負の歴史に真摯に向き合う~「アナウンサーたちの戦争 劇場版」 [映画時評]
負の歴史に真摯に向き合う~「アナウンサーたちの戦争 劇場版」
NHKディレクターで作家の渡辺考が著した「プロパガンダ・ラジオ 日米電波戦争 幻の録音テープ」は日中戦争の発端となる盧溝橋事件の2年前、1935年に発足した日本放送協会(現NHK)の海外向けラジオ短波放送が、戦火拡大とともに「兵器」として使われた歴史を追った。末尾にNHKプロデューサー塩田純が文章を寄せ、こう書いている。
――私たち放送の担い手は、かつて真実を報道できず、多くの人々を戦場へと導く結果をもたらしたことを、改めて認識しなければならないでしょう。(略)放送人が自らの戦争責任を解明していくこと、それは今後も続けなければならない重い課題です。
当時、メディアの主役はラジオアナウンサーだった。テレビやネットがある現代と比べ、ラジオの比重は極めて高かった。その背景を少し探ると―。
20世紀初頭、公共空間の構造が大きく変わった。原因の一つはラジオの出現だった。それまで知識の源泉は書物だったが、ラジオによる宣伝・扇動(プロパガンダとアジテーション)が取って代わり、公共空間は書斎から街頭に移って労働者大衆を扇動する政党が台頭した。このことを体現したのがヒトラーのナチスだった(この項「増補 大衆宣伝の神話」佐藤卓己著を参照)。
戦時下の日本でも新しいメディアであるラジオをどう使うかは大きな政治テーマとなった。こうした状況の中、真実か扇動かで悩みもがいた放送人の姿を描いたのが映画「アナウンサーたちの戦争」である。
昭和14年春、新人アナウンサー入局から始まる。実枝子(橋本愛)たちは研修の席で、和田信賢アナ(森田剛)の傍若無人ぶりを見てあっけにとられる。やがて真珠湾攻撃による日米開戦。和田や若手の館野守男アナ(高良健吾)は軍艦マーチとともに大本営発表の戦果を高揚して伝えた。和田はスポーツ実況では第一人者で、戦争報道にも力は発揮されたのだ。しかし、戦況悪化とともに真実の報道かどうか疑い始め苦悩、ラジオはアジテーションだとする館野とも対立する。和田と結婚した実枝子は叱咤するが…。
昭和18年10月21日、雨の神宮外苑。学徒出陣の実況中継を任された和田は直前に学徒らを取材、本心を聴き、苦悩は深まった。軍部の要請と真実の報道とのはざま、ついに和田は中継を放棄、若手に委ねる。
和田や館野だけではない。新設されたマニラ支局に赴任、電波戦の担い手として戦い、帰らかなかった局員。それぞれに苦悩し、戦後の生きざまもそれぞれに決したことが紹介される。
冒頭の著作もそうだが、NHKが負の歴史を真摯に見つめ作品としたことに敬意を表したい。この姿勢は映画人、新聞人、文学者にも等しく問われるべきことだろう。
よくも悪しくも戦後秩序の出発点~映画「東京裁判」 [映画時評]
よくも悪しくも戦後秩序の出発点~映画「東京裁判」
東京裁判は1946年5月から48年11月にかけて行われた。A級戦犯とされた28人が被告席に座り、うち7人が死刑判決を受けた。控訴が認められない一審裁判。判決から25年後に米国防総省が公開したフィルムを使い、ドキュメンタリーとして製作されたのが映画「東京裁判」である。1983年公開。デジタルマスター版として修復されたのを機に再公開された。観るのは40年ぶり2回目である。
東京裁判をメーンテーマとしつつ、当時の時代状況が広範に取り入れられた。東京裁判のモデルといわれたニュルンベルグ裁判、関連する欧州戦線の模様、日本の戦争に至る道筋と特攻による若者の悲劇的な死…。これらを編み込み、法廷の審議が紹介される。
もともとGHQのマッカーサー司令官命令によって始まった裁判。進駐軍占領下の日本にどう新秩序を築くか、という政治的思惑が背景としてあった。したがって戦勝国が敗戦国を断罪する、という根本は動かぬ事実だった。
審議されたのは次の3点だった。①平和に対する罪②戦争犯罪③人道に対する罪。①はニュルンベルグでも取り上げられた新たなテーマである。ナチと同様、共同謀議者の戦争責任を追及するのが目的だった。
冒頭付近で興味深い論争が紹介される。重光葵担当のジョージ・ファーネス弁護人だったと思うが、広島への原爆投下に対する罪はなぜ問われないか、と弁論を展開していた。戦争行為の一環だからということなら、この法廷の被告も大半が無罪ではないか、と問うていた。裁判長のウィリアム・ウェブはいとも簡単にこの議論を退けた。法廷全体の空気としては、入口の通過儀礼的議論と受け止めたようだ。しかし、現在から見ればこの議論は重要で、戦闘員ではない市民への無差別殺戮の罪は戦争の勝敗に関係なく、各国が問われるべきと思う。原爆だけでなく、米軍機による戦争末期の地方都市無差別爆撃も対象となるだろう。
天皇が戦争遂行にどの程度の影響力を持ったかについては、ウェブ裁判長が周到に東条英機から証言を引き出そうとしていた様子が、細かく描かれる。戦後体制の構築の中で、天皇を米国のリモコン装置にとのマッカーサーの思惑が背景にあったと推測がつく。
文民として唯一死刑判決を受けた広田弘毅には、城山三郎の「落日燃ゆ」を挙げるまでもなく悲運の宰相のイメージが付きまとう。1931年の満州事変後、33年に外相、36年に首相となったが、むしろ軍部に押し切られた政治家だった。満州国建国の大立者といわれた岸信介がA級戦犯容疑者として巣鴨に勾留されながら訴追を免れたのとは、大きく違う。岸の罪も広田にかぶせることで、岸を戦後再建に活用しようと考えた、ということか(この点、天皇の意向も働いた、とする説もある)。
裁判は正義と公正に基づく、といわれるが、東京裁判はそこから遠く離れていた。戦勝国が敗戦国を裁き、その後の秩序を都合よく築くための最小限の手続きだった。半面、このことは戦争という行為がもたらす冷厳な事実でもある。戦後日本を見つめ直すにあたって、この法廷で何が問われ何が問われなかったか確認することは無駄ではない。40年ぶりこの映画(4時間半)を観て、あらためて思う。
監督小林正樹、ナレーション佐藤慶。
「原爆」めぐり揺れるアメリカ~映画「リッチランド」 [映画時評]
「原爆」めぐり揺れるアメリカ~映画「リッチランド」
広島、長崎への原爆投下が第二次大戦の終わりを早め、戦死者の増大を防いだ。こんな神話が、長く米国世論に支持された。手元に資料がなく記憶に頼るしかないが、1950年代の世論調査で神話の支持者は7~8割に達していたとある新聞が報じていた。さすがに現在は5割を切るという。20年ほど前にワシントンのスミソニアン博物館で、広島への原爆投下に使われたB29爆撃機「エノラ・ゲイ」を見た。磨き上げられ輝くジュラルミンの機体が展示場の中央に置かれ、歴史資料というより米国の誇りを象徴する存在に見えた。
長崎で被爆した永井隆は、直後に敵機が撒いたビラを見て率直な感想を残した。
――あっ、原子爆弾!(略)原子爆弾の完成!日本は敗れた!(略)ついにこの困難な研究を完成したのであったか。科学の勝利、祖国の敗北。物理学者の歓喜、日本人の悲嘆。(略)=「長崎の鐘」(アルバ文庫、71P)
原子爆弾の開発は科学力の競争の結果であり、先を越された日本は敗北必至だ、そういっている。これを米国の側から見れば、科学が生んだ新しいエネルギーは戦争の形を変え、作戦に使われた爆撃機も、国の新しい誇りである―となる。
しかし、時が過ぎて狂熱が冷めると、きのこ雲の下で亡くなった人たち(多くは非戦闘員)は、科学の進歩のための礎というだけで済まされるのか、という疑念がわいてくる。
こうした時代の流れに翻弄されてきた米国の小さな町がある。ワシントン州南部、リッチランド。マンハッタン計画に沿ってネイティブアメリカンの土地を収奪、核物質生産のための施設ハンフォード・サイト建設(1942年)に伴い、そこで働く人々のために砂漠地帯に出現した。最も多い時で人口6万人。サイトで生産されたプルトニウムが長崎原爆に使用された。現在は国立歴史公園になっている。
住民は、高齢者ほど冒頭に挙げた核神話をいまだに信じている。高校の校章はきのこ雲、フットボールチームのトレードマークにはB29が加わり、名前は「リッチランド・ボマーズ」。
この地を広島出身の被爆3世、アーチスト川野ゆきよが訪れ、対話を試みたのを機に製作されたのがこのドキュメンタリーである。対話はなかなか進まない。この時、川野が漏らしたのは、この場で有色人種は私だけ、という違和感だった。ネイティブもアジア系もアフリカ系もいない。いるのは白人だけ。この小さな違和感は、原爆の開発と使われ方の根底を成す思想につながっているように思えた。
高校生たちの輪で、町のありようが議論された。若者には、きのこ雲やB29が象徴的に使われることに、ひっかかるものがある。しかし、変えていくことは容易でないことも分かっている。それでもコツコツ説得していくしかないか、というところで議論は終わる。
「核兵器は悪である」と言い切ってしまうのは、ある意味で簡単だ。自明の理だからだ。しかし、このリッチランドでは年代や職業によって自明が自明でなくなる。重層的な視点の必要性を気づかせてくれるドキュメンタリーである。メインビジュアルで使われた「(折りたたむ)ファットマン」は川野ゆきよが、祖母の着物をほどいた布を自らの髪で縫い合わせつくったという。日常空間にあるものを使って核兵器をかたどる、そのことである種のおぞましさが立ち上ってくる。
2023年、米国。監督アイリーン・ルスティック。
背景の闇に歴史的事件~映画「湖の女たち」 [映画時評]
背景の闇に歴史的事件~映画「湖の女たち」
原作吉田修一。カット割りの鮮やかさにいつも驚嘆する。小説でありながら、明確なシークエンスの連続が頭に浮かぶ。密室、逃亡劇、異常な状況に追い込まれた男と女の皮膚感覚。それらが鮮やかに活字化される。
「湖の女たち」は、琵琶湖畔の介護施設で起きた100歳殺害事件を発端として、捜査する刑事濱中啓介(福士蒼汰)と捜査対象となった介護士豊田佳代(松本まりか)が陥った、奇妙な支配・被支配の関係を描く。
濱中は唐突に佳代とエロスの関係を結ぼうとする。かなりヤバい刑事だ。佳代はためらいながら一線を越える。その先に「死」の衝動が見える。フロイトが言うリピドーからタナトスへの欲動を見る思いだ。
男女に限定しなければ、そしてもっと低いレベルであれば、支配・被支配の奇妙な空間に陥ることはしばしばある。こうした無意識構造(=闇)に踏み込んだドラマといえる。
だが、映画(小説)は事件と関係者の心理を描く次元で終わらない。その先の薬害事件、さらに先にある満州・731部隊の人体実験にまで行きつく。二次元の先の、三次元の物語が展開されようとするが、どこからか飛んだ権力者の指示によってそれらは再び、歴史の暗黒に葬られてしまう…。
実をいうと、こうした構成はこれまでの吉田修一ドラマの枠を超えているように思えた。彼の職人芸は、あくまで二次元の平面にいる人間の汗と痛覚を描くことで発揮された。歴史的事実をプロットに組み込むのは無理があったようにも思える。これは吉田の新たな挑戦なのか。どう読むか。
映画はここまで2本の軸で進む。介護施設の事件を捜査する刑事・介護士の奇妙な関係。過去の薬害事件と満州の人体実験。これらをつなぐポジションとして二人が存在する。濱中の上司・伊佐美祐(浅野忠信)と雑誌記者池田由季(福地桃子)。伊佐はかつて薬害事件を追った経験があり、上からの指示で捜査を断念したトラウマを持つ。池田は薬害事件の存在を知り、関係する医師が満州にいたことを突き止めるが、上司から取材中止を言い渡される(原作では池田は男性だったが映画では女性に代わった。これはこれで成功している)。
満州・731部隊の宿舎近くには平房湖という美しい人工湖があり、湖畔で奇妙な出来事が起きる。厳冬期の小屋で、全裸の少年とロシア人少女が凍死体で発見されたのだ。事件か心中か、判明しないまま時は過ぎた。現場には数人の日本人少年がおり、その中の一人が後に薬害事件に関係した医師と証言したのは、介護施設で殺された市島民男(彼も731部隊の関係者だった)の妻松江(三田佳子)だった…。
最終局面。介護施設の事件は意外な展開を見せる。施設の職員・服部久美子(根岸季衣)の孫三葉(土屋季乃)の行動を目撃したのは、強引な捜査で退職を余儀なくされた濱中と、過去の事件の取材に圧力がかかりながらなお執念を燃やす池田だった。そこに至るシーンで、相模原の障碍者殺傷事件の記事に三葉が見入っている。「優性思想」が、動機として暗示される。
2024年、監督大森立嗣。
ナチへの復讐に燃えた男は~映画「フィリップ」 [映画時評]
ナチへの復讐に燃えた男は~映画「フィリップ」
ポーランド人作家レオポルド・ティルマンドが自らの体験をもとに書いた小説を映画化した。
1941年のワルシャワ・ゲットー。ポーランド系ユダヤ人のフィリップ(エリック・クルム・ジュニア)はあるイベントでナチの急襲にあい、恋人や家族を失う。たまたま死を免れ、組織の支援で偽造パスポートを入手、フランス人になりすましたフィリップは、ドイツ・フランクフルトにホテルのボーイとして潜伏する。
ワルシャワ・ゲットーとは。
1939年のナチ侵攻後、ポーランド社会とユダヤ人の交流を断つため翌40年に境界が封鎖された。ワルシャワ市域の2.4%に全市民の3割に当たるユダヤ人が押し込められたという。当初は自治が認められキャバレーや高級レストランも存在したが飢えと不衛生が深刻化、42年初めのヴァンゼー会議後に絶滅収容所への移送が始まった。こうした時代背景を持つ。
フィリップは、前線に赴いたナチ将校の夫人らを狙って性的関係を持った。ナチ独裁下では、ドイツ人女性と関係を持った他国人は死刑が宣告され、女性も髪を切られた。ゲルマン民族の純血を守るためとされた。女性も、共犯関係にあるためうかつに秘密を明かせなかった。
戦後ドイツではこれと逆転した光景が見られた。ナチスに協力した女性が髪を切られ、街頭を引き回された。写真などで残されている。
復讐は氷のような心で行われた。ドイツ人女性と性的関係を持つことで服従させ、侮蔑的な言葉を囁き娼婦のように捨てる。ゲットーにいた時のような誇りと生気は消えていた。
しかし、フィリップの感情が揺れ動く瞬間が来る。プールサイドで会ったリザ(カロリーネ・ハルティヒ)に心を惹かれ、パリへ逃亡を企てる。ホテルではナチ将校の結婚披露パーティーが開かれることになっていた。そんな折、ロッカールームからワインが見つかり、盗んだとされた同僚のピエール(ヴィクトール・ムーテレ)はその場で射殺される。親友の死に涙し、再び復讐の炎を燃やしたピエールのとった行動は…。
ホテルのパーティーでは男女合わせて5人の死体が並ぶ。ゲットーでフィリップが見た家族らの死体と同数と思われる。
監督ミハウ・クフィェチンスキ。アンジェイ・ワイダ監督「カティンの森」(2007年)などのプロデューサーを務めた。心理を武器にした復讐劇、という面白さがある。
極限に向かう排除と抵抗~映画「バティモン5 望まれざる者」 [映画時評]
極限に向かう排除と抵抗~
映画「バティモン5 望まれざる者」
パリ。バンリュー(郊外)は「排除された者たちの地域」という意味も併せ持つ。戦後の住宅難解消のため建てられた高層団地は、1960年代からシリアなど中東や北アフリカからの移民居住地域になった。犯罪多発地域の厳しい取り締まりに対する住民の憎悪・怒りをドキュメンタリー風に描いた「レ・ミゼラブル」は記憶に新しい。監督は、この地域に生まれたラジ・リ。同じ監督の新作が「バティモン5」である。タイトルはバンリューの一角の名称からとった。
老朽化して危険な高層団地を取り壊し、再開発を進めようとする市側と住民の出口なき対立を描いた。
一種の群像劇だが、主な登場人物は3人。ピエール・フォルジュ(アレクシス・マネンティ)は前市長の急死でパリの臨時市長に就任した。もとは医師。治安が悪化する移民居住区の再開発が目前の課題だが、たまたま団地で発生した火災を奇貨として強引に住民を追い出し、計画を進める。
マリ出身のアビー・ケイタ(アンタ・ディアウ)はこうした動きに反発。新団地の間取りが小家族向けで移民対応でないことに抗議しデモを計画する。合法的な運動で解決を図ろうと、市長選出馬を考える。
追い出された住民に絶望と怒りが広がる中、ブラズ(アリストート・ルインドゥラ)が市長宅を襲う。排除と抵抗がぶつかり極限状況へ向かう。
市長の妻ナタリー(オレリア・プティ)や副市長のロジェ・ロシュ(スティーブ・ティアンチュ)ら、移民の境遇に理解を示す人たちもいる。しかし、同情や善意だけで道は開けない。それが基調低音になっている。
フランスでは6月の国民議会選で極右の国民連合(RN)が第1党となった。2回投票制のため与党連合と左派連合が候補を調整、RNを封じ込めたが、政権の不安定化は避けられないとみられている。背景に、映画が描いた移民の急増→「郊外」乗っ取り→治安悪化がある。フランスの行方に影を落とすこの問題、解答は容易に見つかりそうにない。
2023年、フランス・ベルギー合作。
少数者の闘いを見つめる~映画「正欲」 [映画時評]
少数者の闘いを見つめる~映画「正欲」
長く生きていると、同調圧力という現象に出会うことがある。場の空気を読めよ、分かるだろう? みたいなことだ。つい妥協してしまう。同調圧力に屈する、というやつである。どうでもいいことならそれで済む。どうでもよくないことだとどうなるか。そもそも、どうでもよくないこととは…?
マジョリティとマイノリティのそんな微妙な問題を直視したのが「正欲」である。タイトルは造語と思われるが、正しい欲とは。あるいは正しくない欲とは。
主な登場人物は6人。うち5人は普通でない(といわれる)欲望を抱えている。あと一人はその対極、普通(あるいは常識)を体現した人間である。
広島・福山に住む桐生夏月(新垣結衣)は実家暮らしで変化のない生活を送る。販売店員をしているショッピングモールから帰宅すると一人動画にふけっている。ひたひたと快楽が押し寄せる。周りは水で囲まれている、という幻覚。ある種の性的快楽が水とつながっている(このシーンは印象的だ)。中学のころ横浜に転校した佐々木佳道(磯村勇斗)が地元に帰ってきた。夏月には佳道との共通の記憶があった。それは水の関するものだった―。
水に対して特殊な感情を持つ二人を軸に、男性恐怖症の神戸八重子(東野絢香)、ダンスの名手諸橋大也(佐藤寛太)が、それぞれの孤独と人に明かせない性癖を抱えてつながりを求めあう。
「私たちは命の形が違っている。地球に留学しているみたい」という夏月は、生きていくために手を組みませんか、という佳道に同意し、横浜で同棲を始める。普通のカップルから見れば、愛のない共同生活である。
水に対する偏愛をSNSで発信するうち、同好者が現れた。矢田部陽平(岩瀬亮)。しかし、彼が愛するのは水そのものではなく、水に濡れた幼児たち―彼は幼児性愛者だった。
ひそかなつながりを求めた彼らに、検事・寺井啓喜(稲垣吾郎)が立ちふさがる。水に対する偏愛など信じない彼は、夏月や佳道も小児性愛者としてひとくくりにしようとする。佳道は既に逮捕され、取り調べを終えた夏月は寺井に伝える。私たちは別れることはない、と。マジョリティを正義と考える寺井への明確な意思表示である。
社会は多様性を認める方向に向かっている。しかし、深層意識で「普通」や「常識」は生きている。それは時に少数者を排除し抹殺しかねない危うさを秘める。あらためてそのことをあぶりだした。
2023年製作。監督は「あゝ、荒野」の岸善幸。原作朝井リョウ。
人間性回復の物語~映画「東京カウボーイ」 [映画時評]
人間性回復の物語~映画「東京カウボーイ」
「24時間戦えますか」―。ひと昔前こんなCMのフレーズがあった。それが上滑って聞こえない日本経済の迫力があり、ビジネス戦士たちが世界を駆け巡った。今は違う。
大手食品商社に勤める坂井英輝(井浦新)は、経営不振に陥った米モンタナ州の牧場を黒字化するため現地を訪れた。和牛飼育への転換を腹案として持ち、その方面の専門家・和田直弘(国村隼)が同行した。和田は現地のバーで開かれた歓迎会で羽目を外し重傷、入院したため、交渉は坂井一人が担うことに。英語もろくにしゃべれない坂井は習慣の違いや発想の違いのため立往生する。
捨てる神あれば拾う神あり。失敗を重ねるうち、ハビエル(ゴヤ・ロブレス)やペグ(ロビン・ワイガート)ら現地のカウボーイたちと心が通じ合い、モンタナの大地の魅力も再認識する。
坂井は、会社では上司である副社長の増田けい子(藤谷文子、脚本も)と婚約していた。けい子からは牧場の処理を巡って連日、催促の電話がかかる。窮地の坂井はあるアイデアを思いつく。交渉が不調なら第三者の買収も視野に入れていたが、買収先として自分とカウボーイたちを入れた会社を立ち上げる―。
カウボーイたちと話すうち、坂井は自らのプライベートも明かした。婚約して5年というと、彼らは一様に驚き「けい子とちゃんと話しているのか」と問いかけた。無言の坂井に「やっぱりね」。
坂井はビジネスだけでなく生活の上でも何をしなければならないか、知るのだった。そんな坂井のもとにけい子がやってきた。「クビ」を伝えるために。
平たく言うと、モンタナの雄大な山河とカウボーイたちの素朴な心情に触れ、M&Aの敏腕商社員として神経をすり減らした坂井が人間性を取り戻す物語である。
2024年、米国。監督マーク・マリオットは「男はつらいよ」の撮影現場に見習いとして参加した経験がある。そのせいか、ヒューマンな香りは共通する。
「どこにでもある危機」を緻密に~映画「ありふれた教室」 [映画時評]
「どこにでもある危機」を緻密に~映画「ありふれた教室」
ドイツの中学(日本とは年齢区分が違う)を舞台に、日常のさりげない事態への対応の誤りが修復できないまま深刻な亀裂へと発展する、一種のサスペンス・スリラー。舞台は学校だが、教育とか教師と生徒の在り方とかはほとんど関係がない。おそらく「教室」も舞台装置以上の意味を持たない。タイトル通り「ありふれた」場所のありふれた集団の物語である。それでいて、ストーリーの運びに破綻がない。緻密な心理ドラマに引き込まれる。
赴任したばかりのカーラ・ノヴァク(レオニー・ヴェネシュ)は、職員室での盗難多発を知る。ある日、突然持ち物検査が行われ、多額の現金を持っていたトルコ系の男子生徒が疑われた。親に確認すると、ゲームソフトを買うため渡したという。強引な犯人捜しに違和感を持ったカーラは、職員室の貯金箱から金を「拝借」する様子を目撃、生徒ではなく教師では、と疑う。
カーラはパソコンを録画状態にして椅子に財布入り上着をかけてその場を離れた。おとり捜査、監視カメラ状態である。危うい行動だが、校長によって「不寛容方針(ゼロトレランス)が何度か説明されている。「規則に厳しい学校」が売り、ということだ。
カーラはポーランド生まれ、ドイツに移住した。同じ境遇の同僚に「学校で話すときはドイツ語にして」と念押しするシーンがある。何気ないようだが、自身も移民であることが引っ掛かっている。最初に疑われた生徒もトルコ系だった(念のため言えば監督イルケル・チャタクもトルコ系移民の子である)。こうしたことも、事態の背景にある。
録画には、財布を盗む様子が映っていた。ブラウスには星のマーク。同じ模様のブラウスを着ていたフリーデリケ・クーン(エーファ・レーバル)を疑ったカーラは、直接確かめた。逆上したクーンは学校を出て行った。対応に困ったカーラは校長に相談。教師全員で協議の上、処分が決まった。クーンの息子オスカー(レオナルト・シュテットニッシュ)は反抗的態度を強めていった。
ミステリーのようだが、厳密には違う。「犯人」は最後まで不明で、そこが落としどころになっていないからだ。カーラが対話を試みたオスカーは無反応を貫き、警察の手を借りて終わる(このシーンも「勝者は誰か」を問うているようで複雑)。
結局、この映画に教訓やメッセージをくみ取ることはできない。ボタンの掛け違いが生む修復不能な亀裂、秩序維持と治安維持の微妙な違い、集団の結束と狂気の境目、個人と組織の危うい関係―が細かく描写される。現場は教室だが、それはどこかの職場かも、どこかの地域かもしれない。そんな怖さがスクリーンから立ち上る。「スリラー」である。
2022年、ドイツ。
一度は再起を目指したが~映画「あんのこと」 [映画時評]
一度は再起を目指したが~映画「あんのこと」
10代から貧困、売春、クスリびたり―といえばビリー・ホリデーを思い出すが、彼女は天賦の才に恵まれジャズ歌手として再起、名を遺した。映画「あんのこと」の香川杏(河合優実)は、寂しい自死を遂げる。貧困、売春、薬物という壮絶な21年の人生を背負って。
杏は覚せい剤で逮捕、取調室で一風変わった警察官・多々羅保(佐藤二朗)と会い、人生が変わる。働き口としてデイ・ケアを、覚せい剤中毒から抜け出すための矯正施設を、それぞれ紹介された。10代から不登校、漢字はろくに読めない。売春は母親に強制され、覚せい剤は身近な組員に勧められた。そうした過去に終止符を打つ日々が始まった。
「コロナ」が足かせになった。デイ・ケア施設は営業不振に陥り、非正規職員を切らざるを得なくなった。杏もその一人だった。もう一つは、多々羅をめぐる事件。覚せい剤事犯で扱った女性に性交渉を迫っていた。多々羅の周辺で日常取材をしていた桐野達樹(稲垣吾郎)に、何者かが垂れ込んだのだ。通話記録など動かぬ証拠をもとに、桐野は記事にした。多々羅は逮捕、杏は再起の精神的支柱を失った。
ある日、母の恵美子(広岡由里子)に見つかってしまい、再び売春を強要される。絶望した杏は再び覚せい剤に手を出した。クスリとの格闘を記録した日記を台所で燃やし、杏はベランダに向かう。
これだけだと、暗く重いストーリーになる。どこかに救いはないか、と思うのが人情。そのためだろうか。監督の入江悠は、後半にエピソードを加えた。隠れ家にしていたマンションの隣人女性(早見あかり)が「1週間預かって」と乳児を渡す。杏は困りながらも奔走しおむつを取り替え、食事を作る。杏の死後、警察から燃え残りの日記を見せられ、女性が感謝する。なぜ唐突に、見知らぬ杏にわが子を預けたか、など奇妙な点はあるが、このエピソードがなければ作品は八方ふさがりに見えるだろう。監督のフィクションらしいが、よかったか悪かったか。言い換えれば「事実は小説より奇なり」ということもある【注1】。
映画の出発点は2020年6月1日付朝日新聞社会面の記事にあるという。事実を裏付ける材料を持たないが、普通に考えれば、記者は2段階で原稿を書いたことになる(念のため言えば、映画は週刊誌記者になっている)。まず、警察官の性加害告発。次に、その記事がもたらした自殺をめぐる記事。2本が一記者の手で書かれたか定かでないが、同じ記者だとすれば、今のメディアも捨てたものではないなと思う【注2】。
2024年製作。
【注1】もともと、事実から出発した映画である以上、構成上の都合からフィクションを入れてしまうことに抵抗感がないわけではない。
【注2】女性の自死を知った記者(桐野)は動揺、拘置所の多々羅(佐藤)と面会し「記事は書くべきではなかったか」と問う。多々羅は「そんなものは分からない」と突き放す。事実を裏付ける証拠があれば、よほどの事情(例えば人権侵害など)がない限り、答えは自明である。そのうえで起きた事柄にどう対処するかは記者自身が考えなければならない。その結果が2番目の記事だったとすれば、記者の誠実さと受け止めることもできる。