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過去の自分が立ち現れるスリル~映画「宮松と山下」 [映画時評]

過去の自分が立ち現れるスリル
~映画「宮松と山下」


 アイデンティティーをめぐる問題作、というと「ある男」とかぶるが、「宮松と山下」もまたそうした作品である。「ある男」が小説的な手法であるのに対して「宮松と山下」はあくまでも映画的な手法でテーマに迫る。
 宮松(香川照之)はエキストラ俳優だった。時代劇では切られ、射られ、現代劇では撃たれて、宮松本人の弁によれば「1日4回殺されることも」。渡された台本通りの演技をこなす。しかし、画面ではほんの片隅に出るだけ。それでも生真面目に演じた。
 彼には過去の記憶がなかった。ある日、谷(尾美としのり)という男が訪ねてきた。「同僚だった」という。宮松は、12年前まで「山下」としてタクシーの運転手をしていたらしい。12歳下の妹・藍(中越典子)がいることも判明した。実家の大きな屋敷で藍と夫・健一郎(津田寛治)との共同生活が始まった。

 エキストラとして他人の人生の切れぎれを演じてきた宮松。彼にとって本当の人生とは。その脈絡の中で、印象的なセリフがいくつかある。もう一度、タクシー運転手に戻るのか、と問われ「タクシーの運転手は気楽でいい。自分で行き先を決めなくていいから」とつぶやく。あるいは、エキストラ俳優の傍らロープウェーの整備をしながら「この宙に浮いてる感じは嫌いじゃない」という。

 記憶喪失は外傷性ではなく心因性で、藍が絡むある事件が契機となっていた。「ショートホープを好んで吸っていた」という藍の言葉で吸ってみると、突然記憶の断片がよみがえった…。
 記憶のない過去の自分が突然立ち現れる、というのはスリリングであり、不条理である。現実と虚構の境目があいまいになっていく映像構成が、不気味さに拍車をかける。彼はかつての小市民的な生活に戻るのか、それとも他人の人生の断片を演じ続けるエキストラ生活を続けるのか。香川照之の怪演が光る。

 監督、脚本は佐藤雅彦、平瀬謙太朗、関友太郎でつくる集団「5月」。2022年製作。


 宮松と山下.jpg



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