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戦後思想が避けてきたものは何か~濫読日記 [濫読日記]

戦後思想が避けてきたものは何か~濫読日記

 

「丸山真男の憂鬱」(橋爪大三郎著)

 

 タイトルに「丸山真男」の名前を入れたのはともかく、次に「の憂鬱」としたのはどうだったか。著者(橋爪)も若干その辺りが気にはなったようで、「あとがき」で少し触れている。この書を書き始める前から頭をめぐっていたタイトルだという。しかし、いささか文学的なタイトル(著者は「気分」の意味になる、という批判の声を紹介している)には、当然ながら異論もあろう。そのうえで著者は「最初の直感を信じる」と、押し切っている。

 中島岳志が、安田善次郎を刺殺した朝日平吾の心象を追った書のタイトルに「…の鬱屈」と入れたのと、どこか似ている。中島はこのタイトルについて「政治の力によって、どうにかなるような問題ではないだろう。むしろ、(略)政治的に埋め合わせをしようとすることには、大きな危険性が伴う」と「あとがき」で述べた。橋爪が「憂鬱」にこだわったのは、アカデミズムとか政治学とか、一定の土俵を設けたくなかったためではないか、と推測する。

 橋爪は1948年生まれ。72年に東京大文学部を卒業しているから、全共闘運動さなかに東大キャンパスにいた。全共闘の学生らが、戦後民主主義の象徴的存在と見られていた丸山真男を批判、法学部研究室を封鎖した「事件」は当時、ニュースになった。橋爪もこのとき「現場」にいたと書の中で明かしている(橋爪がどの程度全共闘運動とかかわったのかは知らない)。そのうえで、丸山の抱えた憂鬱の根源は何か、それは、丸山を批判した全共闘の側にもあったのではないか。恣意的に「いいもの」と「悪いもの」の線引きが行われ、その作業は今も続けられているのではないか。そこを解明しないと、我々は丸山と同じ「憂鬱」という病にかかってしまうのではないか…。

 どうやらここに著者(橋爪)の丸山論の出発点があり、この書を書いた「動機」があった、といえそうだ。では、丸山が恣意的に引いた線引きとは何か。橋爪が取り上げたのは、荻生徂徠であり、山崎闇斎(と闇斎学派)だった。丸山は徂徠を江戸期における近代的政治意識の萌芽と見、一方で山崎闇斎(と闇斎学派)を幕末の尊王攘夷論の源流とする見方については「一々引用の煩に堪えない」とした。論ずるに足らずということである。しかし、山崎闇斎から浅見絅斎「靖献遺言」に至る流れは戦前の皇国史観の柱をなすものであった。実は、戦後思想の旗手となった丸山がこうした形で戦前の皇国史観を切って捨てたところに、戦後思想の何たるかがよく表れていたのであるが、ともかく丸山は闇斎や絅斎を「引用に堪えない」としたのである。

 橋爪はここで、こうした丸山の仕事とは対極にあった山本七平「現人神の創作者たち」を取り上げる(この書は、アカデミズムの世界では評価されていないという)。山本は、闇斎や浅見絅斎の仕事を丹念に追い、明治の尊王攘夷論、昭和の皇国史観がどのように形成されたかを解き明かしたのである。

 橋爪の書では、江戸期の朱子学や儒学がどのようなものであったかも紹介されている。中国での解釈と日本のそれとが必ずしも一致しないこと、それが日本と中国の社会制度の違いなどから避けられなかったことが詳しく論じられている。その辺りになると、読むのは楽しくはない、というよりかなりの忍耐を必要とする。

 ただ、そうした中で見えてくるのは、丸山の「日本政治思想史研究」が戦前の皇国史観の息の根を止めるものにはならず、むしろ闇のかなたに押しやってしまったこと、である。とりもなおさずそれは、戦後思想が、戦前の思想を無意識の底流に抱え込んでしまったこと、言い換えれば底の浅さを宿命的に持ってしまったことを意味する【注】。

 橋爪は明言してはいないが、言いたかったことはおそらくそういうことに違いない。

 講談社選書メチエ1800円(税別)。

 

【注】「日本政治思想史研究」が書かれたのは戦時中であり、皇国史観に真っ向から対立するものにならなかった責任を丸山が負う必要はないだろう。しかし、戦後にあらためて自分の仕事を見直すことはできたはずである。橋爪もそこに言及している。丸山が、戦時中の自らの仕事を批判的に修正しなかったことが、日本の戦後思想に与えた影響は大きい。


丸山眞男の憂鬱 (講談社選書メチエ)

丸山眞男の憂鬱 (講談社選書メチエ)

  • 作者: 橋爪 大三郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/09/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

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