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「軍都」の足跡を綿密に追う~濫読日記 [濫読日記]

「軍都」の足跡を綿密に追う~濫読日記


「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」(堀川惠子著)


 栗原貞子の詩に「ヒロシマというとき」がある。結びの言葉はこうだ。
 <ヒロシマ>といえば/<ああヒロシマ>と/やさしいこたえがかえって来るためには/わたしたちは/わたしたちの汚れた手を/きよめねばならない
 「汚れた手をきよめる」とは。なぜ、わたしたちはそうしなければならないのか。前半には、こうある。
 <ヒロシマ>といえば/<ああヒロシマ>とやさしくは/返ってこない/アジアの国々の死者たちや無告の民が/いっせいに犯されたものの怒りを噴き出すのだ

 被爆地広島の体験を語ることは重要なことだ。同時に、それと同じ比重で「軍都」と呼ばれた広島の歴史を近代史の中にきちんと位置付ける作業も必要だと思う。堀川惠子著「暁の宇品」は日清戦争以来、大陸への最前線兵站基地として機能した宇品港の歴史を、膨大な資料を渉猟する中で構築した労作である。
 しかし、史実を追っただけなら、それは単に歴史書に終わる。関心の深い人には読まれても、それ以上にはならない。そこで著者は、ライターとしての分岐ともなる重要な出会いをする。8月15日、広島市内で開いたある会合で、こう語っている。

 ――本にするためには、そこに生きた人たちの生の物語が立ち上がってこないといけない。陸軍史の研究会で話をしていると、ああ、船舶といえば田尻さんか、という。「船舶の神」と呼ばれていたらしい。そういえば、宇品の公園の小さな慰霊碑に名前があった人じゃないか。急きょ広島に飛んで確認した。この人を主人公にしたらいいんじゃないかと思った。

 陸軍と広島について膨大な取材を重ねたが、物語にする糸口が見つからなかった。しかし、ついに見つけた。この時の会話では、もう一つのことが語られている。田尻昌次中将は、太平洋戦争に消極的で首をきられたのではないか、というのだ。物語の手法とモチーフが立ち上がる。
 こうした経緯から「暁の宇品」は当然のごとく、田尻という軍人の足跡から入っている。幸運なことに彼は几帳面な性格で、膨大な自叙伝を遺していた。
 陸士、陸大を経て広島の地を踏んだのは1919(大正8)年。以来、船舶と共に歩む。前年からのシベリア出兵で、在籍した陸軍運輸部は繁忙を極めた。
 日清・日露戦争に続いて、宇品港の重要性が確認されたのは、1931(昭和6)年の満州事変だった。日中15年戦争の起点である。このころ、中国大陸上陸作戦をめぐって軍内部で議論があり、田尻が起案した作戦が結果的に成功を収めた。しかしなぜか、この時以来、参謀本部から遠ざけられ、宇品に封じ込められた。田尻は自叙伝で、この時送った電報が参謀本部に曲解されたため、としているが、真相は分からない。
 1939(昭和14)年9月、ドイツがポーランドに侵攻、第二次大戦が始まった。その直前、田尻は「民間の舩腹不足緩和に関する意見具申」を参謀本部と陸軍省に送った。軍隊内で意見具申とは異例のことである。既に船舶輸送司令部のトップにいた田尻をめぐって、不穏な動きが強まった。国策海運会社の顧問就任の話が来たが、回答は保留した。すると、宇品の倉庫で不審火があった。軍隊では火事を起こし、装備品を焼くなどというのは絶対にあってはならない。火災から3日後、諭旨免職の命令書が届いた。田尻と共に歩んだ技師・市原健蔵も後を追うように退職した。「石をもて追わるるごとく去りたれど…」と歌を残したが、田尻の背中の無念を詠んだようだ、と著者はいう。
 宇品の船舶輸送司令部のトップにはこの後、二人の軍人がついた。1945(昭和20)年の8月6日、司令官は佐伯文郎だった。中国戦線から、2度目の任だった。被爆当日、軍関係や行政機関は全滅状態となり、市中心部から離れた船舶司令部が救護の最後の砦となった。佐伯は新型爆弾であることをいち早く察知、自らの判断で体制を整えた。この時の対応の鮮やかさに、著者は当初「脚色ではないか」と疑念を持ったという。しかし取材を重ねるうち、佐伯は関東大震災の時、参謀本部にいて、その時の経験が生かされた結果だと知る。

 近代日本が軍国主義の色彩を強める中で、兵士や装備、食糧の補給基地として整備された宇品。日清戦争当時、鉄路が広島までしかなかったことが決定的だった。船舶輸送司令部も、戦線拡大とともに膨張した。その中で、時に軍中枢に疑問を抱きながらも力の限り生きた軍人たち。そうした宇品港の歴史は、米国が開発した原爆の標的として設定されるに至った。しかしアジア・太平洋戦争の末期、宇品は既に軍事施設としての機能を持ち得てはいなかった。そのため、米国が新型爆弾の「効果」を測るための標的は海に開けた宇品ではなく、山に囲まれた平たんなデルタ地帯こそが最適とされた、とする著者の結論は、素人なりに納得できる。
 講談社、1900円(税別)。写真は、広島市内で講演する堀川さん。後ろは田尻昌次中将


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暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ

の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ

  • 作者: 堀川惠子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2021/07/06
  • メディア: Kindle版


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