世論を背にした知識人の苦闘~濫読日記 [濫読日記]
世論を背にした知識人の苦闘~濫読日記
サブタイトルに「近代日本メディア議員列伝」とある。池崎忠孝、どうやら「メディア議員」という範疇の人物らしい。池崎とは何者。メディア議員とは。
池崎は1891年、岡山の鉱山業者の長男として生まれた。同年生まれの著名人に倉田百三や久米正雄、滝川幸辰、甘粕正彦らがいた。翌年生まれの芥川龍之介とは東京帝大で交流があったという。近代日本を象徴する人物群だが、それには訳がある。幼少、少年期の日清、日露戦争、高校進学時の大逆事件、大学時代の第一次大戦、壮年期の満州事変と太平洋戦争―と「近代日本の全戦争を体験した世代」(佐藤)である。近代の表と裏を見ながら精神が形成された世代、といっていい。六高から東京帝大法科に進んだ池崎はその中の学歴エリートだった。
池崎は生涯に三つの名を持った。まず赤木忠孝。父が鉱山採掘をめぐって三菱と争い敗訴、莫大な負債を抱えて一家離散、後見人も自殺したためメリヤス業者の池崎小三郎と養子縁組、池崎忠孝となる。六高時代の「鈴木三重吉論」が三重吉の目に留まり中央文壇デビュー、三重吉が考案した赤木桁平を名乗った。
大学では、三重吉を通して夏目漱石の木曜会メンバーに。「夏目漱石論」を著し、芥川、久米ら漱石山房のメンバーやアララギ派などと交流。博覧強記で知られた。「『遊蕩文学』の撲滅」で世情に波紋を投げかけ、「桁平」として活動したこの時期は明治から大正期の教養人としての歩みだった。
大学を出て万朝報の記者になったり、養父の稼業を継いだりした後、再び池崎忠孝を名乗った。満州事変の直前、元号が昭和にかわるころである。1929(昭和4)年に「米国怖るゝに足らず」を出版。「太平洋戦略論」など好戦的な著書をひっさげ36(昭和11)年、衆院議員に初当選した。2.26事件が起きた年である。以来、議員活動を続け45(昭和20)年8月15日に辞表提出(実際の辞職は12月6日)。戦犯容疑で巣鴨に収容されたが結核と診断され釈放された。
池崎の足取りを追ったが、かなり特異である。漱石の門下で白樺派に共感した教養人が、なぜファシストの先頭に立つような文筆活動をしたのか。これはある種の方向転換=転向なのか。
漱石研究の嚆矢ともいわれる赤木桁平「漱石論」に対して谷沢永一「大正期の文藝評論」が「若気の至り」と一刀両断にしている。
――赤木には、拠って立つべき内発的な自身の批評的志向もなく、また同時の文学の内面に身を寄せることによって把握した問題意識もなかった(略)。最も簡易な自分の野心の吐け口として、批評の道を選んだのであるに違いない。
漱石自身はどう受け止めたか。礼状に、こんな箇所がある。
――あなた(赤木桁平)は私(漱石)を大変ほめてくれました。(略)一言にして云ふと、書方の割合に中の方が薄い気がするのです。
文筆評論家からジャーナリスト、政治家へと野心を燃やす男を、正確に見ていた。谷沢と漱石、二つの見方を合わせたあたりが、実像に近いのか。
2.26事件の勃発は、忠孝の当選から6日後だった。言論暗黒時代の幕開けとみられているが、一方でメディア関連議員は3割を超えていた。このときから3回の総選挙は「メディア議員の絶頂期」と、佐藤は指摘する。「にもかかわらず」、戦争を止めることはできなかった。ここで佐藤は、接続詞は「それゆえに」ではなかったか、と疑問を呈している。
メディア議員とは、価値や理念の実現を目指す「政治の論理」ではなく、読者数や影響力の最大化を図る「メディアの論理」に従って動く議員だからだ。ここに、佐藤の核心的な論理があるように思う。輿論より世論の体現の追求【注】である。
一方で、池崎は無所属議員のグループ「第二控室」に身を置いた。戦時下で政党は大政翼賛会へと糾合され、池崎も放り込まれたが、小会派に立脚し発信するという姿勢は変わらなかった。佐藤の調査によると、戦時下で小会派をともに動いた議員は忠孝含め4人だけだったという。
「GHQに没収された本」(朝日新聞社)によると、池崎の著書は徳富蘇峰より1冊少なく、大川周明より5冊多い13冊。少なくはない。こうしたことから、池崎は蘇峰、周明らとともに民間人の戦争犯罪人とされた。しかし、池崎は最終的に戦争犯罪者とはならなかった。なぜか。
若いころから彼の理解者だった朝倉文夫の請願書に関連して、佐藤は以下のような分析をする。
――池崎本人が人気を博した理由は大衆が言語化しづらい情念を言語化したことにある。繰り返し述べてきたように、輿論(公的意見)を指導するための著作ではなく、世論(大衆感情)を反映した著作である。その意味では常に世論を先取りしており、その著作が戦争支持のポピュリズムを煽ったと批判できる。
日米開戦のための輿論を形成したのではなく、国民の心情を言語化した結果が好戦論になった。彼は一介の軍事評論家に過ぎない、とする池崎忠孝論である。多少、文才のある評論家の部分が、漱石を戸惑わせた漱石論者の部分(この時は文明評論家)と通底する。世論を意識し世論を背景に発信する、という体質こそ「メディア議員」の本質的部分ではないか。佐藤はそう言っている。
一部の政治学者からはポピュリズム(大衆迎合主義)と批判される「メディア議員」について佐藤は「政治家・池崎忠孝の挫折こそ、今日の政治的知識人が自省すべき鑑となるのではあるまいか。(略)彼の悪戦苦闘にこそ歴史家が探るべき人間の真実があるのではないだろうか」とする(あとがき)。
池崎という一人の人物を通して、日本の近代が平面から立体に見えてくる、そんな一冊。
創元社刊、2970円(税込)。
【注】「輿論と世論 日本的民意の系譜学」(佐藤卓己著、新潮選書)
池崎忠孝の明暗: 教養主義者の大衆政治 (近代日本メディア議員列伝・6巻)
- 作者: 佐藤 卓己
- 出版社/メーカー: 創元社
- 発売日: 2023/06/15
- メディア: 単行本
台湾の暗部を描く~映画「流麻溝十五号」 [映画時評]
台湾の暗部を描く~映画「流麻溝十五号」
冒頭「事実に基づく創作」とある。台湾にこんな歴史があるとは知らなかった。しかし、あって不思議はないことだった。
台湾の南東に15平方㌔の小さな島、緑島がある。火山島で、日本の植民地時代は火焼島と呼ばれた。台湾警備総司令部は1951年、この島に新生訓導処を建設。政治犯を収容し、思想改造を行った。なぜこんな施設が造られたか。当時の東アジア情勢をみると、そのわけが分かる。
1949年、大陸に毛沢東の中国が成立、蒋介石の国民党は台湾に押し込められた。50年には朝鮮戦争が起き、金日成の北朝鮮軍と中国軍が半島を南下、米軍を主力とする国連軍と対峙した。53年に休戦協定が結ばれたが、米ソ冷戦は一気に緊迫化した。「ザ・コールデスト・ウォー」と呼ばれたこの戦争で死者は計400万人とされる。こうした情勢に、蒋介石が慄然としないはずがない。戒厳令下、白色テロ施設の生まれた背景である。
タイトル「流麻溝十五号」は女性政治犯の収容場所に由来する。したがって、映画の登場人物の多くは女性収容者である。1953年、施設内で反乱を企てたと冤罪を着せられ、14人が処刑された事件を核に展開する。
純粋な心を持つ、絵を描くことが好きな高校生・余杏惠(ユー・シンホェイ)。学生組合に参加したことでスパイ容疑をかけられる。なぜか、杏子という日本語名でも呼ばれる=余佩真(ユー・ペイチェン)▽ひとりの子どもが生まれて間もなく投獄された正義感の強い看護師・嚴水霞(イェン・シュェイシア)。女性寮の寮長のような存在。禁止図書の閲覧で拘束された=徐麗〓(シュー・リーウェン)▽妹を拷問から守るため自首して囚人となった陳萍(チェン・ピン)。舞踊団に入団し、華麗な踊りを見せる=連〓涵(リェン・ユーハン)。
① 〓 雲の上半分に下は文
② 〓 輸のつくりの部分
こうした登場人物が、絶望と希望のないまぜになった日々を送る。日本の植民地支配の名残か、台湾語、北京語のほかに日本語も飛び交う。
この施設がいつごろまで機能したか、国防部などに移管されたため、実はよくわからない。現在は白色恐怖緑島紀念園区(白色テロ施設の人権博物館)として残されている。台湾の歴史の暗部を、台湾自身が描いたことに拍手を送りたい。
2022年、台湾。監督周美玲。
民主化の流れに抗した軍部~映画「ソウルの春」 [映画時評]
民主化の流れに抗した軍部~映画「ソウルの春」
1979年10月、朴正熙大統領暗殺で18年に及んだ独裁政権が幕を閉じた。金大中、金永三らによる民主化時代へー「ソウルの春」の期待は膨らんだ。しかし、時代はそうはならなかった。朴政権下、引き立てられた軍人らがクーデターを起こしたのだ。映画「ソウルの春」は、混沌としたその時代を描いた。
首都の治安維持を巡って二人の人物が対立する。一方は保安司令官チャン・ドゥガン少将(ファン・ジョンミン)。権力の階段を上り詰めようとする野心的な男。もう一方に首都警備司令官イ・テシン少将(チョン・ウソン)。こちらは清廉潔白。二人の上には大統領や国防長官がいるが、いずれも逃げ腰。唯一、参謀総長(イ・ソンミン)はイ・テシンの側につくが無力だった。
チャン・ドゥガンは左遷と思われる人事を前に反乱を企てる。彼の背後には軍部の非公式組織ハナ会がいる。日ごろから徒党を組み陸軍本部をのし歩くドゥガン。イ・テシンは参謀総長に現ポストを言い渡され忠誠を誓う。チャン・ドゥガンと右腕ノ・テゴン少将らは数で圧倒、国防長官にイ・テシン解任を命じさせ、万事休す。部下に「ついてくるな」と命じ、イ・テシンは一人反乱軍の戦車に立ち向かう…。
分かりやすい構図に、韓国映画お得意の緊迫感あふれる映像のラッシュがかぶさる。
実際の歴史を振り返ってみる。中央情報部長官・金載圭による朴大統領暗殺後、全斗煥は事件の合同捜査本部長に任命された。ここから12・12クーデターを経て翌年には金大中ら26人を逮捕、金永三を自宅軟禁にした。5・17クーデターである。こうした強権政治復活に危機感を持つ市民、学生が立ち上がったのが光州事件だった。反乱を力ずくで抑え込んだ全斗煥は大統領を二期、右腕だった盧泰愚も大統領を一期務めた。民主化の進行とともに光州事件の政治責任を問う声が強まり、特別法の成立によって全斗煥に無期懲役、盧泰愚に懲役17年の判決が下った(金大中政権によっていずれも特赦。全斗煥は90歳、盧泰愚は88歳で没)。
(この項「韓国現代史」文京沫著を参照)
全斗煥らは、朴政権の軍部による権力掌握を継続しようとした。民主化の大きな流れに抗した反動的な一コマだったといえる。しかし、映画はこうした歴史的位置づけより、全斗煥を狡猾で野心的な悪役として描き、一方に正義漢イ・テシンを悲劇のヒーローとして対置することで共感を得ようとした(つまりエンタメ志向)。この点、前後の動きを入れることで歴史的な位置づけを明確化したほうが興味深かったように思うが…。
なお、登場人物はいずれも実在者をモデルにしていると思われ(イ・テシンは不明)、脚色も入っていそうなので、映画上の役名をそのまま使用した。
2023年、韓国。監督キム・ソンス。
引き裂かれた二人の愛情物語~映画「大いなる不在」 [映画時評]
引き裂かれた二人の愛情物語~映画「大いなる不在」
昔見た映画に「かくも長き不在」(1960年)というのがあった。パリのカフェの女主人が、生死も知れぬ男を待ちわびる。そこへ、あの男に似た一人の浮浪者が現れる。ダンスに誘う。鏡に映った彼の後頭部には、記憶に残る傷があった。しかし男は記憶喪失だった。二人を引き裂いたのは、ゲシュタポの拷問という戦争の暴力だった―。
「大いなる不在」もまた、引き裂かれた人々を描く。戦争によってではなく、認知症による記憶の障害によって。
物理学者の陽二(藤竜也)は20数年前に妻と子の卓(森山未來)を捨て、直美(原日出子)と再婚した。舞台俳優として生きる卓にある日、疎遠だった父の近況が飛び込んできた。「事件です」と偽の通報をし、逮捕されたという。急遽、父の自宅を訪れた卓は、予想外の現況を知る。 父は重度の認知症で施設に収容されていた。直美は所在不明。いったい何があったのか。父が直美にあてた手紙が見つかった。まぎれもなく父の愛情が込められていた。
卓は妻の夕希(真木よう子)と、直美の所在を確かめるため熊本を訪れる。入院、自殺、病死…とさまざまな情報が飛び交っていた。妹・朋子(神野三鈴)と会うが、直美に会うことも伝言を託すことも拒否された。それが直美の心境を物語っていた。記憶をなくした陽二が、自分の認知さえ不確かになってしまったことに失望したのだった。
タイトル「大いなる不在」の、不在とは何を指すのだろう。
映画で軸になっているのは陽二である。彼が認知症(記憶喪失)になり、自分の現在地さえ分からなくなっている(卓と会った陽二が「パスポートがない」と嘆くシーンは象徴的だ)。現在と過去がまだら模様に交差する(それを演じる藤竜也が見事)。「不在」が指す一つの事例である。それよりも大きいのは直美の不在である。彼女は記憶の中にしか登場しない。現在という時間枠ではまったく存在しない。そして、卓の中の父親像。その不在を埋める旅が、映画を構成している。
それらを考えると、この映画で確かな現実とは、始まりと終わりに登場する舞台俳優としての卓の姿、それだけである。卓を額縁として描かれた陽二と直美のまだら模様で断片的な愛情物語、そんな映画に見える。
2023年、監督近浦啓。多少難解だが、美しい映画。ヨーロッパのそれを見ているよう。
負の歴史に真摯に向き合う~「アナウンサーたちの戦争 劇場版」 [映画時評]
負の歴史に真摯に向き合う~「アナウンサーたちの戦争 劇場版」
NHKディレクターで作家の渡辺考が著した「プロパガンダ・ラジオ 日米電波戦争 幻の録音テープ」は日中戦争の発端となる盧溝橋事件の2年前、1935年に発足した日本放送協会(現NHK)の海外向けラジオ短波放送が、戦火拡大とともに「兵器」として使われた歴史を追った。末尾にNHKプロデューサー塩田純が文章を寄せ、こう書いている。
――私たち放送の担い手は、かつて真実を報道できず、多くの人々を戦場へと導く結果をもたらしたことを、改めて認識しなければならないでしょう。(略)放送人が自らの戦争責任を解明していくこと、それは今後も続けなければならない重い課題です。
当時、メディアの主役はラジオアナウンサーだった。テレビやネットがある現代と比べ、ラジオの比重は極めて高かった。その背景を少し探ると―。
20世紀初頭、公共空間の構造が大きく変わった。原因の一つはラジオの出現だった。それまで知識の源泉は書物だったが、ラジオによる宣伝・扇動(プロパガンダとアジテーション)が取って代わり、公共空間は書斎から街頭に移って労働者大衆を扇動する政党が台頭した。このことを体現したのがヒトラーのナチスだった(この項「増補 大衆宣伝の神話」佐藤卓己著を参照)。
戦時下の日本でも新しいメディアであるラジオをどう使うかは大きな政治テーマとなった。こうした状況の中、真実か扇動かで悩みもがいた放送人の姿を描いたのが映画「アナウンサーたちの戦争」である。
昭和14年春、新人アナウンサー入局から始まる。実枝子(橋本愛)たちは研修の席で、和田信賢アナ(森田剛)の傍若無人ぶりを見てあっけにとられる。やがて真珠湾攻撃による日米開戦。和田や若手の館野守男アナ(高良健吾)は軍艦マーチとともに大本営発表の戦果を高揚して伝えた。和田はスポーツ実況では第一人者で、戦争報道にも力は発揮されたのだ。しかし、戦況悪化とともに真実の報道かどうか疑い始め苦悩、ラジオはアジテーションだとする館野とも対立する。和田と結婚した実枝子は叱咤するが…。
昭和18年10月21日、雨の神宮外苑。学徒出陣の実況中継を任された和田は直前に学徒らを取材、本心を聴き、苦悩は深まった。軍部の要請と真実の報道とのはざま、ついに和田は中継を放棄、若手に委ねる。
和田や館野だけではない。新設されたマニラ支局に赴任、電波戦の担い手として戦い、帰らかなかった局員。それぞれに苦悩し、戦後の生きざまもそれぞれに決したことが紹介される。
冒頭の著作もそうだが、NHKが負の歴史を真摯に見つめ作品としたことに敬意を表したい。この姿勢は映画人、新聞人、文学者にも等しく問われるべきことだろう。
よくも悪しくも戦後秩序の出発点~映画「東京裁判」 [映画時評]
よくも悪しくも戦後秩序の出発点~映画「東京裁判」
東京裁判は1946年5月から48年11月にかけて行われた。A級戦犯とされた28人が被告席に座り、うち7人が死刑判決を受けた。控訴が認められない一審裁判。判決から25年後に米国防総省が公開したフィルムを使い、ドキュメンタリーとして製作されたのが映画「東京裁判」である。1983年公開。デジタルマスター版として修復されたのを機に再公開された。観るのは40年ぶり2回目である。
東京裁判をメーンテーマとしつつ、当時の時代状況が広範に取り入れられた。東京裁判のモデルといわれたニュルンベルグ裁判、関連する欧州戦線の模様、日本の戦争に至る道筋と特攻による若者の悲劇的な死…。これらを編み込み、法廷の審議が紹介される。
もともとGHQのマッカーサー司令官命令によって始まった裁判。進駐軍占領下の日本にどう新秩序を築くか、という政治的思惑が背景としてあった。したがって戦勝国が敗戦国を断罪する、という根本は動かぬ事実だった。
審議されたのは次の3点だった。①平和に対する罪②戦争犯罪③人道に対する罪。①はニュルンベルグでも取り上げられた新たなテーマである。ナチと同様、共同謀議者の戦争責任を追及するのが目的だった。
冒頭付近で興味深い論争が紹介される。重光葵担当のジョージ・ファーネス弁護人だったと思うが、広島への原爆投下に対する罪はなぜ問われないか、と弁論を展開していた。戦争行為の一環だからということなら、この法廷の被告も大半が無罪ではないか、と問うていた。裁判長のウィリアム・ウェブはいとも簡単にこの議論を退けた。法廷全体の空気としては、入口の通過儀礼的議論と受け止めたようだ。しかし、現在から見ればこの議論は重要で、戦闘員ではない市民への無差別殺戮の罪は戦争の勝敗に関係なく、各国が問われるべきと思う。原爆だけでなく、米軍機による戦争末期の地方都市無差別爆撃も対象となるだろう。
天皇が戦争遂行にどの程度の影響力を持ったかについては、ウェブ裁判長が周到に東条英機から証言を引き出そうとしていた様子が、細かく描かれる。戦後体制の構築の中で、天皇を米国のリモコン装置にとのマッカーサーの思惑が背景にあったと推測がつく。
文民として唯一死刑判決を受けた広田弘毅には、城山三郎の「落日燃ゆ」を挙げるまでもなく悲運の宰相のイメージが付きまとう。1931年の満州事変後、33年に外相、36年に首相となったが、むしろ軍部に押し切られた政治家だった。満州国建国の大立者といわれた岸信介がA級戦犯容疑者として巣鴨に勾留されながら訴追を免れたのとは、大きく違う。岸の罪も広田にかぶせることで、岸を戦後再建に活用しようと考えた、ということか(この点、天皇の意向も働いた、とする説もある)。
裁判は正義と公正に基づく、といわれるが、東京裁判はそこから遠く離れていた。戦勝国が敗戦国を裁き、その後の秩序を都合よく築くための最小限の手続きだった。半面、このことは戦争という行為がもたらす冷厳な事実でもある。戦後日本を見つめ直すにあたって、この法廷で何が問われ何が問われなかったか確認することは無駄ではない。40年ぶりこの映画(4時間半)を観て、あらためて思う。
監督小林正樹、ナレーション佐藤慶。
「原爆」めぐり揺れるアメリカ~映画「リッチランド」 [映画時評]
「原爆」めぐり揺れるアメリカ~映画「リッチランド」
広島、長崎への原爆投下が第二次大戦の終わりを早め、戦死者の増大を防いだ。こんな神話が、長く米国世論に支持された。手元に資料がなく記憶に頼るしかないが、1950年代の世論調査で神話の支持者は7~8割に達していたとある新聞が報じていた。さすがに現在は5割を切るという。20年ほど前にワシントンのスミソニアン博物館で、広島への原爆投下に使われたB29爆撃機「エノラ・ゲイ」を見た。磨き上げられ輝くジュラルミンの機体が展示場の中央に置かれ、歴史資料というより米国の誇りを象徴する存在に見えた。
長崎で被爆した永井隆は、直後に敵機が撒いたビラを見て率直な感想を残した。
――あっ、原子爆弾!(略)原子爆弾の完成!日本は敗れた!(略)ついにこの困難な研究を完成したのであったか。科学の勝利、祖国の敗北。物理学者の歓喜、日本人の悲嘆。(略)=「長崎の鐘」(アルバ文庫、71P)
原子爆弾の開発は科学力の競争の結果であり、先を越された日本は敗北必至だ、そういっている。これを米国の側から見れば、科学が生んだ新しいエネルギーは戦争の形を変え、作戦に使われた爆撃機も、国の新しい誇りである―となる。
しかし、時が過ぎて狂熱が冷めると、きのこ雲の下で亡くなった人たち(多くは非戦闘員)は、科学の進歩のための礎というだけで済まされるのか、という疑念がわいてくる。
こうした時代の流れに翻弄されてきた米国の小さな町がある。ワシントン州南部、リッチランド。マンハッタン計画に沿ってネイティブアメリカンの土地を収奪、核物質生産のための施設ハンフォード・サイト建設(1942年)に伴い、そこで働く人々のために砂漠地帯に出現した。最も多い時で人口6万人。サイトで生産されたプルトニウムが長崎原爆に使用された。現在は国立歴史公園になっている。
住民は、高齢者ほど冒頭に挙げた核神話をいまだに信じている。高校の校章はきのこ雲、フットボールチームのトレードマークにはB29が加わり、名前は「リッチランド・ボマーズ」。
この地を広島出身の被爆3世、アーチスト川野ゆきよが訪れ、対話を試みたのを機に製作されたのがこのドキュメンタリーである。対話はなかなか進まない。この時、川野が漏らしたのは、この場で有色人種は私だけ、という違和感だった。ネイティブもアジア系もアフリカ系もいない。いるのは白人だけ。この小さな違和感は、原爆の開発と使われ方の根底を成す思想につながっているように思えた。
高校生たちの輪で、町のありようが議論された。若者には、きのこ雲やB29が象徴的に使われることに、ひっかかるものがある。しかし、変えていくことは容易でないことも分かっている。それでもコツコツ説得していくしかないか、というところで議論は終わる。
「核兵器は悪である」と言い切ってしまうのは、ある意味で簡単だ。自明の理だからだ。しかし、このリッチランドでは年代や職業によって自明が自明でなくなる。重層的な視点の必要性を気づかせてくれるドキュメンタリーである。メインビジュアルで使われた「(折りたたむ)ファットマン」は川野ゆきよが、祖母の着物をほどいた布を自らの髪で縫い合わせつくったという。日常空間にあるものを使って核兵器をかたどる、そのことである種のおぞましさが立ち上ってくる。
2023年、米国。監督アイリーン・ルスティック。