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タブーなく「戦後」を問い直した労作~濫読日記 [濫読日記]

タブーなく「戦後」を問い直した労作~濫読日記

 

「検証『戦後民主主義』わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか」(田中利幸著)

 

 「戦後」を「平和と民主主義の時代」と言ってしまうとき、わたしたちは何か割り切れないものを精神のどこかに抱えていることに気づく。確かに、今は「戦争をしていない」という意味では「平和の時代」なのかもしれない。しかし、この平和がどこから来たのか、その由来について、あるいは思想的裏打ちについて、わたしたちは語ることができない。同じことが「民主主義」についてもいえる。何かを置き忘れたまま、あるいは何かを徹底的に問い詰めないまま、私たちは「戦後」という時代を生きてしまっているのではないか。

 もし、あなたが上記のような思いを心のどこかに抱えているなら、この「検証『戦後民主主義』」を読んでみることだ。あらゆるタブーが取り払われ、「戦後」という時代の再構築が試みられている。入り口は「戦争責任」であり、主なキータームは天皇制、空爆と原爆、憲法である。

 著者はまず、近代日本の戦争史を振り返る中で天皇がどれほどのかかわりを持ったかを追及する。当たり前だが、天皇は陸海軍の統帥権の頂点にあったのだから本来、責任は免れようがない。事実、日本の敗戦時には米国を除く連合国軍の形成国は天皇の戦争責任追及を構えていた。寸前で食い止めたのはGHQのマッカーサー最高司令官であった。背景には、ソ連という新たな敵を見すえての、国家総動員体制の継続・維持があった。そのためのリモコン装置として天皇制継続がもくろまれたのである。

 ここから、戦後憲法において第1条(天皇制)盛り込みのために第9条(戦争放棄)が不可欠だったという、いわゆる1条・9条セット論が展開される。軍国主義の象徴的存在である天皇を生きのびさせるためには、日本の軍備の完全放棄を宣言することが避けられなかったのだ。

 こうして、政治的思惑から天皇制は憲法に盛り込まれた。民主主義社会実現のための要請からではなかった。それゆえ民主主義の理念と天皇制は激しく矛盾する。そのことは著者の指摘の通りである。

 著者は永年、米軍が日本に加えてきた空爆の事実検証を行ってきた。紙と木でできた日本家屋を壊滅させるための有効な手段としてナパーム弾が開発され、空爆のための「空の要塞」B29を大量生産し、100を超す都市で火炎地獄が展開された。犠牲になったのは直接、米国へ被害をもたらすとは思えない一般市民である。こうした攻撃を可能にしたのは総力戦の思想、もしくは戦略爆撃の思想であった。これは米国の加害責任として問われるべきだが、その先駆けとなった日本、ドイツの空爆の歴史にも追及のメスは向けられる。その意味では、原爆も空爆も同じ線上にある。ところが、原爆については「被爆者」はいるが投下責任を問う声は驚くほど少ない。このことは、オバマ米国大統領が2016年5月に広島を訪れた際の「惨状」を見れば明らかである。

 原爆については、「平和のための聖なる犠牲」という論理展開に、小田実の「戦敗国ナショナリズム」という概念によって異議を唱えた。「平和への犠牲」とは、いまも広島を覆う精神風土を言い表す言葉だが、背景には戦争の肯定化がある。小田が言う通り、空爆によっても原爆によっても、死んでいったものは犬死であり「難死」だという認識から戦後思想は出発すべきものなのだ。

 戦後の日本は「一億総ざんげ」、即ち、すべての国民に責任がある、言い換えれば、だれも責任を負わないという形でスタートした。その頂点に「人間天皇」がいた。不思議なことに天皇は「加害責任」の頂点から「一億総被害者」の頂点へと、その位置を移したのである。この立ち位置はいまも続いている。

 「戦後」に関する著者の論理展開は、実に多岐にわたっている。とてもすべてを紹介しきれない。これ以上のことを知りたい、あるいは考えたいと思う人は是非一読願いたい。労作である。

 三一書房、2800円(税別)。

 


検証「戦後民主主義」 (わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか)

検証「戦後民主主義」 (わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか)

  • 作者: 田中 利幸
  • 出版社/メーカー: 三一書房
  • 発売日: 2019/05/13
  • メディア: 単行本

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思いがけず知る権力の蜜の味~映画「ちいさな独裁者」 [映画時評]

思いがけず知る権力の蜜の味~映画「ちいさな独裁者」

 

 1945年4月のドイツ。ということは、敗戦まで1カ月の戦線。軍紀は乱れ、脱走や略奪が横行していた。ヴィリー・ヘロルト(マックス・フーバッヒャー)も命がけの脱走を試みる。その最中、路傍に打ち捨てられた軍用車内に将校の軍服を見つける。着てみると、小柄なヘロルトにはズボン丈が余った。

 階級章から、軍服の持ち主は大尉のようだ。そのときから、ヘロルトは大尉に成りすます。訪れたのは脱走や略奪を行った兵を収容する犯罪者収容施設。軍紀の乱れから収容者が溢れかえり、対応に困っていた。総統の命を受け前線の状況を視察している、と嘘をでっち上げたヘロルトは思いがけず権力者の蜜の味を知る。

 収容された兵90人を問答無用で処刑したヘロルトは、冷酷無慈悲であるが有能な将校と周りから見られた。そのままヘロルト親衛隊を結成、権力を意のままに操る…。

 軍服とともに手に入れた「借り物の権力」を武器に独裁者へと成り上がるさまを、処刑シーンも含めて映画は徹底的にリアルに描く。ここで、例えば喜劇タッチにしてみたり、教訓めいたものを抽出したり、という作業は行われない。実話に基づくというストーリーは、驚愕の、というより奇跡に近い。

 映画の後半、ヘロルトが実は上等兵であったことが明らかになる。想起されるのは、ヒットラーが政治の表舞台に躍り出た時「ボヘミアの上等兵」と侮蔑を込めた視線で語られた逸話だ。正統性を持たない権力者が歴史の舞台で成り上がる。そうした意味では、ヘロルトもヒットラーも変わりない、とこの作品は語っているようだ。

 そしてヘロルトが繰り返す数々の蛮行は、ナチズムが持つ「ならず者」の本質に通じているようにも見える。それは、戦中の日本の軍国主義者たちが持ち合わせていたそれに通底するかもしれない。そう考えると、なかなか奥深い映画である。

 2017年、ドイツ、フランス、ポーランド合作。原題「Der Hauptmann」はズバリ「大尉」。監督は「RED レッド」のロベルト・シュベンケ。

 

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普通の日常にこもる悲喜こもごも~映画「希望の灯り」 [映画時評]

普通の日常にこもる悲喜こもごも~映画「希望の灯り」

 

 映画を観るとき、つい山あり谷ありのストーリーを期待してしまう。この「希望の灯り」には、そんなものはない。出てくるのは普通の人ばかりだし、男女のきわどい恋愛沙汰があるわけでもない。日常が淡々と描かれているだけだ。だからといって平板なわけではない。観るものを引き付ける何かがある。その感覚は、たとえばアキ・カウリスマキのようでもあり、小津安二郎のようでもある。

 旧東独ライプチヒ近郊にある大きなスーパー。一人の男が働き始める。無口で背中にはタトゥーが入っていた。在庫管理が、この男クリスティアン(フランツ・ロゴフツキ)に与えられた仕事である。フォークリフトの操作から覚えなければならなかった。飲料セクションのブルーノ(ペーター・クルト)に、一から教えてもらう。幸い、彼は人情味ある男だった。

 ある日、ブルーノは東独時代のことを話し始めた。スーパーは元々運送会社で、彼も長距離トラックの運転手だった。「あのころはいい時代だった」と回想するブルーノ。

 そのうち、菓子売り場のマリオン(サンドラ・フラー)と仲良くなった。彼女は所帯持ちだった。恋心を抱きつつも、クリスティアンにはどうすることもできなかった。そのうち勤務時間帯が変わり、マリオンは離れていった。荒廃した心を抱えてクリスティアンはかつての悪友との交友を再開、泥酔してしまう。

 見かねたブルーノは、クリスティアンを自宅に呼び、少年時代に悪事を重ね刑務所にいたことを聞きだす。しかし、ブルーノは「お前はいいやつだ」「みんなもそう思っている」と励ます。こうしてクリスティアンは、スーパーの仕事に戻っていく。

 そこへ、悲しい知らせが入った。ブルーノが自殺をしたのだ。

 ブルーノに代わって飲料セクションの責任者になったクリスティアンは、わずかな希望を胸に働き始める…。

 作品全体のトーンは、悲しみである。冷戦の終結、東西ドイツの統合、こうした歴史の歯車にほんろうされて人々は生きていかねばならない。しかし、どうにもならない過去を嘆くより、目の前にある日常を誠実に生きることで希望を見出す。そんな心象風景が描かれる。

 東独時代を「いい時代」ととらえ、いまを生きる希望を見いだせないブルーノ。不良少年から再起の道を歩むクリスティアン。夫の暴力に耐えながらも、瀟洒な住宅に住むマリオン。誰が勝者で誰が敗者か。そんなことも考えさせる人間の配置図。一見さりげなく、実は奥深い。

 2018年、ドイツ。原題は「In den Gangen(通路で)」。スーパーの通路で展開される普通の人たちの人生模様を描いた、ということだろう。味わいがある。

 

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「イラク開戦」に疑問を投げかけた少数者~映画「記者たち 衝撃と畏怖の真実」 [映画時評]

「イラク開戦」に疑問を投げかけた少数者~

映画「記者たち 衝撃と畏怖の真実」

 

 米国メディアといえば、ニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙、あるいはAP通信などが知られる。ナイト・リッダーはその中で、あまり知られていない存在だ。自らは「紙」を持たず、地方紙31社に記事を配信する通信社的な機能を持つ。地方紙の側は、APなど大手の通信社と比較しながら記事掲載を判断する。あくまでも編集権は掲載紙の側にある。

 イラク開戦の契機となったのは、9.11後にもたらされた亡命イラク人による誤った大量破壊兵器(生物化学兵器)製造情報(カーブボール)だった。これが核兵器製造疑惑に発展し、ブッシュ大統領が開戦を決断した。チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官らも世論の醸成に加担したことは知られるところである。

 ホワイトハウスはこの時、NYタイムズにウラン濃縮用アルミ管がイラク国内で見つかったとリーク、同紙がこの情報を掲載したため、一気に核兵器製造疑惑が広がった。Wポストなど有力紙も追随した。しかし、ナイト・リッダーだけは、情報の信ぴょう性を疑った。「真実かどうか。裏がとれなければ書かない」という基本姿勢を貫いたのだ。

 ワシントン支局に駐在するジョナサン・ランデー(ウッディ・ハレルソン)とウォーレン・ストロベル(ジェームズ・マースデン)の絶妙コンビで進められる取材は「大統領の陰謀」のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインを思わせる。この時の編集主幹ベン・ブラッドリーに当たるのが編集のボス、ジョン・ウォルコットで、なんと監督のロブ・ライナー自身が演じている。

 米国内でけっしてA級ではないメディアが四方からの批判にさらされながらもジャーナリズムの基本を守り、真実の報道に徹したイラク開戦の内幕を、高ぶることなく追ったドキュメンタリー風ドラマ。日本のメディアにこのようなことができるか、と自問してみると米国メディアの志の高さが伝わってくる。記者たちの熱意にもかかわらず米国世論の主流とはならなかったイラク大量破壊兵器疑惑への「異議」を、こうして映画化したことの意味は大きい。来日会見で「民主主義が機能するためにジャーナリズムは必要」と語ったロブ・ライナー監督の言葉が重い。

 2017年、米国。


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事件から半世紀、謎は謎のまま~映画「眠る村」 [映画時評]

事件から半世紀、謎は謎のまま~映画「眠る村」

 

 名張毒ぶどう酒事件を取り上げた東海テレビのドキュメンタリー映画。三重と奈良の県境にある集落、葛尾。1961年、ここで事件は起きた。村の懇親会(両県の最初の一文字をとって「三奈の会」)でぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡したのである。6日後、村の奥西勝が犯行を自白、逮捕された。

 しかし、奥西はその後、犯行を否認、津地裁は無罪判決を下した。名古屋高裁は一転、死刑判決。最高裁もこれを支持し、死刑が確定した。2005年、高裁で再審開始決定が出たが翌年、取り消された。奥西は2015年、八王子医療刑務所で死亡。死後も含め、10次にわたる再審開始請求が出たが、ついに再審の門は開かなかった。

 物証はほとんどない事件といわれた。そんな中で、いくつかの新証拠が出た。奥西はぶどう酒入りの瓶の王冠を歯で開けたと自供したが、その後の鑑定では奥西の歯型と違っていた。瓶の口の封冠紙は一度はがされ、製造時とは違う糊で貼られていたことも分かった。「農薬を会場で入れた」という自白内容を揺るがす材料だった。入れたとされた農薬の成分も、鑑定では検出されなかった。

 疑問はまだある。ぶどう酒の購入時刻である。当初、購入は午後2時過ぎとした証言は奥西の逮捕後、会が始まる直前の午後5時ごろに変わった。当初の証言通りだと約3時間、ぶどう酒は三奈会の会長宅に置かれたことになる。なぜ証言は変わったのか。

 謎は依然、謎のままである。

 そして最大の謎は、なぜ司法は後に奥西が否認した当初の自供にすがって死刑判決を出し、その後の新証拠に目もくれなかったか、である。

 「奥西しかいない」とつぶやく村人。無念の表情を浮かべる奥西の妹、美代子。重苦しい沈黙の底に眠る村、葛尾。しかし、ここで仲代達也のナレーションは、明らかに司法に向けられている。「眠る村」とは…。非科学的な自供にすがり、科学的な証拠に目をつぶる司法のことだ、と。
 2018年、ドキュメンタリーの王道を行く作品。


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天皇制の負の側面を描く~映画「金子文子と朴烈」 [映画時評]

天皇制の負の側面を描く~映画「金子文子と朴烈」

 

 取り調べ中の二人が仲良さそうに収まるという奇怪な写真で記憶に残る朴烈と金子文子。二人の出会いと別れを描いた韓国映画である。原題は「Anarchist from the Colony(植民地から来たアナキスト)」。「日陰から日向は見えるが、日向から日陰は見えない」という。この場合、抑圧された側からは抑圧する側の醜悪な姿が見えるものだ、と解することができるが、映画の出来は思ったよりマイルドだった。朴烈の思想に理解を示す日本人弁護士(布施辰治=山之内扶)や、権力の横暴ぶりに懸念を持つ判事(立松懐清=キム・ジュンハン)を配して、公正な視点を保つ努力が見えるからだ。

 朴烈(イ・ジェフン)は朝鮮人差別に耐えながら詩を書いている。そんな詩を読んで「この人しかいない」と思った文子(チェ・ヒソ)は、出会うなり同棲を申し出る。二人は、思想的な同志として暮らし始める。1923年のこと。9月1日、関東大震災に襲われた東京は、不穏な空気に包まれた。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」とのデマが飛び交い、自警団による虐殺が行われた。デマの発信源は内務相の水野錬太郎(キム・インウ)だった。朝鮮人虐殺への国際非難が予想される中、水野は天皇への暗殺計画があったとのフレームアップを企てる。標的に選ばれたのは朴烈だった。

 朴烈は天皇制打倒のため爆薬を手に入れようとしていたが、企ては未完に終わっていた。しかし、日本政府は容赦なく朴列を大逆罪に陥れようとしていた。文子も、「朴を一人で死なせない」と獄につながる覚悟を示した。

 震災直後の不穏な空気の中で、天皇の名のもとに強権が行使され、文子が、すべての権力の源に天皇制があると批判する。これらは、動かしがたい天皇制の負の側面であろう。一方で朴烈と、特に文子の豪胆で快活な権力への闘いぶりが印象的だ。文子を演じたチェ・ヒソは子供のころ、大阪で在日の経験を持つという。それもあってか、日本人を演じてなんの抵抗感もない。快演ぶりに拍手を送りたい。

 大逆罪で死刑判決の後、二人は恩赦で無期に減刑されるが、文子は獄死、朴烈は生きのび、戦後釈放された。戦後の朴烈は反共ナショナリストに転向、さらに容共へと再転向するが、その軌跡をめぐっては毀誉褒貶がある。戦時中は天皇制、植民地主義、帝国主義といった明確な闘いの対象があったが、戦後はそれが見えなくなった、ということか。それとも、ナショナリストという太い線だけが生きざまの導線であったということか。映画では触れていないが、気になるところである。

 

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天皇の代替わり騒動をどう見るか~三酔人風流奇譚 [社会時評]

天皇の代替わり騒動をどう見るか~三酔人風流奇譚

 

「天皇」というバーチャルな存在

松太郎)ふう。5月4日の一般参賀をもって一連の天皇代替わり騒動はひとまず落ち着くのだろうか。

竹次郎)4月1日の新元号発表から数えれば、1カ月余の騒動だった。

梅三郎)いったい、何だったのだろう。

松)年月日という時間の概念があり、さらにそこに世界共通の西暦というものがあるのだからわざわざ「元号」などという屋上屋を設ける必要はない。

竹)明治から昭和にかけては欽定憲法があり、天皇が統帥権を持った時代だったので、元号が一定の重さを持ったという事実はある。しかし、象徴天皇制になって平成に入ると元号は一気に軽くなった。

梅)例えば、昭和の時代の史実は昭和年で覚えていることがよくある。日米開戦の日、あるいは敗戦の日などは代表例だ。それらは、天皇制の負の部分を表す史実だから。平成に起きたことで、平成年で覚えていることはほぼない。

松)それなのに世の中は「新しい時代が始まった」などと浮かれる。

竹)天皇は、憲法で書かれているとおり象徴的存在、つまり抽象的な存在なのだから、新時代と旧時代を分けるような力もないし、そういう存在であってはならない。

松)元号に関しては、若い層の浮かれぶりが目立つ。

梅)天皇制の負の部分を知らないこともあると思う。今の天皇は、いわばバーチャルな存在であって実体を持たない。ある程度以上の年齢層だとそこでバーチャルとリアルを区別しないと気が済まないが、若い層はバーチャルとリアルが入り乱れることに抵抗がないのでは。それが、天皇制への無頓着な反応にもあらわれている。

竹)ネット社会で鍛えられているから。

梅)天皇? 夢があっていいんじゃない? みたいなノリだ。

松)それでいいのかねえ。三上太一郎「日本の近代とは何であったか」で天皇が神格化されたのは明治以降の近代であって、国民国家建設に不可欠な官僚制を整備するための精神的なバックボーンとしての「神」の存在が求められたからだ、と説く。欧米にはキリスト教という公共社会の精神的バックボーンがあったが、日本にはそれに類似するものがなかったので、無理やり天皇を「神」に祭り上げた、という。そのために国民は「現人神」の名のもとに徴兵され、突撃させられた。そういう歴史は無視できない。

 

底抜けメディアの「同調圧力」

竹)それにしても、この間のメディアの底抜けぶりはひどかった。

松)憲法記念日の5月3日、テレビキャスターの金平茂紀さんが広島市内で講演した。「崖っぷちの民主主義 改元・三権分立・沖縄・マスメディア」と題して。やはり、改元問題の垂れ流し的な報道ぶりに違和感を持っていた。ただ、金平さん自身そのメディアの内側にいる身なので忸怩たる思いもあるようで、「私は少数派」と言っていた。事前の宣伝では「抗(あらが)うニュースキャスター」と紹介されていたが、いまどきこんな形容詞がつけられるのは、この人ぐらいだ。

  

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竹)骨のありそうなキャスターが一斉にやめていった(やめさせられた?)時期があったから。その結果が、今のメディアの惨状だ。

梅)ネットを見ていると5月1日、東京で天皇制に反対するデモがあったらしいが、新聞、テレビとも報じなかった。広島市内でも4月29日に小規模だが天皇制に異議を唱える集会が開かれた。新聞、テレビとも全く報じなかった。

松)少数でも、こうした声があることはきちんと報じるのがメディアの役割ではないか。それなのに、テレビは「列島はお祝い一色」と連呼する。そうすれば、天皇制や元号に違和感を持ったり、批判的な考えを持ったりする人たちの口を封じることにつながる。いわゆる「同調圧力」だ。かつて、戦争を止められなかった一つの要因として批判されてきたこと。同じことを今のメディアはしている。

竹)そこまで行かなくても、今回の代替わりは、天皇自身が高齢で務めを果たせなくなったことと皇室全体の高齢化が要因としてあった。それなら、天皇制を廃止するというのも一つの選択肢として考えられるべきだ。そうした選択肢を残していくためにも、天皇制廃止を求める声があることは、事実としてどこかに残しておくべきだろう。たとえ少数であっても。

 

ユデガエル状態の国民意識

梅)元号が変わることで時代が変わるわけでもなく、文字通りバーチャルな世界で代替わりが行われたが、世の中ではこれに合わせて時代の回顧が行われた。そして「平成は戦争もなくいい時代だった」という感慨があちこちで示された。

松)本当にそうだろうか。世界で戦禍は収まってはいない。アフガン、イラク、シリア、南米ベネズエラ…。ヨーロッパは極右勢力の台頭で揺れている。

竹)「平成」という時代があったとすれば、それは米ソ冷戦が終結した後の30年だった。そこで日本はポスト冷戦の時代へ向けた針路を示すことはできなかった。それが沖縄問題の混迷を招き、北東アジアでの存在感のなさにもつながっている。一方で少子高齢化は進んだが、それに見合う経済システムを作ることもできなかった。30年を回顧すれば「漂流の時代」としか呼べない。

梅)北方領土問題も、一時の勢いはなく宙づり状態だ。そう考えると、平成は平和でいい時代だったというのは一国平和主義、もしくはユデガエル状態の国民意識を表している。

松)よく言われることだが、一人当たりGDPは、30年前は世界一だったが今は20位以下。これは、もう一度世界一に戻すべきだという議論ではなく、少子高齢化社会に合わせた違う経済システムや経済意識を求めるべきだ、と考えたほうがいい。それがなされないから、日本は漂流している。

竹)いつまでも成長戦略一辺倒ではないはずだ。

梅)それではこの辺で。きょうも明るい話にはなりませんでしたね。


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「いま」を読むための絶好のカタログ~濫読日記 [濫読日記]

「いま」を読むための絶好のカタログ~濫読日記

 

「日本の同時代小説」(斎藤美奈子著)

 

 気がつけば、「いま」をテーマにした小説を読むことが少なくなった。評論、ノンフィクションは手にすることはあっても、小説から足が遠のいていた。なぜだろう。それを考えるためにも「日本の同時代小説」を手にした。齊藤美奈子は私と7歳違い、一回りとはいかなくとも半回りぐらい後の世代である。その著者が冒頭、近現代小説をカバーする解説書は、1960年代後半で途切れている、と書く。それが、この書を書く動機でもあったという。

 なぜこの50年間、同時代小説をテーマにした解説書が書かれなかったか。

 思えば、70年代末ごろから日本では「ポストモダン」がもてはやされた。文学も例外ではなく、近代のルーツを問わない作風がもてはやされた。現代小説の俯瞰作業の停滞には、こうしたことも影響しているかもしれない。しかし、そういってしまえば元も子もないので、斎藤は地道に近代と現代との接点を追っている。

 その際のカギ、もしくは通路となるのは「私小説」と「プロレタリア文学」である。いうまでもなく、日本の近代文学を支えた二大ジャンルである。斎藤は「私小説」について、ヘタレ知識人のたわけ自慢、貧乏自慢と痛快に切って捨て、プロ文については、肝心の労働現場が描かれていない、とする。そしてこれらは手を変え品を変え、脈々と引き継がれた、という。

 80年代を飾ったのは、青春小説の爆発であった。この系譜も、実は60年代からあった。まず「されどわれらが日々―-」(柴田翔)と「赤頭巾ちゃん気をつけて」(庄司薫)である。二作に共通するのは、知識人予備軍の悶々たる思いである。70年代にはこれらへのアンチテーゼが登場する。「青春の門・筑豊編」(五木寛之)や「青葉繁れる」(井上ひさし)。80年代には、大衆消費社会の爛熟を反映した作品が象徴的な存在になった。田中康夫の「なんとなくクリスタル」である。島田雅彦の「優しいサヨクのための嬉遊曲」と合わせ、ポストモダンの気分が醸し出された。

 2010年代は3.11を経て「ディストピアの時代」だった。こうした風潮を受けて、ポストモダン風の労働小説なるものが登場した。「工場」(小山田浩子)や「コンビニ人間」(村田沙耶香)である。かつて労働現場を書くことがなかったプロ文が、労働現場を書くプロ文としてこの時代に開花したともいえる。ほかにも、若者に過酷な労働を強いるブラック企業の存在が、数々のプロ文作品(2000年代以降はプレカリアート=不安定被雇用者=文学)を生み出した。

 リリー・フランキー「東京タワー――オカンとボクと、時々、オトン」(2005年)はベストセラーになった。上京小説であり母への鎮魂小説、涙と感動の物語。貧困経験を絡めた、これもまた私小説であろう。私小説の流れは途切れないのである。

 というわけで、この書は同時代小説の解説本というよりカタログ、もう少し上品に言えば針路図といったものである。そこに、著者独特の率直な言い回しがピリッとした味付けになっている。例えば渡辺淳一「失楽園」について「美食三昧、性交三昧。バブル時代を懐かしむかのような小説」。あるいは見延典子「もう頬づえはつかない」や中沢けい「海を感じるとき」が売れたのは「読者のスケベ心を刺激したから」といった分かりやすい結論にそれを見ることができる。

 岩波新書、880円。


日本の同時代小説 (岩波新書)

日本の同時代小説 (岩波新書)

  • 作者: 斎藤 美奈子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/11/20
  • メディア: 新書

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