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「新元号」という名のカラ騒ぎ~社会時評 [社会時評]

「新元号」という名のカラ騒ぎ~社会時評

 

 マスコミの過熱ぶり

 新元号「令和」が決まった4月1日、日本列島は異様な熱気に包まれた。テレビは「発表まであと○時間○分○秒」とテロップを流し(菅義偉官房長官の会見自体が11分遅れたため、全く意味はなかったが)、新聞各紙が配った号外にはアリのように人が群がった。

 翌2日の朝刊各紙も、当然のように1面の横幅いっぱいを使ってこのニュースを報じた。礼賛の記事でほぼ埋められ、批判的な視点のコメントを発していたのは内田樹氏(思想家)と高村薫さん(作家)ぐらいだった。内田氏は朝日、毎日で(天皇主義者なので元号自体への批判はなく)、官邸による政治ショー化に焦点を当てていた。毎日の高村さんがより辛辣だった。新元号が万葉集に由来する理由が情緒的である、「令和」という組み合わせが、国民を律して和を図る、といった意味に取れて違和感を覚える、とした。

 テレビ各局も前日に続いて「新元号決定の内幕」をかなりの時間報じた。礼賛のコメントがあふれる中、テレビ朝日「モーニングショー」で本郷和人・東京大史料編纂所教授の辛口コメントが目立った。

 洪水のように情報が流される中で、目についた批判的な視点はこれぐらいだった。

 

 「新元号」をどう見るか

 本郷教授や高村さんが指摘するように、使われた「令」は、「よい」という意味より命令するという意味合いが強い。そのあたりを、2日付朝日の3面が伝えている。令の上半分、人の下に横棒は人を集めるの意。その下は人がひざまずいた形を表している。つまり、人を集め指示を出す光景を意味している。この行為が整然と行われることを指して「よい」とか「好ましい」の意味が派生している。どちらの意味も支配者目線である。これに、和やかという言葉をつければどうなるか。整然と支配が行われ民は和やかである、という意味になる。まさしく安倍晋三政権の体質をあらわしているといえよう。

 普通に見れば、以上のような受け止めが自然に思われる。しかし、こうした指摘は一部を除いてほとんどなかった。

 

 官邸による政治ショー化

 新元号を決めるにあたって安倍官邸は徹底的な情報統制を行った。事前の審議過程で漏れないよう緘口令を敷き、最終局面では携帯が使えないよう妨害電波まで流したとされる。なぜそこまでする必要があったのだろう。新元号が事前に漏れたぐらいでなんの不利益が生じるのか。考えられるのは、徹底的な情報統制をすることで決定過程を厳粛に見せることと、そのことで官邸の存在感を高めることぐらいだ。計算どおり、この政治ショーはマスコミの注目を浴びた。これは、内田氏の言うとおりである。

 官房長官会見に続いて安倍首相会見があった。そこでは「悠久の歴史と誇り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄をしっかりと次の世代へと引き継いでいく」ことが強調された。格差と貧困にあえぐ日本の現状には目をふさぎ、万葉の美意識にたって悠久の日本を訴える。まるで戦中の日本浪漫派・保田與重郎の再来であった(もっとも、引用文が中国古典の「写し」であることが明らかになったが)。あるいは「現代版教育勅語」のようであった。果たして一国の行政の長がここまでやる必要があるのか。しかし、こうした危うさを指摘する声はどこにもなかった。

 

 皇民化・臣民化

 たかだか、元号ぐらいのことでなぜ日本列島は沸き立ったのか。そこに一種のアイデンティティーを求めたからではないか。テレビのコメンテーターは感極まって「歴史の変わり目に立ち会った」と述べた。しかし、間違ってはいけない。天皇制があるから元号は存在する。元号が変わることで味わう一体感とはあくまで皇民、臣民としての一体感であり、国民の一体感ではない。

 韓国の国会議長が慰安婦問題で「天皇謝罪」を求めたところ、官房長官は「無礼だ」と切り捨てた。そうだろうか。天皇はあくまで日本の天皇であってアジアの天皇ではない。韓国から見れば、官房長官の発言は、かつての植民地時代にあった日本の政治システムと価値観の押し付けと同じとしか見えないのではないか。

 新元号をめぐる日本列島のカラ騒ぎ、かつて天皇の軍隊によって侵略された経験を持つアジア各国にはどう映るのか。その報道はまだない。

 

 そうじていうなら、天皇の代替わりに乗じた安倍政権の政治ショー化と、それを無批判に報道するマスコミの無能さが目立った。それがこの2日間である。あるいは、「時の支配者」として安倍首相が現れ、それをマスコミ、大衆がこぞって礼賛するという構図にも見える。同時に、今回の騒ぎでは若者層の「没頭ぶり」が目立った。60歳代以上には天皇制の持つ負の側面が多少なりとも見えている。しかし、若い層になればなるほど、そこは見えていない。かつて戦争に至った過程を見ると、天皇自身の問題というより(天皇は無答責であり権力のブラックホールである)、それを取り巻く国民意識にこそ問題があるように思う。そのことはきちんと指摘されなければならないのではないか。

 


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