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「いま」を読むための絶好のカタログ~濫読日記 [濫読日記]

「いま」を読むための絶好のカタログ~濫読日記

 

「日本の同時代小説」(斎藤美奈子著)

 

 気がつけば、「いま」をテーマにした小説を読むことが少なくなった。評論、ノンフィクションは手にすることはあっても、小説から足が遠のいていた。なぜだろう。それを考えるためにも「日本の同時代小説」を手にした。齊藤美奈子は私と7歳違い、一回りとはいかなくとも半回りぐらい後の世代である。その著者が冒頭、近現代小説をカバーする解説書は、1960年代後半で途切れている、と書く。それが、この書を書く動機でもあったという。

 なぜこの50年間、同時代小説をテーマにした解説書が書かれなかったか。

 思えば、70年代末ごろから日本では「ポストモダン」がもてはやされた。文学も例外ではなく、近代のルーツを問わない作風がもてはやされた。現代小説の俯瞰作業の停滞には、こうしたことも影響しているかもしれない。しかし、そういってしまえば元も子もないので、斎藤は地道に近代と現代との接点を追っている。

 その際のカギ、もしくは通路となるのは「私小説」と「プロレタリア文学」である。いうまでもなく、日本の近代文学を支えた二大ジャンルである。斎藤は「私小説」について、ヘタレ知識人のたわけ自慢、貧乏自慢と痛快に切って捨て、プロ文については、肝心の労働現場が描かれていない、とする。そしてこれらは手を変え品を変え、脈々と引き継がれた、という。

 80年代を飾ったのは、青春小説の爆発であった。この系譜も、実は60年代からあった。まず「されどわれらが日々―-」(柴田翔)と「赤頭巾ちゃん気をつけて」(庄司薫)である。二作に共通するのは、知識人予備軍の悶々たる思いである。70年代にはこれらへのアンチテーゼが登場する。「青春の門・筑豊編」(五木寛之)や「青葉繁れる」(井上ひさし)。80年代には、大衆消費社会の爛熟を反映した作品が象徴的な存在になった。田中康夫の「なんとなくクリスタル」である。島田雅彦の「優しいサヨクのための嬉遊曲」と合わせ、ポストモダンの気分が醸し出された。

 2010年代は3.11を経て「ディストピアの時代」だった。こうした風潮を受けて、ポストモダン風の労働小説なるものが登場した。「工場」(小山田浩子)や「コンビニ人間」(村田沙耶香)である。かつて労働現場を書くことがなかったプロ文が、労働現場を書くプロ文としてこの時代に開花したともいえる。ほかにも、若者に過酷な労働を強いるブラック企業の存在が、数々のプロ文作品(2000年代以降はプレカリアート=不安定被雇用者=文学)を生み出した。

 リリー・フランキー「東京タワー――オカンとボクと、時々、オトン」(2005年)はベストセラーになった。上京小説であり母への鎮魂小説、涙と感動の物語。貧困経験を絡めた、これもまた私小説であろう。私小説の流れは途切れないのである。

 というわけで、この書は同時代小説の解説本というよりカタログ、もう少し上品に言えば針路図といったものである。そこに、著者独特の率直な言い回しがピリッとした味付けになっている。例えば渡辺淳一「失楽園」について「美食三昧、性交三昧。バブル時代を懐かしむかのような小説」。あるいは見延典子「もう頬づえはつかない」や中沢けい「海を感じるとき」が売れたのは「読者のスケベ心を刺激したから」といった分かりやすい結論にそれを見ることができる。

 岩波新書、880円。


日本の同時代小説 (岩波新書)

日本の同時代小説 (岩波新書)

  • 作者: 斎藤 美奈子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/11/20
  • メディア: 新書

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