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引き裂かれた二人の愛情物語~映画「大いなる不在」 [映画時評]

引き裂かれた二人の愛情物語~映画「大いなる不在」


 昔見た映画に「かくも長き不在」(1960年)というのがあった。パリのカフェの女主人が、生死も知れぬ男を待ちわびる。そこへ、あの男に似た一人の浮浪者が現れる。ダンスに誘う。鏡に映った彼の後頭部には、記憶に残る傷があった。しかし男は記憶喪失だった。二人を引き裂いたのは、ゲシュタポの拷問という戦争の暴力だった―。

 「大いなる不在」もまた、引き裂かれた人々を描く。戦争によってではなく、認知症による記憶の障害によって。
 物理学者の陽二(藤竜也)は20数年前に妻と子の卓(森山未來)を捨て、直美(原日出子)と再婚した。舞台俳優として生きる卓にある日、疎遠だった父の近況が飛び込んできた。「事件です」と偽の通報をし、逮捕されたという。急遽、父の自宅を訪れた卓は、予想外の現況を知る。 父は重度の認知症で施設に収容されていた。直美は所在不明。いったい何があったのか。父が直美にあてた手紙が見つかった。まぎれもなく父の愛情が込められていた。
 卓は妻の夕希(真木よう子)と、直美の所在を確かめるため熊本を訪れる。入院、自殺、病死…とさまざまな情報が飛び交っていた。妹・朋子(神野三鈴)と会うが、直美に会うことも伝言を託すことも拒否された。それが直美の心境を物語っていた。記憶をなくした陽二が、自分の認知さえ不確かになってしまったことに失望したのだった。

 タイトル「大いなる不在」の、不在とは何を指すのだろう。
 映画で軸になっているのは陽二である。彼が認知症(記憶喪失)になり、自分の現在地さえ分からなくなっている(卓と会った陽二が「パスポートがない」と嘆くシーンは象徴的だ)。現在と過去がまだら模様に交差する(それを演じる藤竜也が見事)。「不在」が指す一つの事例である。それよりも大きいのは直美の不在である。彼女は記憶の中にしか登場しない。現在という時間枠ではまったく存在しない。そして、卓の中の父親像。その不在を埋める旅が、映画を構成している。
 それらを考えると、この映画で確かな現実とは、始まりと終わりに登場する舞台俳優としての卓の姿、それだけである。卓を額縁として描かれた陽二と直美のまだら模様で断片的な愛情物語、そんな映画に見える。
 2023年、監督近浦啓。多少難解だが、美しい映画。ヨーロッパのそれを見ているよう。


大いなる不在.jpg


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