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よくも悪しくも戦後秩序の出発点~映画「東京裁判」 [映画時評]

よくも悪しくも戦後秩序の出発点~映画「東京裁判」


 東京裁判は1946年5月から48年11月にかけて行われた。A級戦犯とされた28人が被告席に座り、うち7人が死刑判決を受けた。控訴が認められない一審裁判。判決から25年後に米国防総省が公開したフィルムを使い、ドキュメンタリーとして製作されたのが映画「東京裁判」である。1983年公開。デジタルマスター版として修復されたのを機に再公開された。観るのは40年ぶり2回目である。

 東京裁判をメーンテーマとしつつ、当時の時代状況が広範に取り入れられた。東京裁判のモデルといわれたニュルンベルグ裁判、関連する欧州戦線の模様、日本の戦争に至る道筋と特攻による若者の悲劇的な死…。これらを編み込み、法廷の審議が紹介される。
 もともとGHQのマッカーサー司令官命令によって始まった裁判。進駐軍占領下の日本にどう新秩序を築くか、という政治的思惑が背景としてあった。したがって戦勝国が敗戦国を断罪する、という根本は動かぬ事実だった。
 審議されたのは次の3点だった。①平和に対する罪②戦争犯罪③人道に対する罪。①はニュルンベルグでも取り上げられた新たなテーマである。ナチと同様、共同謀議者の戦争責任を追及するのが目的だった。

 冒頭付近で興味深い論争が紹介される。重光葵担当のジョージ・ファーネス弁護人だったと思うが、広島への原爆投下に対する罪はなぜ問われないか、と弁論を展開していた。戦争行為の一環だからということなら、この法廷の被告も大半が無罪ではないか、と問うていた。裁判長のウィリアム・ウェブはいとも簡単にこの議論を退けた。法廷全体の空気としては、入口の通過儀礼的議論と受け止めたようだ。しかし、現在から見ればこの議論は重要で、戦闘員ではない市民への無差別殺戮の罪は戦争の勝敗に関係なく、各国が問われるべきと思う。原爆だけでなく、米軍機による戦争末期の地方都市無差別爆撃も対象となるだろう。
 天皇が戦争遂行にどの程度の影響力を持ったかについては、ウェブ裁判長が周到に東条英機から証言を引き出そうとしていた様子が、細かく描かれる。戦後体制の構築の中で、天皇を米国のリモコン装置にとのマッカーサーの思惑が背景にあったと推測がつく。

 文民として唯一死刑判決を受けた広田弘毅には、城山三郎の「落日燃ゆ」を挙げるまでもなく悲運の宰相のイメージが付きまとう。1931年の満州事変後、33年に外相、36年に首相となったが、むしろ軍部に押し切られた政治家だった。満州国建国の大立者といわれた岸信介がA級戦犯容疑者として巣鴨に勾留されながら訴追を免れたのとは、大きく違う。岸の罪も広田にかぶせることで、岸を戦後再建に活用しようと考えた、ということか(この点、天皇の意向も働いた、とする説もある)。

 裁判は正義と公正に基づく、といわれるが、東京裁判はそこから遠く離れていた。戦勝国が敗戦国を裁き、その後の秩序を都合よく築くための最小限の手続きだった。半面、このことは戦争という行為がもたらす冷厳な事実でもある。戦後日本を見つめ直すにあたって、この法廷で何が問われ何が問われなかったか確認することは無駄ではない。40年ぶりこの映画(4時間半)を観て、あらためて思う。
 監督小林正樹、ナレーション佐藤慶。


 


東京裁判.jpg


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