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鶴見俊輔という人間万華鏡~濫読日記 [濫読日記]

鶴見俊輔という人間万華鏡~濫読日記

 

「鶴見俊輔伝」(黒川創著)

 

 鶴見俊輔、と聞いて何を思い浮かべるか。哲学者。思想家。べ平連をつくった市民運動家。「思想の科学」を発刊し続けた編集者。とっさにつづってもこれだけある。そして、後藤新平を母方の祖父に持つ家系。父も保守系の衆院議員であったが、遠縁には獄中転向で知られた佐野学もいた。姉の和子は米国留学が長い社会学者であった。自身も米国ハーバード大に学んだ。

 一筋縄ではとらえきれない人生である。したがって、どこかに軸足を置かざるを得ない。

 祖父や父との葛藤。そこからくる10代の不良時代。若くして女性を知り、複数の中学を放校処分となり、日本での学歴は小学校卒という。一念発起して米国にわたり、ハーバードで猛勉強。しかし、日米間で戦争が起き、やむなく日米交換船で帰国。「日本は負ける。その時に日本にいたほうがいいと思った」と、鶴見は書き残しているが、この書でも、その言葉は記されている。

 米国留学中に日米間で戦争が起きた。日本に戻るか、米国に残るか。葛藤の末に帰国した鶴見の体験は、自身の戦後思想に深く濃い影を落とした。一時は戦場に赴いたものの、どちらかといえば「戦争」を外側から見つめていた、といえる(この時の戦場体験が「殺すな」という思想を生んだ。大義のない戦争で人を殺すことができるのか、という問題である)。

 こうした万華鏡のような人生を追う中で印象に残るのは、10代の不良時代の心情は比較的薄めに叙述されていること。日米交換船の体験は厚めに書かれていること。そして「思想の科学」をめぐる編集者としての活動ぶりと思考も、かなり多角的に書かれていること、であろうか。なお、書の中で「私事にわたるが」と断って著者が明かしたところでは、著者・黒川は京都ベ平連の事務局長の息子であり(したがって小さいころデモにも参加経験を持つ)、「思想の科学」編集部にも出入りしていた。なお、鶴見自身が人生を振り返ったものとして、上野千鶴子、小熊英二との鼎談(インタビュー?)による「戦争が遺したもの」(新曜社)がある。読み比べると興味深い。

 後藤新平を頂点とする家系に言及するくだりで特徴的なのは、当時の時代状況の中で鶴見家がどんな存在であったか、という視点が貫かれていることだろう。1909年、ハルビン駅での伊藤博文暗殺事件まで登場する。後藤新平がセットした日ロ首脳会談に出席するため、伊藤がハルビンに出向いた際の出来事だったからだ。なお「俊輔」は伊藤の幼時の名前で、政治家として大成するように、と父が願いを込めたとされる(そのことが、俊輔には心情的な圧力となった)。

 俊輔は1922年、祐輔と愛子のもとで生まれた。愛子は後藤新平の娘、祐輔は女婿であった。24年に祐輔は若手官僚から転身、衆院選に出馬するが、この時は落選した。こうした政治一家で俊輔は育った。しかしこうした環境は、必ずしも直線的な政治志向を生まず、むしろ屈折を俊輔の心中に育てた。

 鶴見は米国留学中、当局の審問に「アナキスト」と答えた。帰国して戦後は「プラグマチスト」を名乗った。こうした精神的土壌、「戦争」にずっぽりとはまらなかった人生の軌跡も、「思想の科学」に濃密に影を落とした。創刊したころ、民主主義科学者協会(民科)などの共産党系との軋轢、マルクス主義者ではあるが共産党には所属しなかった武谷三男の「思想の科学」擁護論が興味深い。

 1946年に発刊した「思想の科学」は1996年終刊となった。事務所を転々とし、出版社を変え、数次にわたって休刊、再刊を繰り返した。採算を度外視した硬派の雑誌が半世紀続いた。「思想の科学」の歴史の追い方に比べ、「声なき声の会」の発会の経緯、べ平連誕生のいきさつ、脱走米兵をかくまい、国外逃亡させたことなどの記述、つまり市民運動家としての鶴見俊輔の肖像画は、若干薄目である。しかし、500㌻を超す大部を前に、そうした不満を述べることは適当ではなかろう。2015年、93歳で没した人間の多様さを盛り込めたという一点だけで、「黒川創よ、ご苦労さん」といいたい。

 新潮社、2900円(税別)。


鶴見俊輔伝

鶴見俊輔伝

  • 作者: 黒川 創
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/11/30
  • メディア: 単行本

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