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何が戦争に駆り立てたか~濫読日記 [濫読日記]

何が戦争に駆り立てたか~濫読日記

 

「天皇と軍隊の近代史」(加藤陽子著)

 

 「あとがき」の冒頭、こうある。

――四〇〇ページ近い本書の「あとがき」までたどりついてくれた読者には、感謝の言葉しかない(357P)。

 

 やや長めの「総論」と、さまざまな要請に応じて寄せた文章とで計9章を構成。うち最後の1章を除いてほぼ論文仕立てである。文章構成の流れより緻密さを優先させたフシがあり、おせじにも読みやすいとはいいがたい。著者の書いている通り、よくここまで「たどりついた」というのが実感である。

 この難解さはどこからくるのだろうか。著者はそのことをめぐって、総論でこう書いている。

 

 ――(天皇と軍隊の緊張関係は多くの研究が描いてきた。一方で、両者の非合理なまでの強固な関係が形成されえた背景についても十分に描かれてきた、としたうえで)より深い淵源を持つもの、すなわち、天皇を戴く国家体制はいかにあるべきなのか、(略)現実に眼前に生じている政治経済体制の不具合はいかに解決されるべきなのか、そのような問いをめぐる相克(こそがここで描きたいもの)であった。(10P、カッコ内はasa

 

 こうして明治維新直後、徴兵制が敷かれた時代から日清・日露、第一次大戦をへて天皇機関説の禁止、中国大陸への侵攻をめぐる天皇と軍部の緊迫した関係が掘り起こされる。言い換えれば、日本の近代化の中での天皇と軍隊をめぐる思想の変転(事象の移り変わりではなく)こそが、この書のテーマである。そこに、この書の難解さの淵源があるともいえる。

 

 こうしたテーマに沿って印象に残ったものを取り上げる。

 まず、第一次大戦をめぐっての日本の動きである。第一次大戦への日本参戦は、日本人の国民的記憶としては極めて薄い。しかし、ヨーロッパ大陸での大戦が、帝国主義時代の生き残りをかけたトーナメント戦であったように、中国大陸における日本の参戦は、世界規模での帝国主義時代の生き残り戦への「参加」であった。この時の日本の動き方を、著者は以下のように記述する。

 ――一九一四(大正三)年夏に勃発した第一次大戦に対して日本は、日英同盟の「情誼」故に、また、東アジアにおいてイギリスに次ぐ海軍力を誇るドイツが山東半島に持っていた根拠地(膠州湾)とその利権の継承を目指して参戦する(113P)。

 

 第二次大戦直後に、大東亜共栄圏を創出し守る戦いだったという風説が流されたが、そうではなく、第一次大戦当時から、戦争は世界の列強と覇を競うためのものだったということが明確に分かる。日本がその後、日英同盟を捨て日独伊三国同盟へと走ったのも、英米中ソとではなくドイツとの覇権を選択した結果に他ならなかった。そのことを明確に表すのが、1915年に出した「対華21か条の要求」であった。第1条で、山東省のドイツ権益について、日本が将来ドイツと協定すべき内容を中国は承認しなければならないとした。第2条では南満州と東部内蒙古に関する日本の利権拡張要求だった。こうした勝手な要求は当然ながらまとまらず、英米からも批判を受ける。結局、最後通牒を突きつけて武力で威嚇、要求をのませた。

 

 1940年9月、日独伊三国同盟が調印された。著者はこのときの交渉過程を、外交資料を駆使して解き明かした。興味深いのは、ヨーロッパ戦線で勢いづくドイツの、東南アジアでの影響力を排除するための対独接近であったこと、その一方で、対中対ソ関係でドイツの援助を求めたこと、対米武力行使には幾重にも限定条件を付け、慎重であったことである。ヒットラーも、当初は日本に対して冷淡だったが、最終的に軍事同盟に至った。翌年、ドイツはソ連と開戦。こうしたことや対米関係をにらんでのことだろう。

 細かくは取り上げなかったが、日本のアジアに対する身勝手な要求が世界的な覇権争いの中で翻弄され、戦火が広がったということだろう。

 

 最後の章「『戦場』と『焼け跡』の間」は、考えさせる一文である。ある雑誌の小特集「花森安治と戦争」に寄せられた。アジア・太平洋戦争末期、米軍は日本の都市を標的に大規模爆撃を行った。紙と木材でできた日本の家屋を効果的に破壊する焼夷弾まで開発した。いわゆる「戦略爆撃」の一環で、非戦闘員を的にしたという意味で、これは犯罪行為であった。空襲の現場は「戦場」とは呼ばれないが、ではこれら焼け跡と戦場はどこが違うのか、という問題意識である。この問いの背景には①侵略戦争は犯罪②戦争指導者は刑事責任を問われる(問われるのは全国民ではない)―というアメリカの戦争観があった。都市爆撃を通じて市民と天皇の軍部批判を起こし、軍部からの離反を想定したとされる。しかし、果たしてそうなのだろうか。日本の国力全体にダメージを与えるという「戦略爆撃」そのものではなかったか。

 末尾に「戦争責任者の問題」と題した映画監督伊丹万作のエッセイが引用してある。戦争が終わった翌年、雑誌に掲載された。戦時中、我々を直接的に圧迫し続けたのは近所の人間や役人、学校の先生たちという身近な人たちではなかったか、という(355P)。単に「だました」「だまされた」ではすまない何かがそこにはある。

 勁草書房、2200円(税別)。


天皇と軍隊の近代史 (けいそうブックス)

天皇と軍隊の近代史 (けいそうブックス)

  • 作者: 陽子, 加藤
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 2019/10/19
  • メディア: 単行本

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今のアメリカにはないもの~映画「幸せへのまわり道」 [映画時評]

今のアメリカにはないもの~映画「幸せへのまわり道」

 

 エスクァイア誌の記者ロイド・ボーゲル(マシュー・リス)は華々しいキャリアをひっさげ、妻と生まれたばかりの子と暮らしていた。しかし、彼には家庭内の悩みがあった。幼いころ家を出ていった父へのわだかまりである。先日も姉の結婚式で、久々に顔を合わせた父とトラブルを起こしたばかり。そんな折り、ある子供番組の司会者フレッド・ロジャース(トム・ハンクス)のインタビューを依頼された。こうしてロイドとフレッドの交流が始まった…。

 編集部からは「シンプルなインタビュー記事でいい」といわれていたが、ロイドはフレッドの人間性にただならぬものを感じていた。そこで、簡単な記事にはせず、フレッドの人間性に迫る記事に仕立てることに心を砕いた。記事はエスクァイア誌の巻頭を飾った。

 一方のフレッドも、ロイドが心のうちに抱える何かに気づいていた。そして、感情をコントロールすること、それには努力と訓練が必要であること、聖書を読むこと―といったアドバイスをする。父へのわだかまりを告白したロイドに「お父さんの影響があったからこそ、今の君がある」と答えた。

 

 トランプ大統領の下、多様性と分断の国アメリカでよくこんな映画が作れるな、というのが第一の感想。いや、アメリカがそんな国だからこそ、こんな映画ができるのか。そう思うと、子供番組で猫なで声を出すトム・ハンクスの演技もすごい。ロイドに対して人生相談のようなセリフを臆面もなく語るが、これもトランプ思想の裏返しか。そう思い始めると、スクリーンでは「聖人」として登場するフレッドをそのまま信じて(受け入れて)いいものか、との感情が湧いてくる。ひょっとしてハンクスが演じたのはテレビという媒体を通した稀代の詐欺師、洗脳師なのか。そう読むのが正しいかどうか分からないが、少なくともそこまで裏があったほうが作品として奥深いことは確かなのだ。それとも、そんな読み方をする方がひねくれているのか。

 個人的には邦題より原題「A Beautiful Day in the Neighborhood」(ご近所との素晴らしい日々、Neighborhoodはロジャーズの番組タイトルから来ている)のほうが気に入っている。いろいろ書いたが、少なくとも今のアメリカにはないもの、消えつつあるものを、この映画は逆説的に描きたかったのだろう。2019年、アメリカ。トム・ハンクスとマシュー・リスは「ペンタゴン・ペーパーズ」(2017)でも共演した。

 

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大林監督の遺言~映画「海辺の映画館 キネマの玉手箱」 [映画時評]

林監督の遺言~映画「海辺の映画館 キネマの玉手箱」

 

 大岡昇平の戦場小説「野火」を塚本晋也監督が映像化、公開した際、尾道の映画館を訪れた。上映後に塚本監督と大林宜彦監督の対談が組まれていたからだ。戦無派の塚本監督は多くのシーンを、想像を交えて撮ったと話した。これに大林監督は、戦争体験者である自分たちがもっと戦争のことを語らねば、と応じていた。話しぶりに戦争を知るものの義務感、といったものがにじんでいた。今から年前の夏だった。

 大林監督の「海辺の映画館 キネマの玉手箱」を観た。この月、82歳で亡くなった監督にとって遺作となる。

    ◇ 

 尾道の映画館が閉館することになった。最後の上映会。街の人々が集まった。その中に馬場毬男(厚木拓郎)ら人の若者がいた。彼らはなぜか、フィルムの内と外を自由に移動する。映画では戊辰戦争、西南戦争、日中戦争、沖縄戦、原爆の広島投下が描かれる。時にサイレント、時にパートカラーを駆使し、底流にあるのは「戦うな、殺すな」である。ベトナム戦争で鶴見俊輔が掲げたフレーズに「殺すな」があったが、大林映画に流れるのもまた「戦うな、殺すな」である。

 監督は戦争の醜さ、愚かさを、論理によってではなく映像によって描ききる。いや、少し違うかもしれない。背景には揺るがぬ論理や哲学があるのだが、監督はそこには頼らず自らがこれまで生きるための術(すべ)としてきた「映像」を表現の前面に押し出した、と言ったほうがいいかもしれない。

 そのうえで言えば、監督が戊辰戦争と西南戦争にこだわった理由は分かる気がする。維新直後の二つの戦争は日本近代史上最後の内戦であり、天皇制と国民皆兵(徴兵制)による国家的軍事体制と旧士族階級との戦いでもあった。当然ながら勝ったのは前者で「天皇と兵隊」という近代日本の戦争装置ができる端緒となった。そして、このとき敗れた旧士族階級の背後にあった奥羽越列藩同盟は、日本近代化の中で二重構造の底辺部分を構成する。このことは東北、越後が都市部への食糧、労働力、電力(原発)供給を担ったことを見ても分かる。この二重構造は今も日本の矛盾の再生産を続けている。

 少し脱線したが、以上のようなことを監督はロジックではなく、日本的アイデンティティーに裏付けられた映像美で訴える。一見、映像とセリフの洪水のように見えるこの作品、「難解」とする声もあるが、そんなことはない。映像を「意味」としてではなく、そのまま映像として受け入れればいい。かつてゴダール作品がそうであったように。

 キネマ館の支配人に小林稔侍、切符売りの老婆に白石加代子。ほかに成海璃子、常盤貴子、浅野忠信、根岸季衣、笹野高史ら。大林宜彦監督の「遺言」にふさわしいキャストである。2020年製作。

 


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殺人犯の異常心理と刑事の執念~映画「暗数殺人」 [映画時評]

殺人犯の異常心理と刑事の執念~映画「暗数殺人」

 

 ここでいう「暗数」とは、捜査機関が覚知した犯罪件数と実際の犯罪件数の差を指している。つまり、当局が察知していない犯罪の件数のこと。韓国映画「暗数殺人」は釜山で起きた実際の事件をベースにつくられたという。

 麻薬捜査をしていたキム・ヒョンミン(キム・ユンソク)は偶然、カン・テオ(チュ・ジフン)の逮捕現場に居合わせた。その後、カン・テオに呼び出されたキム・ヒョンミンは衝撃の告白を受ける。直接の逮捕容疑である恋人殺害だけでなく、7人を殺したというのだ。供述はいかにも真実らしかった。しかし、証拠は何もない。

 あらためてテオの供述に基づき恋人殺害の現場を捜査したヒョンミンは、犯行を裏付ける証拠を発見。それは同時に、テオ逮捕のためにそろえられた捜査陣の証拠を否定するもので、判決は求刑を5年下回る懲役15年となった。ヒョンミンと当局の間に埋めがたい溝ができ、やがて麻薬捜査課から刑事課に異動したヒョンミンは6人殺害の裏付け捜査を単独で始める…。

 見どころは、犯行をほのめかしながらすべてを明かさないテオの異常心理である。事件を箇条書きにして紙に残すものの、具体的な内容には立ち入らない。供述に基づいて起訴しても法廷で覆される。虚言と真実を織り交ぜ、時に逆上し時に媚びてみせるテオの狙いは何なのか。

 エキセントリックなテオのキャラクターに反比例して、ヒョンミンは才気よりも地味な努力を執念深く積み上げていく。刑事を手玉にとろうとするテオの心理には目もくれず、ただ被害者の無念を思い、捜査に情熱を燃やす。

 テオを演じたチュ・ジフンは怪演。ヒョンミン役のキム・ユンソクは「1987、ある闘いの真実」で韓国民主化勢力を弾圧する側を演じた。

 殺人犯の奇妙な心理と向き合う捜査官、という構図は「羊たちの沈黙」に似ていなくもない。底なし沼にはまっていく感のある「羊たち…」ほどのスリルはないにしても、この手の作品を作れば韓国映画は手練れているな、と思わせる。2018年製作。



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ヒトラー偶像化への皮肉~映画「お名前はアドルフ?」 [映画時評]

ヒトラー偶像化への皮肉~映画「お名前はアドルフ?」

 

 ドイツ人にとって我が子に「アドルフ」と名付けることはタブーだという話はどこかで読んだことがある。ヒトラーはドイツにとって重大な負の遺産なのだ。ナチスドイツの宣伝工作を研究する佐藤卓己は、こう書いている。

 ――ヒトラーを絶対悪の象徴とすることで、逆にヒトラーは現実政治を測る物差しになった。キリスト教世界においては、絶対善である神からの距離によって人間の行為は価値づけられてきた。19世紀にニーチェが宣言した「神の死」、つまり絶対善が消滅した後、あらゆる価値の参照点に立つのは絶対悪である。悪魔化されたヒトラーは、現代社会における絶対悪として人間的価値の審判者となったのである。

(「流言のメディア史」から)

 その「アドルフ」を我が子に付けようとする試みが小市民生活に巻き起こすさざ波を描いたのが「お名前はアドルフ?」である。

 典型的なドイツ中流家庭で開かれたパーティー。ホストはボン大学教授のシュテファン・ベルガ―(クリストフ=マリア・ヘルプスト)。現代文学を専攻する。インテリの雰囲気を醸し出している。妻エリザベト・ベルガー=ベッチャー(カロリーネ・ペータース)も国語教師。この夫婦を訪れるのはエリザベトの弟で実業家のトーマス・ベッチャー(フロリアン・ダービト・フィッツ)と女優を目指す恋人アンナ(ヤニーナ・ウーゼ)、それにエリザベトの親友で音楽家のレネ・ケーニヒ(ユストゥス・フォン・ドホナーニ)。

 アンナは出産間近。その子の名は?と関心が集まる。トーマスは、生まれる子が男だという前提で「アドルフ」とすることを告げる。あのヒトラーの名前である。よりによって、なぜ、と批判が渦巻く。

 パーティー後半、話題は転換する。独身を貫くレネの意外な恋人が発覚する…。この2段階のストーリー展開が、物語の単調さを回避させ、スリリングにしている。

 

 考えてみれば戦後75年である。ヒトラーを連想させる名前に今もこだわらなければならないのか。一方で、この一つのファミリーで議論される「アドルフ」のなんと記号化されていることか。そこにはヒトラーの「犯罪」も戦争の罪悪も見えない。あるのはアドルフという記号に対する拒否反応だけである。その中で本音と建て前の交錯。そのことが、後半のなぞ解きに影を落とす。

 

 重要なことは、ヒトラーをある時代の「象徴」としてではなく、等身大のかつて存在した一人の人間と見ることではないか。「アドルフ」を入り口にしたこの風刺劇は戦後75年、人々が作りあげてきた「ヒトラー」という偶像を笑い飛ばすことを求めているように見える。

 

 ちなみに、先の佐藤の著作では次のようにも書かれている。

 ――そこに温存される「絶対悪=ヒトラー」の審美的なイメージには警戒が必要だろう。ありあまる自由に息苦しさを感じる大衆にとって、フリーターから第三帝国総統に上りつめたヒトラーは価値を一発逆転させる「神」と映らないだろうか。(略)ヒトラーの悪魔化よりは人間化こそが必要なのだ。

 

 トランプ米大統領の例を待つまでもなく「悪魔」はいつ「神」に駆け上るか分からないのだ。歴史上の人物というより一人の人間としてヒトラーを笑い飛ばす、それこそが必要ではないか。その意味では、ヒトラーが現代に復活するという「帰ってきたヒトラー」(2015年)と重ねてみれば興味深い。場面転換はなく、セリフが命のこの映画、もともと人気を呼んだ舞台劇だったことはうなずける。2018年、ドイツ。



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全体主義国家がもたらしたもの~濫読日記 [濫読日記]

全体主義国家がもたらしたもの~濫読日記

 

「シベリア抑留 スターリン独裁下、『収容所群島』」の実像」(富田武著)

 

 「シベリア抑留」と聞いて頭に浮かぶのは石原吉郎、香月泰男。最近では小熊英二の「生きて帰ってきた男」。このうち石原は詩作によって、香月は絵画によってその体験の内的な意味を深めた。小熊の「生きて…」は、社会学者による実父からの聞き書きという、かなり特殊なシチュエーションの中で生み出されたが、いずれにしても、あるのは庶民による過酷な体験(の伝承)であった。

 富田武の「シベリア抑留」は、これらとはかなり違っている。何がどう違うか。

 スターリン体制下の強制労働の成り立ちから始める。つまり、シベリア抑留という三重苦(飢餓・酷寒・重労働)の体験の源流を探るところから始める。そこから独ソ戦でのドイツ側捕虜の扱いに視点を移す。石原や香月、小熊がミクロの視座にこだわったのとは対照的に、富田はマクロの視座を持ち込む。富田自身の言葉では、こうなる。

 ――本書は、通念としての「シベリア抑留」をより大きな地理的広がりと歴史的文脈に位置づけ直し…(後略)

――シベリア抑留が日本人固有の悲劇ではなく、内外数千万の人々を苦しめた「スターリン独裁下の収容所群島」の一環であったことを世界史的視野から構造的に理解してくだされば幸いである。(いずれも「まえがき」から)

 キーワードは「世界史的視野」である。この観点でいえば、20世紀の最も過酷で大規模な戦争は独ソ戦であり、ドイツ側の捕虜は200万人を数えたという(日本人捕虜は60万人と言われる)。さらに第2次大戦の終了時、ソ連は革命から30年足らずで、数次の5か年計画を遂行中であったことも大きな意味を持つ。こうしたマクロ状況の中に日本人の「シベリア抑留」体験を位置付け直せば、どのような景色が見えるか。これがこの書のポイントであろう。

 そして、誤解を恐れずいえば、こうしたマクロの図面をトレースする作業はもっと早くに行われるべきではなかったか。少なくともソ連崩壊直後には着手していてしかるべきだった、と思う。

 以上のような観点から、スターリン体制下の強制収容所の実態―強制労働による社会主義国家建設▽ドイツ軍の捕虜の実態―ソ連政治犯だけでなく戦時捕虜までも国家建設に投入された▽日本軍捕虜と民間人の満州からの強制送還―三重苦の中での国家インフラ整備▽ソ連が占領した南樺太・北朝鮮での日本人の扱い―シベリア抑留から労働不適者の逆走…と展開する。

 このようにこの書をとらえ返したとき、新しい史実はあるのか、従来の「説」の焼き直しではないのか、との疑問の声は出るかもしれない。しかし、シベリア抑留がスターリン体制によって必然的にもたらされた、とする観点が確固として示されたことはこれまでなかったように思う。ユダヤ人虐殺がナチズムによって必然としてもたらされた、という観点は既に示されており、歴史が産み出した「非人間的なシステム」のもう一つの全貌が、ここで明らかになったといってもいい。

 こうした意味では1949年5月、日本人捕虜6万人余りが署名したとされるスターリン大元帥への感謝状というエピソードは、収容所群島が持つ本質を逆照射している(感謝状のエピソード自体は新事実ではない)。スターリン体制が産み出したものだからこそ、このような行動に直結するのであろう。

 著者は終章で、日独捕虜の比較論の深化とともにソ連人捕虜との比較論も提唱している。捕虜となった日独ソの人たちは、国こそ違えいずれも全体主義体制下の犠牲者であるからだ(この三国は捕虜となることは恥辱とし、ジュネーブ協定を無視したことで知られる)。考えさせられることの多い一冊。

 中公新書、860円(税別)。

 


シベリア抑留 - スターリン独裁下、「収容所群島」の実像 (中公新書)

シベリア抑留 - スターリン独裁下、「収容所群島」の実像 (中公新書)

  • 作者: 富田 武
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2016/12/19
  • メディア: 新書

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