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帝国の落日と混沌~映画「サンセット」 [映画時評]

帝国の落日と混沌~映画「サンセット」

 

 ブダペストを訪れたことがある。ドナウ河畔にたたずむ国会議事堂は今なお荘厳を保ち、三つの美しい橋は街の首飾りのようだった。夜間、ライトアップされた中を船で巡った。しかし、私にはこれらが魂の抜けた廃墟群、もしくは墓場のように見え、憂鬱な気分がしたのを覚えている。

 このブダペストの街が活気に満ちたことがある。第一次大戦直前、オーストリア=ハンガリー帝国の中心としてウイーンと並び立った時代である。映画「サンセット」はこの時代、1913年のブダペストを舞台にした。

 ある高級帽子店を一人の女性が訪れ、雇ってくれるよう頼む。実は彼女、レイター・イリア(ユリ・ヤカブ)の両親が創業した店だった。イリアが2歳のころ、火災によって死去した。身寄りのないイリアはイタリア・トリエステに養子として出されていた。あの火災の真相を知りたくて、この店を訪れたのだった。店主のブリル・オスカル(ブラド・イヴァノフ)はイリアがレイター家の娘だと知ると、なぜか冷たくあしらった。

 街の古宿に泊まったイリアは、ある男の来訪を受ける。そして、イリアには兄カルマンがいること、その兄が伯爵夫人を殺害し、帽子店を焼き払おうとしていること、などを知らされる。イリアは謎を解くため、兄の行方を追う。

 すると、ブダペストの街を不穏な空気にさせるあるグループの存在に突き当たった。オーストリア=ハンガリー帝国の在り方、貴族社会の在り方に不満を持つグループのようだった…。

 普通の作品だと謎が提示され、解答=終着点が見出される。しかしこの「サンセット」では、謎は謎のまま観るものの前に宙づりになる。考えてみれば、あらゆる作品で解答が最後に提示される必要はないのだ。要は何を描きたかったか、なのだから。

ここで描きたかったものは神聖ローマ帝国を引き継いだオーストリア=ハンガリー帝国の終わり(サンセット)であり、第一次大戦による終幕を前にしたブダペストの混沌とラビリンス(迷宮)ではなかったか。その意味では、イリア自身が混沌に取り込まれ、カルマンの魂を引き継ぎ、なり替わったかに見えるラストシーンが印象的だ。帝国の落日を描いただけに、映像はとても美しい。

 監督は「サウルの息子」のメネシュ・ラースロー。イリアを演じたユリ・ヤカブはどこかで見た、と思ったら「サウルの息子」で爆弾を運ぶ女性だった。2018年、ハンガリー、フランス合作。


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冷戦下、若者の「理由ある反抗」~映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」 [映画時評]

冷戦下、若者の「理由ある反抗」~

映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」

 

 ベルリンの壁ができる5年前、1956年の東ドイツで起きた事件を題材にした。

 1956年がミソである。ハンガリー動乱の年。その3年前にスターリンが死去した。鉄の規律が緩み始め、民主化運動の狼煙が東ヨーロッパに上がった。ソ連軍によって鎮圧され、民衆数千人の命が奪われたとされる。1960年代半ばに発表された高橋和巳著「憂鬱なる党派」でも「ハンガリー動乱」や「スターリンの死」が、暗鬱な時代の象徴として登場する。

 しかし、亡くなった民衆は犬死ではなかった。1989年にベルリンの壁が崩壊した時、東ドイツ→ハンガリー→オーストリアという西側への有力な脱出ルートを形成する礎となった。

 映画に戻る。スターリンシュタットのある高校、進学コースにいる生徒たちが主人公。大学を出て党のエリートとして育てられることが約束されていた。その一人テオはある日、祖父の墓参と称して親友のクルトと西ドイツを訪れた。帰途、映画館に入った二人は、ニュース映画に衝撃を受ける。ハンガリーで民主化を求め民衆が蜂起、多くの命が奪われたというのだ。

 東ドイツに戻った二人はこのニュースの詳細を知ろうと、クラスメートのおじさんエドガーのもとを訪れる。そこで、西ドイツのラジオ放送RIASを聞くことができた。ソ連軍によって数百人の命が奪われたこと、有名なサッカー選手が亡くなったことなどが報道されていた。

 教室に戻ったクルトは級友に、ハンガリーの民衆のために2分間黙とうすることを提案する。「反革命だから許されない」という反対意見がある中、20人中12人の賛成で受け入れられた。直後の授業で黙とうは決行され、驚いた教師は校長に対処を求める。校長は不問に付す考えだったが、ほかの教師の密告によって郡学務局の知るところとなり、ついには国民教育相までが乗り出した。

 黙とうはハンガリーのためではなくサッカー選手のため、とクルトらは口裏合わせを図ったが、執拗な調べの中で事実が明らかになり、首謀者を出さねばクラスそのものを閉鎖すると最後通告を受ける。東ドイツでエリートとしての人生を歩むか、労働者として一生暮らすかの二者択一の問いであった。そこで、クルトらがとった行動は…。

 描かれたのは、自由な発想と意見が受け入れられない牢獄のような社会である。そして、印象的なのは、主人公である若者たちを取り巻く大人たちの背後にある「過去」である。テオの祖父がナチの武装親衛隊であったこと、テオの父親もかつて暴動に参加し、再起の機会を与えられていたこと、級友の一人の父が赤軍の英雄とされていたが、実は裏切者であったこと、市議会議長であるクルトの父が、実は密告者であったこと…などである。そうした過去が大人たちを縛り、血の通わない社会を作り上げてきたことを、クルトやテオは知る。ちょうどハンガリー動乱の前年、1955年には米国でジェームス・ディーンの「理由なき反抗」が封切られたが、さしずめこの「僕たちは―」で描かれたのは「理由ある反抗」というべきものだろう。

 なお、邦題はいかにも第三者が後付けでつけた印象がある。もし当時の時代に寄り添うのであれば、ドイツの原題「沈黙の教室」もしくは英語のタイトル「沈黙の革命」がふさわしく思える。

 2018年、ドイツ。

 


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「家族」という船に乗り合わせて~映画「長いお別れ」 [映画時評]

「家族」という船に乗り合わせて~映画「長いお別れ」

 

 年金のほかに2000万円の資産形成がいるとかいらないとか、議論がかまびすしい。しかし、もっと切実な問題がある。高齢化社会の進展に伴う、認知症患者の増大である。内閣府の調査では、2025年には65歳以上の5人に1人がなると見込まれている。映画「長いお別れ」は、この問題に焦点を当てた。

 70歳を迎えた父が、少しずつ記憶を失っていく。妻や娘を認識しなくなり、日常生活も困難になっていく。そんな父を、妻や娘はなおも父として認め、支えようとする。しかし、症状は加速度的に進み、ついに旅立ってしまう。そんな切ない、7年にわたる物語である。描かれたのは、家族という船に乗り合わせた者たちの情感と、それに基づく「つながり」である。それを「絆」と呼んだり、「共同体」と呼んだりするのは適切かどうか分からない。少し違っているようにも思える。

 厳格な教育者で、中学校の校長まで勤めた東昇平(山崎努)はこのところ認知症が進んでいる。妻の曜子(松原智恵子)は、相談のため娘を呼び寄せる。

 長女の麻里(竹内結子)はアメリカで夫・今村新(北村有起哉)と息子・崇(杉田雷麟、蒲田優惟人)とともに暮らしていた。1年以上たっても英語がうまくならない麻里は周囲とのコミュニケーションに悩む。研究者の夫は徹底した自己責任論者で、崇の不登校に悩む麻里に、クールな感想を漏らす。

 二女の芙美(蒼井優)は外食の店を開こうとするが、うまくいかない。バツイチの男性と付き合っていたが、ある日、別れた妻子との水入らずのシーンを目にして疎外感に陥ってしまう。

 娘二人が抱える問題は家族としての情感のつながりの希薄さに由来している。その二人と妻の曜子が、父の認知症という待ったなしの問題に直面し、何を感じて何を得るかを見つめた。

 山崎努の怪演は予想通りだが、閉塞感漂うモラトリアム状況の中の生き様をさりげなくナイーブに演じた蒼井優も評価したい。「彼女が知らない鳥たち」での複雑な内面の表現が思い起こされる。記憶を失い、徐々に家族から離れていく昇平と、悩みながらも家族から自立していく崇の背中がオーバーラップするラストシーンが印象的だ。

 原作は「小さいおうち」の中島京子。監督は「湯を沸かすほどの熱い愛」の中の中野量太。「小さいおうち」と同様、表面のほのぼの感の内側に何やら重いものを感じさせる秀作。

 

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壮絶なバトルの語り口を観る~映画「主戦場」 [映画時評]

壮絶なバトルの語り口を観る~映画「主戦場」

 

 アジア・太平洋戦争での、いわゆる「慰安婦」問題をめぐる左右の論争そのものを取り上げたドキュメンタリーである(ここでは「慰安婦」にカギかっこをつけた。慰安とは被害に遭った女性ではなく加害の側である日本軍に立った視線であることをはっきりさせるためだ)。

 出演した保守派の人たちは「歴史修正主義」のレッテルを張られたことに抗議し上映中止を求めているようだが、観た限りでは意図的・主観的な編集作業は見受けられなかった。「慰安婦」問題についての論点と、それに対する主張がまんべんなく盛られ、むしろ控えめな演出ではないかとさえ思った(マイケル・ムーアの「華氏119」と比べてみよう。その差が分かる)。

 ただ、「慰安婦」というテーマに沿って左右の論客30人近くを登場させ、主張とともに表情、語り口を追った2時間余りは間違いなく壮観であった。慰安婦=性奴隷とする歴史観を真っ向から否定する杉田水脈、藤田信勝、櫻井よしこ、ケント・ギルバート。これに対して実証的な立場から問題の本質を探る吉見義明、林博史、中野晃一、俵義文。そして「慰安婦」問題にかかわったことからバッシングに遭った元新聞記者植村隆の証言。むろん、この人達の持論については何冊かの著書を読んでいるが、映像であらためてその語り口を含めて観ると、ずいぶん多くの発見がある。

 特に驚いたのは日本会議のバックボーンである加瀬英明のインタビューだった。外交官を父に持ち、外交評論家として知られるが「人の書いた本は読まない」と傲然と言い放つその姿勢は、あきれるほかない。杉田水脈の場当たり的な発言にも、的確な事実を重ねてダブルスタンダードぶりを明らかにした。

 新事実や新しい主張が出てくるわけではないが、「慰安婦」をめぐる壮絶なバトルの連続は見ていてあきない。「慰安婦」問題についての一定の知識を持つ人は思考の整理のために、あまり知識を持たない人は入門編として見ることをお勧めしたい。日系アメリカ人ミキ・デザキの初監督作品。

 

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曖昧情報に耐える力を~濫読日記 [濫読日記]


曖昧情報に耐える力を~濫読日記

 

「流言のメディア史」(佐藤卓己著)

 

 「ポスト真実」「フェイクニュース」…。メディアの周辺ではこのような言葉が飛び交っている。SNSの進展が著しい今日では、裏打ちのない「ニュース」が瞬時に地球を駆け巡る。マーク・トウエーンの言葉を借りれば「真実が靴の紐を結ばぬうちに、虚偽のニュースは世界を一周してしまふ」(「流言のメディア史」6P)。新聞を念頭に発せられたが、まさにネット社会の今こそ当てはまる。

  「流言のメディア史」の著者・佐藤卓己は「神話解体の名手」として知られる。「ナチのプロパガンダ」という神話、アジア・太平洋戦争は8.15に幕を閉じたという神話を実証的な視線で解体して見せた。今度はそのメスを流言飛語にあてたのである。その動機は、まぎれもなくデジタル化、ネット化が進むメディアの時代だからこそ流言飛語は増殖する、という点にある。それゆえ佐藤は、タイトルを「流言のメディア史」とした。つまり、ここでいう流言はくちコミではなく、メディア上に現れた曖昧情報を指す。さらに「メディア論はメディア史である」という彼の持論に沿って「流言のメディア論」とはならなかった。

  取り上げたのは1938年のハロウィン前日に放送された「火星人来襲」のラジオドラマに端を発した「全米パニック」という神話、1923年の関東大震災で「自警団パニック」が起き、朝鮮人虐殺に結び付いたという神話、1936年の226事件での情報統制と流言飛語との関係、「ヒトラー神話」の戦後史などである。いずれも、曖昧情報とどう向き合うか、すなわち情報リテラシーというべきものの必要性を根底に置いている。

  このうち「『ヒトラー神話』の戦後史」の章をピックアップしてみる。ヒトラーは戦後、絶対悪として存在してきた。ニーチェが「神は死んだ」と喝破、絶対善の基準点が消滅したことで、絶対悪の参照点としてヒトラーは戦後を生き延びた。それゆえ我々の周辺では「○○は○○のヒトラーだ」というレトリックが存在する。一種のヒトラー神話だ。これが何らかの状況の中で逆転現象を起こさないか。そのことをチェックしていかなければならない。そのためにはヒトラー神話に感情的に反応するのでなく、知的な理解が必要だと佐藤はいい、実例として、ヒトラー主義者である「少年A」が書いた「絶歌―神戸連続児童殺傷事件」刊行をめぐる議論を取り上げた(佐藤はこの書の刊行を規制すべきでないという立場に立つ。もちろん「流言メディア」ととらえたうえで)。

  「情報とどう向き合うか」という観点からすると、日本人にとって最も重要な課題は戦時中の「大本営発表」であろう。佐藤は、実は大本営発表は虚偽であると大半の日本人が見抜いていたとする。それゆえに終戦後のGHQが巧妙な検閲体制の一方で新聞各紙に「太平洋戦史」を掲載させ、ラジオ番組「眞相はかうだ」を流させた時も、そのプロパガンダ性をいち早く見抜いていたと見る。「真相とは疑うべきもの」として、日本の大衆はメディアに接したのだ。

  なお、評論家の松浦総三が当時、過激な暴露路線で知られた共産党系雑誌「眞相」の精神をゆがんだ形で受け継いだのが週刊新潮、という視点は興味深い。最近では「文春砲」の方が勢いがあるが、これも基本路線は偶像や神話を標的にした「真相はこうだ」である。

  近い将来、AI時代が来るといわれる。質の悪い情報(たとえばヘイト情報)や信頼度において欠陥のある情報をAIが事前排除する、あるいは政治的に偏向した情報を排除する、そうして安全な情報だけが手元に来る時代が来たらどうだろうか。それは不幸な時代ではないかと佐藤は言う。確かに、曖昧情報を含めて我々の周辺にあり、その中から選択するからこそ我々は理性を働かせることができ、議論が可能になる。必要なのは事前のクレンジングではなく曖昧情報に耐える力である。ここに、この書を世に問うた意味がありそうだ。

  岩波新書、900円(税別)。


流言のメディア史 (岩波新書)

流言のメディア史 (岩波新書)

  • 作者: 佐藤 卓己
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2019/03/21
  • メディア: 新書



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重いテーマを軽やかに~映画「天国でまた会おう」 [映画時評]

重いテーマを軽やかに~映画「天国でまた会おう」

 

 第一次世界大戦(191418年)は、歴史上初めて機械化された戦争として知られる。19世紀の英国産業革命による内燃機関の発達から戦車、航空機が兵器として登場、空中窒素固定法(ハーバー・ボッシュ法)によって爆薬の大量生産が可能になった。この結果、戦線は長大化し、砲撃が苛烈を極めた。対する戦術は塹壕を掘り、突撃を繰り返すだけだった。兵士の肉体を防御するものは何もなく、戦場は惨状を極めた。ここからレマルクの「西部戦線異状なし」が生まれた。

 第一次世界大戦の、生死が紙一重という地獄の体験に基づく映画が「天国でまた会おう」である。テーマはとても重いが、フランス映画らしい洒脱なストーリーのはこびで、一面では娯楽性のあるものになっている。

 モロッコの憲兵隊にとらえられたアルベール(アルベール・デュポンテル)は、友人のエドゥアール(ナウエル・ペレ―)との詐欺事件について語り始めた。それはドイツとの戦線での出来事が発端だった。

 砲撃にさらされた塹壕で恐怖に耐えるアルベールとエドゥアール。前線の指揮官プラデル中尉(ローラン・ラフィット)は、別の二人の兵士に偵察を命じた。しかし、塹壕を出たとたん、狙撃され倒れる。突撃を命じられたアルベールは兵士の死体を見て、銃創が背後からであることを知る。プラデルに撃たれたのだ。おそらく、ドイツへの敵愾心を煽るためであろう。

 その後、アルベールは穴に落ち、生き埋めになりかかる。間一髪、助けたのはエドゥアールだった。しかし、救出作業中のエドゥアールを至近弾が襲い、顔面の下半分は吹き飛ばされる。病院のベッドで無残な我が顔を見たエドゥアールは、絶望の淵に追いやられる…。

 戦争が終わり、固い絆に結ばれた二人。生きる意欲をなくしたエドゥアールは戦死を装い、痛み止めのモルヒネを打ちながら戦場で観たものを絵に描いていた。才能には目を見張るものがあったが、平凡な図柄ばかり。いぶかしむアルベールに、詐欺の企てを話し始めた。

 兵士追悼の記念碑計画を持ち掛け、資金だけをもって逃走する。そのためには芸術的な絵より一般受けする方がいい。ある資産家が標的に選ばれた。まんまと架空の慰霊碑建立計画をでっち上げ、15万フランを手にした。逃亡先はモロッコだ。

 顔面に醜い傷を残すエドゥアールは、いつも仮面をかぶっていた。美しいもの、ユーモラスなもの、さまざまである。もちろん、仮面のデザインはストーリー展開と密接に絡んでいる。

 そしてここから、人間関係の謎が解き明かされる中でストーリーは結末へ向かう。資金をだまし取られた大富豪はエドゥアールの父マルセル(ニエル・アレストリュブ)だった。彼は慰霊碑計画のために送られてきたデッサンと、エドゥアールの戦死を告げられた際に手渡された絵の共通性を見抜き、ひそかに潜伏先を探していた。捜索役は、娘婿であるプラデル、あの戦場での中尉だった…。

 これ以上書くとネタバレになってしまう。冒頭に書いたように、重くなりがちなテーマを切れ味のある演出と、エドゥアールの洒落た仮面で軽やかな味付けにした。どんでん返しの結末も、救われる思いがする。監督は、アルベールを演じたアルベール・デュポンテル。2017年、フランス。米国や日本ではこんな風には作れないだろう、と思える作品である。

 

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