若くないんだ。若い女にうつつを抜かすな。
 なんと気のきいたセリフ。

 フランスとドイツの元戦闘機乗りがアフリカ西海岸で偶然出会う。一人はダイヤを盗み、一人は麻薬組織の手先に落ちぶれている。互いの経歴を知り友情を覚え、この地からの脱出を企てる。「悪の決算」(原題「英雄たちは疲れている」)も、出口の見えない寂寥感を漂わせる。
 「第三の男」。著者も書く通り「風と共に去りぬ」と並んで戦後日本人に最も愛された外国映画であろう。その秘密(共通点)をずばり「敗者の物語」とする。「風と共に…」は南北戦争の敗者の女性が主人公だし「第三の…」は敗戦国オーストリアが舞台。ここにも、川本の視線と関心のありようが現れている。
 興味深かったのは、オーソン・ウェルズ演じるハリー・ライムのモデルがキム・フィルビーでは、とする説を紹介した部分。東西冷戦期の大物スパイ(ダブルクロス)の存在がこの名画の出発点にあるなら、これほど面白いことはない。
 「取るに足らない」人々の物語を紡ぎ、芳醇なワインの香りを漂わせるのは、川本の手腕のたまものであろう。
 春秋社刊、2000円(税別)。


ギャバンの帽子、アルヌールのコート: 懐かしのヨーロッパ映画

ギャバンの帽子、アルヌールのコート: 懐かしのヨーロッパ映画

  • 作者: 川本三郎
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2013/09/19
  • メディア: 単行本


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「クリミア」につながる「コソボ体験」~濫読日記 [濫読日記]

「クリミア」につながる「コソボ体験」~濫読日記


「プーチンの実像 孤高の『皇帝』の知られざる真実」(朝日新聞国際報道部)

 この2月24日、ロシアのウクライナ侵攻開始から1年が過ぎた。当初の予想は外れ、戦況の行方は予断を許さない。ロシアの絶対権力者プーチンが最終的な到達地点をどこに置いているかも明らかでなく、そのこともこの戦争を不安定化させている。
 プーチンは一体何を考えているか。
 手がかりとして「プーチンの世界 『皇帝』になった工作員」(新潮社)がある。米ブルッキングス研究所の二人の研究者が、国家主義者であり歴史家であり、工作員であるプーチンの脳内を丹念に探っている。膨大な資料を漁った大部であるだけに、読み通すにはかなりのエネルギーを必要とした。これに比べると多少、身近なところからアプローチを図れるのが、駒木明義ら朝日新聞3記者による「プーチンの実像」であろう。

 前出の著作と明らかに違うのは、日ロ関係(北方領土返還交渉)を基軸に置いたことである。そのうえで、権力の階段を駆け上ったプーチンの足跡を追っている。裏付ける資料として、報道現場で入手可能なもののほか、プーチンを知る人物へのインタビューを数多く行っている。
 「プーチンの実像」で、踏み込んだ印象を受けるのは、コソボ独立をめぐる下りだ。NATOとロシアの対立があり、その結果クリミア侵攻があったとする。
 ユーゴスラヴィア分裂後、セルビアに属するコソボ自治州はアルバニア系住民の反乱に揺れた。強権的な弾圧によって鎮圧を図ったセルビアに、NATOは人道的対応として首都ベオグラード空爆を行い、コソボ独立を支援した。ロシアはセルビアを支持したが、ソ連時代に見られたこの地域への影響力は地に堕ちていた。エリツィン時代の最末期、プーチンが大統領に着く直前のことだった。
 「プーチンの世界」ではさらりとしか触れられなかった「コソボ体験」が、クリミア侵攻の底流にあったという。その証拠に、併合当日のクレムリンでの演説で、プーチンは「コソボ」を6回も使ったという。例えばこんな風に。
 ――西側の諸君が自らつくったコソボの先例では、コソボが一方的にセルビアから独立することは合法で、中央政府の許可は必要ないという点で彼らは一致した。まさにクリミアが今やっていることだ。
 NATOがセルビアでやったことをロシアはクリミアでやっているだけだ。何が悪い? と言っている。ドンバスも同じ理屈だ。
 これについて「プーチンの実像」では、さらにこう書いている。
 ――それならば、なぜコソボの独立をロシアは承認しないのか。
 プーチンの頭の中にも論理矛盾はある、とする。

 ロシアはエリツィン時代、先進国首脳会議の一員として振る舞い、G8を構成した。しかし、クリミア侵攻の2014年以降、メンバーから外れた。コソボ体験とG8からの追放は、NATOに対する決定的な不信感をプーチンの頭に植え付けたのではないか。
 米欧への失望と猜疑心を抱えて孤立を深める「皇帝」はどこへ行くか。この著作では、いくつかの貴重なヒントはあったものの、結局これは謎のままだった。
 朝日新聞出版、800円(税別)。


プーチンの実像 孤高の「皇帝」の知られざる真実 (朝日文庫)

プーチンの実像 孤高の「皇帝」の知られざる真実 (朝日文庫)

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2019/03/07
  • メディア: 文庫



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社会の現在地で有効なのか~濫読日記 [濫読日記]

社会の現在地で有効なのか~濫読日記


「日本の保守とリベラル 思考の座標軸を立て直す」(宇野重規著)


 戦後長く続いた55年体制は、東西冷戦を国内に抱え込む形で保守・革新の対立という構造をもっていた。勢力図はほぼ2対1で推移、革新の側が護憲に回り、憲法改正を唱える自民などの3分の2議席獲得(=改憲発議)を阻止する、絶妙のバランスにあった。1991年にソ連が崩壊、東西冷戦が終わると、防共=日米安保条約をベースとした軽武装、経済優先を骨格とする55年体制は一気に空洞化、宮沢喜一内閣を最後に崩壊した。以来、いくつかの試行錯誤を経て今日に至るが、大半の期間は「空白の30年」と呼ばれた。多くは経済の停滞に起因するが、一方で保革対立に代わる政治構造を構築できない政治の側の責任も問われている――。

 時代の現在地は、ざっとこんなところだろうか。この現状にいら立つ人間は他にもいたようだ。宇野重規は、時代を取り巻く問題解決のため「保守とリベラル」という構図を提示する。果たして、この構図は有効なのだろうか。
 日本では「保守」も「リベラル」も、日常的に使われてはいるがきちんとした定義(誰が言い始めて、どんな定義のもと)があるわけではない。なんとはなし、ムードを表す言葉として使われている、といっていい。第一、保守とリベラルは同一平面上にある概念なのか。宇野もそこから説き始める。
 保守主義の原点は18世紀の英国政治家エドマンド・パークであるとか、リベラリズムの源流はフランス・ナポレオンに攻められたスペインにあったとか、いくつかの「へえ~」話が続き、戦前日本の保守主義の流れとして伊藤博文、陸奥宗光、原敬、西園寺公望、牧野伸顕らの足跡をたどる。リベラルとしては福沢諭吉、石橋湛山、清沢洌。戦後になるとリベラルはむしろ自民党内で命脈を保ち、吉田茂(牧野伸顕と義理の父子)から池田勇人、大平正芳。これは、吉田を源流とした保守本流でもあった。つまり、保守リベラル。
 ここで先の問いに答える形で書けば、保守主義の対極は改革主義もしくは急進主義、リベラルの対極は専制主義、もしくは事大主義であろう。もちろん。同一平面上にはない。従って、保守でありリベラルという立場は可能なのだ。
 戦後なぜ、リベラル左派の影が薄くなったか。もちろんわけがある。米ソ冷戦によって世界は東西の陣営に分かれ、日本でも保守対革新が前面に出たためだった。リベラル左派は革新の陰に隠れ、存在感が薄れた―。

 日本の高度経済成長は1973年のオイルショックで終わりを告げた。この時代は、転換点としてもう一つの側面を持つ。1968年に世界的に始まった「革命の時代」が終わりを告げた。新左翼の運動にとどめを刺した連合赤軍事件があったのも7172年だった。カウンターとして国鉄の「ディスカバージャパン」が70年に始まり、78年に山口百恵はキャンペーンソング「いい日旅立ち」を歌い、81年には元新左翼活動家・糸井重里が「おいしい生活」と高度資本主義下、豊かさからの転換を説いた。しかし、日本再評価の流れはバブル経済の崩壊とともに消えた。

 宇野の著作はこうした時代の裏側には目もくれず、大平から宮沢政権、そして55年体制崩壊後の非自民・細川護熙、羽田孜政権にリベラルの流れを追う。自社さ政権の村山富市内閣にも「リベラル」を見るが、この辺りになると消化不良を感じざるを得ない。
 自社さ政権は直前の細川、羽田内閣とは決定的に違っていた。むしろ55年体制への郷愁が生んだ政権ではなかったか。その意味では「反動=保守」だったように思う。

 急ぎ、著書の骨格を追ったが、リベラルへの過剰な期待と合わせ、物足りなさを感じる。「いま」という時代を直視すると、見えてくるのは長年の経済の停滞(それは社会の停滞でもある)と、それに伴う貧困層の拡大、埋めがたい貧富の格差、セーフティネットのない「滑り台社会」、そこから生まれる「生きにくさ」ではないか。保守であろうがリベラルであろうが、この問題を直視せずに何の存在理由があるのだろう。読後感としてそんなことを考えてしまった。
 中公選書、1600円(税別)。


日本の保守とリベラル-思考の座標軸を立て直す (中公選書 131)

日本の保守とリベラル-思考の座標軸を立て直す (中公選書 131)

  • 作者: 宇野 重規
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2023/01/10
  • メディア: 単行本

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