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参院選・吉本・京アニで思うこと~三酔人風流奇譚 [社会時評]

参院選・吉本・京アニで思うこと~三酔人風流奇譚

 

「投票に行こう」だけでいいのか

 

松太郎 最近の世相を映した三つの出来事は低調な参院選、吉本興業をめぐるドタバタ、それから、京都アニメーションで35人が亡くなった放火殺人事件、というところか。

竹次郎 参院選は投票率が50%を割り、史上ワースト2の48.8%。その中で自民、公明の与党勢力が過半数を維持。半面、改憲とみられた勢力が3分の2を割った。これが世相を映しているかどうか…。むしろ、世間の関心を呼ばない、世相を映していないからこその問題という気がする。

梅三郎 でも、立候補者の顔ぶれや政党を見ると、とてもどこかに入れようという気にはならない。メディアは盛んに「投票に行こう」とアピールしていたが、入れたいと思う対象がないのに、わざわざ投票所に足を向けないだろう。

松 注目されたのは山本太郎のれいわ新選組。旗揚げ3カ月余りで、党で200万票余、山本個人も99万票を集めた。このあたりに、政治の閉そく状況を突破するカギがありそうだ。

竹 朝日新聞だったか、保守と革新のイメージを世論調査で問うたところ、若者層では保守とは公明、共産、革新は維新、という結果だった。共産や立憲民主を革新、自民を保守と見る高齢者層とは全く違っていた。政治の変革を考える糸口がありそうだ。

松 参院選で1819歳の投票率は30%を少し上回るぐらいで、3人に2人は投票に行っていない。しらけているのがよくわかる。その中で、行き場のない票がれいわ新選組に流れた。

梅 れいわ新選組が、新しくできた比例特定枠を使って重度障碍者を国会に送りこんだのも、新鮮な手法だ。頭や口先だけでなく、ALS患者や脳性麻痺患者の置かれた立場を国会は否応なく考えなくてはならなくなった。
竹 公明が前回の参院選より比例で100万票減らしたことも転機を象徴する出来事。ただ、低投票率のおかげで議席は過去最高タイの14議席だったが。

松 こうなってしまうと、中途半端に「投票に行こう」ではなくて、「投票に行くな」という運動があってもいい。一度落ちるところまで落ちないと政治は変わらない。

梅 気持ちはわかるが、その時には民主主義とは何だろう、ということも併せて考える必要がある。

 

権力への風刺こそお笑いの原点では

 

竹 吉本興業をめぐる問題は、もともとタレントが反社会勢力からカネをもらっていて、そのことを隠していた、というところから出発した。それが吉本の経営体質や前近代的なタレント操作術への批判になった。

梅 おそらく、そうしたトラブルは昔からあったのだろうが、今はSNSがあるから、すべて世間に筒向けになった。

松 この話はワイドショーや情報番組でさんざんやっているからあまり繰り返したくないが、気になるのは、社長会見でも強調していた「うちの会社はファミリーだ」といういい方。ある集団が家族主義だのファミリーだのというとろくなことがない。不満があるときにそれを覆い隠す、フタの役割として「家族主義」というのは機能する。危機に陥ったときに集団や組織が保護する役割を担うのかもしれないが、それは1割。あとの9割は弱者を集団に従属させるための方便だ。

竹 ダウンタウンの松本人志が吉本の大崎洋会長、岡本昭彦社長と会談したとたん、社長が会見して宮迫博之、田村亮への処分撤回と見直しを発表するに至った。反社会勢力からカネをもらい、一時それを隠していたことの責任を会社も含めどうとるかの整理はなされないままだ。会長、社長はダウンタウンの元マネジャーで、松本との関係が深いとされている。この辺の事態の動き方を見ると、吉本という会社は3人の権力トライアングルで成り立っているのかという闇の部分を感じさせる。

梅 松本批判をしたために干された、というタレントの話もいくつか出ている。例えばオリエンタルラジオ。彼らも突然テレビから消えた。

竹 「ファミリー」発言は、戦前、戦時中の家父長主義を引きずっていると思えばいい。テレビで「伝説のマネジャー」と称する人物が出てきて、売れてない芸人からは9割かそれ以上を事務所が取り、大御所と呼ばれる芸人は2、3割が事務所へ行く、というのを当然のように言っていたが、やはりそれはおかしい。世間の常識では、それは搾取だ。

梅 そうしたことを許す温床として口頭契約があるのではないか。スケールメリットという考えがおそらく事務所にはあって、それで6000人も抱えているのだろうが、やはりそれはおかしい。それを許すのは、一発当たれば儲けものという芸人稼業のギャンブル性にあるのだろうが。いずれにしてもいい風潮とはいえない。

松 吉本は2025年の大阪万博など多くの行政案件を手掛けるようになった。これには疑問を持たざるを得ない。反社会勢力とのつながりが疑われることや、経営陣がパワハラ発言をしていること、下層芸人への搾取疑惑などももちろんだが、もともとお笑いの芸人を抱えてやっている会社が政治権力と結びつくのがどうなのか。皮肉と笑いで権力者を風刺してこその会社であるはずなのに。

梅 以前、安倍晋三首相が吉本新喜劇に出てきて非常に違和感があったが、そこにも通じるような気がする。風刺こそお笑いの原点だろうに。

 

「孤独な復讐」をなくすには

 

竹 京アニの事件は悲惨だった。放火が疑われている男(7月28日現在、重篤のため未逮捕)の人生も、週刊誌などで少しずつ出てきているが、やはり悲惨だ。だからといってやったことが許されるわけではないが。父親が再婚で3人の子を設けたが母親が家を出ていき、数年後に父が自殺して子供たちは離散状態となったらしい。

梅 犯行の状況を見ていると、まるで自爆テロだ。最近、よく起きている大量殺傷事件をみると、いずれも憎悪の対象をある種の集団に見つけ出し、そこに攻撃を仕掛ける。

松 5月末にあった登戸のスクールバス襲撃もそうした傾向だった。通り魔殺人だが、記憶に新しいのは秋葉原の事件。2008年に25歳の男が17人を殺傷した。「だれでもよかった」という供述が、その後の事件でも見られた。

松 「だれでもいい」とは、個人ではなく社会全体、または社会のある層を攻撃の対象にしている、ということ。京アニの事件では、アニメーション製作という仕事を見つけ、そこに情熱を注ぐ自分と同世代の人間がいることに腹立たしさを覚えたのではないか。もちろん、本人に聞いてみないとわからないが。秋葉原ではある種の先端文化に夢中になっている人々にテロを仕掛けたし、登戸では、自分の行けなかった学校に毎日スクールバスで通う児童たちに憎悪の目を向けた、というのは十分考えられる。

竹 仕事がない、引きこもりなどの理由で社会の外側にいると、見えてくるものがあるのでは。その時、他人には容易に入り込めるが自分は立ち入れないという現実を突きつけられて孤独な復讐を企てる人たちは必ずいる。その人たちが個人への復讐でなく、社会の壁に対して暴力的に突破を図る、ということはあるだろう。それは結局、社会システムの問題であり、政治の問題になる。

梅 先日、ある情報番組でキャスターが参院選の結果より吉本興業の問題が優先される報道の在り方はおかしい、と疑問を呈していたが、これはおかしいと思う。吉本の芸人も政治家も基本の部分でやっていることは一緒で、大衆の心をどうつかむか、だ。大衆の心をつかめない政治はこの体たらく、それより少し大衆の心に近い芸人の世界の話が情報番組を賑わしている、というだけのこと。

松 大衆の心をつかむことだけが政治家の仕事ではない。それだったらポピュリズムになってしまう。

梅 もちろんそうだ。ベースは一緒というだけで、その上の枝葉はもちろん違っている。だからこそ政治家と芸人は違う。

松 なるほど。


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曖昧な記憶、断片的な事実~映画「赤い雪」 [映画時評]

曖昧な記憶、断片的な事実~映画「赤い雪」

 

 いったんは迷宮入りした30年前の事件。真相解明に執念を燃やす一人のライターがいた。語られる記憶はいずれも断片的だ。そして、それぞれに秘密を隠しながら絶望的な日々を生きる関係者たち。

 雪の降る日、一人の少年が消えた。嫌疑をかけられた女性、江藤早奈江(夏川結衣)は黙秘を貫き、無罪となった。少年の兄、白川一希(永瀬正敏)は弟を追って雪道を走ったが、途中から記憶はすっぱりと抜け落ちていた。代わりに、赤い雪が記憶を覆っていた。

 早奈江には、もう一つ嫌疑をかけられた事件があった。保険金殺人が疑われた現場には、早奈江と娘の小百合(菜葉菜)がいた。二つの事件を「見ていた」のは小百合と思われた。

 漆職人である一希の日常が変わったのは、事件を追う木立省吾(井浦新)が現れてからだ。彼は小百合の居所を突き止めていた。彼女には宅間隆(佐藤浩市)という男がいた。元インテリ風だが飲んだくれる毎日を送っていた。小百合も、旅館の清掃をしながら客の財布から現金を盗むなど、荒んでいた。

 省吾と一希によって追いつめられた小百合はついに、あの日に見た光景を話し始める。そして一希の、赤い雪に阻まれていた記憶の最後のシーンがよみがえる…。

 入り組んだストーリーだが、説明はほとんどない。その代わり、映像が緻密に重ねられていく。記憶や事実はすべてを語っているわけではなく断片的だ。考えてみれば、私たちを取り巻く事実や記憶はいつも一面的であり、不完全である。それをそのまま映像化した、という印象だ。不完全なピースは、見るものが想像力によって埋めていかなければならない。木立がなぜ30年前の事件を追っていたかも、そうした形で明らかにされる。

 寡黙だが、印象に残る映画である。監督・脚本は新鋭の甲斐さやか。

 

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スリリングな心理小説~濫読日記 [濫読日記]

スリリングな心理小説~濫読日記

 

「あちらにいる鬼」(井上荒野)

 

 井上光晴は好きな作家の一人だった。本棚には全集を含めかなりの数の著作があったが、大学を出るとき手放した。もはや当時の心境を詳しくは思い出せないが、生活環境の変化につれて、多分もう読むことはないと思ったのだろう。したがって今、手元に彼の著作は一冊もない。おぼろげだが、日本共産党内での所感派と国際派の論争をバックにした小説があったように記憶する。何というタイトルだったか。

 瀬戸内寂聴は、瀬戸内晴美と名乗っていたころ、夫と子を捨て出奔した。その時の体験をもとに、若い男と不遇の小説家との間を揺れる「夏の終り」を書いた。最終的に選択した若い男との同棲生活にも倦み始めたころ、井上光晴と出会った。彼には家庭があり、当時5歳だった長女はその後、直木賞をとり父と同じ作家となった。

 こうして始まった、井上と妻と瀬戸内の26年にわたる奇妙な生活を、井上の娘の筆によって描いた小説が「あちらにいる鬼」である。著者を含め、当事者が実在した、もしくは実在するだけに、実話小説(モデル小説)、不倫小説の次元でとらえがちだが、おそらくそれは間違っている。読んだ印象を一言でいえば、3人の愛憎を超えた奇跡のトライアングルの上に成立した心理小説、といえる。

 白井篤郎という小説家像が、二人の女(笙子と長内みはる)の視線によって交互に描かれる。というより、白井を見る視線の内側にひそむ二人の女の心理が描かれる、といったほうが正確かもしれない。二人とはむろん白井の妻と瀬戸内であり、白井とは井上である。瀬戸内とはこのとき、世間の常識からすれば不倫関係ということになる。しかし、この関係をただ三角関係と呼んでいいのかどうかは分からない。三人を見ている井上荒野という存在がいるからだ。ひょっとすると、小説は四角関係を描いているのかもしれない。しかし、それはどうでもいいことといえる。なぜなら、これは実話小説ではなく心理小説の域にあるからだ。

 妻の笙子は、もちろんみはると夫の長年の関係を知っていた。それでいながら、みはるが晩年、出家後に勤行をしていた岩手の寺に、勧められるまま墓所をもうけた。その心境はこう書かれる。

 ――触れないこと。口にしないこと。結局、長内さん所縁の墓地に篤郎を埋葬することに決めたそれが一番の理由だったのかもしれない。

 そして妻は、こう言い残し世を去る。

 ――一緒のお墓に入ってあげないとチチがかわいそうだからね。

 一人の作家をめぐる愛憎を薄皮一枚で覆い、奇妙な連帯感と友情にひたる二人の女。その心理に分け入る作家の娘。島尾敏雄「死の棘」を別格とすれば、近年、日常を描いてこれほどの覚悟と緊張感にあふれた作品を知らない。

 朝日新聞出版、1600円(税別)。

 


あちらにいる鬼

あちらにいる鬼

  • 作者: 井上 荒野
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2019/02/07
  • メディア: 単行本

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前作と比べるのは酷だが、獄はリアル~映画「パピヨン」 [映画時評]

前作と比べるのは酷だが、獄はリアル~映画「パピヨン」

 

 安西冬衛の作で「春」という1行詩がある。

 

 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った

 

 これだけだが、さまざまな想像を掻き立てる。戦前、父の勤務先であった大連で詩作活動に情熱を注いだが病を得て帰国かなわず、そうした境遇と望郷の念を込めた、とも言われた。間宮海峡をあえて大陸側の呼称である「韃靼海峡」としたことも、その裏付けとされる。そんな時代背景を抜きにしても、この詩には、ユーラシア大陸からはるばる樺太(サハリン)を目指す小さな蝶に託した、揺るがぬ自由を求める精神の発露があるとも受け取れる。

 

 映画「パピヨン」は、脱獄不可能とされた流刑地から脱出をもくろみ、ついに成功した男の物語である。後年、男が書いた自伝小説のタイトルがそのまま映画にかぶせられた。

 1973年に一度映画化。スティーブ・マックィーン、ダスティン・ホフマンのゴールデンコンビで、脱獄映画の金字塔といわれた。さて、そのリメイク版の出来やいかに、と興味津々で観た。

 胸の蝶の刺青から「パピヨン」と呼ばれた金庫破りのプロ、アンリ(チャーリー・ハナム、本名アンリ・シャリエール)は無実の殺人罪に問われ終身刑となり、仏領ギアナへと送られた。そこで、ひ弱な男ドガ(ラミ・マレック)と出会い、カネと引き換えにボデーガードを引き受ける。こうしてアンリとドガの脱獄計画がスタートする。1度目は失敗し2年の独房入り、2回目も失敗、5年の独房。そして「悪魔島」と呼ばれた難攻不落の獄へ送られた3度目は…。

 過酷な独房生活で身も心もボロボロになりながら不屈の精神で自由を求めた男の物語だが、その内面の演技を前作のマックィーン、ホフマンのコンビと比べるのは酷というもの。しかし、牢獄の作りとその生活ぶり、獄中で殺人を犯した男のギロチン処刑の場面などは、これでもかというほどリアル。マイケル・ノア―監督はこれまでドキュメンタリー映画で名を売ったらしく、その辺りは心得たもの、という感じだった。

 自由を求める不屈の魂、といった側面はやや食い足りないが、獄中生活のリアルさは本物だ。

 2017年、アメリカ・セルビア・モンテネグロ・マルタ合作。

 


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現代に通じる「不安と恍惚」~映画「クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代」 [映画時評]

現代に通じる「不安と恍惚」~

映画「クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代」

 

 クリムトとその弟子エゴン・シーレは1918年、ともにスペイン風邪がもとで亡くなった。当時のスペイン風邪は強力で、全世界で少なくとも4000万人が亡くなったといわれる。彼らの死から100年を記念して作られたのがドキュメンタリー「クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代」である。

 スペイン風邪がこれほど猛威を振るったのは、第一次大戦のためともいわれる。大戦が終わった1918年、時代の歯車は大きく回った。神聖ローマ帝国からオーストリア・ハンガリー帝国へと形を変えて続いたハプスブルグ帝国が終焉を迎えた。一方で、第一次大戦という人類初の世界規模の大戦を契機に、戦争の世紀が幕を開けた。

 こうした時代を生きたクリムトとエゴン・シーレは、時代の終わりを生きたのか。時代の始まりを生きたのか。

 二人とも、とても気になる画風の持ち主である。黄金に彩られた女性像は至福とは程遠い不安な表情をたたえる。裸婦像は何かにおびえ、生の歓喜とは対極にいる。それらを評して「エロスとタナトス(死)の芸術」と呼ぶ。こうした絵画群の本質と当時のウィーンの表情を、ユダヤ人としての迫害体験を持つエリック・カンデル(脳神経学者、ノーベル賞受賞者)らの証言で明らかにしていく。フロイトやマーラー、シェーンベルクも語られる中、19世紀末から20世紀初頭の女性像には、近代の女性のアイデンティティーが封じ込められている、というコメントが印象的だ。

 国家総動員体制を競う時代(=戦争の世紀)へと突入した世界は100年を経てグラウンドを一周、20世紀初頭と同じ地点に立っているのではないか。クリムトとエゴン・シーレの作品を見ると、そんな思いが立ち上ってくる。そうだとすれば、二人の天才が表現した「不安と恍惚」はそのまま「今」の時代のそれに通じているように思える。

 2018年、イタリア。

 

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「安保の今」を考えるための最適の一冊~濫読日記 [濫読日記]

「安保の今」を考えるための最適の一冊~濫読日記

 

「日米安保体制史」(吉次公介著)

 

 トランプ米大統領が日米安保の不公平性、非対称性に言及している(2019.6.26 FOXビジネスのインタビュー)。何者かに日本が攻撃された場合、米軍が日本を守る義務はあるが、米国が攻撃された場合、日本は守る義務がない、という。トランプ発言は当たっているのか。そのことを考えるため「日米安保体制史」を読んだ。

 読後感を簡単にまとめると、①これまで安保条約を対象とした書はいくつかあるが、ほとんどが条約成立時に光をあてており、米ソ冷戦後にまで目配りしたものは、この書を除いてあまりない②条約を取り巻く国際情勢、国内政治まで網羅、骨太の安保体制史といえる③安保の変質、転換点での天皇の発言が簡潔に紹介され、天皇が必ずしも戦後政治と無縁ではなかったことが明らかにされている④基地問題への目配りがきいている⑤その割にコンパクト―といったところか。

 知られているように、日米安保条約はサンフランシスコ講和条約の調印直後、米陸軍下士官クラブの一角で吉田茂首相が単独で署名した。全権団全員が署名した講和条約とは違っていた。GHQ占領下から独立した日本が、代償として米軍基地をいつでもどこでも造ることを受け入れた瞬間だった。条約の不公平性を吉田が単身で引き受けたのだった。

 60年安保は、米ソ冷戦下、日本の針路をどう考えるか、という大テーマの下、自由主義陣営の一員としての地位を確立しながら米軍による日本防衛を義務として条文に書き入れたことの意味を問うた国民的争議だった。戦争巻き込まれ論が国民的な共感を呼ぶ中、岸信介首相から見れば、日米安保の不公平性解消に努めたのであった。

 沖縄の施政権返還がなければ日本の戦後は終わらない、といったのは佐藤栄作首相であった。72年に沖縄は返還されたが、そこには核兵器持ち込みや基地返還の際の財政負担をめぐる密約があった。安保条約は日米間の不公平性の縮小へと向かったものの、同時に密約の存在という不透明性を帯びたのである。

 沖縄の施政権返還後、福田、大平、中曽根の歴代首相は日米同盟を口にした。同盟とは無論、軍事を含む。特に中曽根康弘首相(82年~)はレーガン大統領と「ロン・ヤス」と呼びあう緊密な関係を築き、同盟を不動にした。

 この辺りまでの安保体制史はこれまで目にしてきた。「日米安保体制史」の特徴は、この後、即ち米ソ冷戦後の安保体制がどう生きのびてきたかに多くのスペース(3分の1強、約80㌻)を費やしている点にある。この「米ソ冷戦後の安保」こそ今日、議論されるべきテーマである。吉田の決断した「軽武装・経済優先」路線は戦後保守政治の中で一定の評価が与えられてきたように思う。しかし、ポスト冷戦時代の「湾岸戦争をめぐる国際貢献」の問題、その後のアジア太平洋地域の安定のための要石としての日米統合運用=安保再定義=の問題、テロとの戦いの中での日米安保のグローバル化の問題は今なおINGの議論で決着はついていない。トランプ大統領が言及したのも、この辺りの生煮え感があればこそだと思われる。

 2015年、訪米中の安倍晋三首相は安保を「希望の同盟」としたが、これはとても額面通りには受け取れない。集団的自衛権の行使が可能な新安保法制を施行させたが国民的な理解があるとはいえず、基地問題も依然大きな火種である(この書の表現を使えば「アポリアとしての米軍基地問題」)。

 いま、米国とイランの関係が一触即発状態になりつつある。ポスト冷戦→自衛隊のグローバル化=集団的自衛権の行使という局面で安保はどう機能するのか。そうしたテーマに即して考えるには、最適の一冊といえる。

 岩波新書、860円(税別)。

 


日米安保体制史 (岩波新書)

日米安保体制史 (岩波新書)

  • 作者: 吉次 公介
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/10/20
  • メディア: 新書

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いやらしくも重い共同体の存在感~映画「誰もがそれを知っている」 [映画時評]

いやらしくも重い共同体の存在感~
映画「誰もがそれを知っている」

 

 スペインの小さな村。結婚式のため移住先のアルゼンチンから帰ってきた一家に事件が起きる。

 と書けばサスペンスのようだが、映画全編の通奏低音は心理ドラマである。危機に陥ったとき、人はどう反応するか、そんな人間の根源を見つめた作品である。それもそのはず、監督は「別離」や「セールスマン」で繊細な心理描写を見せたアスガー・ファルハディ(イラン)である。

 ラウラ(ペネロペ・クルス)は妹の結婚式のため娘イレーネ(カルラ・カンプラ)と息子ディエゴを連れ、はるばる帰ってきた。祝賀ムードの中で事件は起きた。イレーネが誘拐されたのだ。ほどなく身代金30万ユーロを払えとメールが届いた。ラウラの夫アレハンドロ(リカルド・ダリン)も駆けつけるが、彼はアルゼンチンで成功したとの風評をよそに、失業の身だった。身代金など払えるはずがなかった。

 誘拐犯はなぜ、扱いやすいはずの幼いディエゴよりイレーネを狙ったのか。身代金を取る見通しはあったのか。謎は深まった。

 ラウラにはかつて恋人パコ(ハビエル・バルデム)がいた。彼はアレハンドロとラウラから土地を譲り受けブドウ園に改良、ワインの醸造で成功していた。彼ならブドウ園を売りさえすれば身代金を払うことができた。そして実は、彼こそがイレーネの父親だった―。

 誘拐は、イレーネの父親が誰かを知っている人間が企てたのだった。いったい、それは誰なのか。

 ラウラがイレーネを生むと決めた時、アレハンドロは永久に二人だけの秘密にしておこうと考えた。しかし、誰かが知っていた。それは誰か。アレハンドロはそれとなく周囲に聞いてみた。答えは、愕然とするものだった。イレーネの父親が誰か、村のみんなが知っている―。

 本音と建前が入り組み、隠しておきたい秘密が白日にさらされる。共同体のいやらしくも重い部分が、この映画では描かれる。そして、最後に犯人は明らかになる。

 最後まで見ていくとこの映画は実は、心理の奇妙な逆転劇の上でストーリーが組み立てられていることが分かる。ラウラはパコを捨てアレハンドロと新天地に向かった。それをラウラの残った家族たちはどう見ていたか。そして村人は。イレーネの出生の秘密を共有していた村人の心にひそむ、ラウラとアレハンドロを貶めたいと思う気持ちが事件を引き起こしたと、ファルハディ監督は言いたかったに違いない。冒頭、ラウラとイレーネを迎えた村人たちの奇妙にわだかまった表情がそれを物語っているように思える。

 2018年、スペイン、フランス、イタリア合作。


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現実と非現実の不可解な境目~映画「新聞記者」 [映画時評]

現実と非現実の不可解な境目~映画「新聞記者」

 

 米紙NYタイムズが日本の官房長官会見を取り上げ、「日本政府はときに独裁政権をほうふつとさせる」と批判した。東京新聞の望月望月衣塑子記者への対応ぶりを指している。その望月記者が書いた「新聞記者」を原案として映画が作られた。

 といっても、映画は望月記者を思わせる「東都新聞」女性記者の行動を軸に、前川喜平・元文科事務次官をめぐる「出会い系バー」報道、政権寄りジャーナリストによる「レイプ」事件、加計学園疑惑などをベースにしてフィクションを織り込み、著書はあくまで「原案」のレベルだ。

 東都新聞にある日、医療系大学新設計画に関する資料がファクスで送られてきた。送信先不明のこの文書が何か、社会部の吉岡エリカ(シム・ウンギョン)は取材を指示される。その結果、内閣府のある計画に突き当たった。

 外務省から出向し、内閣情報調査室で仕事をしている杉原拓海(松坂桃李)は日々の仕事に疑問を感じていた。彼のかつての上司・神崎俊尚(高橋和也)が実はこの大学新設計画に関わっており、闇を抱えたまま自殺した。官僚としての良心を捨てきれない杉原と吉岡記者の真相究明が始まる―。

 実際の加計学園疑惑は、首相の「お友達」の経営する大学の学部新設が国家戦略特区の指定を受け、その過程に権力が介在した、との疑惑が生まれたが、映画ではもっと突飛な計画が浮上する。ネタバレを承知でいえば裏の目的は生物化学兵器研究、ということだが、ばれれば国際的に非難され、政権は吹っ飛ぶに決まっているそんな計画を内閣府が進めるだろうか。しかも、それが大学新設計画に明文化されていたなどとは、現実的なストーリーとはとても思えない。

 もう一つ不可解なのは、吉岡記者が見ているテレビ画面に、ある討論会に出ている望月記者が映っていることだ。テレビ画面の向こう側とこちら側に二人の「望月記者」がいる。フィクションと現実の境目を映しているとすれば、興ざめというほかない。

 それは、生物化学兵器研究というありえない筋立てを見せることで作品のフィクション性を際立たせることと、どこかでつながる。つまり、これはフィクションですよとする「言い訳」を前提にしなければ「反権力」をテーマにした展開と筋立てが困難だったという作り手の事情を浮き彫りにしているように思える。

 最近では「記者たち 衝撃と畏怖の真実」や「バイス」「バグダッドスキャンダル」「フロントランナー」(以上、米国)や「1987、ある闘いの真実」「タクシー運転手 約束は海を越えて」(以上、韓国)に比べ遅れをとっていた感のある日本製ポリティカルドラマに久々に出てきた熱い作品(「シンゴジラ」以来だ)だと思うが、いくつかの前掲作品に比べ、ややそのあたりの弱さ(フィクションとノンフィクションの中途半端で不可解な境目)が気になる。2019年、日本。

 


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「政治と芸術」の問題を内に秘めて~映画「ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画の行方」 [映画時評]

 「政治と芸術」の問題を内に秘めて~

映画「ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画の行方」

  

 ナチス・ドイツがヨーロッパで集めた絵画は60万点に及び、今も10万点が行方不明という。ヒトラーはなぜこれほど芸術に執着したのか。彼は1937年、集めた絵画を使いミュンヘンで二つの絵画展を開催した。一つは頽廃芸術展、もう一つは大ドイツ芸術展。「退廃芸術」とは、もちろんヒトラーの物差しに合わない作品で、ピカソやゴッホ、シャガールが壁にわざと斜めに置かれたり、「無能なペテン師」など批評ともつかない悪罵が貼り付けられたりした。大ドイツ芸術展にはアーリア人による古典的な農村風景、筋骨隆々とした男性像、母性本能にあふれる女性像などが飾られた―。

 ヒトラーは故郷のリンツに「総統美術館」を建てる計画でいたらしい。自らの眼鏡に合う作品のみを置き、「頽廃芸術」は葬り去るつもりだった。ヨーロッパ全土を支配すると同時に、あらゆる芸術作品と芸術家の魂を支配しようとしたのではないか。「恐怖」によって民衆を支配しようとしたヒトラーは、芸術を貶めることで芸術作品そのものを武器にしようとした、といえる。
 ナチス・ドイツに名画が渡った経緯をみると、ユダヤ人画商が出国ビザを入手するため、というのが多く出てくる。さらに、肉親のアウシュビッツ体験も背後にあったりする。
 そうしたヒトラーと、彼の右腕であったゲーリング(二人は、芸術狩りに関してはライバル関係であったらしい)の悪行を、関係者の証言によって浮き彫りにしたドキュメンタリーである。水先案内人はイタリアの名優トニ・セルヴィッロ、監督はイタリアのドキュメンタリーの新鋭クラウディオ・ポリ。
 ところで、この映画のタイトルになぜピカソが登場するのか。ヒトラーの標的であったから、というだけではない。映画の締めくくり近くで一つのエピソードが紹介されている。それはこうだ。

 ――あるドイツ兵がピカソのアトリエを訪れ「ゲルニカ」を見て聞いた。「これはあなたの『仕事』か」。ピカソはこう答えたという。「いや、これはあなた方の『仕事』だ」

 この短いやり取りには、「芸術とは何か」についての深い問いが込められている。
 ヒトラーがもくろんだのは、芸術を戦争の手段、政治の手段に貶めることだった。しかし、こうした野心を持ったのは、歴史上ヒトラーだけではなかった。芸術は政治の奴隷であり社会主義の闘いの手段でありと見たスターリンも、同じ道を歩んだといえる。その意味では、この「政治と芸術」の問題は、なお今日的な課題でもある。
 2018年、イタリア、フランス、ドイツ合作。

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満洲国の総括=葬式は誰が出すのか~濫読日記 [濫読日記]

満洲国の総括=葬式は誰が出すのか~濫読日記

 

「キメラ―満洲国の肖像」(山室信一著)

 

 赤坂憲雄著「北のはやり歌」は、なぜか「北」を目指す歌謡曲の謎を追っている。その代表格ともいえる「北帰行」も当然、俎上に載せられている。旅順高の寮歌が元歌で、作詞者が幼少期を過ごした満州を故郷として偲んだ、といわれる。ただ、小林旭が歌った「北帰行」とは、1番を除いて詞が大幅に組み替えられている。それでも赤坂は、この歌に「近代の裂け目」を見る。

 ―日本の近代にとって、もうひとつの「北」がそこに見え隠れしていることを忘れてはならない。満州国という名の、もうひとつの「北」である。

 「北」の持つ冷涼で寂寂としたイメージには、傷ついた心を癒す何かが含まれている、という赤坂は、ここで「満州」を重ねる。知的デカダンと反抗の末に「北」への望郷歌を生み出した旅順高生・宇田博にとって、「満州」とは何だったのだろう。

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 1932年に中国東北部に登場、13年後に姿を消した「満洲」は、今も我々日本人に一筋縄ではいかない感慨をもたらす。軍部の策略によってもたらされた傀儡国家であり、日本の近代が行きついた植民地政策の象徴でもあった。そこには、抜きがたいアジア民衆への差別感情があり、それとは裏腹に西欧文明社会にはなかった「王道楽土」の理想主義があった。これを、軍部の暴走という一言で葬り去るのは簡単である。事実、戦後思想は「満洲」を黙殺してきた。

 「キメラ―満洲国の肖像」は、こうした「満洲」の姿かたちを余すところなく掘り下げた一冊である。満蒙の権益をめぐる日ロの争い、領有論と独立国家建設論、石原莞爾の「世界最終戦論」。五族協和を掲げ、王道楽土=資本主義でも社会主義でもなく、反政党政治による新天地建設。しかし、近代国家は中国の民には果たせない、という決定的な民族差別が苛烈な階層社会を形成したという。

 石原莞爾はある座談会で、一人の中国人の言葉に感銘を受ける。于沖漢の保境安民・不養兵主義である。しかし、中国東北部に争いも差別もない社会を築く、という目標は、日本人絶対優先思想の中で崩れ、兵を持たないという思想は対ロシア戦線の防御は関東軍に任せる、ということでいずれも絵に描いた餅になった。

 こうした中で山室は、一人の日本人ジャーナリストを紹介している。橘樸(たちばな・しらき)。魯迅が「中国人よりも中国のことを知っている」と評した。中国民衆に無限のエネルギーを感じ、平等主義・対等主義を唱えた。その橘でさえ、反資本、反政党を鮮明にした関東軍に夢を託した。満洲事変をアジアと中国民衆の解放と捉えた。それは、貧困にあえぐ日本改造の契機としたのである。橘でさえ、日中非対等の罠に陥ったのである。

 満洲居留民は4千万人といわれた。しかし、滿洲国民は一人もいなかった。国籍法がなかったからである。なぜか。山室は、国籍法を阻む日本人の心情があったのではないか、と推測する。

 「増補版のためのあとがき」で、山室は「日本国家は満洲国の葬式を出していない」とした竹内好の言葉を紹介している。この言葉は、いまも重いように思える。

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 「キメラ」とは、複数の遺伝子構造を持つ生き物のことである。もともとは、ギリシャ神話に登場する動物を称した。頭はライオン、胴体は羊、しっぽは毒蛇(山室は著書の中で「しっぽは龍」としている)。もちろん、さまざまな思惑の中で人工的に作り上げられた満州国を指している。頭のライオンは関東軍、胴体は天皇制を指すとすれば、しっぽは清国の末裔溥儀を指す。その意味では、しっぽは蛇より龍が似合っている。

(「満洲」は冒頭「北のはやり歌」の部分を除き、「満州」とはせず山室の著書の表記に従った)

 中公新書、960円。

 


キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)

キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)

  • 作者: 山室 信一
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2004/07/01
  • メディア: 新書

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