美への思いは分かるが…~映画「海の沈黙」 [映画時評]
美への思いは分かるが…~映画「海の沈黙」
「原作・脚本倉本聰」にひかれ、見てしまった。で、感想は? というと「う~む」である。「北の国から」が放映されたのは、もう20年以上も前。倉本自身もうすぐ90歳。年月の経つのは早いものだ。
世界的な画家となった田村修三(石坂浩二)ら3人の展覧会が、文科相出席のもと開かれた。この晴れがましい舞台で事件は起きた。展示作品を見て「私の絵じゃない」と田村がつぶやくのだ。そこで、贋作が紛れ込んだとなれば話は簡単だが、そうはならない。田村が「私には描けない」というほど、優れた絵だったからだ。
津山竜次(本木雅弘)は、田村と同門で絵を学んでいたが、貧困のためカンバスが買えず、師事した画家の絵「海の沈黙」を塗りつぶして自分の絵を描いたことから、田村ら弟子によって追放される。貧困の中、絵を描き続ける彼を支援するスイケン(中井貴一)の手で世に出されたのが「落日と漁村」だった。地方の美術館を回るうち「田村の作」になったのだ。
「贋作」と思われた絵が「本家」も舌を巻く出来だった…という設定は面白い。そこから、世俗の処世にたけ名を成したものと、貧困の中で「美」を追求したものの対比という構図が浮き上がる。
ここに、かつて竜次に思いを抱き、今は田村の妻となった安奈(小泉今日子)や、全身に入れ墨がある牡丹(清水美砂)、肺を病み死期が迫る竜次を看病するあざみ(菅野恵)ら3人の女性が絡むが、人物の彫りが甘く関係性が頭に入ってこない。安奈はなぜ、竜次を捨て田村と結婚したのか。竜次の父が彫り師だったことで入れ墨を背負った牡丹が登場するが、なぜ彼女は自殺するのか。あざみはなぜ突然、竜次に入れ込んだのか…。
この人間模様を見て、思うことがある。表現者として生きる竜次は、最終的に病によって道を阻まれるが、通常の人生では、その前に生活者としての壁が立ちはだかる。毎日を生きなければ、表現活動もできないのだ。ここで映画は、謎の人物スイケンを登場させ、この問題(生活と芸術)をあっさりクリアしてしまう。実際には、生活のため筆を折ることもしばしばある。表現者としての「質」も、生きてきた環境に支配される。そうした視線が底辺にないと、ドラマの奥行きが見えてこない。世に認められなかった天才画家(数限りなくいるに違いない)が、病魔に侵されこの世を去るという人生は、むしろ楽天的な思想の産物に思える。
美は絶対で至高のもの、という倉本聰の思い入れが前面に出すぎた感もある。
2024年、監督若松節朗。
「安保国体」はいかにしてできたか~濫読日記 [濫読日記]
「安保国体」はいかにしてできたか~濫読日記
「昭和天皇の戦後日本<憲法・安保体制>にいたる道」(豊下楢彦著)
敗戦日本は米国が主導する連合国の占領体制を経てサンフランシスコ講和条約(全面講和ではない)を結び、独立に至った。全権団を率いた吉田茂首相は、全員署名の講和条約と打って変わって、ただ一人で日米安保条約にサインした。
この時代、最も問われたものは「戦争責任」であった。東京裁判でA級戦犯のうち7人が絞首刑になったが、軍国体制の頂点とされた天皇は戦争責任を問われなかった。緊迫化する東西冷戦のもと、戦後日本をどう位置付けるかという米国の思惑が大きく働いた、とされる。果たして、米国はどう戦後日本を再建しようとしたのか。その時、昭和天皇は何を思ったのか。いまだ謎の部分は多い。
「昭和天皇と戦後日本」は、戦後70年の節目に書かれた。著者は、戦後50年を機に「安保条約の成立 吉田外交と天皇外交」(岩波新書)を上梓している。2冊を分けるのは、2014年に公表された「昭和天皇実録」の存在である。宮内庁のスタッフ20人が24年かけてまとめた。当然、一定のバイアスがかかっているにせよ、著者はそこに天皇の思考のリアリズムを見る。
第二次大戦がこれまでの戦争と違ったのは、戦勝国が敗戦国に何を求めたか、である。領土や賠償金ではない。敗戦国(枢軸国)のファッショ体制を悪と認定し、変革を求めた。新憲法の制定である。ここで天皇制は最優先課題であるはずだったが、米国(マッカーサー最高司令官)と天皇は一致点を見出す。
天皇が、敗戦間近の状況でソ連の侵攻を極度に恐れたことは、さまざまな著書で明らかだ。天皇は何を恐れたのか。万世一系の皇統譜の断絶である。マッカーサーが天皇制継続を保証したことで、天皇は協力を申し出た。
これらを受け「昭和天皇の戦後日本」は、マッカーサーとの会見で天皇が「新憲法作成への助力に対する謝意」を述べるシーンを「昭和天皇実録」から引く(序 「昭和天皇実録」の衝撃)。知られるように、戦後憲法の第1条は「天皇制」である。米側が制度継続を保証したことへの「謝意」が語られている。
敗戦で日本軍は壊滅した。それなら米軍事力を背景にソ連の脅威から我が身を守る。ここに著者は「昭和天皇のリアリズム」を見る。
これも広く知られるが、戦時に軍国主義の象徴だった天皇制を戦後も維持するために「戦争放棄」を憲法でうたう必要があった。1条と9条は相関関係にあったのである。その結果、日本はソ連の脅威の前に丸腰となる。安保条約が構想された理由がここにある。米軍の手で日本本土と天皇制を守ろうという発想である。
天皇の「沖縄メッセージ」も47年の「実録」から引かれた(102P)。側近の寺崎英成に、米側へ伝えるよう託した内容は、沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を希望する▽それは米国の利益になり、日本を保護することになる▽日本に主権を残し、長期貸与の形とする(メッセージ原文では25~50年、あるいはそれ以上)―という。天皇の意識では沖縄は「日本」ではなく、「神州」を守るため沖縄は半永久的に貸与しても構わない、とする。これは、今に至る沖縄の現状そのものである。
戦後憲法で「象徴」になって以降も、天皇が政治的発言を繰り返したことが分かる。動機は何か。これこそ前述した「皇統を守る」ことだと著者は分析する。領土より天皇の家系図が優先するという発想である。明治憲法下においても政治判断の領域に踏み込んだことは少なく、「二つの例外」論を天皇は主張する。一つは2.26事件、もう一つは終戦の「聖断」である(215P)。ここで、終戦を決める力があるならなぜ開戦を止められなかったか、という疑問が残る(東京裁判でも連合国の一部が主張した)。
「吉田茂の全権固辞」(187P)は「目からうろこ」の話。講和条約締結のための全権特使を、吉田は最後まで固辞していたという。理由は安保条約で「全土基地化・自由使用」という米側要求に全面的に応じたためだ。吉田が意に反してそうせざるを得なかったのは、天皇の意思が働いたため、という。
吉田が米側の要求をはねつけ、軽武装・経済優先の路線を引いたという構図は高坂正尭「宰相吉田茂論」によって生み出された、という。戦後の保守政治の柱が揺らぐ話かもしれない。
著者は、戦後日本を「安保国体」という。天皇制を戦前の日本軍でなく米軍によって守る。背景にあるのは、皇統に執着する天皇のリアリズムである。
岩波書店、2400円(税別)。
悠久と狂乱の対比~映画「西湖畔に生きる」 [映画時評]
悠久と狂乱の対比~映画「西湖畔に生きる」
監督はグー・シャオガン(顧暁剛)。「春江水暖」に続く山水映画第二弾である。舞台は前作と同じ杭州。監督の出身地でもある。
西湖は杭州にある。湖畔の龍井村は中国有数の茶の産地。映画も、茶にまつわる風景から始まる。摘み取りの季節を迎え、村人が夜明け近い山腹を行く。山の神を起こすという例年の行事。手にした明かりが儚い蛍の列のように見え、自然の雄大さ、悠久の時の流れを浮き立たせる。
ここから場面は転換する。「春江水暖」もそうだったが、二つの時間が流れる。
茶畑で働くタイホア(苔花=ジアン・チンチン)は、夫ホー・シャン(何山)が失跡して10年、一人で息子ムーリエン(目蓮=ウー・レイ)を育てた。しかし、茶畑の経営者と懇意になったことで、彼の母親に追い出される。大学を出たムーリエンも就職先はなく、詐欺まがいの仕事にかかわってしまう。
そんな時、タイホアが出会ったのは「足裏シート」を売る怪しい商売。マルチ商法のバタフライ社によって人格を改造され、ムーリエンの忠告も聞かず全財産をつぎ込む。
茶摘みに生きる人々と詐欺商法に狂乱する人々の落差。その前段の、執拗なまでの「洗脳」のプロセスの提示。ここまでくると、作り手に裏の意図があるのでは、と思う。
画一を求める中国社会は、一般大衆にとってソフトな社会とはいいがたい。そこからさまざまな軋轢が生じたりもする。洗脳されたタイホアが「私は自立した女性、成功者」と叫ぶ姿(もちろんそれは幻だが)は、ハードな社会体制の裏返し、抑圧された欲望の反動ではないか。
過酷な学歴社会、低迷する経済、無差別殺傷が多発する治安状況。そんな中国の「いま」をみるにつけ、そう思う。
母を救うため組織に潜入したムーリエンによって実態が暴かれ、タイホアをマルチに引き込んだ人物の自殺で、タイホア自身も精神を病む。ムーリエンは、そんな母を連れて、かつて茶摘みをした山へと向かう。そうすることで母が戻ってくるのでは、とかすかな願いを持って。
ラスト近く、二人は白い虎に出会う。虎は二人を威嚇する。これは何を言おうとしているのか。中国では虎は自然の象徴(もっと俗な言い方では「山の神」)である。俗世間の目先の欲におぼれず、自然に畏敬の念をもって生きよ、悠久の時の流れに身を任せよ、そう言っているようでもある。ムーリエンは父の消息を訪ね歩く。ある寺で一端が知れるところで映画は終わる。父は仏門に入ったのであろう。
二つのエピソードは、タイホアが陥った狂乱の時間と対極の世界を暗示する。公式HPによると、映画は釈迦の弟子が地獄に落ちた母を救う、という故事にヒントを得たという。
2023年、中国。
AIは死者をよみがえらせるか~映画「本心」 [映画時評]
AIは死者をよみがえらせるか~映画「本心」
「棺を蓋いてこと定まる」。中国の言葉である。生きている人間は利害や思惑が絡んで本心が見えない。その人間の姿かたちもはっきりしない。棺に収まってようやく、本心が見えてくる。そんなことを言っている。
映画「本心」は、そうした人間の不確かさを見つめた。時代は2040年代。近未来というほど遠くない未来。社会のあらゆるシステムが、今よりほんの少し進歩している(それを進歩と呼んでいいかどうか)。
「大事な話があるの」と言い残し、母・石川秋子(田中裕子)は氾濫した川に身を沈めた。助けようとした朔也(池松壮亮)も流され、意識を回復したのは1年後だった。母は亡くなっていた。あの言葉は何だったのか。それを知るため、仮想空間にVF(ヴァーチャルフィギュア)を作ることを決意した。生前のデータをAIに集めなくてはならない。交友関係を探るうち、三好彩花(三吉彩花)と出会う。母が「自由死」を選択していたことも知った。
朔也は、生きるためリアルアバターの道を選んだ。さまざまな制約上、行動が難しい人間に代わり目的を達成する。時に悪意の人間に出会い、奴隷のように使われる。疲れ果てて帰宅すると、台風で避難所暮らしをしていた三好がいた。朔也が、母の部屋を提供したのだ。やがて朔也は、リアルアバターの仕事を辞める決心をする。
ところが、コンビニで東南アジアの女性店員をカスハラから救った動画が流され、朔也はネット上の英雄に。目にした世界的アバターデザイナー、イフィー(仲野太賀)から声がかかり、三好とともに訪れた朔也は、無条件で年収を倍にするからアバターを続けないか、と誘われる。
イフィーは、三好にも好意を持っていた。朔也は、仕事を続けるのか、三好との関係をどうするのか。そして母との仮想空間の対話の中で出自の秘密を知った。大震災の後、ある女性と共同生活をしていて、人工授精で生まれたのが朔也だった。
母の本心はどこにあったのか。果たして死後、それは明らかになったのか。そこにAIは機能したのか。そして、イフィーと朔也の間で揺れる三好の本心はどこへ向かうのだろうか―。
2024年、監督・石井裕也、原作は平野啓一郎。「ある男」で戸籍とアイデンティティーの関係を探り「本心」ではAIとアイデンティティーの関係を追究した。
「砂糖菓子」と言ってしまえない深み~映画「アイミタガイ」 [映画時評]
「砂糖菓子」と言ってしまえない深み
~映画「アイミタガイ」
相身互。または相見互。同じ境遇や身分の人が、互いに同情し合い、また助け合うこと。また、そのような間柄(小学館「国語大辞典」)。
映画「アイミタガイ」は二つの特徴を備える。いくつかのエピソードをつないで進行するが、悪人もしくは悪意が介在しない。スパイスのきかないカレーライス、もしくは甘いだけの砂糖菓子のようなもの、と言ってしまうこともできる。その点をどう評価するか(映画の登場人物が「善人ばかりの小説は嘘っぽく見える」というシーンがある)。もう一つ、出てくる人物が必ずどこかでつながっている。その場限りの関係性に立つ人物はいない。閉じられた円環。なぜこのような設定が考え出されたか。
ウェディングプランナー秋村梓(黒木華)は交際中の小山澄人(中村蒼)との結婚に踏み出せないでいた。離婚した両親のことがわだかまっていたためだ。そんな折、親友のカメラマン郷田叶海(藤間爽子)が海外で事故死したことを知る。叶海の両親の朋子(西田尚美)と優作(田口トモロヲ)に戻ってきた遺品のスマホには、多くのメッセージが未読のまま残っていた。ある児童施設からは子供たちの感謝のカードが届けられた。
梓の叔母・稲垣範子(安藤玉恵)は、90歳を超える小倉こみちの家でヘルパーをしていた。3歳のころからピアノを習ったという彼女の演奏を聴き、範子は梓に依頼されていた結婚式場での演奏を仲介する。
ここから、ドラマは予想外の深みを見せる。こみちは範子と梓を前に、依頼をきっぱりと断る。人前で演奏することの魅力に勝てず、かつて学徒出陣で弾いたことをあかし「もう私には人前で弾く資格はないんです」。梓はこみちの家のたたずまいにまつわる思い出を語る。中学生のころいじめにあい、叶海と二人この家の前に来た時、流れていた音色。それが、自分には大きな励ましだった…。
「叶海がいないと前に踏み出せないよ」と梓が送ったLINEを見た朋子は「踏み出しなさい」と叶海に代わってメッセージを送る。こみちは式場で、見事な演奏を見せる。児童施設を定期的に訪れていたことを知り、叶海の両親は彼女の保険金を施設に寄付する。偶然と思われた出会いの一つ一つが、丹念に回収されていく。
冒頭の二つの問い。砂糖菓子のような、と言ってしまえない深さとリアリティを、この映画は備える。もう一つ、閉じられた円の中の人間関係。人はだれかを思いやれば、必ずその答えは返ってくるという社会観、人生観を追求したかったのだと思う。
2024年製作。監督草野翔吾。
底流に反戦の思い~映画「二度目のはなればなれ」 [映画時評]
底流に反戦の思い~映画「二度目のはなればなれ」
英国海軍の兵士としてノルマンディー上陸作戦を戦った老人が、90歳を前にある決断をする。このエピソードを軸に、70年連れ添った妻とのラブストーリーが語られる。一見ほのぼのとした物語だが、底流に反戦の思いがひめられ骨太の映画だ。
2014年の英国。ブライトンの老人ホームでバーナード=愛称バニー・ジョーダン(マイケル・ケイン)とアイリーン=愛称レネ(グレンダ・ジャクソン)夫婦は静かに暮らしていた。この年ノルマンディー上陸作戦70周年を記念する式典が行われると聞き、バニーはドーバー海峡を渡ろうと決意、レネにだけ告げて一人フェリーに乗る。バニーがいなくなり、ホームは大騒動に。
フェリーでは元空軍兵士アーサーと出会い、互いの体験を語る。対話の中でバニーがなぜノルマンディーを訪れようとしたか、アーサーがどれほどの心の傷を抱えていたかが明らかになる。
バニーは上陸用舟艇で戦車隊の兵士ダグラス・ベネットと知り合う。銃弾が飛び交い怯えるベネットを送り出した後、見たのは直撃弾を受け炎上する戦車だった。アーサーは、爆撃機で出撃していた。後に爆撃地点には弟がいたことを知る。自分が落とした爆弾で弟は死んだのではないか。苦悩の中でアル中になったという。
アーサーは式典のチケットを持っていた。二人分あるという。とっさに出発を決めたバニーにはなかった。アーサーの好意で手にしたチケットを、同乗していた元ドイツ軍兵士に譲った。彼の目的はそこにはなかった。バイユーの戦没者墓地を訪れ、ベネットの慰霊をすることだった。同行を求められアーサーも応じた。多くの墓標を前に「みんな無駄な死だった」とつぶやくバニー。
老人ホームが捜索願を出したため、騒ぎは広がった。消息が判明し「The Greate Èscaper」(大脱走者)の大見出しで新聞に報じられた。ホームを脱走しノルマンディー作戦に参加した老人がいる、と半分茶化した報道である。
やがてホームに戻ったバニーは妻にわびた。レネは、今度行くときは私を置いていかないで、と答えた。テロップで紹介されたところでは、バニーはその半年後に亡くなり、さらに半年後にレネも世を去ったという。3度目の「はなればなれ」はなかったのだ。
2023年、英国。監督オリバー・パーカー。この映画、英国では大ヒットしたらしい。抑制のきいた表現ながら戦争の無意味さを訴えた点が共感を呼んだのだろう。
死者の無念を背負って~映画「十一人の賊軍」 [映画時評]
死者の無念を背負って~映画「十一人の賊軍」
進化と正義について考える。生けるものは、環境への適応力があるほど生き延びる。適応できなければ死滅する。こうして淘汰を繰り返し、形を変える。これを進化という。進化は善であり、正義であるとする考え方がある。しかし、人間は時として新しい環境への適応=進化を選ばない。敗者の側に立つ。なぜか。死者の無念に思いを致すからだ。
「死者よ来たりて我が退路を断て」。大学闘争が燃え盛ったころ、ドキュメンタリ映画につけられたタイトルだ。もとは日大のバリケード内に書かれた言葉と記憶する。あまたの死者の無念を背負って闘うがゆえに、我に退路はない。思想にはエートス(倫理)が必要だ。そんなことを思わせる。
「十一人の賊軍」は、幕末から明治に至る戊辰戦争に想を得た。薩長土肥で構成する新政府軍(官軍)と、江戸幕府・奥羽越列藩同盟軍が戦った。越後の小藩・新発田藩が映画の主な舞台である。奥羽越列藩同盟といえば、ガトリング銃で戦った長岡藩の河井継之助が知られる。河井は会津に敗走中、傷が悪化し亡くなった。同盟の軸である会津へは、越後からの交流ルートがあったと考えられる。新発田はその玄関口だった。小藩だが、新政府軍にとっては要衝だった。
新発田藩主・溝口直正は幼少で、陣頭指揮を執る力がなかった。家老の溝口内匠(阿部サダヲ)は一計を案じる。同盟軍につくと見せかけて新政府軍の動きを止める。そのための格好の砦がある。急遽駆り集めた政(山田孝之)ら囚人10人を向かわせ、戦わせる。藩の軍勢を使えば後戻りできなくなるからだ。囚人たちには、戦いが終われば無罪放免と告げた。見張り・統率役として藩から鷲尾平士郎(仲野太賀)、入江数馬(野村周平)が送り込まれた。
山縣狂介(玉木宏)を頭とする新政府軍との血みどろの戦いが始まった。溝口の娘・加奈(木竜麻生)と恋愛関係にあった入江は重傷を負い、死亡する。
家老の溝口はこの後、新政府軍へと寝返る。砦の戦いで何人かは生き残ったが、溝口は彼らに銃口を向ける。鷲尾は溝口の裏切りが許せず、怒りの刃を向ける。「俺が11人目の賊軍だ!」と。
溝口のバルカン的政治手法で、新政府軍に全面降伏した新発田藩は生き延びた。めでたし、めでたし。だがその陰には、入江の後を追った加奈ら無念の死があった。
2024年製作。監督は「孤狼の血」の白石和彌。原案は笠原和夫。この二人のカラーがにじみ出ている。実話に基づくが、登場人物は名前を変えてある。笠原はかつて「日本侠客伝」などで全共闘活動家の共感を得た脚本家。その地下水脈を感じる。