翻訳・人質・流民・アジア~濫読日記 [濫読日記]
翻訳・人質・流民・アジア~濫読日記
「闘争のインターセクショナリティ 森崎和江と戦後思想史」(大畑凛著)
森崎和江。日本が植民地支配していたころの朝鮮に生まれ、敗戦前年に福岡に渡った。一度結婚したが同人誌「母音」で知り合った谷川雁らと、筑豊で「サークル村」を立ち上げた。女性炭鉱労働者の体験の聞き書き「まっくら」や、谷川と別れた後の「からゆきさん」を通じ、近代日本の断層帯を見ていた。一言でいえば、気になる思想家であった。
森崎についての見慣れぬ著作が、書店で目に留まった。わが思想体験の上では光芒を放つ存在だが「今なぜ森崎なのか」という疑問に似た思いはあった。奥付の著者の経歴をみると、1993年生まれというから30歳を出たばかり。世代論は好きではないが、それにしてもこの年代で、森崎のどこに関心を持ったのかとは思った。
◆集団の交差と聞き書き=翻訳
森崎をめぐる最大の切り口は、書のタイトルに表れている。「インターセクショナリティ」は集団の交差とでも訳せばいいか。闘争することで、集団が交差する。森崎がまず取り組んだ「サークル村」運動と筑豊の閉山闘争こそ、この「集団の交差」だった。この組織原理に立脚して手に入れたのが「まっくら」「奈落の神々」だったといえ、ここから「からゆきさん」へと向かう。同じ聞き書き方式だが、ただ取材対象から聞いたことをそのまま文字にしているわけではない。体験を聞き、触発された自身が言葉を発する。ここで大畑は「翻訳」という概念を提示する。
ある歴史家が、森崎のこの方法について「askからlistenへ」という現代的なオーラルヒストリーの方法的転回を先取る存在、と位置付けた(46P)。大畑はこの見解に「いかに<書く>のかという次元の考察」が「抜け落ちている」との批判を加えている。たしかに「まっくら」「奈落の神々」「からゆきさん」は同じ聞き書きではあるが<書く>という次元ではまったく違っている。聞き書きをいかに書くか、という観点からすると、石牟礼道子の「苦海浄土」も射程に入るかもしれない。
独立した異質の集団が交差する。そのとき成立する物語が、森崎の場合「聞き書き」であり、裏付ける作業が翻訳である、ということだろう。
◆方法としての人質
森崎にとって「人質」という言葉(概念)を使う契機は金嬉老事件(1968年)だった。その緊迫感と、朝鮮半島での植民二世としての原罪的体験が、自ら「人質」になることで自由を獲得できる、とする思想を生んだ【注】。森崎のいう自由とは、現世から離れ抽象的な自由を得ることではなかった。このことが筑豊の閉山運動とかかわりを生み、人質となることでアジアへの飛翔を可能にした「からゆきさん」への視点につながった。ここでいう「方法としての人質」とは、竹内好の「方法としてのアジア」に倣っている。「からゆきさん」も「アジア体験→アジア主義」につながっているのだ。
◆流民と抵抗 「故郷」と「ふるさと」の間
あまり知られていないが、森崎は「沖縄」にも連帯の視線を投げかけた。ただ沖縄と共闘するのではなく、筑豊と沖縄で闘いの質を共有すること、そのことにこだわった。そこから流民への視座が生まれた。筑豊の集団を<書く>ことが流民を<書く>ことに、あるいは沖縄を<書く>ことに通底したのである。これは流民としての「からゆきさん」を<書く>ことでもあった。
「からゆきさん」を巡って象徴的な事例が紹介されている。竹内はアジア主義に関連して「そもそも『侵略』と『連帯』を具体的状況において区別できるかどうかが大問題である」としたが、森崎はこの一文が生きる指針だったと率直に語っている(245P)。アジアに生きる場所を求めた「からゆきさん」にとって「ふるさと」とは望郷の地だったが、現実に存在する「故郷」は侵略の尖兵として冷たい視線を投げかけたのである。
アジア体験に耳を澄ませた森崎に届いたのは「帰ってこんがましじゃった…」という苦吟にも似た声でもあった。
わが読解力のなさを棚に上げて言えば、水溜真由美「『サークル村』と森崎和江」(大畑は「あとがき」で、この著作が森崎と出会うきっかけになったと述べている)に比べ、この大畑の著作をまるごと消化しきるのは、やや困難だった。それでも示唆に富み、刺激に満ちていたことは間違いない。その中で、わが脳髄に届いた部分をピックアップしてみた。
青土社刊、2800円(税別)。
【注】17歳で単身福岡に渡るまでの森崎の朝鮮半島体験は複雑である。家庭は比較的リベラルで自由な教育方針のようだったが、形成された自我は常に朝鮮の人々に裏切られてきた。そのことが近代的自我への隘路(懐疑)となり「方法としての人質」という思想につながったのか。
「どこにでもある危機」を緻密に~映画「ありふれた教室」 [映画時評]
「どこにでもある危機」を緻密に~映画「ありふれた教室」
ドイツの中学(日本とは年齢区分が違う)を舞台に、日常のさりげない事態への対応の誤りが修復できないまま深刻な亀裂へと発展する、一種のサスペンス・スリラー。舞台は学校だが、教育とか教師と生徒の在り方とかはほとんど関係がない。おそらく「教室」も舞台装置以上の意味を持たない。タイトル通り「ありふれた」場所のありふれた集団の物語である。それでいて、ストーリーの運びに破綻がない。緻密な心理ドラマに引き込まれる。
赴任したばかりのカーラ・ノヴァク(レオニー・ヴェネシュ)は、職員室での盗難多発を知る。ある日、突然持ち物検査が行われ、多額の現金を持っていたトルコ系の男子生徒が疑われた。親に確認すると、ゲームソフトを買うため渡したという。強引な犯人捜しに違和感を持ったカーラは、職員室の貯金箱から金を「拝借」する様子を目撃、生徒ではなく教師では、と疑う。
カーラはパソコンを録画状態にして椅子に財布入り上着をかけてその場を離れた。おとり捜査、監視カメラ状態である。危うい行動だが、校長によって「不寛容方針(ゼロトレランス)が何度か説明されている。「規則に厳しい学校」が売り、ということだ。
カーラはポーランド生まれ、ドイツに移住した。同じ境遇の同僚に「学校で話すときはドイツ語にして」と念押しするシーンがある。何気ないようだが、自身も移民であることが引っ掛かっている。最初に疑われた生徒もトルコ系だった(念のため言えば監督イルケル・チャタクもトルコ系移民の子である)。こうしたことも、事態の背景にある。
録画には、財布を盗む様子が映っていた。ブラウスには星のマーク。同じ模様のブラウスを着ていたフリーデリケ・クーン(エーファ・レーバル)を疑ったカーラは、直接確かめた。逆上したクーンは学校を出て行った。対応に困ったカーラは校長に相談。教師全員で協議の上、処分が決まった。クーンの息子オスカー(レオナルト・シュテットニッシュ)は反抗的態度を強めていった。
ミステリーのようだが、厳密には違う。「犯人」は最後まで不明で、そこが落としどころになっていないからだ。カーラが対話を試みたオスカーは無反応を貫き、警察の手を借りて終わる(このシーンも「勝者は誰か」を問うているようで複雑)。
結局、この映画に教訓やメッセージをくみ取ることはできない。ボタンの掛け違いが生む修復不能な亀裂、秩序維持と治安維持の微妙な違い、集団の結束と狂気の境目、個人と組織の危うい関係―が細かく描写される。現場は教室だが、それはどこかの職場かも、どこかの地域かもしれない。そんな怖さがスクリーンから立ち上る。「スリラー」である。
2022年、ドイツ。
一度は再起を目指したが~映画「あんのこと」 [映画時評]
一度は再起を目指したが~映画「あんのこと」
10代から貧困、売春、クスリびたり―といえばビリー・ホリデーを思い出すが、彼女は天賦の才に恵まれジャズ歌手として再起、名を遺した。映画「あんのこと」の香川杏(河合優実)は、寂しい自死を遂げる。貧困、売春、薬物という壮絶な21年の人生を背負って。
杏は覚せい剤で逮捕、取調室で一風変わった警察官・多々羅保(佐藤二朗)と会い、人生が変わる。働き口としてデイ・ケアを、覚せい剤中毒から抜け出すための矯正施設を、それぞれ紹介された。10代から不登校、漢字はろくに読めない。売春は母親に強制され、覚せい剤は身近な組員に勧められた。そうした過去に終止符を打つ日々が始まった。
「コロナ」が足かせになった。デイ・ケア施設は営業不振に陥り、非正規職員を切らざるを得なくなった。杏もその一人だった。もう一つは、多々羅をめぐる事件。覚せい剤事犯で扱った女性に性交渉を迫っていた。多々羅の周辺で日常取材をしていた桐野達樹(稲垣吾郎)に、何者かが垂れ込んだのだ。通話記録など動かぬ証拠をもとに、桐野は記事にした。多々羅は逮捕、杏は再起の精神的支柱を失った。
ある日、母の恵美子(広岡由里子)に見つかってしまい、再び売春を強要される。絶望した杏は再び覚せい剤に手を出した。クスリとの格闘を記録した日記を台所で燃やし、杏はベランダに向かう。
これだけだと、暗く重いストーリーになる。どこかに救いはないか、と思うのが人情。そのためだろうか。監督の入江悠は、後半にエピソードを加えた。隠れ家にしていたマンションの隣人女性(早見あかり)が「1週間預かって」と乳児を渡す。杏は困りながらも奔走しおむつを取り替え、食事を作る。杏の死後、警察から燃え残りの日記を見せられ、女性が感謝する。なぜ唐突に、見知らぬ杏にわが子を預けたか、など奇妙な点はあるが、このエピソードがなければ作品は八方ふさがりに見えるだろう。監督のフィクションらしいが、よかったか悪かったか。言い換えれば「事実は小説より奇なり」ということもある【注1】。
映画の出発点は2020年6月1日付朝日新聞社会面の記事にあるという。事実を裏付ける材料を持たないが、普通に考えれば、記者は2段階で原稿を書いたことになる(念のため言えば、映画は週刊誌記者になっている)。まず、警察官の性加害告発。次に、その記事がもたらした自殺をめぐる記事。2本が一記者の手で書かれたか定かでないが、同じ記者だとすれば、今のメディアも捨てたものではないなと思う【注2】。
2024年製作。
【注1】もともと、事実から出発した映画である以上、構成上の都合からフィクションを入れてしまうことに抵抗感がないわけではない。
【注2】女性の自死を知った記者(桐野)は動揺、拘置所の多々羅(佐藤)と面会し「記事は書くべきではなかったか」と問う。多々羅は「そんなものは分からない」と突き放す。事実を裏付ける証拠があれば、よほどの事情(例えば人権侵害など)がない限り、答えは自明である。そのうえで起きた事柄にどう対処するかは記者自身が考えなければならない。その結果が2番目の記事だったとすれば、記者の誠実さと受け止めることもできる。
歴史的なわだかまりが背景に~映画「人間の境界」 [映画時評]
歴史的なわだかまりが背景に~映画「人間の境界」
ポーランドとベラルーシの国境地帯。ヨーロッパ圏とロシア圏の境界でもある。ここで何が起きているか。映画は、その一端を教えてくれる。これは真実か、それともフェイクか。
「人間の境界」公式HPによると、公開と同時にポーランド政府は「事実と異なる」とする動画を併せて流すよう命じた。独立系映画館は無視。ヨーロッパ映画監督連盟(FERA)などの支持表明で、政府対映画という構図が生じた。
2021年10月。ミンスク空港にシリア難民の家族が降り立つ。ベラルーシ経由でポーランドに入れば船より安全で早いとの情報を得ていた。国境警備隊の助けでポーランドに入ったが、森林地帯で追い返された。
ベラルーシはシリア人やクルド人難民を集め、ポーランドに送り込む戦略を立てた。ルカシェンコ強権体制に反発する人々も、ヨーロッパへ脱出を目指した。シェンゲン協定(ポーランドは2003年、2023年現在27か国加盟)により、ヨーロッパほぼ全域がパスポートなしで通行可能になった。
目算は外れる。ポーランドの国境警備隊が、一家をベラルーシに送り返した。「サッカーボールのように5回も6回も投げ返された」と嘆く。
公式HPによると、国境地帯は人為的に引かれた国境線(直線)と、地形に沿いあいまいな部分(緑の国境線)とがあるという。ポーランド政府はこの森林地帯を立ち入り禁止区域にした。難民がいることが分かっても、救助はできなくなった。
人道支援組織が、負傷し動けない越境者に語り掛けた。「難民申請をするか、それともこの森で生きるか」。難民申請は、ほとんど通らない。最悪、強制送還となる。母国ではどうなるか分からない。一方、この森で生きることは不可能である。そんな絶望的な選択を迫られる。
一見、ポーランドの非情な対応が目につくが、こうした状況を生み出したのは難民を戦略的に「兵器」として使うベラルーシである、ともいえる。
視点を変えてみよう。第二次大戦時、ポーランドはスターリン率いる旧ソ連によって独ソ分割、カチンの森虐殺、ワルシャワ蜂起の見殺し―と、悲惨な目にあわされた。今のロシア=ベラルーシに対して、こうしたわだかまりが影響していないとは思えない。
エンドロールのテロップによると、2022年2月にロシアのウクライナ侵攻が始まり、2週間で200万人をポーランドは受け入れた。一方で難民問題が深刻化した2014年以降、ヨーロッパ全体で3万人が亡くなった。果たしてここにあるのはヨーロッパ社会の二枚舌なのか、ベラルーシの非情な難民戦略なのか。
原題「Zielona Granica」(Green Border)。今回は珍しく邦題が優れていた。人間の都合で引かれた国境線を越えるため命を落とす不合理とともに、人間と非人間の境界をも暗示しているととれるからだ。
2023年、ポーランド、フランス、チェコ、ベルギー合作。監督は「ソハの地下水道」のアグニエシュカ・ホランド。人間の尊厳を問う問題作。観るべき映画。