So-net無料ブログ作成

アメリカの「原罪」を直視した作品~映画「荒野の誓い」 [映画時評]

アメリカの「原罪」を直視した作品~映画「荒野の誓い」

 

 「クレイジー・ハート」(2009年)で落ち目のカントリーウェスタン歌手の再生を、「ファーナス 決別の朝」(2013年)で、トランプ現象の背景にもなったプアホワイトの閉塞状況を描いたスコット・クーパー監督が西部劇を作った。

 クーパーの作品にひかれるのは、いずれも魂の物語を紡ぎだすからだが、はたしてこの「荒野の誓い」も期待を裏切らなかった。

 ネイティブアメリカン(先住民)との戦いも終わった1892年、米国西部ニューメキシコ州の刑務所に勤務する騎兵隊大尉ジョー(クリスチャン・ベール、「バイス」での演技が記憶に新しい。「ファーナス」でもクーパー監督とタッグ)は、ある任務を言い渡される。ガンの末期症状にあったシャイアン族の族長イエロー・ホーク(ウエス・ステューディ)を故郷モンタナまで護衛しろというのだ。先住民との戦いで多くの友を失ってきたジョーは、いったんは断る。しかし、退役とその後の年金生活を待っていた彼は、拒めば軍事法廷という上官に抗しきれず命令を受け入れる。

 こうして「聖なる地・熊の峡谷」と呼ばれる地を目指すシャイアン族の家族と、彼らを守る騎兵隊の1000㍄の旅が始まった。そのころ、コマンチ族と呼ばれる先住民族が荒野に住む一家を襲撃、馬を略奪する。戦いの末、ロザリー(ロザムンド・パイク)を残して夫と3人の子は殺される。心に傷を負ったロザリーは偶然現れたジョーの一行に合流。旅をする中で、コマンチと同じ先住民族イエロー・ホークらを警戒していたロザリーも徐々に心を開く。

 過酷な長い旅路の末、一行は「熊の峡谷」にたどり着いた。ここでイエロー・ホークは荘厳な死を遂げる。

 …で、物語は終わりではない。目的地に着いた一行の前に「ここは俺たちの土地だ」と主張する白人グループが現れた。この時のために、とジョーは任務の証である大統領令をかざす。しかし、白人グループは「そんなものはただの紙切れ」と取り合わなかった。すると、決然と大統領令を捨て去ったジョーは「ここは彼らの土地だ」と戦いを挑む…。

 先住民との残虐な戦いに疲れ彼らへの憎悪にとらわれていたジョーが、旅の中での対話と協力関係を通じてだれの土地をだれが奪ったのかを明確に認識した瞬間だった。

 原題は「Hostiles」。敵意、敵対行為を意味する。このタイトルこそ物語の核心を伝えており邦題はいかにも安っぽい。そして、白人=正義、インディアン=悪という勧善懲悪の構図の中でつくられたかつての西部劇とは違う、アメリカの建国にまつわる原罪的事実にきちんと目を向けたクーパーに拍手したい。

 観終わって、冒頭にあるD.H.ロレンスの言葉が突き刺さる。

 アメリカの魂は孤独で禁欲的で人殺しだ。いまだに和らがぬ

 ラスト、モンタナからシカゴへと向かう列車。そこでロザリーに対してジョーがとった行動は、泣かせますね。

 2017年、アメリカ(日本公開は2019年)。

 

荒野の誓い.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

「まなざしの地獄」にあえぐ一人の女性~映画「よこがお」 [映画時評]

「まなざしの地獄」にあえぐ一人の女性~映画「よこがお」

 

 「淵に立つ」で、刑期を終えたある男の出現によって破滅へと向かう家族を描いた深田晃司監督が、ある事件を契機にいやおうなく加害の立場に立たされ苦悩する女性を描いた。二つの作品に共通するのは、私たちを取り巻く日常の板子一枚下は地獄であり不条理である、ということである。

 白川市子(筒井真理子)は、訪問看護士をしていた。日本画家だった女性・大石塔子(大方斐沙子)も彼女の受け持ちだった。塔子の娘洋子(川隅奈保子)、その娘基子(市川実日子)とサキ(小川未祐)が一つの家族として暮らしていた。基子やサキは市子を慕い、看護士と家族の関係以上の付き合いをしていた。ある日、喫茶店で待ち合わせた3人のところへ市子の甥・鈴木辰夫(須藤蓮)が顔を見せる。辰夫は市子に頼まれた介護福祉士の参考書を置いて、その場を去った。

 事件はその後に起きた。サキが行方不明になったのだ。数日後に発見され、辰夫が略取誘拐容疑で逮捕された。そのことをテレビのニュースで知った市子は、容疑者は甥であることを洋子に伝えようとしたが、基子の反対で断念した。その日以来、市子は辰夫との関係を胸に秘めたまま大石家へ出入りするが、週刊誌やテレビが秘密に気づくのは遅くはなかった。さらに、基子によって悪意に満ちた「証言」がなされ、市子は追いつめられていった。マスコミの取材攻勢は市子の自宅や訪問看護ステーションにまで及び、仕事もやめざるを得なくなってしまった。

 市子には結婚を約束した医師がいたが、その話も途中で壊れてしまう…。

 甥が起こした事件に市子が責任を負う必要は全くないのだが、世間の見る目は市子を追いつめていく。見田宗介が永山則夫事件のキーワードとした「まなざしの地獄」である。そんな中、市子は基子に対してささやかな復讐を試みようとする。

 物語は善意と悪意、慰安と復讐が経糸、横糸となって展開され、タイトル「よこがお」の意味が明らかになっていく。市子はもとより基子も、そして世間も、見えているのは片面だけである。つまり、横顔しか見せていないし、見えていないのだ。

 最後の部分、「ささやかな復讐」のかたちが、小説と映画で変えてある。善意にとれば文字と映像それぞれの可能性を追求した、と読めるし、悪意にとれば「商売上手」とも読める。さて、どちらか。

 映画では原作にないヘアーサロンの男・米田和道(池松荘亮)が登場する。ストーリーの幹の部分には関わらず、舞台回し的な役回り。しかし、この男の存在で単線的なストーリーが複線的になっている。

 2019年、日仏合作。  

 

yokogao.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

妄想と狂気と現実~映画「JOKER」 [映画時評]

妄想と狂気と現実~映画「JOKER

 

 自我と社会の折り合いがつかなかったとき、社会が間違っていると思う人間は革命家に、自我に落ち度があると思う人間は狂人になる、とどこかで読んだことがある。もちろんこれはシンボライズされたレトリックで、現実はそこまで単純ではない。その間には無段階の「革命家」と「狂人」とのせめぎあいがあり「革命家」はときに「犯罪者」に置き換えられる。

 革命家を犯罪者と同列に扱うのはいささか乱暴では、と思うかもしれないが、マルクスやレーニンさえもある人々から見れば犯罪者だし、ダッカ事件で単純な刑事事件の受刑者を日本赤軍が釈放を求めた例があった。社会と自我という構図の中で、革命家と犯罪者の障壁はさほどないといえる。

 さて、映画「JOKER」である。「バットマン」で、主人公と戦う悪のヒーロー。彼がどのように生まれたかを描いた。

 ゴッサムシティでコメディアンを目指すアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、街頭の宣伝マンとして働くうち若者らに暴行される。そのことを聞いた同僚から、護身用にとピストルを渡された。

 彼には笑いが止まらなくなる精神的疾患があり、それがもとでさまざまなトラブルに巻き込まれる。地下鉄車内でも笑い病を発症、3人の男に絡まれた末に彼らを射殺。フレックは逃亡するが、事件は大きなニュースになった。

 彼には母親ペニー・フレック(フランセス・コンロイ)がいたが、彼女はある男の手紙を待ちわびていた。社会的な成功者トーマス・ウェイン(ブレット・カレン)。盗み見た手紙によると、フレックの父親らしい。「きっと私たちを救ってくれる」と彼女は待つが、いつまで待っても手紙は来なかった。そんなときテレビでは「マレー・フランクリンショー」をやっていた。

 射殺された3人の男は、ウェインの会社の社員だった。その射殺犯である「ピエロの仮面をかぶった男」(フレックのこと)は、富裕層に不満を持つ群衆からヒーローとして持ち上げられた。母親の手紙を届けるべく、トーマス・ウェインに会ったフレックは、彼が父であるというのは母親の妄想であることを知る。そのことを確かめにある公立病院の30年前のカルテを見て、フレックの実の父親は虐待の常習者であり、そのときの暴力が脳にも影響して現在の笑い病のルーツになっているらしいことを知った。

 一方、たまたま「マレー・フランクリンショー」から出演オファーを受けたフレックは、承諾する。しかし、笑いのダシにされただけだった。そのことを思い知ったフレックはテレビカメラの前でマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)を射殺する。警察に連行途中、事故で転倒したパトカーから、フレックは、ピエロの仮面をかぶった群衆たちによって救出される。フレックは、街頭を埋め尽くす群衆の中でヒーローだった…。

 妄想と狂気と現実が入り組むこの物語は、群衆の怒りを背景にした革命の物語なのか、それとも狂人の妄想の物語なのか。そのどちらかであるともいえ、どちらでもあるともいえる。

 2019年、アメリカ。

 

joker.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

普通の人たちが織りなすドラマ~映画「真実」 [映画時評]

普通の人たちが織りなすドラマ~映画「真実」

 

 「我が人生を振り返る」式のインタビュー番組、もしくはインタビュー記事というものを、基本的に信じないことにしている。自分に都合よく語られているからだ。改ざん、もしくは嘘が混じっているとまでは言わないが、人間だれしも、自分に都合の悪いことは言わないものだ。そして、自分に都合のいい部分は必要以上に多く語る。だから、あまたある「自伝」と称するものも、一歩引いて眺めることにしている。

 是枝裕和の新作「真実」を観た。

 フランスの女優ファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)が自伝を出した。タイトルは「真実」。彼女には脚本家の娘リュミエール(ジュリエット・ビノシュ)と夫ハンク(イーサン・ホーク)、7歳の娘シャルロット(クレモンティーユ・グルニエ)がおり、たまたまニューヨークからパリへと尋ねてきた。女優と家庭人を天秤にかけ女優を選んだというファビエンヌを、リュミエールは快くは思っていなかった。当然ながら、出版された自伝にも不満を持っていた。最大の問題は、ファビエンヌとリュミエールが公私にわたって交流を続けたサラのことが、一言も触れられていなかったことだった。「真実」と題した自伝が事実とかけ離れていることを伝えると、ファビエンヌは一言「事実なんて退屈だわ」と答えた。

 波紋は、ファビエンヌの撮影現場にも及んだ。秘書リュック(アラン・リボル)が、自分のことに触れていないことに失望し仕事をやめると言い出したのだ。やむなくリュミエールが代役に立ち、撮影現場も立ち会った。

 ファビエンヌが出演していた映画には、若くして亡くなったサラの再来と呼ばれたマノン(マノン・クラベル)が出ていた。マノンは、「サラの再来」と呼ばれることにプレッシャーを覚えると漏らす。そうした彼女を自宅に招き励ますファビエンヌ。そうした心の交流をそばで見ながら、いつしかわだかまりが融け始めるリュミエール…。

 ストーリーは、一つのファミリーとそれを取り巻くわずかな周辺の出来事に終始する。出てくるのはあくまで普通の人たちで、ほのかな心のやり取りがあり、最後は大団円に終わる。是枝作品らしい、安定的でこまやかな演出ぶり。彼の作品群でいえば「海街diary」あたりを観るようだ。あるいは、晩年の小津作品あたりか。世界に羽ばたく是枝としては、破たんのない堅実な路線を選んだ、という印象が強い。「佳作」という形容が似合う作品である。

 この映画評を書くため関連記事を読んでいたら、ジュリエット・ビノシュがインタビューで(是枝監督は)「アントン・チェーホフに似ている」と語った下りに行きあたった。人間を善人、悪人に腑分けするのではなく、そのまま描くという点で、ということらしい。同感する。

 2019年、日本・フランス合作。

 

真実.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

共同体が持つ不気味な排斥力~映画「楽園」 [映画時評]

共同体が持つ不気味な排斥力~映画「楽園」

 

 吉田修一の短編集「犯罪小説集」から編を組み合わせ、一本の作品とした。二つの話を結ぶ糸は「共同体」という名の不気味な圧力である。共同体は常に何らかの求心力を持つ(持たなければ分解する)。求心力は同質性を求め、異物は排斥される。そこで、この作品のテーマは、排斥されるものと、するものとの葛藤である。

 問題はベクトルの方向である。求心力の方向へと向かう人々にとって、眼前の共同体は守るべき「楽園」と映る。その力が、特定の人々には「排斥力」として作用する。この不気味な力学を描くにあたって「楽園」と名付けた背景には、そのあたりの思考経路がありそうだ。

 監督は「ヘヴンズストーリー」「菊とギロチン」の瀬々敬久。復讐の物語に「ヘヴンズ…」と名付けたアイロニカルな思考法が「楽園」のタイトルにもみられる。「ヘヴンズ…」も「菊とギロチン」も、監督の力技を感じさせる大作であった。特に「ヘヴンズ…」は全編で4時間半を超え観るものを圧倒した。このことは逆に、一つの懸念を起こさせた。時に力技が上滑りしてしまう傾向が、この監督にはあるようだ。その辺は見てのお楽しみ、というものだ。

 観終わって、懸念は吹き飛んだ。共同体から排斥される側が綾野剛(役名:中村豪士)であり、佐藤浩市(役名:田中善次郎)であり、排斥する側が柄本明(役名:藤木五郎)であるから、演技は安定的で抑制はきいており、外れようがなかった。

 原作の2編は、栃木の少女不明事件を題材にした「青田Y字路」と、山口・周南市の限界集落で起きた人殺害事件を題材にした「万屋善次郎」である。交差するところがない2編だが、人間模様を紡ぎ直して一本のストーリーにした。

 前半は、少女が忽然と消えた中で、アジア系の外国人母子に疑惑の目が注がれていく過程を描く。疑惑が解けないまま、豪士は衝撃的な行動をとる。後半は、都会からUターンして養蜂業を営む善次郎が、ふとしたことで長老たちと折り合いが悪くなり、村八分どころか村十分の扱いを受け、絶望的な行動へと走る…。

 実は、後半部分のベースにある「万屋善次郎」では、映画よりももっと陰惨な「排斥」が描かれている。映画ではそこで一歩踏みとどまり、原作にはない一人の女性を登場させた。善次郎と同じくいったんは村を出て戻ってきた久子(片岡礼子)である。彼女は善次郎に寄り添おうとするが、結局はその思いを貫くことができない。ただ、善次郎との関係の中で、ただの住民から一人の「おんな」へと変わりゆく演技はぞくぞくするほど見事である。暗い色調のこの作品に、一片の華を添えている。

 見終わってみればやはり佐藤浩市、綾野剛、柄本明、そして杉咲花(不明少女の友達を演じている)、片岡礼子あたりが光った作品だ。そして吉田修一の「犯罪小説集」、言葉から立ち上がるイメージを連ねてストーリーを展開させる「ワザ」は、相変わらず鮮やかだ。

 2019年、日本。

楽園.jpg

犯罪小説集 (角川文庫)

犯罪小説集 (角川文庫)

  • 作者: 吉田 修一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/11/22
  • メディア: 文庫


nice!(0)  コメント(0) 

原作ほどにドラマ性はない~映画「蜜蜂と遠雷」 [映画時評]

原作ほどにドラマ性はない~映画「蜜蜂と遠雷」

 

 恩田陸の直木賞、本屋大賞受賞作を映画化した。原作は、文句なく世上の評価を得た作品だ。それを映画化して何の懸念があろう、と思われるのだが、私には一つ、引っかかるものがあった。

 ピアノコンクールでの天才たちの思いや振る舞いを描いた作品。そのためには、まず音楽自体のかたちを、文字という音から最も遠い表現手段によって手に入れなければならない。恩田は、そのことに並々ならない努力を傾注した。そのことは、幻冬舎文庫末尾に編集者の視点で志儀保博「『蜜蜂と遠雷』の思い出」として書かれていて興味深い。「音」を文字によって実体化するという、ほとんど不可能に近い作業によって「蜜蜂と遠雷」は成立した。

 ところが、今度はその作品を音と映像によって表現するという。いうまでもなく、音楽と映像は極めて親和性が高い。もちろん、それなりの上質な作品に仕上げるにはハードルがあるが、言葉によって作品を作り上げるよりはずっと労力は少なくて済むと思われる。180度反転させたものをもう一度180度反転させれば、元の位置に戻ってしまう。そんなことが映画「蜜蜂と遠雷」で起こりはしないか。

 観終わって、懸念は杞憂ではないと思った。

 ドラマでは人の主要なコンテスタンツが登場する。ペルーの日系三世マサル(森崎ウィン)、かつて天才少女と呼ばれ、挫折の経験を今も引きずる栄伝亜夜(松岡茉優)、謎の少年ジン(鈴鹿央士)、生活者の音楽を目指す高島明石(松坂桃李)。マサルはグローバリズムを象徴するように、今という時代の申し子的存在。亜夜は内面的葛藤を抱え、そのことがドラマの核心を形成する存在。そしてジン(塵)こそ、舞台回し役、いわばジョーカー的な存在。この3人は、いうなれば神に選ばれた存在で、彼岸に生きることを宿命づけられている。これに対して、此岸に立つのが高島である。

 こうして、キャラクタを見ると、ドラマとしてはよく考えられている。人の人間性をどこまで深く掘り下げられるかで、作品の価値が決まってくるといってもいい。

 しかし、原作者が苦労に苦労を重ねて手に入れたドラマとしての深みが、映画ではほとんど感じられなかった。マサルは、ただのアイドルのようだし、ジンの、聴く者の評価を真っ二つに分けるほどの不穏な演奏ぶりも伝わってはこなかった。亜夜と高島は、それぞれに内なる葛藤を抱えている分だけ存在感を維持することができたようだった。

 これはどういうことなのだろう。

 ピアノコンクールをめぐる「天才」たちのドラマを、文字で表現しようという不可能に近い挑戦を行った恩田に対して、映画製作スタッフ(石川慶という監督はよく知らない)は、音楽を音と映像で表現するという近道、あるいは浅瀬を何気なく渡ってしまってはいないか。

 原作でモチーフとしてたびたび登場する雨音、馬の蹄の音、そして標題にもなった遠雷は映像としても登場するが、果たしてそれが何を意味するかは観るものにうまく伝わってこない(蜜蜂は映像としても出てこなかったようだ)。「蜜蜂と遠雷」とは軽やかで重厚な音を出すピアノそのもの、ひいては音楽そのものを表すのだろうが、とてもその深淵が伝わったとはいいがたいのである。

 2019年、日本。

蜜蜂と遠雷.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

ボサノバの神の実像を追う~映画「ジョアン・ジルベルトを探して」 [映画時評]

ボサノバの神の実像を追う~
映画「ジョアン・ジルベルトを探して」

 

 ジョアン・ジルベルト。今年7月に亡くなった。アントニオ・カルロス・ジョビンらとともにボサノバの始祖といわれる。特にジルベルトはボサノバの神ともされ、カリスマ的な色彩が強い。ギターとその声だけでボサノバの透明な音楽性を作り出したことが大きいのだが、それ以上に、滅多に人との関係を持たない彼のキャラクターに由来しているのかもしれない。

 事実、2008年のコンサート(出身地バイーヤで開かれた)を最後に、没するまでほぼ10年間、特定の少数を例外として人との交流を断った。ホテルにこもり作曲に専念していたという。

 そうした彼の実像に迫ったのがドイツ人ジャーナリスト、マーク・フィッシャーだった。執念は実らずジルベルトに会うことはできなかったが死後、未完の記録「オバララ ジョアン・ジルベルトを探して」が出版された。その本を手にしたフランス人監督ジョルジュ・ガショが遺志を継ぎ、ジルベルトを追ったのがこの映画である。

 全編「オバララ」や「想いあふれて」が流れ、ブラジルの美しい風景が展開する。ボサノバと映像の一体化だ。そしてジルベルトの透明な歌声。彼を知るミュージシャンやマネジャーに会い、ついにジルベルトが滞在するホテルを突き止める。会って、彼の肉声による「オバララ」を聞きたいと伝える。願いはかなうのか…。

 ジルベルトのボサノバが浴室の一角、便器の上で生まれたとか、マークが通訳との関係をシャーロック・ホームズとワトソンの関係に擬したとか、周辺のエピソードも面白い。

 2018年、スイス、ドイツ、フランス合作。

 

ジルベルト.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

画調は豪華絢爛だが~映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」 [映画時評]

画調は豪華絢爛だが~映画「人間失格

 太宰治と3人の女たち」

 

 鎌倉の海でのバーホステスとの入水自殺未遂(女性は死亡、睡眠薬自殺未遂との説もある)に始まる作家・太宰治の女性遍歴を追った。妻・美知子との結婚生活を顧みず、歌人・太田静子、夫の復員を待つ山崎富江との愛におぼれた日々を描く。太宰には小栗旬、美知子に宮沢りえ、冨江に二階堂ふみ、静子に沢尻エリカという配役。小栗の太宰はどう見ればいいのかよく分からないが、3人の女性はいずれも実力派と見た。特に二階堂の演技は熱が入っていた。ただ、全体を通してみればいくつかの違和感があった。大まかに言えば、これは太宰を描いた映画なのか、という疑問。そして、なぜ今、太宰なのかという疑問である。

 センセーショナルな小説を相次いで発表し、売れっ子作家となった太宰は、肺の病にも関わらず、編集者や文壇仲間を引き連れて毎夜飲み歩く。違和感の一は、その際の太宰の立ち居振る舞いだ。酒場で太宰は「乾杯」と力強く杯を上げる。「?」である。果たしてそんな人間だったのか。太宰は文壇でも編集者仲間の間でも、「哀しいピエロ」を演じたのではなかったか。そしてことあるごとに死にたいと漏らす。芥川賞が欲しいと佐藤春夫に懇願する。そう思うと、酒場のシーンは何か違っている。

 3人の女との関係は「芸術と生活」という補助線を引くと見えてくるものがある。美知子は「生活」の分業者だし、「斜陽」の原案を提供した静子は芸術の分業者である。太宰の原稿の聞き書き、清書をした秘書役の富江は生活・芸術の分業者であるようだ。しかし、映画ではそのあたりの描きわけがあいまいで、ただ、人気作家が3人の女を渡り歩いた、という筋立てにしか見えない。

 つまり、週刊誌的なゴシップをいくつかつなぎ合わせ、その隙間、隙間を蜷川実花お得意の花をあしらった絢爛演出で埋めた、としか見えないのである。

 太宰は昭和5年の入水自殺未遂(この時のことは自身最初の短編集「晩年」に書かれている)以来、美知子という伴侶を得たこともあって精神的に安定、「走れメロス」などの「健全」な作品をものにした。日本は戦争に向かい世情には「死」が充満したが、それとは全く逆方向をとったのである。しかし、戦争が終わって人々が「死」から解放された途端、太宰は再び「死」の観念に取り付かれる。傑作といわれる「斜陽」「桜桃」「人間失格」が書かれたのはこのころである。

 左翼運動に挫折し、荒廃した生活の中で心中未遂を起こし、軍靴の足音の中で友情をテーマに「走れメロス」を書き、そして戦後の解放的な気分の中で「人間失格」を書いた稀代の作家に、時代はどう見えていたのだろう。そして、ピエロの仮面をかぶり続けた太宰の素の顔とは。残念ながらそうした手がかりは皆無だった。三島由紀夫(高良健吾)が太宰に絡むシーンも挿入されているが、これもエピソード以上のものにはなっていない。画調の絢爛さとは裏腹に、なんとも消化不良の作品である。

 2019年、日本映画。

 


人間失格.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

理屈抜きで楽しめる~映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」 [映画時評]

理屈抜きで楽しめる~映画「ワンス・アポン

・ア・タイム・イン・ハリウッド」

 

 1969年といえば、アメリカが最後の輝きを放っていたころだ。そのころのハリウッドを舞台に栄光と失意の日々を描いた。

 テレビドラマの西部劇で売れかかったリック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)だが、今一つスター階段に届かない。マカロニウェスタン出演のオファーが来たりする。そのため時として情緒不安定になる。彼を陰で支えるのがベトナム帰りの専属スタント、クリフ・ブース(ブラッド・ピット)。二人は絶妙のコンビだった。リックの豪邸の隣にある日、派手なスポーツカーの二人が引っ越してきた。映画界の鬼才と呼ばれたロマン・ポランスキーと若手女優シャロン・テート(マーゴット・ロビー)だった。落ち目の俳優と日の出の勢いの監督が隣り合わせに住む。まさしく「ハリウッド」だった。

 目立ったストーリーはなく、古き良きハリウッドが描かれていく。そんな中でスティーブ・マックイーンやブルース・リーがコミカルなタッチで描かれる。リック・ダルトンは実在の人物をモデルにしているらしいが、よくは分からない。そしてストーリーはカルト集団マンソン・ファミリーとの確執に移っていく。シャロン・テートが実名で登場していることから、映画の出口は1969年8月に起きたあの事件へと向かうのだろう、と思ったら少し違った。

 これ以上書くと興ざめになるので書かないが、最後は隣家のシャロンがリックに「大丈夫だった?」と声をかけ「よかったらお酒でもどう?」と誘うのである。

 やっぱりクエンティン・タランティーノは、ストレートは投げてこないなあ。それにしても西部劇中の、日本でいえば伝法調のセリフ回しなんかとても魅力的だ。理屈抜きで楽しめる映画だ。

 

ワンスアポンナタイム.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

戦禍の犠牲者はいつも弱者~映画「存在のない子供たち」 [映画時評]

戦禍の犠牲者はいつも弱者~

映画「存在のない子供たち」

 

 真っ先に戦禍の犠牲になるのは弱者、それも子供たちである。終戦直後の東京では路上や地下道に家も家族も失った子供たちが溢れた。沖縄戦では、ガマ(洞窟)の入り口で震える子供たちがいた。中東も例外ではない。終わることのない戦禍の最大の犠牲者は子供たちなのだ。ドキュメンタリー風の映像でそのことを正面から描いたのが「存在のない子供たち」である。主役の少年は訴える。「育てられないのなら生まないでくれ。僕らは地獄を生きている」と。

 ベイルートで暮らす12歳のゼイン(ゼイン・アル=ラフィア)は、地主を刺し殺し、罪に問われた。法廷で彼が訴えたのは、自分をこの世に生んだ両親の罪だった。

 ゼインには出生証明書がなかった。親が届けを出さなかったからだ。そのためまともな職に就けず、路上でいかがわしいものを売って暮らす日々を送っていた。ある日、エチオピア難民の子連れ女性ラヒル(ヨルダノス・シフェラウ)と出会う。彼女が働きに出た後、子の世話をするという約束で同居生活が始まった。しかし、ある日彼女は姿を消した。偽造した滞在許可証が期限切れになり、警察に捕まったためだ。

 ゼインは乳児を連れて必死に生きようとするがままならず、偶然出会った少女の話をヒントに国外脱出を計画。ブローカーに持ちかけるが身分証明書か出生証明書が必要だと告げられる。ゼインは自宅に戻り、必要な書類を出すよう求めるが「そんなものはない」と一蹴される。それどころか、11歳で地主と結婚?させられた妹サハル(シドラ・イザーム)が妊娠させられ、出産前に死んでしまったことを知る。

 怒りに燃えたゼインが殺人を犯し、法廷で「自分を生んだ罪」を両親に問うに至るのである。この裁判の過程で身分証を持たないゼインの実態が判明、彼はようやく身分証の顔写真を作る作業に臨み、最高の笑顔を見せる。

 監督はナディーン・ラバキー。レバノン出身でベイルートのストリートチルドレンの実態を熟知しているとされる。主役のゼイン(本名、役名同じ)も、シリアで生まれ内戦のため一家でレバノンに脱出。作中とほぼ同じ境遇に育ったといわれる。レバノン、フランス合作。

 

 存在のない子供たち.jpg


nice!(0)  コメント(0)