背景の闇に歴史的事件~映画「湖の女たち」 [映画時評]
背景の闇に歴史的事件~映画「湖の女たち」
原作吉田修一。カット割りの鮮やかさにいつも驚嘆する。小説でありながら、明確なシークエンスの連続が頭に浮かぶ。密室、逃亡劇、異常な状況に追い込まれた男と女の皮膚感覚。それらが鮮やかに活字化される。
「湖の女たち」は、琵琶湖畔の介護施設で起きた100歳殺害事件を発端として、捜査する刑事濱中啓介(福士蒼汰)と捜査対象となった介護士豊田佳代(松本まりか)が陥った、奇妙な支配・被支配の関係を描く。
濱中は唐突に佳代とエロスの関係を結ぼうとする。かなりヤバい刑事だ。佳代はためらいながら一線を越える。その先に「死」の衝動が見える。フロイトが言うリピドーからタナトスへの欲動を見る思いだ。
男女に限定しなければ、そしてもっと低いレベルであれば、支配・被支配の奇妙な空間に陥ることはしばしばある。こうした無意識構造(=闇)に踏み込んだドラマといえる。
だが、映画(小説)は事件と関係者の心理を描く次元で終わらない。その先の薬害事件、さらに先にある満州・731部隊の人体実験にまで行きつく。二次元の先の、三次元の物語が展開されようとするが、どこからか飛んだ権力者の指示によってそれらは再び、歴史の暗黒に葬られてしまう…。
実をいうと、こうした構成はこれまでの吉田修一ドラマの枠を超えているように思えた。彼の職人芸は、あくまで二次元の平面にいる人間の汗と痛覚を描くことで発揮された。歴史的事実をプロットに組み込むのは無理があったようにも思える。これは吉田の新たな挑戦なのか。どう読むか。
映画はここまで2本の軸で進む。介護施設の事件を捜査する刑事・介護士の奇妙な関係。過去の薬害事件と満州の人体実験。これらをつなぐポジションとして二人が存在する。濱中の上司・伊佐美祐(浅野忠信)と雑誌記者池田由季(福地桃子)。伊佐はかつて薬害事件を追った経験があり、上からの指示で捜査を断念したトラウマを持つ。池田は薬害事件の存在を知り、関係する医師が満州にいたことを突き止めるが、上司から取材中止を言い渡される(原作では池田は男性だったが映画では女性に代わった。これはこれで成功している)。
満州・731部隊の宿舎近くには平房湖という美しい人工湖があり、湖畔で奇妙な出来事が起きる。厳冬期の小屋で、全裸の少年とロシア人少女が凍死体で発見されたのだ。事件か心中か、判明しないまま時は過ぎた。現場には数人の日本人少年がおり、その中の一人が後に薬害事件に関係した医師と証言したのは、介護施設で殺された市島民男(彼も731部隊の関係者だった)の妻松江(三田佳子)だった…。
最終局面。介護施設の事件は意外な展開を見せる。施設の職員・服部久美子(根岸季衣)の孫三葉(土屋季乃)の行動を目撃したのは、強引な捜査で退職を余儀なくされた濱中と、過去の事件の取材に圧力がかかりながらなお執念を燃やす池田だった。そこに至るシーンで、相模原の障碍者殺傷事件の記事に三葉が見入っている。「優性思想」が、動機として暗示される。
2024年、監督大森立嗣。
ナチへの復讐に燃えた男は~映画「フィリップ」 [映画時評]
ナチへの復讐に燃えた男は~映画「フィリップ」
ポーランド人作家レオポルド・ティルマンドが自らの体験をもとに書いた小説を映画化した。
1941年のワルシャワ・ゲットー。ポーランド系ユダヤ人のフィリップ(エリック・クルム・ジュニア)はあるイベントでナチの急襲にあい、恋人や家族を失う。たまたま死を免れ、組織の支援で偽造パスポートを入手、フランス人になりすましたフィリップは、ドイツ・フランクフルトにホテルのボーイとして潜伏する。
ワルシャワ・ゲットーとは。
1939年のナチ侵攻後、ポーランド社会とユダヤ人の交流を断つため翌40年に境界が封鎖された。ワルシャワ市域の2.4%に全市民の3割に当たるユダヤ人が押し込められたという。当初は自治が認められキャバレーや高級レストランも存在したが飢えと不衛生が深刻化、42年初めのヴァンゼー会議後に絶滅収容所への移送が始まった。こうした時代背景を持つ。
フィリップは、前線に赴いたナチ将校の夫人らを狙って性的関係を持った。ナチ独裁下では、ドイツ人女性と関係を持った他国人は死刑が宣告され、女性も髪を切られた。ゲルマン民族の純血を守るためとされた。女性も、共犯関係にあるためうかつに秘密を明かせなかった。
戦後ドイツではこれと逆転した光景が見られた。ナチスに協力した女性が髪を切られ、街頭を引き回された。写真などで残されている。
復讐は氷のような心で行われた。ドイツ人女性と性的関係を持つことで服従させ、侮蔑的な言葉を囁き娼婦のように捨てる。ゲットーにいた時のような誇りと生気は消えていた。
しかし、フィリップの感情が揺れ動く瞬間が来る。プールサイドで会ったリザ(カロリーネ・ハルティヒ)に心を惹かれ、パリへ逃亡を企てる。ホテルではナチ将校の結婚披露パーティーが開かれることになっていた。そんな折、ロッカールームからワインが見つかり、盗んだとされた同僚のピエール(ヴィクトール・ムーテレ)はその場で射殺される。親友の死に涙し、再び復讐の炎を燃やしたピエールのとった行動は…。
ホテルのパーティーでは男女合わせて5人の死体が並ぶ。ゲットーでフィリップが見た家族らの死体と同数と思われる。
監督ミハウ・クフィェチンスキ。アンジェイ・ワイダ監督「カティンの森」(2007年)などのプロデューサーを務めた。心理を武器にした復讐劇、という面白さがある。
ジャーナリズムの境界線を引き直す~濫読日記 [濫読日記]
ジャーナリズムの境界線を引き直す~濫読日記
ジャーナリスト、大学教授の肩書を持ち「日本ノンフィクション史」(2017年、中公新書)はじめ多数の著書がある武田徹が、立花隆の軌跡を追った。ちなみに「日本ノンフィクション史」で立花は、ほぼ素通り状態だった。文中に文藝春秋の編集者だった堤堯が社長の池島信平にノンフィクション賞新設を提案する場面があるが、動機として「柳田邦男や立花隆といった若い書き手に注目していた」とあるだけだ。後に賞の名にかぶせられた大宅壮一から「小説の言語でノンフィクションを書く」と言われた沢木耕太郎に至る道筋は詳しいが、立花の文体への言及はない。「おわりに」でも登場するが「田中角栄研究―その金脈と人脈」を書くため頻繁に大宅文庫を訪れたという、取材者としての背中だけである。武田はなぜ、ノンフィクション作家として立花を扱わなかったか。
答えは早々に見つかった。「まえがき」のサブタイトルは「立花隆は苦手だった」。ともにジャーナリストを名乗り大学にも所属、と立ち位置は似ているが…。武田はこう書く。
――そこに描かれている事実の世界は伝わってくるが、彼の言葉自体が意識に残ることはない。(略)不世出のジャーナリストだが、言葉を「道具」として使いはするものの、「言葉そのもので表現」していないと筆者は思っていた。(9P)
立花の言葉の使い方について、本質をついているように思う。例えば沢木の華やかさとは真逆の文体なのだ。立花にとって言葉は脇役といってもいいかもしれない。にもかかわらず、武田は「不世出のジャーナリスト」と呼ぶ。その根拠はなんだろうか。
「まえがき」はさらに哲学者ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」の「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」を引き「語り得ること」と「語り得ないこと」の境界線を引き直す作業に立花は一生をかけたのではなかったか、とする。武田はここに(文体や言葉ではなく)、立花のジャーナリストたる所以を見ている。
長々とした各論を避け、いきなり本題に入るが、立花の作品は大きく二つに分かれる。代表作の一つは、立花の名を世に知らしめた「田中角栄研究」、もう一つは「宇宙からの帰還」。
東大の仏文を出た立花はいったん文藝春秋社に入り、週刊誌記事などを1年間書いた後、東大の哲学に入り直したことはよく知られる。学士入学後にウィトゲンシュタインの著作と出会ったとみられる。何が彼をそうさせたのか。武田は立花「知の旅は終わらない」から、答えを引き出す。
――ジャーナリズムの世界においてぼくが感じたのは、思惟とのフィード・バックがない観察はなにものでもないだろうということだった。(124P)
――とどのつまりは、真に見るという意味においては、超人的に見たつもりで凡人的にしか見ていないという結果になってしまう。(125P)
超人的に見たものを、凡人的にではなく超人的にとらえる。そのための哲学(ウィトゲンシュタイン)の学び直しであり、その後のジャーナリスト活動への反映であった。
このことを補助線として作品群をとらえ直すと、語り得ることの境界内の作品と、語り得ないこととの境界線上の作品と、大きく二つあることがわかる。
「田中角栄研究」や「日本共産党の研究」、そして一連の政治もの。一方で「宇宙からの帰還」や「臨死体験」。流れを分けるのは「語り得ない(と考えられてきた)ものを書こうとしているか」という立花自身の目の位置である。前者は目前の現実を対象とし、後者は「神」や「あの世」とされてきたものに踏み込もうとする(武田はこれを「ジャーナリズム+α」と呼ぶ)。立花の立花たる所以はここにあり、書のタイトルの含意もここにある。
立花には「脳死」に関する仕事があり、一見「+α」の領域に見えるが、武田は「語り得る」ものとしている。言い換えれば「調査報道」の領域である。
立花には大きく三つの時代があった。一つは1960年代後半(東大闘争のころ)、かつての縁で週刊文春に書いていたころと、その後の中東放浪の時代。二つ目は70年半ばの「田中角栄研究」に続く、一連の調査報道の時代。三つ目ある。武田はさらに、週刊誌や雑誌でチーム体制の仕事をしていた70年代、編集者相手に個人仕事の傾向が強かった80年代、若い学生との共同作業を楽しんだ90年代以降と色分けする。大学の講義を引き受けたころ、立花は既に50歳である。若いころのハードワークで体が悲鳴を上げていたに違いない(事実、晩年の彼は成人病のデパートと呼ばれた)。体力、思考力の低下に合わせた対応と思われる。
これまで「語り得ない」と思われた分野を言語化する、という仕事だけに、疑問を呈する専門家は多かった。立花の議論に共通する人類「進化」のイメージにそれは集中した。人類はグローバル・ブレインに進化するのか。人間は人工知能とのハイブリッド体へ進化するのか。楽観的に過ぎる立花は「ジャーナリスト」なのか。
立花を「知の巨人」と呼ぶ。ある編集者はこれを「形容矛盾」という。「知の人」とは批判と検証を怠らない人で「巨人」と呼ばれることに安住しない、という。晩年の立花はそう呼ばれ「まんざらでもなかった」(前出の編集者)。心のスキがあったのかもしれない。
立花がある人物に託した「企画メモ」があり「知の旅は終わらない」でも触れている。
――形而上学というのは、metaphysicsといいますが、本来はphysics(物理学)の上に立つべきものです。(略)僕は、現代のphysicsの最先端の知見に立ってmetaphysicsがあるべきだと以前から思っていた(略)(396P)
日本の大学で見られがちな文系と理系の境界線を越えて、最先端の物理学の知見の上に現代の哲学を築く。たしかに、立花の仕事はそういう仕事だった。
中央公論社刊、2500円(税別)。
極限に向かう排除と抵抗~映画「バティモン5 望まれざる者」 [映画時評]
極限に向かう排除と抵抗~
映画「バティモン5 望まれざる者」
パリ。バンリュー(郊外)は「排除された者たちの地域」という意味も併せ持つ。戦後の住宅難解消のため建てられた高層団地は、1960年代からシリアなど中東や北アフリカからの移民居住地域になった。犯罪多発地域の厳しい取り締まりに対する住民の憎悪・怒りをドキュメンタリー風に描いた「レ・ミゼラブル」は記憶に新しい。監督は、この地域に生まれたラジ・リ。同じ監督の新作が「バティモン5」である。タイトルはバンリューの一角の名称からとった。
老朽化して危険な高層団地を取り壊し、再開発を進めようとする市側と住民の出口なき対立を描いた。
一種の群像劇だが、主な登場人物は3人。ピエール・フォルジュ(アレクシス・マネンティ)は前市長の急死でパリの臨時市長に就任した。もとは医師。治安が悪化する移民居住区の再開発が目前の課題だが、たまたま団地で発生した火災を奇貨として強引に住民を追い出し、計画を進める。
マリ出身のアビー・ケイタ(アンタ・ディアウ)はこうした動きに反発。新団地の間取りが小家族向けで移民対応でないことに抗議しデモを計画する。合法的な運動で解決を図ろうと、市長選出馬を考える。
追い出された住民に絶望と怒りが広がる中、ブラズ(アリストート・ルインドゥラ)が市長宅を襲う。排除と抵抗がぶつかり極限状況へ向かう。
市長の妻ナタリー(オレリア・プティ)や副市長のロジェ・ロシュ(スティーブ・ティアンチュ)ら、移民の境遇に理解を示す人たちもいる。しかし、同情や善意だけで道は開けない。それが基調低音になっている。
フランスでは6月の国民議会選で極右の国民連合(RN)が第1党となった。2回投票制のため与党連合と左派連合が候補を調整、RNを封じ込めたが、政権の不安定化は避けられないとみられている。背景に、映画が描いた移民の急増→「郊外」乗っ取り→治安悪化がある。フランスの行方に影を落とすこの問題、解答は容易に見つかりそうにない。
2023年、フランス・ベルギー合作。
少数者の闘いを見つめる~映画「正欲」 [映画時評]
少数者の闘いを見つめる~映画「正欲」
長く生きていると、同調圧力という現象に出会うことがある。場の空気を読めよ、分かるだろう? みたいなことだ。つい妥協してしまう。同調圧力に屈する、というやつである。どうでもいいことならそれで済む。どうでもよくないことだとどうなるか。そもそも、どうでもよくないこととは…?
マジョリティとマイノリティのそんな微妙な問題を直視したのが「正欲」である。タイトルは造語と思われるが、正しい欲とは。あるいは正しくない欲とは。
主な登場人物は6人。うち5人は普通でない(といわれる)欲望を抱えている。あと一人はその対極、普通(あるいは常識)を体現した人間である。
広島・福山に住む桐生夏月(新垣結衣)は実家暮らしで変化のない生活を送る。販売店員をしているショッピングモールから帰宅すると一人動画にふけっている。ひたひたと快楽が押し寄せる。周りは水で囲まれている、という幻覚。ある種の性的快楽が水とつながっている(このシーンは印象的だ)。中学のころ横浜に転校した佐々木佳道(磯村勇斗)が地元に帰ってきた。夏月には佳道との共通の記憶があった。それは水の関するものだった―。
水に対して特殊な感情を持つ二人を軸に、男性恐怖症の神戸八重子(東野絢香)、ダンスの名手諸橋大也(佐藤寛太)が、それぞれの孤独と人に明かせない性癖を抱えてつながりを求めあう。
「私たちは命の形が違っている。地球に留学しているみたい」という夏月は、生きていくために手を組みませんか、という佳道に同意し、横浜で同棲を始める。普通のカップルから見れば、愛のない共同生活である。
水に対する偏愛をSNSで発信するうち、同好者が現れた。矢田部陽平(岩瀬亮)。しかし、彼が愛するのは水そのものではなく、水に濡れた幼児たち―彼は幼児性愛者だった。
ひそかなつながりを求めた彼らに、検事・寺井啓喜(稲垣吾郎)が立ちふさがる。水に対する偏愛など信じない彼は、夏月や佳道も小児性愛者としてひとくくりにしようとする。佳道は既に逮捕され、取り調べを終えた夏月は寺井に伝える。私たちは別れることはない、と。マジョリティを正義と考える寺井への明確な意思表示である。
社会は多様性を認める方向に向かっている。しかし、深層意識で「普通」や「常識」は生きている。それは時に少数者を排除し抹殺しかねない危うさを秘める。あらためてそのことをあぶりだした。
2023年製作。監督は「あゝ、荒野」の岸善幸。原作朝井リョウ。
人間性回復の物語~映画「東京カウボーイ」 [映画時評]
人間性回復の物語~映画「東京カウボーイ」
「24時間戦えますか」―。ひと昔前こんなCMのフレーズがあった。それが上滑って聞こえない日本経済の迫力があり、ビジネス戦士たちが世界を駆け巡った。今は違う。
大手食品商社に勤める坂井英輝(井浦新)は、経営不振に陥った米モンタナ州の牧場を黒字化するため現地を訪れた。和牛飼育への転換を腹案として持ち、その方面の専門家・和田直弘(国村隼)が同行した。和田は現地のバーで開かれた歓迎会で羽目を外し重傷、入院したため、交渉は坂井一人が担うことに。英語もろくにしゃべれない坂井は習慣の違いや発想の違いのため立往生する。
捨てる神あれば拾う神あり。失敗を重ねるうち、ハビエル(ゴヤ・ロブレス)やペグ(ロビン・ワイガート)ら現地のカウボーイたちと心が通じ合い、モンタナの大地の魅力も再認識する。
坂井は、会社では上司である副社長の増田けい子(藤谷文子、脚本も)と婚約していた。けい子からは牧場の処理を巡って連日、催促の電話がかかる。窮地の坂井はあるアイデアを思いつく。交渉が不調なら第三者の買収も視野に入れていたが、買収先として自分とカウボーイたちを入れた会社を立ち上げる―。
カウボーイたちと話すうち、坂井は自らのプライベートも明かした。婚約して5年というと、彼らは一様に驚き「けい子とちゃんと話しているのか」と問いかけた。無言の坂井に「やっぱりね」。
坂井はビジネスだけでなく生活の上でも何をしなければならないか、知るのだった。そんな坂井のもとにけい子がやってきた。「クビ」を伝えるために。
平たく言うと、モンタナの雄大な山河とカウボーイたちの素朴な心情に触れ、M&Aの敏腕商社員として神経をすり減らした坂井が人間性を取り戻す物語である。
2024年、米国。監督マーク・マリオットは「男はつらいよ」の撮影現場に見習いとして参加した経験がある。そのせいか、ヒューマンな香りは共通する。