「戦争責任」をめぐる不透明さ今も~濫読日記 [濫読日記]
「戦争責任」をめぐる不透明さ今も~濫読日記
「昭和天皇の終戦史」(吉田裕著)
日中15年戦争から真珠湾攻撃を経て米国を主要な敵とする太平洋戦争、そして終戦に至った。あの戦争は誰が率いたのか。責任はだれが負うべきか。答えは、戦後80年近くたってなお不透明である。東京裁判では東条英機を首魁とする軍部、特に陸軍幹部が責任を負ったが、これは歴史の答えとして十分なのか。釈然としない思いを抱えるのは私だけではないだろう。
戦争責任の問題を考えるとき、思い浮かぶのは天皇の扱いである。戦争が「天皇の名において」行われたことは間違いない。しかしそれは、天皇が直接指揮を執ったことを意味しない。だからと言って天皇は戦中、戦後を通じ超政治的存在として地位を確保し、軍国の象徴から民主主義の象徴として生き残ることが許されるのか。背後に政治的意図が働いてはいないか。それは誰が何を目的としたのか。
著者の吉田裕は「あとがき」でも触れているが、戦後10年近くたって生まれた世代である。当然ながら戦時中の天皇の振る舞い、息遣いを知らない。そこで、この書を「『純粋戦後派』が書いた昭和天皇論」という。さらに、こうしたものを書かせた背景として、昨今の史料ブームによる「イデオロギー・フリー」な雰囲気があるともいう。端的に言えば、天皇の戦争責任を問う作業を「タブー」と考える空気が薄れつつあるということだ。
問題を解く手がかりとして「昭和天皇独白録」をあげる。1946年3月から4月にかけ、宮内省御用掛だった寺崎英成ら側近5人を前に戦争の時代を回顧した記録である。1990年、寺崎家の遺族のもとで見つかった。果たしてこれは単なる回想録か。それとも何らかの政治的意図の産物か。
内容を読み込むとともに、側近5人衆とは何者か、さらに近衛文麿、木戸幸一、高松宮、東久邇宮ら宮中グループと天皇の関係を明らかにしていく。重臣たちと天皇の関係は、ひとしなみではないとわかる。時に驚くほどの嫌悪感が、例えば近衛に向けられる。戦後日本の行く末について明確な見取り図を持っていたと思われる近衛は「天皇退位論」を腹案としたが天皇に拒否され、GHQからも戦争責任を問われる形で蹉跌、自死する。
対米開戦論に否定的だった近衛は、GHQからの追及はないと楽観視していたという。ここで著者は「アジアに対する戦争責任の問題に関しては全く無自覚であった」「近衛の最大の『つまずきの石』は、アジアの問題であった」と指摘する。近衛の意識の落差は、皮肉にも今日の戦争責任を巡る落差(アジアに対する加害意識の欠落)につながる。
東京裁判開廷は1946年5月3日である。その1か月前に極東委員会が開かれ、天皇不起訴が連合国間で合意された。直前にマッカーサー司令官が天皇制継続と戦争放棄をバーターにした戦後憲法草案を確定したことが大きい。「独白録」が書かれた時期は東京裁判の日程と重なる。占領から民主主義構築へ向かう中で、天皇制維持こそ有効と考えたマッカーサーらの意図に後押しされ「独白録」が書かれたと想像するのは難くない。
さらに言えば、連合国の大勢だった天皇戦犯論に抗して天皇制継続にこだわったのは、冷戦の深刻化を見据えてのことだろう。反共防波堤を構築するには、共和制より民主天皇制が有効との判断があったとみられる。
「独白録」では真珠湾攻撃について、立憲君主制である日本では政府と軍部が合意した開戦決定を天皇が否定するのは難しかった、との言葉があるという。これこそ、米側が求めていた「釈明」だった。しかし、この時の日本は立憲君主制だったのか、政府は議会の総意を背景として成立していたのか、というのが著者の問題意識である。「天皇が止める気だったら止められた」と高松宮も語っていたと、親交があった加瀬英明も天皇の死後明らかにした。
連合国内の戦争責任論をマッカーサーが抑え込み、東条英機にその多くを押し付け、天皇は「人間宣言」を行い民主主義国日本の象徴となった。たしかに、天皇の「聖断」によって日本は終戦を迎えた。では、なぜ「聖断」によって戦争を回避できなかったか。近衛に限らず、アジアへの加害に対する天皇の意識の欠落はなぜか。「戦争」を巡る戦後意識のゆがみが、この一冊によって鮮明になる。
岩波新書、860円(税別)。
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