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ジャーナリズムの境界線を引き直す~濫読日記 [濫読日記]

ジャーナリズムの境界線を引き直す~濫読日記


「神と人と言葉と 評伝・立花隆」(武田徹著)

 ジャーナリスト、大学教授の肩書を持ち「日本ノンフィクション史」(2017年、中公新書)はじめ多数の著書がある武田徹が、立花隆の軌跡を追った。ちなみに「日本ノンフィクション史」で立花は、ほぼ素通り状態だった。文中に文藝春秋の編集者だった堤堯が社長の池島信平にノンフィクション賞新設を提案する場面があるが、動機として「柳田邦男や立花隆といった若い書き手に注目していた」とあるだけだ。後に賞の名にかぶせられた大宅壮一から「小説の言語でノンフィクションを書く」と言われた沢木耕太郎に至る道筋は詳しいが、立花の文体への言及はない。「おわりに」でも登場するが「田中角栄研究―その金脈と人脈」を書くため頻繁に大宅文庫を訪れたという、取材者としての背中だけである。武田はなぜ、ノンフィクション作家として立花を扱わなかったか。

 答えは早々に見つかった。「まえがき」のサブタイトルは「立花隆は苦手だった」。ともにジャーナリストを名乗り大学にも所属、と立ち位置は似ているが…。武田はこう書く。
 ――そこに描かれている事実の世界は伝わってくるが、彼の言葉自体が意識に残ることはない。(略)不世出のジャーナリストだが、言葉を「道具」として使いはするものの、「言葉そのもので表現」していないと筆者は思っていた。(9P
 立花の言葉の使い方について、本質をついているように思う。例えば沢木の華やかさとは真逆の文体なのだ。立花にとって言葉は脇役といってもいいかもしれない。にもかかわらず、武田は「不世出のジャーナリスト」と呼ぶ。その根拠はなんだろうか。
 「まえがき」はさらに哲学者ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」の「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」を引き「語り得ること」と「語り得ないこと」の境界線を引き直す作業に立花は一生をかけたのではなかったか、とする。武田はここに(文体や言葉ではなく)、立花のジャーナリストたる所以を見ている。

 長々とした各論を避け、いきなり本題に入るが、立花の作品は大きく二つに分かれる。代表作の一つは、立花の名を世に知らしめた「田中角栄研究」、もう一つは「宇宙からの帰還」。
 東大の仏文を出た立花はいったん文藝春秋社に入り、週刊誌記事などを1年間書いた後、東大の哲学に入り直したことはよく知られる。学士入学後にウィトゲンシュタインの著作と出会ったとみられる。何が彼をそうさせたのか。武田は立花「知の旅は終わらない」から、答えを引き出す。
 ――ジャーナリズムの世界においてぼくが感じたのは、思惟とのフィード・バックがない観察はなにものでもないだろうということだった。(124P
 ――とどのつまりは、真に見るという意味においては、超人的に見たつもりで凡人的にしか見ていないという結果になってしまう。(125P
 超人的に見たものを、凡人的にではなく超人的にとらえる。そのための哲学(ウィトゲンシュタイン)の学び直しであり、その後のジャーナリスト活動への反映であった。

 このことを補助線として作品群をとらえ直すと、語り得ることの境界内の作品と、語り得ないこととの境界線上の作品と、大きく二つあることがわかる。
 「田中角栄研究」や「日本共産党の研究」、そして一連の政治もの。一方で「宇宙からの帰還」や「臨死体験」。流れを分けるのは「語り得ない(と考えられてきた)ものを書こうとしているか」という立花自身の目の位置である。前者は目前の現実を対象とし、後者は「神」や「あの世」とされてきたものに踏み込もうとする(武田はこれを「ジャーナリズム+α」と呼ぶ)。立花の立花たる所以はここにあり、書のタイトルの含意もここにある。
 立花には「脳死」に関する仕事があり、一見「+α」の領域に見えるが、武田は「語り得る」ものとしている。言い換えれば「調査報道」の領域である。

 立花には大きく三つの時代があった。一つは1960年代後半(東大闘争のころ)、かつての縁で週刊文春に書いていたころと、その後の中東放浪の時代。二つ目は70年半ばの「田中角栄研究」に続く、一連の調査報道の時代。三つ目ある。武田はさらに、週刊誌や雑誌でチーム体制の仕事をしていた70年代、編集者相手に個人仕事の傾向が強かった80年代、若い学生との共同作業を楽しんだ90年代以降と色分けする。大学の講義を引き受けたころ、立花は既に50歳である。若いころのハードワークで体が悲鳴を上げていたに違いない(事実、晩年の彼は成人病のデパートと呼ばれた)。体力、思考力の低下に合わせた対応と思われる。

 これまで「語り得ない」と思われた分野を言語化する、という仕事だけに、疑問を呈する専門家は多かった。立花の議論に共通する人類「進化」のイメージにそれは集中した。人類はグローバル・ブレインに進化するのか。人間は人工知能とのハイブリッド体へ進化するのか。楽観的に過ぎる立花は「ジャーナリスト」なのか。
 立花を「知の巨人」と呼ぶ。ある編集者はこれを「形容矛盾」という。「知の人」とは批判と検証を怠らない人で「巨人」と呼ばれることに安住しない、という。晩年の立花はそう呼ばれ「まんざらでもなかった」(前出の編集者)。心のスキがあったのかもしれない。

 立花がある人物に託した「企画メモ」があり「知の旅は終わらない」でも触れている。
 ――形而上学というのは、metaphysicsといいますが、本来はphysics(物理学)の上に立つべきものです。(略)僕は、現代のphysicsの最先端の知見に立ってmetaphysicsがあるべきだと以前から思っていた(略)(396P
 日本の大学で見られがちな文系と理系の境界線を越えて、最先端の物理学の知見の上に現代の哲学を築く。たしかに、立花の仕事はそういう仕事だった。
 中央公論社刊、2500円(税別)。


神と人と言葉と 評伝・立花隆

神と人と言葉と 評伝・立花隆

  • 作者: 武田徹
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2024/06/07
  • メディア: Kindle版



 



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