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無常の時の流れと小さな幸せ~映画「川っぺりムコリッタ」 [映画時評]

無常の時の流れと小さな幸せ~
映画「川っぺりムコリッタ」


 奇妙なタイトルの意味も分からず観たのは松山ケンイチ、満島ひかりというキャストにひかれたからだった。監督の荻上直子は「かもめ食堂」や「めがね」でユニークな作風が話題になったのは知っていたが、残念ながら観ていない。

 まず、ムコリッタについて。牟呼栗多は仏教用語で、一昼夜の30分の1を一単位とする。したがって単純計算で約48分を指すが、物理的な計算だけでその概念は説明できないだろう。無常観を込めた時の流れといった意味が背景にあると考えられる。ちなみに「刹那」はムコリッタの最小単位とされる。
 川っぺりに立つ安アパート「ハイツムコリッタ」で展開するひと模様がテーマであるが、ここでは「川っぺり」も一定の意味を持つと考えられる。世間の「川っぺり」であるとともに現世の「川っぺり」であるようだ。登場人物がことごとく生と死の境界線、すなわち「川っぺり」を意識する存在として描かれている。
 無常の時の流れと生死の境界線の中で、人々はどう生きるべきか。

 前置きはこのぐらいにして、物語に踏み込んでみる。北陸のある町。刑務所を出た山田(松山ケンイチ)は、イカの塩辛工場で働き始める。父に捨てられ、母にも捨てられた結果、犯罪に走った山田は、できるだけ世間に背を向けて生きようとする。そんなおり、入居した「ハイツムコリッタ」の隣室には無遠慮な島田(ムロツヨシ)がいた。彼は山田の部屋に入り込み、炊き上げたご飯を平らげるのだった。おかずのイカの塩辛(山田が勤め先からもらってきた)にも遠慮なく手を出す。島田はアパート前の小さな庭に菜園を作っていた。季節ごとの野菜と炊き立ての白米。小さな幸せが、二人を包むようになった。
 アパートには、夫をがんで亡くし娘と暮らす大家の南(満島ひかり)や、息子を連れて墓石のセールスをする溝口(吉岡秀隆)がいた…。
 小さな幸せを手にしたかに見えた山田に、一本の電話がかかってきた。失跡していた父親が、孤独死状態で発見されたという。複雑な感情を抱きながら山田は遺骨を受け取り、部屋に安置した。

 一見するとミニマリズムやスローライフの思想に彩られた物語だが、コントラストは少し強めである。父の死を知った時の映像には大量のウジ虫が映し出され、島田が悪酔いして嘔吐するシーンも執拗だ。幸せの小道具であるイカの塩辛さえ、発酵=腐敗の色を持ち始める。一方で夫との思い出にふける南のあるシーンは、日本的な死生観とエロチシズムの融合を思わせる。そうした陰と陽、無常の時の流れの中で、小さな幸せを見出すことができるか。
 この映画では、その答えの一つとして、たとえ死と隣り合わせの刹那の時間を生きるにしても、炊き上げた飯とイカの塩辛があれば人は幸福な気分になれるものだ、と言っている(奥が深い)。

 南の提案で、山田は河原での散骨という父親の「葬式」を行う。夕暮れのシーン、テオ・アンゲロプロスを思い出させるいいシーンだ。ムロツヨシや吉岡秀隆らわき役陣が本来の自分の色を消して演技しているのが新鮮で好感が持てる。2021年、日本。


ムコリッタ.jpg


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