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悪人こそ救われるべき~映画「聖なる犯罪者」 [映画時評]

悪人こそ救われるべき~映画「聖なる犯罪者」


 薄っぺらな知識しか持ち合わせていないことを承知でいうが、この映画でいわんとすることは悪人正機説ではないか。本当に救われるべきは善人ではなく、悪人ではないのか。いや、それよりもこの世界に住む人間はすべてが悪人ではないのか。善と悪とは何か、聖と俗とは何かが境界を失い、混沌として目の前に繰り広げられる。
 殺人罪に問われ少年院に送られたダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は神父の教えを得て信仰心に目覚め、宗教者になることを目指した。しかし、前科者は神父になれないと告げられる。
 やがて仮釈放になったダニエルは、働き口である製材所に向かう途中、村の教会に立ち寄った。そこで出会った少女マルタ(エリーザ・リチェムブル)に冗談で「司祭だ」と告げると教会の神父に伝わり、代役を務めるよう依頼される。ヴォイチェフ神父は重度のアルコール依存症で、満足に務めができない状態だったのだ。こうして、ダニエルの偽りの神父生活が始まった。
 村では年前、7人が亡くなる自動車事故があった。マルタの兄も犠牲者の一人だった。事故は今も村人の心の傷として残り、原因とされた男スワヴェクの妻は今も憎しみの対象だった。ダニエルは村人の心の傷をいやすため、あらゆる努力をする。関係者に話を聞くうち、スワヴェクは、妻の証言から泥酔状態ではなく、禁酒していたことが判明。一方の6人は、残された映像から泥酔状態であることが分かった。日々のミサの、型破りだが自らの体験を踏まえた説話も人々の心をとらえた。
 こうした事実を踏まえ、ダニエルは寄付を募り、スワヴェクの埋葬費に充てようとするが、村人の心は固かった。ダニエルとともに少年院にいた男が現れ、カネを要求する事態も起きた。さらに本物の神父が現れダニエルを叱咤、直ちに去るよう命じた。ついにダニエルは村人に本当のことを告げる決心をする。それには司祭服を脱ぎ、上半身の刺青を見せれば十分だった…。
 ダニエルこそが救われるべき対象であり、さらには人々を導くべきであろうと、この映画は思わせる。しかし、現実はそうはならず、ダニエルは再び少年院に戻っていく。ポーランドであった実話に基づくという。
 2019年、ポーランド、フランス合作。監督はポーランドの新鋭ヤン・コマサ。


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沈没する日本丸~三酔人風流奇譚 [社会時評]

沈没する日本丸~三酔人風流奇譚


 「ワクチン」は安全保障の問題
松太郎 コロナ対応をめぐる政府の迷走やら、東京オリンピック組織委員会会長の辞任劇やら、菅義偉首相の長男による接待問題やら…と、世相を斬るための素材が後を絶たず、このコーナーも追いつけない状況だ。まずはコロナ対応から。
竹次郎 この問題については3人の閣僚が対応している。まず、田村憲久厚労相。そして西村康稔経済再生担当相、これに河野太郎ワクチン接種担当相が加わった。官僚はいちいち、この問題は誰に相談するか、と悩んでいるという。船頭ばかり多くて船は前に進まない感じだ。
梅三郎 本来なら政府のスポークスマンである加藤勝信官房長官がすべて仕切って発信すべきだろう。しかし、そうなってはいないようだ。河野大臣が発信力はありそうだが、ワクチン輸入がうまくいってないこともあり発言がぶれている。
竹 ワクチンは、感染者数が世界最多の米国が囲い込みを図っており、EUも域外へは積極的に出さないようだ。間隙をついてロシア、中国が安価でばらまこうとしている。
松 まさしくワクチン外交が世界を席巻している。その中で日本はワクチン入手が困難な現状を嘆くばかりでのんきなものだ。
竹 このところロシア開発ワクチンが高評価で、EU加盟国も輸入を検討しているようだ。
松 ロシアはソ連時代の遺産があるから。かつて古井喜実厚相がポリオワクチンをソ連から緊急輸入する政治決断をしたことがあった。もう60年前の話だ。きな臭いことを言えば、ソ連は生物化学兵器研究の一環としてワクチン開発を考えていたのかもしれない。
梅 ワクチン開発は国の安全保障そのものだ。日本は感染症対策だけでなく食糧、エネルギー分野も安全保障問題としてとらえる意識は低い。例えば食糧自給率は、2018年度カロリーベースで37%。OECD加盟30カ国中27位で、人口1億人を超す国では最下位だ。石油に頼るエネルギー分野は今さらいうまでもない。ホルムズ海峡、マラッカ海峡を封鎖されれば日本経済の息の根は止まる。一時期、シーレーンが議論されたが、それよりエネルギー自給をどうするかを考えたほうがいい。再生可能エネルギーへの転換だ。
松 中国もロシアも安保問題には敏感だ。ロシアがクリミア半島を占領したり、中国が南沙諸島を実質占領したりする背景にもそれがある。ワクチンも、国の安全保障に直結すると考えるから開発に熱心に動く。一方で、なぜ日本はこれほど鈍感なのだろうか。
竹 米国一辺倒の外交をやっていればなんとかなる、と戦後一貫して思考停止してきたからではないか。ワクチン問題も、そのつけを払わされている。これをいい機会として米国一辺倒から離れるべきだが、できるかどうか。
松 いまミャンマーがクーデターによって揺らいでいるが、この国にも日本がどう対応するか問われている。米国はクーデター政権に反対の意思表示をしたが、日本も追随するのか。かといってタイやカンボジアなど周辺国は中国を向いている。その中国は、今のところミャンマーに対して静観の構えで、事実上クーデター政権を追認している。日本の対応はとても難しい。

政治ムラの原風景
松 ワクチンの話から少しずれてしまったようだ。オリンピック組織委員会の森喜朗会長辞任劇について。
竹 なんだか数十年前の政治ムラの原風景を見ているようだった。金丸信とかが暗躍していた時代がまだ続いているのかと思った。
梅 森批判が高まったとき、功績もあったとする声があったが首をかしげざるを得ない。密室の談合、根回しという永田町の古い手法でやってきただけではないのか。もっと他のやり方はあったように思う。
松 後継として、いったんは川淵三郎元Jリーグチェアマンにお鉢が回ったが、おそらく官邸から横やりが入って橋本聖子五輪担当相に決まった。組織委が候補者検討委員会を立ち上げ一本化したが、結局、検討委のメンバー8人も正式に発表はなく、どういう議論で選ばれたのかも明らかになっていない。やっぱり永田ムラで繰り広げられた光景が続いている。
竹 そういう経緯で決まった橋本組織委員会の会長~本当はこの言い方も変えたほうがいいのだが。委員長でいいのでは。おそらく森氏の意思が入って会長となったのだろう~に期待はできるのか。
梅 橋本氏がスポーツ選手以上のものをこれまで出してきたかというと、そんなことはないので、やっぱり森氏のパペット以上にはならないのでは。
松 そもそもを言いだすときりがないが、コロナ禍の現状ということを差し引いても、今オリンピックを東京で開く意味はあるのか。1964年の東京五輪は、絶妙のタイミングだった。52年に独立を果たし、56年に経済白書で「戦後は終わった」とうたい、60年安保で良し悪しは別として国の針路が決まった。そんな時にオリンピックがあり、選手村の建設技術が各地の住宅団地建設に生かされ、新幹線や自動車道の社会インフラが整備された。高度経済成長の推進エンジンが東京五輪だった。コロナ禍で国民が疲弊しているいま、それほどの意味が五輪にあるのだろうか。莫大な借金だけが後世に残るのではないか。
梅 島根の丸山達也知事が聖火リレーに異議を唱えたのも、そうした思いが底流にあるのでは。

庶民の常識からかけ離れて
竹 菅義偉首相の長男、正剛氏が勤める東北新社が総務省幹部に接待攻勢を仕掛け、国会で問題になっている。
梅 今の官僚はここまで腐っているのか、と思わされる事例だ。放送行政の元締めが放送事業の一会社の接待を受けてはいくら何でもアウトだろう。
竹 野党に追及されて総務省の官僚は「利害関係者とは思わず」と答えている。何とも白々しい。一方で首相は「長男とは別人格」と答弁、失笑を買った。
梅 当時はまだ首相ではなかったが、総務相から官房長官になった政治家の長男から声がかかれば、断りにくいだろう。一方で東北新社側も、そのことを織り込んで接待攻勢をかけている。双方に下心があるのは見え見えだ。
松 菅首相は総務相時代に放送法を使ってNHK、民放を締め上げた。方針に沿わない官僚は問答無用で左遷したという。ふるさと納税も菅総務相のアイデアだが、受益者負担の原則からすれば外れている。そのことを直言した官僚も直ちに外された。いま接待疑惑を問われているのは、山田真貴子内閣広報官(元総務官僚)も含め、菅総務相によって外されなかった人たちだ。その人たちは、菅氏の長男から声がかかれば出かけていった。「ちょっとそれは…」といえなかったのだろう。
松 もう20年以上前になるが大蔵省接待事件というのがあった。官官接待というやつだ。なんだかそれを思い起こさせる。
竹 常識で考えれば分かりそうなものを、官僚としての矩はその常識とは別のところにある、と考え違いをした人たちがはまる落とし穴がある。これまで多くの官僚がはまったが、今回もだ。
松 日本という船、前に進んでいるとは思えない。ゆっくりとだが沈没しかかっているのではないか。
梅 米国ではトランプ政権からバイデン政権へ移行し、あらゆる政策が180度転換されようとしている。民主主義体制下では、どの政権が100%正しく、どの政権が100%間違っているとは判断しにくい。もっとも、トランプは例外的に100%ダメな政権かもしれないが。言いたいことは一定の幅の中のブレこそが民主主義の正統性を保証するのではないか、ということ。日本に置き換えて言えば安倍、菅と続いた自民党政権も長期化ゆえの腐敗やほころびが目立ってきた。不満や不安があるにせよ、ここらで政権交代をしてみてもいいのではないか。今はそのことによるデメリットよりメリットが明らかに大きいと思える。
松 一度、政治状況を刷新して正すべきは正す、それもいい。

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「不在と喪失」を繊細に描く~映画「この世界に残されて」 [映画時評]


「不在と喪失」を繊細に描く~映画「この世界に残されて」


 ホロコーストを生きのびた少女と医者の、淡いが危うい心の交流を描く。だが、そこでの主役はこの二人ではない。不在となってしまった家族。そのことがもたらす喪失感。それがこの映画の本当のテーマであるように思う。背後にはナチスドイツによって虐殺された無数のユダヤ人たちの思いがある。

 舞台は1948年から1953年にかけてのハンガリー。首都ブダペストで婦人科医を営むアルド(カーロイ・ハイデュク)のもとに、16歳のクララ(アビゲール・セーケ)が訪れる。生理がないという。ホロコーストでの体験からか、クララは容易に周囲に心を開かなかった。しかし、なぜか42歳の寡黙な医師を慕った。わざわざ生理が始まったことを告げに訪れ、アパートに押し掛けた。
 クララは両親と妹を、アルドは妻と二人の子を収容所で亡くした。共通の体験が二人の心を結び付けた。しかし、アルドは懸命に距離をとろうとする。
 ある夜、アルドとクララが寝ていたアパートに、党の捜索が入った。恐怖におびえるクララはアルドに抱きつくが、一線を越えかねない気配を感じたアルドは、彼女を引き離す。戦争は終わり、人々は解放されたはずだった。しかし、ソ連と党は、人々の失ったものを埋める存在ではなかったのだ。
 3年後、クララの後見人である大叔母オルギ(マリ・ナジ)の誕生日パーティーが開かれた。その最中、ラジオが重大ニュースを告げた。スターリンの死去である。パーティーに集まった人たちには、安堵と困惑の入り混じる複雑な表情が漂っていた。
 二人のつらい過去や時代背景の説明は極力省かれている。それだけ、家族を失った痛み、「不在と喪失」が鮮明に浮き上がる。そんな映画である。誕生日パーティーでオルギの「ここにはいない、大切な人たちに乾杯」と告げる言葉がすべてを物語っている。
 2019年、ハンガリー。監督はバルナバーシュ・トート。どこまでもさりげなく繊細に、戦争が残した傷を描いた作品である。クララを演じたアビゲール・セーケは心に残る。

 東欧圏で最初に、ソ連という権威に反旗を翻したハンガリー動乱が起きたのは、それから3年後であった。


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交錯する個人史と近代史~濫読日記 [濫読日記]

交錯する個人史と近代史~濫読日記

「JR上野駅公園口」(柳美里著)

 日本の近代化は二重構造の中で進められた。出発点は奥羽越列藩同盟である。明治維新の際、薩長土肥の勝ち組に対して、この同盟に名を連ねた藩は負け組となった。以来、東北地方は食糧、労働力、エネルギーの供給源として都市部を支えた。出稼ぎ労働力や若年労働力を提供し、原発が林立した。
 こうした日本の近代化過程を個人史に落とし込んだのが「JR上野駅公園口」である。

 主人公は昭和8年、福島県相馬郡八沢村に生まれた。8人兄弟の長男だが、最後は上野公園に寝起きするホームレスである。なぜこのような境遇になったかが、過去と現在の入り組む語り口の中で明らかになる。言い換えれば、一人のホームレスの体内を、近代日本の歩みが風のように吹き抜けていく。
 物語には「天皇制」という一つの強力な磁場(巻末の解説=原武史=を参照)が働く。作品中、主人公の生年は平成天皇と同じであり、主人公の長男は現天皇と同じ昭和35年に生まれている。舞台となった上野公園も、関東大震災で被災者があふれる様子を見た昭和天皇が、防災上重要として東京府に下賜した歴史を持つ。以来、正式には上野恩賜公園となった。
 上野公園は、天皇が通るたび「山狩り」と称するテント村の撤去が行われた。70歳を超えた主人公が最後の「山狩り」に遭遇した日は、雨が降る冬の日だった。上野公園を後にし、暖を求めて街を転々とした主人公は結局、公園に戻ることはなかった。
 主人公は、終戦時に12歳だった。わずかな田んぼでは一家は生活できず、国民学校を出るといわきの漁港に出稼ぎに行った。それも長続きせず、ホッキ貝をとったりして生活費の足しにした。東京オリンピックの前年、昭和38年に東京に出稼ぎに来て以来、盆暮れを除いてふるさとに戻ることはなかった。地元で働く賃金の3、4倍稼ぐことができた。
 60歳で出稼ぎをやめた。その年後、妻の節子も病死した。長男は既に上京中に病死していた。孫娘が身辺の世話をしてくれたが、若い女性を自分に縛り付けておくのがしのびなく、家を出て東京で暮らす決心をする。住むところのあてがあるわけではない。こうして上野公園にたどり着いた。ビニールシートと段ボールで組み立てた住居での生活である。
 ホームレス同士の交流はほとんどないが、例外はシゲちゃんだった。珍しくインテリで物知りだった。彼の口を通じて上野公園の歴史が語られる。

 個人史と近代史が交錯する物語は福島の大津波と原発事故の光景へと収斂する。巻末の解説で原が指摘するように、天皇制の強力な磁場(呪縛といってもいい)は、個人史の終焉をもってしか終わりえなかった。シゲちゃんが書いた直訴状を持って天皇のパレードを見た主人公は、無意識のうちに手を振っている。脳より先に肉体が反応する。無意識層にまでしみ込んだ天皇制。しかし、この時の彼は、天皇制の磁場によって構成された共同体から排除され、冷たい雨が降る上野公園に放置されたホームレスだった。この転倒した位置関係を修復するものは、極限的なカタルシスしかなかったのである。
 相馬に住む柳美里の力量と作品の重量に感嘆する。不思議なのは、米国で「発見」されるよりも前に日本で「発見」されなかったのはなぜだろう、という点である。貧困の中に放置された人間の内面を描く、という行為に米国社会の同じ境遇の人たちが共感した、と読み取ることは可能だろうか。
 河出文庫、600円(税別)。

JR上野駅公園口

JR上野駅公園口

  • 作者: 柳 美里
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2014/03/19
  • メディア: 単行本

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事件の裏側にある深層心理を探る~映画「ファーストラヴ」 [映画時評]

事件の裏側にある深層心理を探る~映画「ファーストラヴ」


 島本理生の同名の直木賞受賞作を映画化した。公認心理士(※)を主人公とし、ある事件の真相解明を縦糸に、彼女自身の心理的葛藤と人間関係を横軸にドラマが進行する。島本の作品は芥川賞、直木賞のいずれが似合っているかがよく議論されるが、この小説に限って言えば「心理小説」と呼ぶのが似合っている。ただ、ジャンル分けしたり、レッテル貼りをしたりすることにどれほどの意味があるのか、と問われればその通りだが。

 女子大生の聖山環菜(芳根京子)が父親の聖山那雄人(板尾創治)を殺害した容疑で逮捕された。血まみれの包丁を手に堤防をさまよい、逮捕後も「動機はそちらで見つけて」と語ったと、センセーショナルに報道された。公認心理士の真壁由紀(北川景子)に、環菜の心理解明を通じてノンフィクションを書かないかと出版社から依頼が舞い込んだ。由紀は受けた。
 環菜の国選弁護人は、偶然にも大学の同期だった庵野迦葉(中村倫也)だった。彼は由紀の夫・真壁我聞(窪塚洋介)の弟だった。しかし、幼いころの家庭の事情から我聞の家で育てられ、実の兄弟関係にはなく、そのため姓が違っていた。由紀と迦葉の手で真相解明が始まった。
 環菜は当初、心を閉ざしたが、由紀の懸命の努力の結果、少しずつ心を開くようになった。血のつながらない父親との関係、幼いころ、画家である父の手伝いとしてモデルをやらされたこと、コンビニのアルバイト店員との秘密の関係。それらを吐露することで、心理的な束縛から解放され始めた。そしてついに「父親を殺していない」と主張する。法廷の行方は…。
 由紀と迦葉は、実は大学時代から知人関係にあった。その後由紀は、写真家として将来を嘱望された我聞と付き合い、結婚に至った。しかし、由紀は迦葉との関係を秘密にしていた。心の闇として抱えるに抱えきれなくなり、葛藤する。
 環菜には自傷癖があり、手首に無数の傷跡を持っていた。どこに原因があるのか由紀は問いただすが、環菜の闇は深かった…。

 原作をほぼ忠実に映画化した。したがって、ドラマの出来は原作によるところが大きい。そのうえでいえば、北川景子は熱演。やっと女優らしくなったか、という感慨がする。
 2012年、日本。監督は堤幸彦。「望み」や「人魚の眠る家」で家族とは何かを問い続けている。堅実な手腕は「ファーストラヴ」でも生かされている。

※原作では臨床心理士、映画では公認心理士という用語が使われている。公認心理士法は2015年に成立、17年施行。国家資格としての公認心理士が成立した。いいかえれば17年以降、公認心理士は国家資格であり、臨床心理士は民間資格ということになった。「ファーストラブ」の初出は別冊文芸春秋1618年、直木賞受賞は18年。このタイムラグが影響して原作と映画の表記の違いが生まれたと推測される。


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ファーストラヴ (文春文庫)

ファーストラヴ (文春文庫)

  • 作者: 島本 理生
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2020/02/05
  • メディア: Kindle版



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西川と役所の幸福な出会い~映画「すばらしき世界」 [映画時評]

西川と役所の幸福な出会い~映画「すばらしき世界」


 「根はいい人なんだけどねえ」といういい方がある。ここに出てくる男も、その形容がぴったりくる。
 「根はいい」のだが、直情径行の気がある。感情を抑えきれない。この男の場合、その気質は生い立ちも影響しているようだ。幼いころ母に捨てられ、養護施設で育った。肉親の愛に飢えている。それが行動に出てしまう。
 三上正夫(役所広司)は、懲役13年の刑期を終えて旭川刑務所を出た。身元引受人である弁護士・庄司勉(橋爪功)のもと、生活保護を受けながら再出発を図る。そうはいっても、13年前に殺人事件を起こし前科10犯、人生の大半にあたる計28年間を塀の中で過ごしてきた。簡単に職は見つからない。配送業の運転手などを希望するが、免許は刑期中に失効した。再取得を試みるが、ブランクが災いして実技試験を突破できない。
 すべてが嫌になった三上は、かつて親交のあった九州の組長・下稲葉明雅(白竜)に連絡を取る。誘いに乗って訪れるが、組長の妻(キムラ緑子)に説得され、「その世界」に舞い戻ることには寸前で踏みとどまった。
 再出発を模索する途上、テレビ局のディレクター津乃田龍太郎(仲野太賀)とプロデューサー吉澤遥(長澤まさみ)、と出会う。彼らは三上の再出発を映像にすれば読者の関心を呼ぶともくろむ。一方で、行きつけのコンビニ店長・松本良介(六角精児)とも、ひょんなことで交流が始まる。店長はテレビ取材の話に「食い物にされるだけ」という。
 佐木隆三の「身分帳」を原作とし、時代設定は35年後の現代とした。身分帳は受刑者の生い立ち、性格などが細かく記され、刑務所内の指導、監督の資料としてつくられた。三上はこの身分帳を丹念に書き写していた。身元引き受けの弁護士を通じてこの「身分帳」を入手した津乃田は当初、番組の基礎資料にと考えるが、次第に三上の壮絶な生きざまに感情移入するようになる。
 「ゆれる」(2006年)以来、西川美和監督は心理の襞を映像化する「人間博物館」とでもいうべき作品を撮ってきた。この「すばらしき世界」も例外ではない。役所広司も期待に応えている。ナイーブな反面、瞬間的に感情を爆発させる。終盤では、臨界点ぎりぎりで思いとどまる、緊迫感あふれる演技。もちろん、西川の手腕も背景に潜んでいる。
 「やくざと家族 The Family」では綾野剛が、暴対法下の社会で生きにくくなり、自ら滅びていく人生を鬼気迫る演技で見せたが、この「すばらしき世界」では役所広司が、生きにくい中で懸命に生きようとする実直な男を演じた。出所後の男が社会に適応しようと悪戦苦闘するシンプルなストーリーだが、西川と役所の幸福な出会いが、作品に奥行きを持たせている。
 2021年、日本。

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破滅的人生を歩む女性刑事~映画「ストレイ・ドッグ」 [映画時評]

破滅的人生を歩む女性刑事~
映画「ストレイ・ドッグ」

 かつての潜入捜査失敗で心にわだかまりを持つ女性刑事が、事件後逃走した男が帰ってきたのを機に決着をつける物語。こういってしまうと簡単なストーリーに見えるが、過去と現在が入り組み、娘ペトラ(タチアナ・マズラニー)との滞る対話がエピソードとして挟まり、それぞれに繊細な心理が絡まる。とても複雑な作品である。なにより、ニコール・キッドマンの汚れっぷりがすごい。

 ロサンゼルス市警のエリン刑事(ニコール・キッドマン)は、二日酔いでフラフラになりながら殺人現場に現れた。そこには一人の男の射殺体と、製造番号のない拳銃、紫色の塗料のついた紙幣があった。おそらく、強奪された被害機関が、使用を防ぐため付着させたのだろう。居合わせた同僚刑事に、エリンは「犯人を知っている」とつぶやく。
 ある日、署に戻ったエリンに郵便物が届いていた。中には殺人現場と同じ紫色の塗料がついた紙幣が入っていた。あの男が帰ってきたとエリンは直感した。
 17年前、ある犯罪組織をつぶすため、エリンとFBI捜査官クリン(セバスチャン・スタン)は潜入捜査を命じられた。銀行強盗の一味として加わった2人は犯行を食い止めようとするが、主犯のサイラス(トビー・ケベル)は女性行員とともに身分を明かしたクリスを射殺する。パニック状態のまま犯人と逃亡したエリスは、途中で車を壁に激突させ、気を失った犯人の1人をしり目に現金を近くのゴミ箱に放り込み、捜査に復帰した。サイラスは行方知れずとなった…。
 冒頭の射殺体は誰だったのか。誰が撃ったのか。結末で明らかになる。

 原題は「Destroyer」だが、珍しく邦題「ストレイ・ドッグ」(野良犬)がいい。昔の失敗を心に病み、酒におぼれ、娘に疎んじられ、夫に逃げられ、という破滅的人生を歩む生き様が表れている。「野良犬」といえば黒澤明、三船敏郎コンビの名作があるが、ひりひりしたニヒリズムは共通する。冒頭シーンはC・イーストウッドの「ダーティー・ハリー」を思わせる雰囲気を持つ。ただし内容的に欲張りすぎた感があり、その辺からくる分かりにくさが、賛否両論を呼びそうだ。
 2018年、米国。

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球体のナルシシズムが描いた「零度の狂気」~濫読日記 [濫読日記]

球体のナルシシズムが描いた
「零度の狂気」~濫読日記


 「金閣を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫」(内海健著)


 足利義満の権勢と栄華を伝える金閣寺は1950(昭和25)年、一人の青年僧によって焼かれた。動機なき犯行だった。僧は裁かれた後、精神分裂症(統合失調症)※を発症、隔離され結核で亡くなった。この青年僧、林養賢の精神に何が起きたか。それを再現したのが、事件の6年後に書きあげられた三島由紀夫の「金閣寺」だった。ノンフィクションではなく小説であるが、狂気の再現に見せた鮮やかな筆致は世間の驚嘆を呼び「金閣寺」は名作とされた。三島は作家としての地位を不動にした。
 「金閣寺」はこれまで数限りなく批評されてきた。記憶する限り、最も古いものは「モデル小説の限界をこえて、格調の高い思想小説」と書いた「殉教の美学」(1979年、磯田光一著)であるが、ここでは「金閣寺」の批評史に踏み入るつもりはない。

 「金閣寺を焼かなければならぬ」に注目したのは、精神病理学者のメスによって林だけでなく、三島自身も解剖されているからである。事件当時、林は発症の前段階にあり、本格的な症状は刑に服してからであった。三島は潜行していた林の病理を正確に把握、金閣寺放火に至る「動機なき道筋=絶対零度の純粋狂気」のありようを再現した。なぜ三島はここまで林の「狂気」に向き合うことができたのか。三島自身にも似た精神の土壌があったからである。
 著者の内海は、精神分裂症に至る病理を3段階に分けて説明する。分裂気質▽分裂病質▽分裂症―である。分裂気質はそれ自体で異常ではなく、必然的に分裂病質に進行するものではない。言い換えれば3つの段階に連続性はなく断絶がある。三島は分裂気質ではあるが、犯行時の林は分裂病質であった、といえるだろう。
 分裂病質であった林には、意識の裂け目から自我の実存というべきものが立ち上がった。そして自我の対極に絶対的他者が立ち上がる。普通の人間は意識を統合することで世界が認識されるが、そこにほころびが生じた場合、他者の放つ絶対命言に裸の自己が向き合わなければならない。それが林の精神の病理であった。絶対的他者として立ち現われたのは、金閣寺の「老師」だった。ただし、実在の人物ではなく三島の創作物である。
 普通、人間は「ただある」(=実存)という状態では「意味」を持たない。実存が言葉という他者とのアクセスによって「自己」として規定される。「われ思う、ゆえにわれあり」である。林の病理では、こうした通路がない。意識による因果応報というものはなく、動機も生じえない。実際、林は金閣寺放火の動機を明らかにしていないし、彼の心因を積み重ねて動機らしきものを構築しても意味はない。精神病理学でいえば、動機はあくまでも「後付け」である。
 では、三島が林と同じ精神の行程を歩まなかったのはなぜか。
 内海は、三島の精神構造を「球体のナルシシズム」を呼ぶ。意識世界は、認識の段階で既に完結していた。どこにも破たんがない。内海は「(自分には)無意識というものがない」という三島の言葉を引用している。すべてが明晰なのである。絵画でいう「無限遠点」(虚の点)、はるか彼方に「ある」が、描きえないもの、しかしそれを暗示させるもの、がない。無限遠点を意識させなければ、絵画は「外」を意識させることができない。これと同じことが三島の意識世界で起きていた、と内海は言う。したがって三島は、外部のない世界に入り込んでしまうか、逆に外部に出て、完全なる余剰となるか、のいずれかだという。絶対的他者が存在しない代わりに、現実との通路も見いだせない。
 なぜこのようなことが起きたか。内海は、現実世界より先に言葉の世界を完結させた三島の生い立ちがある、とする。この「球体のナルシシズム」の、剰余物としての自己を描いたのが「仮面の告白」である(タイトルに「仮面の」とつけたところに「自己を書く」ことの方法的隘路がある、と著者は指摘する)。意識の球体と現実との通路を見つけ出すことに絶望した三島が行き着いたのが、自らの肉体の改造であった。

 文芸評論家による三島文学の「腑分け」に慣れてきた身には、まことに興味深い分析である。と同時に、著者はただの精神病理学者ではなく、文学そのものにも極めて確かな「眼力」を持つように思える。得難い一冊である。

※現在は統合失調症。かつては精神分裂症と呼ばれた。旧名は症状を突きはなす響きがあり、実際に差別や誤解を招いた。しかし、著者は、そのことも含めて林養賢の置かれた位置と精神構造を明らかにするため、あえて「精神分裂症」を使うと注釈で述べている。もとより差別感情に基づくものでないことは明らかで、ここでも精神分裂症を著者の前提に準拠して使用する。

 河出書房新社、2400円(税別)


金閣を焼かなければならぬ


金閣を焼かなければならぬ

  • 作者: 内海健
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2020/06/20
  • メディア: 単行本



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