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ネット社会によって虚構化された自己~濫読日記 [濫読日記]

ネット社会によって虚構化された自己~濫読日記

 

「平成時代」(吉見俊哉著)

 

■「時代」への疑問

 昭和が終わって平成が始まり、その平成も幕を閉じて令和が始まった。元号と時代を考える時、昭和と平成、あるいは令和との間には大きな違いがある。明治から昭和にかけて天皇の定めた憲法が存在し、昭和の途中から平成にかけては国民主権のもとでの憲法が存在した。昭和の初めまでは天皇の名において戦争が始められたが、いま天皇にそんな力はない。

 では、いま元号とはなんだろうか。ある期間をバーチャルに区切っただけのものではないか。そう考えると、昭和には一定の時代的実在があるが、平成にはそんなものはないのではないか。

 「平成時代」を書いた吉見俊哉もそのあたりが気になるらしく、「はじめに」の最後で触れている。

 ――「元号」はフィクションにすぎない。天皇という一人の人間の人生が、「時代」という歴史的な単位を生むと考えるのは幻想である。

 しかし、ここで著者は元号という考え方を逆手に取り、米ソ冷戦の終結からグローバリゼーションへと向かう世界史的にひとまとまりの「時代」はあったのではないか、と問う。この書はそうした前提に立って成り立っている。

 確かに、米ソ冷戦から30年という月日は、同時代史としてとらえるには適当な時間の長さである。同時にそれは、グローバリゼーションが日本をどう変えたかを見るにも適していると思える。

 

経済・政治における失敗と漂流

 前置きが長くなったが著者と同じ、そうした視点で平成を振り返ってみる。
 「平成」という時代を念頭に置いたとき、浮かぶイメージはなんだろうか。私の場合「失敗」と「漂流」である。この本の著者もまた、ほぼ同じ視点のように思える。
 失敗とは、まず昭和から平成に至る時期、プラザ合意(1985)に始まったバブル経済への対応を誤ったことが挙げられる。政治分野ではリクルート事件(1988)に端を発する政治改革がことごとく失敗、民主党政権の崩壊へとつながったことだった。以来、政治・経済は有効な対応策を持たないまま現在に至るまで漂流を続ける。
 社会構造の下部がこのような状況にあるとき、不幸にも日本社会を襲ったのは近代化の飽和状況の結果としての少子化だった。新自由主義の進行とともに格差社会=階級化が進む中、相乗効果によって日本は先進国中、例を見ない極端な少子化社会となった。

 

■「自己」の喪失と格差社会の出現

 世界的なグローバリズム、ネット社会が日本社会の共通哲学となる中で、個人もまた従来の人格を保持したままではいられない。この自己崩壊を、著者は平成元年の宮崎事件とその6年後のオウム真理教事件の線上に求める。
 この辺りがこの書の核心部分ではないか。そしてこの二つを結ぶキーワードは「メディア」である。言い換えれば増殖するメディアによってリアリティの世界が変容していく。二つの事件はそのことを如実に物語る。1960年代の永山則夫事件とは決定的に違うところである。

 メディアがバーチャルの世界を創出し、リアルとの境界線をあいまいにしていく。それは別の角度からでもあぶりだせる。
 例えば小室哲哉=安室奈美恵と宇多田ヒカルである。彼ら(彼女ら)は、どこでもない世界、いつでもない時間、だれでもない人物を歌い上げる。宇多田の母である藤圭子までの世代なら、具体的な場所、時間、人が歌いこまれた。それとは明らかに違っている。あるのは、具体的な誰かへの感情移入ではなく、コスプレ化=パフォーマー化した自己=アイデンティティーの虚構化へと向かう姿である。まぎれもなくそれはネット社会が産み出したものだ。

 さて、そこから見えてくるものはなんだろうか。著者は終末論の世界(オウム事件で顕著に語られた)であり、ポイントオブノーリターンを越えてしまった日本の姿だという。少なくとも、過去の失敗に学ばない限りは。

 岩波新書、900円(税別)。

 


平成時代 (岩波新書)

平成時代 (岩波新書)

  • 作者: 吉見 俊哉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2019/05/22
  • メディア: 新書

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