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作家と妻と愛人の奇妙な関係~映画「あちらにいる鬼」 [映画時評]

作家と妻と愛人の奇妙な関係~映画「あちらにいる鬼」

 「全身小説家」【注1】と呼ばれた井上光晴の、虚構と現実入り混じる生活、そのうちの奔放な男女関係を描いた。瀬戸内晴美は20代で夫と娘を捨て出奔、二人の男の間を揺れ動いた。このときの心模様を描いたのが「夏の終り」(1963年)【注2】である。その後も一人の男と同棲を続けた。そのころ出会ったのが戦後派作家として頭角を現した井上だった。抜き差しならない関係に陥った井上には妻がいた=以下、映画のキャスト名で表記。

 白木篤郎(豊川悦司)は長内みはる(寺島しのぶ)の講演先を訪れ、男女の関係になった。みはる44歳、1966年のこと【注3】。ほかにも白木には女性関係が絶えなかった。それらを知りつつ、妻笙子(広末涼子)は諦念にも似た感情を抱いていた。娘が一人おり、近く出産の予定もあった。
 やがて白木は調布市内に土地を買い、家を建てることにした。このことが、二人の関係に転機をもたらした。みはるにとって家庭や夫婦関係はどうでもよく、ただの制約にすぎなかった。しかし、白木は、表面上はともかく、そこにこだわっている。みはるはそう見て取り、関係を断つため出家を決意した。1973年のことだった。
 白木夫婦は、剃髪したみはる(出家名寂光=実際は瀬戸内寂聴)を自宅に迎え入れた。3人の新たな関係が始まった。妻と元愛人が自宅で談笑するという、はたから見れば奇妙で不思議な関係だった。なお、原作にある井上の墓所は瀬戸内が心を砕いて岩手の寺に求め、妻もそこに入ったというエピソードは3人の関係をよく表している。笙子の浮気未遂のつまらない話より、こちらを盛り込むべきではなかったか。

 原作を書いたのは、井上の娘・荒野である。この小説は本ブログでも取り上げ【注4】、父母と愛人の三角関係を描くという、困難な作業に取り組んだ覚悟のほどに驚嘆した覚えがある。その覚悟は、水準の高い心理小説として結実した。中でも興味深いのは、愛人関係を続けた女性と「同志」的連帯感を持ち、夫に対しては憐憫と愛情の入り組んだ視線を投げかけた妻(原作・映画では笙子)の存在であろう。その点が鮮やかに描写されているかが、作品の評価につながると思われる。
 原作と映画を比較する愚はあまり犯したくないが、映画というメディアの特性上、ビジュアル面に比重がかかり、内面の描写がややおろそかになった感がある。
 2022年、監督廣木隆一。

【注1】「ゆきゆきて、神軍」の原一男監督が井上光晴を題材にしたドキュメンタリー(1994年)のタイトル。もともとは、自らの経歴も虚構化する井上を形容した埴谷雄高の言葉。埴谷は井上の葬儀委員長をした。
【注2】2013年9月17日の本ブログ「アンチ・モラルな女性像」
【注3】作中でも触れているが、井上と瀬戸内は誕生日が同じだった。井上は瀬戸内よりちょうど4歳下だった。
【注4】2019年7月23日の本ブログ「スリリングな心理小説」

あちらにいる鬼.jpg

 


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