優しさと孤独がにじむ一冊~濫読日記 [濫読日記]
優しさと孤独がにじむ一冊~濫読日記
「『それでもなお』の文学」(川本三郎著)
冒頭、著者はこう書く。
――文学とは、人が生きる悲しみ、はかなさを語るものではないか。それも大きな言葉ではなく小さな言葉を重ねることによって。
全体を貫くトーンが、表されている。そのうえで、三つの章に分かれる。第1章「痛みとともに歩む者」は、けっして時代の主流を歩むことのなかった人々へ向けられたまなざしが語られる。坂口安吾、林芙美子ら古典もあれば、今の時代を映した作品もある。
「時代の主流ではない」という意味では「『旧幕もの』の魅力」がある。この中で、平岡敏夫氏の「明治文学は佐幕派の文学だった」という言葉を紹介する。いわれてみれば確かにそうで、夏目漱石、北村透谷、山路愛山…といずれも出自は佐幕派である。ここにも、冒頭の文学観に通じるものがある。
このほか、ホームレス群像を描いた木村友祐「野良ビトたちの燃え上がる肖像」や、いじめをめぐって交差する人間たちを冷静な視線でとらえた奥田英明「沈黙の町で」が語られる。「沈黙の…」では、ある教師のこんな言葉が記憶に残る。
――(今は携帯電話とネットがあるから)昔ならクラスで発言権も与えられなかった地味な子たちが、自由にものを言えるようになっちゃって、彼らは生身の人間を充分経験していないから、死ねだの、ゴミだの、ひどい言葉を平気で発信するわけよ。
片隅で生きている人間たちの痛みや悲しみが、ときに他人を傷つけるかたちで表象されるのだ。
乙川優三郎「五年の梅」は「やり直しの物語」としたうえで、最後にこう書く。
――控えめに隅のほうに咲いている花が、なんとか生き直そうとしている人間たちを静かに祝福している。ここにも乙川優三郎の優しさがある。
第2章「女たちの肖像」は、小説に登場したさまざまな女性像を取り上げる。第3章「孤独と自由を生きる」は老境と断念の中の孤独を描いた作品が取り上げられている。
川本は、作家が二字熟語でおさまらない話を書こうとしているのに、それを要約してありきたりの二字熟語で語ってしまうところに評論の難しさ、空しさがある、と語るが、そのことを承知でいえば、目の前にあるのは著者の優しさと孤独とがにじむ一冊である。
春秋社、2000円(税別)。