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「戦場を描かない」監督の戦争体験~濫読日記 [濫読日記]

「戦場を描かない」監督の戦争体験~濫読日記

 

「小津安二郎と戦争」(田中真澄著)

 

 小津安二郎の一連の作品には、戦争を正面から描いたものがない。例外があるとすれば「風の中の牝鶏」(1948)ぐらいか。夫の復員を待つ妻が息子の病の治療費を捻出するため一度だけ売春をする。帰ってきた夫に打ち明けると、夫は妻を2階の階段から突き落とす…。しかし、作品としての評価は今一つで、この後、小津は「晩春」(1949)「麦秋」(1951)、そして「東京物語」(1953)へと向かう。さらに、評価の分かれる作品として「東京暮色」(1957)がある。

 これらの作品に「戦場」は出てこないが、戦争の影らしきものはいくつか見える。嫁ぎ先へ向かう紀子(原節子)は麦の穂が揺れるなかを行く。この「麦秋」のラストシーンに中国戦線で逝った多くの兵士の魂をみる批評は多い。例えば「敗者の身ぶり」(中村秀之)。戦線の次兄から送られてきた手紙に挟まれた麦の穂、というエピソードが、次兄をはじめとする中国戦線の兵士の魂を揺り起こす。

 「東京物語」で紀子(原節子)は戦争未亡人である。「東京暮色」で、定年間近の銀行員・周吉(笠智衆)は戦時中、京城支店に赴任していて妻に出奔された経験を持つ。これらの作品で戦争はいつも、戦後を生きる人たちの内の何かしらの「不在」を表していた。「風の中の…」は戦争の傷と正面から向き合った作品だが、以降の作品では戦争は、人々の背後に立ち上がる「影絵」のようなものだった。

 こうした作品群を持つ小津にとって戦争とは何だったのだろうか。そこで手にしたのが「小津安二郎と戦争」である。

 大きく、小津は2度の戦争体験を持つ。一度は33歳の下級兵士として中国戦線に赴いた。もう一度は、陸軍の要請で戦争映画を撮るためシンガポールに渡り、この地で敗戦を迎えた。

 盧溝橋事件の1937年、「人情紙風船」の監督山中貞雄に続いて小津のもとへ赤紙が届く。上海派遣軍直属、毒ガス使用を前提とした部隊とみられた。やがて北京から南京に回った山中は小津と再会し「小ッちゃん、戦争えらいな」と声をかけたという。南京事件のころだが、2人が事件にかかわったかどうかはわからない。38年1月のこと。山中はそれから半年余りで病のため不帰の客となる。小津は39年7月まで22カ月の兵隊生活を送った。田中真澄もまた「麦秋」のラスト、揺れる麦の穂に中国戦線の兵士の霊をみ「そこに山中貞雄もいたであろうことは論をまたない」と書いた。

 その後、小津は陸軍省の要請で「ビルマ作戦・遥かなり父母の国」のシナリオを書いたが勇ましいものとならず映画化は見送られ、インド独立をめざすインド国民軍の映画を撮るため43年6月、昭南(シンガポールの日本名)にわたった。ところがインパール作戦の失敗のため動くに動けず敗戦の日を迎えた。

 2年7カ月に及ぶシンガポールで小津が何をしていたかを語ったものは「きわめて少ない」(田中)という。せいぜい、当時日本では観られなかった映画「風と共に去りぬ」や「市民ケーン」などを観たぐらいだった。

 敗戦を境に、小津の活動ぶりはがらりと変わった。日本人の終結場所(田中によれば、このときの小津と軍の関係は微妙で、一応軍の命はあったものの民間人とされた。したがって「捕虜」ではなく「抑留」扱いで、このような表現になる)で謄写版刷りの発行物の編集に携わった。一つは「自由通信」(日刊)、もう一つは「文化週報」(週刊)、後に「文化時論」(旬刊)で、ともに題字カットを担当した。カットは凝っていて、田中に言わせれば「もう一つの小津作品」だった。

 

 後半は「小津安二郎陣中日誌」という章で構成されている。内容は読書ノート、対敵士兵宣伝標語集(中国側による戦争キャンペーン用語集)、撮影についての≪ノオト≫、MEMOなど。いわば一次資料で、小津にとって使い道があるとすれば、映画を作る際のシナリオの材料、ヒントのようなものであろう。そのままでは読みにくく、後につけた田中の解説が役に立つ。例えば中国人の老婆が娘を強姦した日本兵を探して部隊長に訴えたが名乗り出るものがなく部隊長が切り捨てた、というエピソード。もちろんこれは小津の想像の産物と考えるより、実際にあったことだろう。武田泰淳の小説にはもっと悲惨なシーンがあり(武田泰淳全集第5巻「汝の母を!」)フィクションではなかったと思われることからも、納得がいく。しかし、武田と違って、戦後の小津がこのような素材をストレートに映像化することはなかった。 

 

 小津は中国戦線へ向かう際、当時家一軒建つと言われた高級カメラ、ライカを持って行ったという。この著作でも何枚かが紹介されている。小津にとっての戦争とはそういうもの、つまりはファインダーを通して見るもの、という意識があったのではないか。そう思えてならない。それが戦後、一貫して「戦場を描かない」作品群につながったのではないか。

 みすず書房、3200円(税別)。

 

小津安二郎と戦争 新装版

小津安二郎と戦争 新装版

  • 作者: 田中 眞澄
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2020/05/22
  • メディア: 単行本

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17歳少年の荒涼たる風景~映画「MOTHER マザー」 [映画時評]

17歳少年の荒涼たる風景~映画「MOTHER マザー」

 

 離婚し、一人息子周平(郡司翔、奥平大兼)と暮らす三隅秋子(長澤まさみ)はパチンコ三昧。そこへダメ男の遼(阿部サダヲ)が転がり込んできた。収入はなくDVを振るう遼はしかし、秋子が妊娠したと知り出ていく。新しく生まれた子と人で路頭生活に転落した秋子は周平にすがる。周平はある建築会社で働くが、パチンコ生活が切れない秋子に無心され、ついに事務所のカネに手を付ける。最低限の教育さえ受けられず、落ちていく二人の子。秋子はついに、カネ目当ての祖父母殺しを思いつき周平に命じる…。

 最低限の社会ルールも守れず、子供たちに必要最小限の環境さえ与えられない秋子は、どこをどうとっても共感、あるいは評価すべき人間性を持ち合わせていないように見える。しかし、100%ダメな人間であれば、掘り下げて一本の映画にする理由も必要もない。どこか人間の本性の深いところで観るものの共感を得る何かがあるはずだ。それは何か。こうした展開のドラマとして是枝裕和監督の「万引き家族」がある。

 やがて周平は逮捕され、母親の指示があったかどうかが公判の焦点となる。しかし周平は否定、罪の大半をかぶる。市の福祉関係者として秋子らを見てきた亜矢(夏帆)は、周平に「母親の指示」があったかどうかあらためて問う。周平の答えは意外なものだった…。

 秋子と周平の親子関係は、傍から見れば異様だった。しかし、当人同士にとってその関係は真実以外の何物でもなかった。

 なにより、17歳の周平を演じた奥平大兼の存在感がすごい。長澤まさみも覚悟がにじむ演技。そのうえで、最後に周平が漏らした「母親が好きだから」の一言が、観るものの内側にすとんと落ちるかどうか。それが評価の分水嶺だろう。

 監督は大森立嗣。2020年、日本。原作は「誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか」。2014年に埼玉であった事件を題材にした毎日新聞・山寺香記者によるノンフィクション。

 


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あの48本は戦後史の中で何だったか~濫読日記 [濫読日記]

あの48本は戦後史の中で何だったか~濫読日記

 

「『男はつらいよ』を旅する」(川本三郎著)

 

 BSの民放チャンネルで週回「男はつらいよ」シリーズを放映している。可能な限り観ている。昨年、この時間帯は「釣りバカ日誌」シリーズだった。関係者には申し訳ないが、少しも面白くなかった。もはや古いのである。しかし「男はつらいよ」シリーズは見入ってしまう。製作年からすれば、こちらが古いはずなのに。なぜだろうと考えてみたが、いい答えが思い浮かばなかった。

 映画評論家で文芸評論家でもある川本三郎の「『男はつらいよ』を旅する」を読んで、おぼろげながらその答えが見つかったように思う。「釣りバカ」は西田敏行演じるサラリーマン「浜ちゃん」が主人公。窓際とはいえ、まぎれもなく現代を生きる物語である。現代を描けば、時とともに古くなる。人々の関心も薄れていく。しかし「男はつらいよ」に「現代」は遠景としてしか出てこない。「寅さん」は昔気質のテキヤだし、出てくる町は葛飾・柴又のほか古いところばかり。それもメジャーな観光地ではなく、さびれた辺境の地が多い。人々も、文字通り市井の片隅で生きている。時に高名な日本画家や陶芸家も登場するが、見せるのは一流人らしからぬ横顔である。

 「男はつらいよ」で描かれたのは「現代」とも「新しさ」とも「メジャー」とも無縁の、ひっそりと生きる人々と家並である。そこに共感を覚えて「寅さん」ファンになる。消えかかった町へのそんな思いが「男はつらいよ」シリーズを支えた。だから「男はつらいよ」は時を経ても古くならない。

 消えかかった町の物語がそんなに面白いのか、という声もあるだろう。そこで、シリーズのもう一つの魅力を挙げたい。「現代」を生きるのに疲れ、立ち止まる人たちがいる。どこかで救いを求めている。そんな人たちが汐待港、風待港のようにいっとき避難する場所へ向かう。そこに寅さんがいる。ヒロインに降りかかる雨風が強ければ強いほど、寅さんが頼りがいある存在に見える。いつも見かけだけなのだが。

 そんなヒロインを演じて記憶に残るのは、まず浅丘ルリ子、そして松坂慶子、太地喜和子、いしだあゆみあたり。みんな「あと一押ししてくれればいいのに」と思っているが、寅さんにはそれができない。トランク一つ下げて出ていってしまう(実は昨夜=7月11日、浅丘と共演の「相合い傘」を観たが、これもその典型だった)。

 「男はつらいよ」シリーズは1969年から95年まで、渥美清存命中に48本作られた。渥美が40代前半から60代後半までである。肝臓がんが分かってからの2本はつらかったようだ。そんな「男はつらいよ」撮影地めぐりを、川本は「ハイビスカスの花」(80年)で書き始め「紅の花」(95年)でしめくくった。いずれも、相手役は浅丘である。じつはこの2人のコンビこそ最強だったと思う。だからこそ、48作目は浅丘でなければならなかったのだろう。

 「男はつらいよ」には、定住者と漂泊者という構図もある。さくらや博、おいちゃん、おばちゃん、タコ社長は定住者である。対して寅さんは、定住者になろうとして果たせず漂泊する。浅丘演じるリリーもまた、漂泊者である。旅のわびしさ、孤独感は痛いほど通じる。だから、いつか一緒になってもいいよと思っているが、寅さんには「意気地」がない。

 そういえば、寅さんの「意気地のなさ」がよく分かる作品があった。いしだあゆみとの「あじさいの恋」である。偶然、親しくなった陶芸家のもとには、幸せ薄そうな女性「かがり」がいた。彼女は弟子との恋に破れ、故郷の伊根に帰ってしまう。若狭湾に面した、船泊がある家並で知られた町。その後、彼女のもとを訪れた寅さんは一夜を共にする。何もないまま翌朝去っていく寅さんを、かがりは「どこかつまらなさそうに」(川本)見送る。

 「夕焼け小焼け」(76年)も、川本が言うようにシリーズ中の名作だろう。上野の居酒屋で、カネがなくて困っている老人(宇野重吉)を不憫に思い、とらやに連れ帰る。わがまま三昧の老人に手を焼くおばちゃん。ところがこの老人、横山大観と並ぶ日本画の大家池ノ内青観だった。旅に出た寅さんがふらりと立ち寄った播州龍野。そこで偶然、青観と芸者ぼたん(太地喜和子)に出会う…。とにかくこの作品、終わり方がいい。

 こんな話が鉄道好きの川本の筆で、列島の片隅を走る鉄道や駅、あるいは廃線の今を交えながら展開される。鉄道の話では「『さくら』も旅する」の「奮闘編」(71年)にある五能線が出色。集団就職で出てきたらしい少女が、仕事についていけず故郷へ帰っていく。彼女の言う「鯵ヶ沢」を手掛かりに寅さんが様子を見にいく。ところが、そこから届いたはがきがあまりに暗く、心配したさくらが寅さんを捜しに行く。五能線は青森・五所川原から秋田・能代間。さくらが降り立った驫木駅は日本海に面して「レールが置き忘れられたように走る」(川本)無人駅。ホームに立って、こんなところから都会に出てきてさぞ心細かったろう、と川本は思いをはせる。

 寅さん、鉄道、消えゆく日本の風景。そんなものが詰まった一冊。巻末に「男はつらいよ」一覧(製作年のほか、競演女優の名入り)と人名、作品名の索引があればもっといい。

 「男はつらいよ」は、川本も触れているがB級娯楽作品とみられがちである。しかし、あらためて観ると味わい深さにしみじみ感動する。日本の戦後史の中にきちんと位置付けられるべきだろう。そうした視点で、このシリーズを論じたものがあってもいい。管見の限りでは菊地史彦「『幸せ』の戦後史」で、股旅物や「無法松の一生」をベースにしながら(山田洋次監督が)「戦後的階層意識を脱する主人公を形成した」「秩序や競争から自由な者」だが「ぎりぎりのところで故郷喪失を免れている」「戦後社会の趨勢からドロップアウトしたものの、批判者として振る舞うことはなかったので、人々は四半世紀にわたってこのヒーローを支持し続けた」「『何者かになれない自分』の無能感を甘美な夢のように繰り返す、不思議な男の物語を語りだした」としているのが唯一、記憶に残る。

 「男はつらいよ」を観に映画館に通った人たち、そして今もこのシリーズに共感する人たちは「何者かになれない寅さん」に自分を重ね合わせ、甘美な夢のようなストーリーの向こうに何を観ていたのだろうか。今も心の中にオリのように落ちていく謎である。

 新潮選書、1400円(税別)。

 


「男はつらいよ」を旅する (新潮選書)

「男はつらいよ」を旅する (新潮選書)

  • 作者: 三郎, 川本
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/05/26
  • メディア: 単行本

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ついに「私戦」を戦うランボー~映画「ランボー ラスト・ブラッド」 [映画時評]

ついに「私戦」を戦うランボー

~映画「ランボー ラスト・ブラッド」

 

 タイトルからすると「ランボー」シリーズ最終作らしい。観ておかねばと思い出かけたのだが、果たしてその価値があったか。

 「ランボー」第1作(1982年、原題は「First Blood」)は記憶に残る。ベトナム帰還兵が小さな町にかつての戦友を訪ねるが、保安官らから冷たい扱いを受ける。ついに耐えかね山岳地帯へ逃げ込んだランボー(シルベスター・スタローン)は元グリーンベレーのスキルを活かし、州兵1000人を相手に孤独な戦いを挑む…。

 若い肉体のスタローンが見せるぎりぎりのアクション、PTSDに悩む帰還兵を演じる際のナイーブな表情。単なるアクション映画ではない、社会派の深みを感じさせた。しかし、第2作(「怒りの脱出」)、第3作(「怒りのアフガン」)に至って、ランボー対悪役(ヒール)と構図が単純化され、プロレス映画もどきになってしまった。第4作(「最後の戦場」)は見ていない。

 さて、「ラスト・ブラッド」。アリゾナで友人マリア(アドリアナ・バサーラ)、その孫娘ガブリエラ(イベット・モンリアル)と平穏に暮らしていたランボー。しかし、周辺でさざ波が立ち始める。ガブリエラが、自分を捨てた父親がメキシコにいることを知り会いに行ったのだ。冷たく突き放され、直後に麻薬シンジケートに拉致される。

 ランボーが救出に向かうが、逆にリンチに遭う。辛くも、妹を殺されたフリージャーナリストのカルメン(パス・ベガ)に救出され、ガブリエラをいったんは助け出すが、麻薬を大量に打たれたガブリエラは帰途、絶命する。住み慣れたアリゾナの牧場に戻ったランボーは周辺に自力で掘った地下トンネルを改造、メキシコの麻薬組織との決戦に備える。このあたり、戦場で地下トンネルを張り巡らし、米軍を悩ませたというベトナム戦争の実話がベースにあるのかもしれない。

 シリーズを振り返って思うのは、第1作であれほど明確だったランボーの戦いの動機が、一作ごとに不明確になっていくことだ。その分、ランボーの「戦いぶり」にピントが合っている。そして「ラスト・ブラッド」ではついに戦いの「大義」が「公」ではなく「私」の部分に移ってしまった。娘同様に育てた女性が殺されたことからくる憤怒を「敵」にぶつけるわけだから、明らかに「私戦」である(もちろん、私戦を通して社会の大義を問う、という作品はこれまで幾らでもある。しかし、そこまでのレベルをこの作品に期待するのはハナから無理だろう)。

作では見えた、大義なきベトナム戦争への疑問のようなものから大きく踏み外してはいないか。マリアの存在も中途半端で、窮地のランボーを助けるための都合のいいキャラクターとしかみえない。アクション映画であればいいのだ、という人には面白いのかもしれないが…。うーむ、やはりこれは第作とは別物では。

 2019年、アメリカ。


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「ニューレフト」を詳細に分析~濫読日記 [濫読日記]

「ニューレフト」を詳細に分析~濫読日記

 

「戦後『社会科学』の思想 丸山眞男から新保守主義まで」(森政稔著)

 

 タイトルに「社会科学」という言葉が使われている。我々が若いころ、社会科学とはマルクス主義とほぼ同義であった。資本論を研究するサークルは「社研=社会科学研究サークル」と呼ばれていたと記憶する。冒頭、著者は、一時期使われた狭義のそれではなく、個別の社会領域を超えた、社会にヴィジョンを与えるような知的営み、と広義にとらえると再定義、この本の出発点としている。

 そのうえで著者は「戦後」という時代を大きく4章に分ける。①「『戦後』からの出発」は、丸山眞男のファシズム批判とマルクス主義との関係②「大衆社会の到来」は、60年安保闘争以降に訪れた大衆社会をめぐる思想の紹介。取り上げたのはE・フロムやD・リースマン、A・ハレント、日本では松下圭一ら③「ニューレフトの時代」は60年代後半から70年代初頭にかけての学生の叛乱と、そこから生まれた思想潮流④は「新自由主義、新保守主義への転回」。

 いずれも興味深いが、特に注目すべきは第3部「ニューレフトの時代」であろう。俗に「1968」と呼ばれる世界的な叛乱は政治、文化を始めさまざまな分野に影響を及ぼしたが、その底流の思想も含め詳細に語られたことがあまりない(少なくとも私の見聞する限りでは)。その意味で貴重である。

 (念のためいえば、著者は1959年生まれ。この世代は10歳上の「団塊」と呼ばれる我々世代に対して「鬱陶しい」という感覚を持ちがちで、最初から議論を避けるきらいがある。そうしたことを踏まえても「ニューレフト」言及は貴重)

 まず、この時代を著者は「ヤヌスの時代」と呼ぶ。マルクス主義とともに資本主義が力を持つ「双面の時代」だった。同時に高度経済成長の後半、古いものと新しいものが共存した時代でもあった。その分、思想的エネルギーが満ちていたともいえる。象徴的な出来事としてはベトナム戦争の激化とプラハの春。すなわちアメリカとソ連、どちらに付くか、ではなく「どちらもダメ」という時代思想が主流だった。

 そうした時代背景の中で団塊の世代特有の思想が生まれる。崩壊する共同体、大学生=エリートという旧来の構図の喪失。これらが「モラトリアム」(エリク・エリクソン)という言葉を生み出した。「共同体と個」が模索され、サルトルがもてはやされた(私は好きではなかったが)。

 この時代を象徴する言葉として「自由と解放」がある。その説明が明快だ。解放は自由の必要条件だが、解放がそのまま自由につながるわけではない。特に60-70年に多用された「解放」には特別な意味が込められた。外部からの抑圧だけでなく、自己の内部にある支配的なものからの脱却こそが解放であるとされた。このころ使われた「自己否定」も、表面上は違って見えるが「自己解放」と底流でつながっていた。

 後にこの言葉は世相の中で薄められ「自分探し」という風潮を生み、その先には70年代の「ディスカバージャパン」があった(この部分は著書にはなく私見)。

一方、ニューレフトのセクトでは「解放」の強制が不寛容で暴力的な空気を醸成した。そのパラドクスを解明しようとしたのが、真木悠介(見田宗介)の「人間解放の理論のために」。ここで真木は、ユートピア的未来構想論は原理的に2種類あるとし、一つは「最適化社会」論、もう一つは「コミューン」論とした。最適化社会は無数のエゴの「超多元的連立方程式」の最適解を求めようとする方式で、コミューン論は自己と他者の欲望の相克そのものを克服しようとする。真木はこのコミューン論を「溶融するコミューン」と「交響するコミューン」に分け一定の評価をしたが、連合赤軍事件がコミューン論の展開にとどめを刺すに至った。

 運動としてはともかく、思想としては「1968」はその後の構造主義(ポスト構造主義)、マルクス疎外論への読み直しへと引き継がれる。

 時代をややさかのぼるが、丸山眞男については次のように記している。

 ―今日なお丸山が読み継がれるのは、日本思想史についてひとつのパラダイムを作りあげたことにあって、そのパラダイムが問題なく受け入れられているゆえではない。むしろそれが問題的であり、つねに議論を呼び起こしていることがその存在意義であると言える。

 正確な評価であり、その通りであろう。欧米の政治思想も網羅し、戦後思想について改めて頭の中を整理するのに役立つ一冊である。

 NHKブックス、1600円(税別)。

 

戦後「社会科学」の思想: 丸山眞男から新保守主義まで (NHK BOOKS)

戦後「社会科学」の思想: 丸山眞男から新保守主義まで (NHK BOOKS)

  • 作者: 政稔, 森
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2020/03/25
  • メディア: 単行本

 


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光が強ければ影も濃い~映画「ルース・エドガー」 [映画時評]

光が強ければ影も濃い

~映画「ルース・エドガー」

 

 いかにもアメリカ人らしい名を持つルース(ケルヴィン・ハリソンJr)はしかし、白人の両親と違う肌の色をしている。戦禍のアフリカ・エリトリアで生まれ7歳の時、移民としてエドガー一家に引き取られた。養母エイミー(ナオミ・ワッツ)、養父ピーター(ティム・ロス)の支えで心的障害を克服、模範的な高校生に育ったかに見えた。弁論大会で優秀な成績を収め、陸上部ではキャプテンを任されるなどすべての面で優等生で、バラク・オバマの再来と期待する声も聞かれ始めた。

 そんな彼をめぐって一つの事件が起きた。アフリカ系の歴史教師ハリエット・ウィルソン(オクタビア・スペンサー)から求められたリポートで、アルジェリア独立戦争を率いた革命思想家フランツ・ファノンの言葉を引用、暴力を肯定したのだ。一方で、同級生への性的暴行の疑惑が持ち上がる。優等生の顔は仮面だったのか。果たして彼は何者なのか…。

 ルースと養父母、歴史教師、高校の校長らが打開策を話し合う中で(確かウィルソンの言葉だったと思うが)「アメリカが箱に押し込める。狭くて汚い箱に」と叫ぶ。もちろんこれは人種のるつぼアメリカで、なくそうとしてなくならない差別構造をまずは指すが、おそらくそれにとどまらない。

 ルースは白人夫婦によって人道的な愛に包まれ、このうえない手当てによって成長した。しかし、それでもなお、埋まらない精神的な空白があった。少年期を過ぎ自立志向が強まる中で、それが無視できない精神の位相を形成するに至ったのではないか。言い換えればそれは「アメリカ」で代替できない、アイデンティティの欠如に由来するものではないか。

 「ルース」はイタリア語のLUCE(光)を英語読みした。養父母が彼に託した希望が現れている。しかし、光が強ければ影も濃い、という。そんなことを思わせる。

 結局、ルースは彼自身に忠実に生きることで解決策を見出していく。

 心理的な葛藤を描いたヒューマンドラマとしては予想より内容の濃い作品。しかし、その分、戦争や差別、貧困、テロリズムといった社会派の側面が描き足りないように思えた。2019年、アメリカ。

 

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