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優しさと孤独がにじむ一冊~濫読日記 [濫読日記]

優しさと孤独がにじむ一冊~濫読日記

 

「『それでもなお』の文学」(川本三郎著)

 

 冒頭、著者はこう書く。

 ――文学とは、人が生きる悲しみ、はかなさを語るものではないか。それも大きな言葉ではなく小さな言葉を重ねることによって。

 全体を貫くトーンが、表されている。そのうえで、三つの章に分かれる。第1章「痛みとともに歩む者」は、けっして時代の主流を歩むことのなかった人々へ向けられたまなざしが語られる。坂口安吾、林芙美子ら古典もあれば、今の時代を映した作品もある。

 「時代の主流ではない」という意味では「『旧幕もの』の魅力」がある。この中で、平岡敏夫氏の「明治文学は佐幕派の文学だった」という言葉を紹介する。いわれてみれば確かにそうで、夏目漱石、北村透谷、山路愛山…といずれも出自は佐幕派である。ここにも、冒頭の文学観に通じるものがある。

 このほか、ホームレス群像を描いた木村友祐「野良ビトたちの燃え上がる肖像」や、いじめをめぐって交差する人間たちを冷静な視線でとらえた奥田英明「沈黙の町で」が語られる。「沈黙の…」では、ある教師のこんな言葉が記憶に残る。

 ――(今は携帯電話とネットがあるから)昔ならクラスで発言権も与えられなかった地味な子たちが、自由にものを言えるようになっちゃって、彼らは生身の人間を充分経験していないから、死ねだの、ゴミだの、ひどい言葉を平気で発信するわけよ。

 片隅で生きている人間たちの痛みや悲しみが、ときに他人を傷つけるかたちで表象されるのだ。

 乙川優三郎「五年の梅」は「やり直しの物語」としたうえで、最後にこう書く。

 ――控えめに隅のほうに咲いている花が、なんとか生き直そうとしている人間たちを静かに祝福している。ここにも乙川優三郎の優しさがある。

 第2章「女たちの肖像」は、小説に登場したさまざまな女性像を取り上げる。第3章「孤独と自由を生きる」は老境と断念の中の孤独を描いた作品が取り上げられている。

 川本は、作家が二字熟語でおさまらない話を書こうとしているのに、それを要約してありきたりの二字熟語で語ってしまうところに評論の難しさ、空しさがある、と語るが、そのことを承知でいえば、目の前にあるのは著者の優しさと孤独とがにじむ一冊である。

 春秋社、2000円(税別)。


「それでもなお」の文学

「それでもなお」の文学

  • 作者: 川本 三郎
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2018/07/11
  • メディア: 単行本

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貴乃花は西郷隆盛か~社会時評 [社会時評]

貴乃花は西郷隆盛か~社会時評

 

内部告発の権利さえ無視する相撲協会

A)貴乃花が突然、各界から引退した。なぜこういう事態になったか、例によって貴乃花、相撲協会の主張がまったく違っている。貴乃花は、日馬富士暴行事件での協会の対応をめぐって内閣府に出した告発状が事実無根だったと認めるよう協会から圧力があったと主張、のめないので引退を選んだと。背景には7月の理事会で各部屋は必ず一門に入るよう申し合わせがあり、告発状の否定は一門に入るための交換条件だったとも主張している。

B)相撲協会は貴乃花の主張を全面否定した。告発状を否定するよう圧力もかけていないし、一門に入らない部屋の扱いは今後、理事会で協議する予定だったといっている。

C)一門に入るよう申し合わせた背景は何か。

B)補助金の流れを明確にするためと、ガバナンスを強化するためだったと協会はいっていた。

C)すべての部屋が一門に入れば補助金の流れは透明化できるのか。よく分からない理屈だ。ガバナンス強化のためというのもにわかに理解できない。

A)一門とは、いわば派閥のようなもの。私的集団ができることで、カネの流れや統制が強まるとは思えない。先ごろあった自民党総裁選でも、国会議員は派閥の締め付けによって投票した。その結果、国民の意思とはかけ離れた結果が生じた。派閥の力学とはそんなふうに働く。一門加入の義務付けは、透明化を目指す組織改革とは逆方向を向いている気がする。

B)貴乃花と協会の言い分がかけ離れている以上、真相はにわかに判断しにくい。細かいことはさておき、協会側の発言で思うのは、優勝回数22回という横綱に対して、あまりにも尊厳を重んじる姿勢がないということだ。土俵上の実績に対するリスペクトがなくて、相撲協会の存在理由はどこにあるのだろう。

C)一門加入をきちんと文書化せず口頭での申し合わせにとどめ、しかも貴乃花には(貴乃花の主張通りだとすれば)9月中旬になって伝わったという。そうだとすれば、貴乃花締め出し工作と受け取るのが普通だ。

A)告発状は事実無根だと認めるよう、圧力はあったと思うか。

C)どの段階でかは分からないが、一門に入るためには、告発状はウソでした、といっといたほうがいいよ、ぐらいの話はあっただろう。協会は絶対にそこは認めないだろうけど。

B)内閣府への告発状は、いわば内部告発だった。今の社会では、内部告発者はきちんと公益通報者保護法によって保護される仕組みになっている。貴乃花が告発状を取り下げたのは自分の弟子が暴力事件を起こしたためだが、内部告発者としての人権はきちんと守られるべきだ。

 

尋常ならざる同調圧力の世界

A)全体を俯瞰すると、どうも日本的ないじめの構造に見えて仕方がない。

B)相撲協会の中でどんな議論が行われているのか、まったく聞こえてこない。これは、日馬富士の暴行事件のときもそうだった。協会内の人の顔と言説が見えない。これは異常なことだ。これに対して貴乃花は異分子扱いだ。個別の顔が見えない不気味な集団が異分子を排除する。近代日本で延々と繰り返されてきた構図だ。

C)鴻上尚史氏が「不死身の特攻兵」であぶりだした「尋常ならざる同調圧力」の世界がここにもある、ということだろう。

B)少し視点を変えて言うと、貴乃花は西郷隆盛に似ている。尊王攘夷から尊王開国へと日和見的な修正主義に走った維新政府に対して、西郷は筋を曲げず、負け戦を承知の西南戦争で散った。

A)西郷は征韓論者だったし、吉田松陰もアジア出兵をにらんだ軍国主義を視野に入れていた。明治維新のイデオローグたちは少なからず、こうした側面を持つ。それがのちのち、アジア・太平洋戦争という局面を招いた、ともいえる。

B)話が広がりすぎた。西郷は勝海舟との直談判で江戸城無血開城を成し遂げた。柔軟な戦略家なのか、それとも強硬な原理主義者なのか…。実像が見えないところに、国民的人気の所以があるように思う。貴乃花と似ている。

 

日本全体を覆う不気味な空気

A)貴乃花に対して、組織人としての資質がないとか、大人の対応でないとか、聞くに堪えない批判が相撲協会から出ている。そんなイメージを作りたいのだろうが、逆に、相撲協会の器量のなさにつながっているように思う。

B)たしかに。貴乃花のような人間がいてもいいじゃないか、とどうして言えないのだろう。それも、一人として。その辺は組織として不気味だ。

C)しかし、これは相撲協会だけのことではない。先日の自民党総裁選だって、石破茂・元幹事長に対する「排除の論理」が随分働いた。選挙に立つだけで、異常なことだった。前回総選挙の秋葉原演説では「安倍やめろ」コールに対して「こんな人たちに負けるわけにいかないんです」と応じた安倍晋三首相の人間的な狭量さが目立った。今回は、公道であるにもかかわらず選挙カーの周囲を支持者で固めたらしいが。

A)現政権になって、メディアに対する露骨な介入も目立つ。これも、批判は許さない、という了見の狭さがなせる業だ。

B)石破さんが一級の政治家とは思わないが、テレビでの一連の討論を見ていると、石破さんがとても優れた政治家に見えた。それだけ安倍という政治家の品性がないということだろう。

B)国籍の違う人たちや沖縄の人たちに対する根拠のないヘイトスピーチといい、杉田水脈衆院議員のLGBT差別論文を掲載、擁護した「新潮45」といい、異分子排除の動きが果てしなく続く。政権、自民党や相撲協会の動きはこれらとも同質の根を持っている。日本全体が不気味化している。

C)鴻上さんが描いた時代のようにならなければいいが。

 


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「正義」を揺るがす二人の過去~映画「判決、ふたつの希望」 [映画時評]

「正義」を揺るがす二人の過去~

映画「判決、ふたつの希望」

 

 ヨルダンの首都ベイルート。工事現場の監督ヤーセル・サラーメ(カメル・エル・バシャ)は、ささいなことから近くの住民トニー・ハンナ(アデル・カラム)とトラブルになり「このクズ野郎」とののしってしまう。建築会社の社長は問題がこじれるのを恐れ、ヤーセルに謝罪に行くよう促す。ところがその場でトニーは「シャロンに抹殺されればよかった」と悪態をついてしまう。

 ヤーセルはパレスチナ難民、トニーはレバノンのキリスト教右派政党マロン派の熱心な支持者だった。シャロンはイスラエル国防相として1982年にレバノンからPLOを撤退させ、親イスラエル政権を作った当事者。パレスチナ難民にとっては最大の侮辱的言辞であった。ヤーセルはトニーを殴りつけ、肋骨2本を折る重傷を負わせる。

 トニーは法廷で争うが、ヤーセルはこの時の侮辱的な言葉を明かさず(プライドが許さなかったのだ)、いったんは証拠不十分との判決が下る。控訴審では、ヤーセルの側の女性弁護士ナディーン・ワハビーとトニーの側のワジュディー・ワハビーが激しく対立(二人の弁護士は親子関係)。この中でヤーセルに浴びせられた侮辱の言葉が明らかになった。傍聴席だけでなく、市民を巻き込んだ対立と悪罵の応酬が繰り広げられ、ついには大統領が仲裁に乗り出す。ほんのささいなケンカが、国を二分する騒動になった。

 ここから、法廷劇は別のステージに移る。ワジュディーが、トニーの出身地がダラームであることを突き止めたのだ。1976年、ムスリム系の武装組織がマロン派の住民を襲い500人を虐殺するという事件が起きた地である。

 二人の男の何気ないいさかいの背後にある、抜き差しならない過去。正義とか善意とかが、なんと薄っぺらに見えることか。裁判長はどんな判決を下すのか…。いずれにしても、判決は下る。しかし、二人の男の間にはなにかが通じ合う。

 原題はそのものずばり「THE INSULT(侮辱)」。邦題ではこれを「ふたつの希望」と言い換えた。一つは、どうにもならない過去を引きずりながら互いの痛みを知り、どこかで共感しあう二人の姿に対して。もう一つはなんだろう。ぎりぎりのところで理性を失わなかった法廷に対して、か。

 2018年、レバノン、フランス合作。レバノン出身のジアド・ドゥエイリ監督が自身の体験に基づいて作ったという。そのせいもあってか、ぐいぐい引き込む手法が魅力的だ。


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「集団我」の境地に陥らない冷静さこそ必要 [濫読日記]

「集団我」の境地に陥らない冷静さこそ必要

 

「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(鴻上尚史著)

 

 アジア・太平洋戦争末期の戦艦「大和」の沖縄「特攻」出撃について、艦の名付け親である昭和天皇は戦後、側近に「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と語ったという(注1)。戦場でのいわゆる特攻の始まりは、19441025日の比島沖海戦での関行雄大尉の体当たり攻撃だとされている(注2)。このとき、関大尉は護衛空母(注3)1隻を撃沈した。しかし、その後の特攻で護衛空母でない正規の空母もしくは戦艦、巡洋艦を「撃沈」した記録は、日米双方の戦争資料を突き合わせた結果、見当たらない。

 理由は明らかで、戦艦もしくは空母を撃沈するには、例えばゼロ戦に搭載可能な250キロ爆弾では不十分であること、爆弾を抱えたまま航空機ごと突入した場合、揚力が発生して爆弾投下時より速度が落ち、威力が減衰するなどの技術的な問題が指摘されている。もちろんこのことは、特攻が始まった当初から現場のパイロットには周知のことだった。比島沖の特攻作戦を決断した大西瀧次郎中将はその後、特攻作戦を「統率の外道」と述べている。戦時の作戦とはいかに味方の兵士、兵器の損失を少なく、敵方のそれを大きくするかにかかっているとすれば、正直な感慨といえる。しかし一方で、多くの歴史資料から、「桜花」や「回天」といった特攻兵器の開発は比島沖の特攻作戦より早い時期から始められていたことが明らかになっている。なぜ、日本人は「特攻」にのめりこんでいったのか。

 鴻上尚史の「不死身の特攻兵」は、9回出撃して9回帰還したあるパイロットの行動をまとめた。敵艦への体当たりを前提にした作戦で、なぜ帰還できたのか。「死んで来い」という作戦はどのように実行されたのか。命令ではなく「志願」といいながら本当に「志願」だったのか…。

 書は4章に分かれている。第1章は、なぜ鴻上がこの問題にかかわったか、第2章は、高木俊朗の名著「陸軍特別攻撃隊」をベースにした「戦争のリアル」、第3章は、この書の主人公ともいうべきパイロット(驚くべきことに、鴻上が取材時、存命であった)へのインタビュー、第4章は、この問題への鴻上自身の思いをつづった「特攻の実像」。

 もちろん重要なのは第4章である。「特攻」をめぐる物語が戦後、まず「命令した側」から語られたこと、そこには戦中の軍上層部の保身意識が避けがたく働いたこと、その象徴例として、特攻は「命令」ではなく兵士の志願によって行われたと偽装されたこと。例えば、比島沖で特攻第一号となった関大尉は作戦を明かされ、数秒の沈黙ののち「少しのよどみのない明瞭な口調で」「私にやらせてください」と答えたというが(注4)、戦後40年たって、関大尉は「一晩考えさせてくれ」と答えたものの、「作戦は急を要する」と畳み込まれてやむなく引き受けた、という実像が明らかになった。大西中将の別の部下が証言したのである。志願を装いながら実態は強制的な命令であった。

 鴻上がここで強調したのは、とかく「特攻」像が「命令した側」によって美化され、「命令された側」の葛藤、苦悶が拭い去られたのではないか、ということである。「死んで来い」という命令に抵抗し、出撃しながら生還したパイロットの物語を残さなければならない、というこの書の動機もここにある。特攻で死んでいった人たちをだれも責めることはできないが、そのことで「命令した側」の責任が不問に付されるわけではないのだ。

 鴻上は書の末尾で、社会心理学者南博氏の「集団我」という言葉を紹介する。集団と自我が一体化し、集団を運命共同体とする意識である。日本人はこの「集団我」の境地に陥りやすい。そういう状況に立ち至ったら、その状況を「所与のもの」とはせず、冷静に自我を取り戻す努力をする。鴻上はこのことを強調してこの物語を閉じている。これは遠い過去のことではなく、今日の我々が状況と向き合うために必要な腹構えとして受け止めるべきであろう。

講談社現代新書、880円(税別)。

 

(注1)「特攻―戦争と日本人」(栗原敏雄著、中公新書)。引用の原本は「昭和天皇独白録」。「大和」の出撃を「特攻」と見るかは議論がある。

(注2)「レイテ戦記(上)」(大岡昇平著、中公文庫)

(注3)護衛空母は民間から船舶を徴用、航空機が発着できるよう改造したもので、輸送船団の警護に使われた。鋼鈑の厚さは民間船舶並みで、正規の空母とは比較にならないという。

(注4)戦後ベストセラーになった「神風特別攻撃隊」から。大西中将の部下が著した。「命令した側」からの「特攻」像である。



不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか (講談社現代新書)

不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか (講談社現代新書)

  • 作者: 鴻上 尚史
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/11/15
  • メディア: 新書

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シンプルで凄みある展開~映画「ウィンド・リバー」 [映画時評]

シンプルで凄みある展開~映画「ウィンド・リバー」

 

 米中西部ワイオミング州のウィンド・リバー。酷寒の雪原で、女性の異様な死体が見つかった。薄着で靴も手袋もなく、血を吐いて倒れていた。発見者は米野生生物局のハンター、コリー・ランバート(ジェレミー・レナー)。この地はネイティブ・アメリカンの保留地だった。街はなく、山岳地帯にトレーラーハウスが点在するだけだった。

 やがてFBIの女性捜査官ジェーン・バナー(エリザベス・オルセン)がやってくる。死体の状況から殺人とは断定しがたく、応援を頼めないため彼女はコリーに捜査協力を依頼する。コリーもかつて、娘が失踪、そのまま迷宮入りした過去を持つ。事件が他人事とは思えなかった。

 ここからコリー、ジェーン、部族警察長の三者による事件解明が進められる。死体には暴行された跡があり、死亡推定時刻には男と会っていたことも判明する。男の住んでいたトレーラーハウスから伸びたスノーモビルの跡を追うと、変わり果てた男の死体が見つかった。事件当夜、このトレーラーハウスで何があったのか…。

 正直言って、事件のなぞ解き自体はそれほど複雑ではない。したがって、これ以上ストーリーを追うと、興ざめすることこの上ない。

 それよりも、事件の背景にネイティブ・アメリカンの保留地を置いたことの意味が大きい。彼らは好んでこの地に来たわけでなく、強制的に移住させられた。十分な居住環境もなく、夜間にはマイナス30度になるという山岳地帯にトレーラーハウスを置いて住んでいる。そうした地で、事件は起きた。過酷な自然と人間の暴力が対をなす、シンプルで骨太の映画である。2017年、米国。

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歴史はもっとブラック?~映画「スターリンの葬送狂騒曲」 [映画時評]

歴史はもっとブラック?~映画「スターリンの葬送狂騒曲」

 

 グルジア(現在の一般的な呼び方はジョージア)の靴職人の息子で、「コーカサス山脈を越えてきた男」と呼ばれたジュガシヴィリは、やがてソ連邦の絶対的な権力者となり、鋼鉄の男(=スターリン)と呼ばれた。

 20世紀は戦争の世紀と呼ばれたが、画期となったのが第一次大戦と第二次大戦だった。二つの大戦争は何を戦ったか。二つの総動員体制、即ちナチス型国民社会主義とソ連型社会主義の優劣であった。実は「戦争の世紀」の主役はヒトラーとスターリンであり、世界史的には日本も米国もわき役に過ぎなかったのである。

 スターリンは1953年に急死した。絶対権力者の突然の死に、クレムリンは大混乱に陥った。その様子をブラックコメディ風に描いたのが「スターリンの葬送狂騒曲」。スターリンの腹心だったマレンコフだのベリヤだのが、次々登場する。「モロトフ・カクテル」で知られたモロトフは外相だったか。赤軍トップのジューコフもしっかり出てきた。

 まず秘密警察トップのベリヤが失脚(当時としては衝撃的なニュースだった)、スターリンの暫定後継者となったマレンコフは優柔不断のゆえに主導権を失い、実務にたけバランスを重視するフルシチョフが台頭、56年にスターリン批判を行って流れは確定した。

 …と、ここまでのクレムリン権力闘争を、ドタバタ調で描いた。原作はコミックらしい。あまりに売れ行きがよく、映画化されたと聞く。上映の館内はほぼ満員だったが、受ける理由がよくわからなかった。いまや過去の物語になったソ連という国の内情に興味・関心があるとも思えず、全編貫くブラックユーモアが今の時代を風刺しているとも思えず…。そんな中で一つ言えるのは、スクリーンに描かれたより、実際の世界史の現場で繰り広げられた権力闘争はもっとブラックだったに違いない、ということである。

 2017年、英国、カナダ、フランス、ベルギー共同製作。

 

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戦後思想が避けてきたものは何か~濫読日記 [濫読日記]

戦後思想が避けてきたものは何か~濫読日記

 

「丸山真男の憂鬱」(橋爪大三郎著)

 

 タイトルに「丸山真男」の名前を入れたのはともかく、次に「の憂鬱」としたのはどうだったか。著者(橋爪)も若干その辺りが気にはなったようで、「あとがき」で少し触れている。この書を書き始める前から頭をめぐっていたタイトルだという。しかし、いささか文学的なタイトル(著者は「気分」の意味になる、という批判の声を紹介している)には、当然ながら異論もあろう。そのうえで著者は「最初の直感を信じる」と、押し切っている。

 中島岳志が、安田善次郎を刺殺した朝日平吾の心象を追った書のタイトルに「…の鬱屈」と入れたのと、どこか似ている。中島はこのタイトルについて「政治の力によって、どうにかなるような問題ではないだろう。むしろ、(略)政治的に埋め合わせをしようとすることには、大きな危険性が伴う」と「あとがき」で述べた。橋爪が「憂鬱」にこだわったのは、アカデミズムとか政治学とか、一定の土俵を設けたくなかったためではないか、と推測する。

 橋爪は1948年生まれ。72年に東京大文学部を卒業しているから、全共闘運動さなかに東大キャンパスにいた。全共闘の学生らが、戦後民主主義の象徴的存在と見られていた丸山真男を批判、法学部研究室を封鎖した「事件」は当時、ニュースになった。橋爪もこのとき「現場」にいたと書の中で明かしている(橋爪がどの程度全共闘運動とかかわったのかは知らない)。そのうえで、丸山の抱えた憂鬱の根源は何か、それは、丸山を批判した全共闘の側にもあったのではないか。恣意的に「いいもの」と「悪いもの」の線引きが行われ、その作業は今も続けられているのではないか。そこを解明しないと、我々は丸山と同じ「憂鬱」という病にかかってしまうのではないか…。

 どうやらここに著者(橋爪)の丸山論の出発点があり、この書を書いた「動機」があった、といえそうだ。では、丸山が恣意的に引いた線引きとは何か。橋爪が取り上げたのは、荻生徂徠であり、山崎闇斎(と闇斎学派)だった。丸山は徂徠を江戸期における近代的政治意識の萌芽と見、一方で山崎闇斎(と闇斎学派)を幕末の尊王攘夷論の源流とする見方については「一々引用の煩に堪えない」とした。論ずるに足らずということである。しかし、山崎闇斎から浅見絅斎「靖献遺言」に至る流れは戦前の皇国史観の柱をなすものであった。実は、戦後思想の旗手となった丸山がこうした形で戦前の皇国史観を切って捨てたところに、戦後思想の何たるかがよく表れていたのであるが、ともかく丸山は闇斎や絅斎を「引用に堪えない」としたのである。

 橋爪はここで、こうした丸山の仕事とは対極にあった山本七平「現人神の創作者たち」を取り上げる(この書は、アカデミズムの世界では評価されていないという)。山本は、闇斎や浅見絅斎の仕事を丹念に追い、明治の尊王攘夷論、昭和の皇国史観がどのように形成されたかを解き明かしたのである。

 橋爪の書では、江戸期の朱子学や儒学がどのようなものであったかも紹介されている。中国での解釈と日本のそれとが必ずしも一致しないこと、それが日本と中国の社会制度の違いなどから避けられなかったことが詳しく論じられている。その辺りになると、読むのは楽しくはない、というよりかなりの忍耐を必要とする。

 ただ、そうした中で見えてくるのは、丸山の「日本政治思想史研究」が戦前の皇国史観の息の根を止めるものにはならず、むしろ闇のかなたに押しやってしまったこと、である。とりもなおさずそれは、戦後思想が、戦前の思想を無意識の底流に抱え込んでしまったこと、言い換えれば底の浅さを宿命的に持ってしまったことを意味する【注】。

 橋爪は明言してはいないが、言いたかったことはおそらくそういうことに違いない。

 講談社選書メチエ1800円(税別)。

 

【注】「日本政治思想史研究」が書かれたのは戦時中であり、皇国史観に真っ向から対立するものにならなかった責任を丸山が負う必要はないだろう。しかし、戦後にあらためて自分の仕事を見直すことはできたはずである。橋爪もそこに言及している。丸山が、戦時中の自らの仕事を批判的に修正しなかったことが、日本の戦後思想に与えた影響は大きい。


丸山眞男の憂鬱 (講談社選書メチエ)

丸山眞男の憂鬱 (講談社選書メチエ)

  • 作者: 橋爪 大三郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/09/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

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奥にひそむ映像・映画論~映画「カメラを止めるな!」 [映画時評]

奥にひそむ映像・映画論~映画「カメラを止めるな!」

 

 いきなり37分ワンカットのゾンビ映画。これはこれでスピード感、緊張感あふれ息をつく暇もない。終わって「えっ、それでどうなるの?」と思ったら別のステージのストーリーが始まる。つまり、入れ子構造でできている。

 最初の37分が一つの箱だとすれば、その外側にもう一つの箱がある。最初の箱は演技するゾンビと、それを襲う本物?のゾンビが登場する。現実と幻が交錯する。外側の箱は、そのゾンビ映画を製作する、言い換えれば取り巻く人々を描く。

 では、最初の小さな箱は映像という幻で外側の箱は現実なのか、というと、それほど単純ではない。

 もとより映像・映画は虚構であり現実ではないのだ、と切って捨てれば、そうしたものに情熱とエネルギーを傾けている人たちはただ「空を撃つ」作業をしている、ということになる。おそらくそうではない。作られた映像・映画は、誕生の瞬間に命を持つ。つまり現実の一端として独り歩きを始める。ゾンビを演出・演技している人たちが本物?のゾンビに襲われるという設定は、そうした含意であるようだ。

 37分間の長回しに続いて製作過程にたずさわった人々の描写…これはなんだろう、舞台で行われた手品に続いて、種明かしを延々と見せられるのに似ている。それが必要か不要かは別にして、種明かしによって手品そのものの価値は失われるのか―言い換えれば、種明かしによって手品の価値は変わるのか―という問題提起にも思える。

 複雑な言い回しになるが、その製作過程を明かすことで、冒頭37分間の長回しは、それ自体が一つの現実として独り歩きを始めた、といえるのではないか。

 映画専門学校のワークショップの一環として作られたという。完成度は高く、単純に楽しむための映画として観るのもいいが、その奥にある映画論、映像論は深い。そこに立ち行ってみるのもいいかもしれない。2017年、日本。

 

カメラを止めるな.jpg

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青写真が描けない日本~社会時評 [社会時評]

青写真が描けない日本~社会時評

 

A)近ごろの三大話は、西日本豪雨禍に続く北海道地震、体操協会まで揺るがしたスポーツ界の暴力体質問題、ちっとも盛り上がらない自民党総裁選。こんなところか。

B)北海道地震では、見渡す限りの山が震度7で崩落した厚真町の光景もショッキングだったが、全道一斉停電(ブラックアウト)という事態に驚いた。どんな制度設計をしていたのだろうか。全道300万㌔㍗余りの需要に対して、苫東厚真という一つの火力発電所がその半分を受け持っていたというのが、危機管理上どうだったか。

C)北海道では泊原発が2012年以降、運転を停止している。このことが影響しているらしい。原発依存体質から電力会社が抜けだせないでいることが遠因ではないか。

A)どういうことか。

 

「原発依存」体質が招いた全道停電

C)泊原発は3基で計200万㌔㍗の発電能力がある。これが稼働していれば苫東厚真火発はフル稼働する必要がなかった。つまり、今回のような事態は起こりようがなかった。おそらくこれが電力会社の言い分だろう。しかし、これは問題のすり替えだ。東日本大震災以降、原発の安全性に大きな懸念がある今、本来なら垂直型、中央集中型ではなく水平型、分散型ネットワーク方式による電力供給システムへの転換が図られるべきなのに、原発依存の設計思想からいまだに抜けだせずにいたため、今回のような事態が起きたといえる。

B)原発は、中央集中型システムの典型だ。本当に怖いのは原発稼働時に、原発を含め全道の発電所が一斉に緊急停止し、原発の外部電源が断たれた場合だ。最悪の場合、核燃料の冷却機能が失われる。そんなことが起きたらどんな対処が考えられたのだろうか。

C)今回の事態を奇貨として、エネルギー供給システムの分散型ネットワーク化を進めるべきだ。

A)でも今の政権ではどうかな。とてもそんな決断は考えにくい。体操協会の暴力問題はどうか。

B)塚原光男といえば、体操界に詳しくない我々でもその名を知っている。オリンピックのレジェンドだ。しかし、その塚原氏と妻が、70歳になってなお強化の現場を取り仕切っているのはどうなのか。女子レスリング、アマチュアボクシングもそうだが、老人が過去の栄光と既得権にしがみついているのは見苦しい。老害こそが最大の問題だ。

C)一人の女子選手が会見を行い、体操協会の体質を告発するに至った心情を考えると胸が痛いが、協会が暴力を振るったというコーチの無期限登録抹消処分に至るまでに、なぜ是正策が取られなかったのか、不思議だ。裏で何かあると考えるのが普通だろう。

A)結局は、こうした暴力的指導法が日常的に存在し、だれも気にかけなかったということではないか。コーチ一人の問題ではなく、スポーツ界のある種ムラ社会的な側面が問題の根底にあるようだ。

 

尋常でない同調圧力

B)ムラ社会というか、最近「不死身の特攻兵」という本で、9回出撃して9回帰還した特攻隊員のことを書いた鴻上尚史さんも言っているが、底流にあるのは日本社会の尋常でない同調圧力ということではないか。スポーツ界は、目指す目標が同じであるだけに同調圧力が働きやすい。

C)1970年代、原発建設が住民の反対を押し切って「国策」として進められたのも、尋常でない同調圧力の結果だった。それが今日の原発列島を生んだ。

A)自民党総裁選に目を向けよう。状況を見ると日本の政治の悲惨さを思わざるを得ない。

C)これこそ、根拠のない同調圧力の結果だ。自民党の国会議員たちは何をおびえているのか。情けない限りだ。

B)今の状況を招いたA級戦犯は岸田文雄・党総務会長だろう。安倍首相が次を担当したとしても1期3年だ。その間、干されるのを覚悟で立つか、それとも安倍の後ろをもみ手して追随し、確証のない「のれん分け」を期待するか。誰が見たってここで立った方が戦略的に優れているのは明白だった。

C)結局、岸田という政治家は立つべき時に立てないという評価が定まった。

 

政策的成果などない安倍政権

A)外交の安倍だの経済の安倍だのと政権の取り巻きは言いふらすが、そんなものに実体はない。それは国民がよく知っている。安倍外交とはトランプの番犬として時々吠えてみただけのことだし、北朝鮮と差しで話をするといいながら外務省を通してきちんとしたパイプを作ろうとした形跡はない。小泉純一郎政権の対北朝鮮外交での田中均外務審議官のような存在は皆無だ。とりあえず内調を使ってなんとかしようとしているが、どんなものか。手玉に取られるだけでは。経済に至っては、何をもって評価するのか。昨年のGDPは世界3位だが、2位の中国とは2倍以上の差がある。一人当たりGDPは世界25位だ。貧困率は、2015年のデータだが世界で12位。チリあたりと同列だ。無理やり円安株高政策を進めて企業は歓迎かもしれないが、国民には何の恩恵もないことはデータからも明らかだ。

B)来年度予算編成がこれから本格化するが、早くも一般会計で100兆円を超える見通しになった。イージスアショアを米側の言い値で買わされて防衛費はまた増額だし、プライマリーバランスの均衡化なんて本当にやる気があるのか。最近、2020年度目標を5年先延ばしと伝えられたが、25年度だって実現はあやしい。

C)こうしてみると、政策的成果はほとんどないし、モリカケ問題で官僚組織はガタガタだ。これであと一期やるなどとどうして言えるのだろう。自民党内でもほとんど批判がないのは不思議というほかない。石破さんは批判しているけど。

B)結局、政治家としての倫理観よりポストに群がる処世術のほうが先に立っているとしか思えない。政権党のこうした堕落ぶりに対しては、本来なら他の政党が取って代わるべきなのだが、今の日本の政治はそうした仕組みになっていない。その結果、日本の政治は果てしなく堕ちていくばかりだ。


防災・環境保護の先進国へ
A)
北海道地震で浮き彫りになったのは、ポスト原発をにらんだ電力供給システムの青写真を描く能力を持ち合わせていないこと。スポーツ界で明らかになったのも、新時代に即した選手の育成法をだれも描けず、旧態依然とした手法がまかり通っていること。どうも、その根幹にあるのは、ポスト冷戦の時代になお米国追従しか頭にない現政権の在り方であるという気がする。既得権益にしがみついているから官僚を含めあちこちの組織が腐敗し、倫理観を失っている。

B)総裁選に立った石破氏が提唱したが、昨今の豪雨禍や地震被害を見ると、防災庁を作るべきではないか。その中に日本版FEMAを創設する。

C)さらにいえば日本は防災、環境保護の先進国を目指すべきではないか。脱原発、エネルギー政策の転換、脱地球温暖化の国際的な主導国になる。これから老人(大)国になるしかない日本にとって、これこそが国の青写真づくりに結び付くはずだ。かつてのような経済成長第一主義は捨てるべきだ。 


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魂を揺さぶる歌声~映画「BUENA VISTA SOICIAL CLUB adios」 [映画時評]

魂を揺さぶる歌声

~映画「BUENA VISTA SOICIAL CLUB adios

 

 スペインの片田舎で見たフラメンコ。寒風すさぶ陸奥(みちのく)で聞いた津軽のじょんから。泥のついた大根のようでいて、しかし高い音楽性が魂を揺さぶる。キューバの「ソン」もそんな音楽だ。だが、ここにあるのはそれだけではない。キューバが歩んだ歴史の重みと哀しみが、込められている。その複雑な歴史は土着の民だけでなくアフリカ系、ヨーロッパ(スペイン)系、そして米国系の民によって紡がれた。立ち上る音と歌声は貧困と抑圧を内に秘めてカリブの陽気なリズムと旋律に彩られる。ステージで歌い、演奏するのは80代、90代である。「奇跡」というしかない。

 さまざまな文化の融合の末にキューバで生まれた音楽「ソン」を追ったドキュメンタリー映画「BUENA VISTA SOICIAL CLUB」(2000年に日本公開)の続編ともいうべき映画が、この「BUENA VISTA SOICIAL CLUB adios」である。前作の監督ヴィム・ヴェンダースは総指揮に回った。

 いささか芸のない言い方だが、観ての(聞いての)感想は「とにかくすごい」の一言。80代、90代の老境がカリブの煽情的なリズムに乗って、貧困や差別、抑圧の果ての哀しみをナイーブに、そして情熱的に歌い上げる。圧巻は、裕福な白人の母と貧しい黒人の父の間に生まれたオマーラ・ボルティオンド(写真左)の「二本のクチナシの花」。クチナシといえばビリー・ホリデーだが、まさしく大輪の花二つの観がある(オマーラはキューバのサラ・ヴォーンと呼ばれている)。

 「BUENA VISTA SOICIAL CLUB」は、キューバで埋もれかかったソンの名手たちを掘り起こして世界に衝撃を与えたが、続編ともいえる「BUENA VISTA SOICIAL CLUB adios」は、その名手たちが世界にはばたく様子が描かれている。1998年のアムステルダム初公演、その2カ月後のカーネギーのステージ…。しかし、一方ではグラミー賞授賞式に出席するためのメンバーのビザが下りなかったことなど、政治による不条理のシーンも挟まれている。

 タイトルに「adios」とついているが、どうかこれで終わりにしないでくれ、といいたい。2017年、英国。


ブエナビスタ.jpg

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