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ある歴史家の思想的格闘~濫読日記 [濫読日記]

ある歴史家の思想的格闘~濫読日記


「橋川文三とその浪漫」(杉田俊介著)

◇出会い
 数多い思想家・歴史家のうち、特別の響きを持つ何人かがいる。橋川文三はその一人である。
 出会ったのは、1970年前後の学園闘争が下火になりかけたころと記憶する。未来が見えず、言い知れぬ空洞を抱え、精神の下部へと降りてゆくことに心を砕いていたころ。
 どのようにして橋川に行きついたのか、今となっては判然としない。知人のサジェッションだったか、当時読みふけった吉本隆明、竹内好、鶴見俊輔らの思想的水脈の先にいたのか。その両方だったのか。
 大学を出て就職すると、橋川の名は頭から離れた。しかし、多くの書き込みがある一冊の本はいまだに手放せないでいる。「増補 日本浪漫派批判序説」(以下「序説」)である。確かめると、1968年発行の第4刷だった(初版は65年)。現在、書店で手に入る新装版と違い箱入りである。ほかにも彼の著作の数冊が、手元にある。
 橋川に関して、近年では宮嶋繁明が何冊かの本を書いていることは承知していた。定年をとうに過ぎ、橋川文三著作集(筑摩書房、全8巻)を手に入れて気の向くまま、ゆっくりと読み通したいと思っていた。

◇杉田俊介とは何者?
 そんなとき「橋川文三とその浪漫」を目にした。500㌻近い大部である。杉田俊介という著者名は知らなかった。奥付の経歴を見ると、1975年生まれ。私が橋川に出会い、やがて離れた後にやってきた世代である。多くの著作があるらしい。タイトルに「長渕剛」や「宇多田ヒカル」「ドラえもん」「宮崎駿」の名が入っている。サブカルと呼ばれるフィールドを活動場所にしていると推測された。そんな人が、いまなぜ?という小さな疑問を抱きながらページを開いた。

◇書の構成について
 目次をそのまま書き写す。
  序章  橋川文三にとって歴史意識とは何か
  第一章 保田與重郎と日本的ロマン主義
  第二章 丸山真男と日本ファシズム
  第三章 柳田国男と日本ナショナリズム
  第四章 三島由紀夫と美的革命
 橋川を書くのにこの構成は、多少の引っ掛かり(後述)はあるものの、オーソドックスと思えた。保田與重郎批判を軸にした「序説」は1960年に最初の刊行があり(私が持つのは増補版)、「橋川の最初の単著であり原点にして頂点」(杉田、32P)であることは衆目の一致するところだろう。ここを出発点に、丸山との「微妙に割り切れない」師弟関係(杉田、143P)に触れる。丸山は「序説」を正面から批評しなかったといい、そのことを橋川は「嬉しかった」といっている。傍から見れば、確かによく分からない関係である。
 「序説」はもともと同人誌に連載された。単行本化に当たって、新たに第7章が追加された(杉田、32P)。この第7章「美意識と政治」が、丸山に対する批判の刃になった。以下、杉田の解説。

――端的にいえばそれは、丸山が軽視した美(文学)の問題である。政治的な決断と責任を無限に死産させていく文学=美の問題の中にこそ、日本の厄介な(メタ的な)政治性がある。(144P)

 丸山のファシズム批判の視野に、保田與重郎はほとんどいなかった。杉田の言葉を借りれば「丸山の超国家主義=日本ファシズムの分析には致命的な死角がある」(144P)。しかし戦時中、保田に「いかれた覚え」(杉田、32P)のある橋川は、保田の最も得意とする場所(=急所)を批判することで丸山のファシズム批判を越えようとした。
 橋川は、柳田国男を世界的な思想家として高く評価した。その視線の先に常民=パトリ(愛郷)という「保守主義者の純粋」(杉田、274P)を見ていた。そこにこそ、国民統合のリソースの欠如という近代のアポリアを超えるカギがあるというのだ。
 ナショナリズム(ウルトラ&スーパー)を、美的象徴によってではなくどのように乗り越えるかは、橋川と三島由紀夫の論争につながる。
 二人の関係はよく知られるところだが、秋波を送ったのは三島であり、橋川は冷めていた、とされる。杉田も、こうした関係として橋川と三島を見ている。「敗戦によってこの世の絶対的なものが砕け散り」「すべてが消費されていく戦後の大衆文化」の中で「人間の生の根拠を探す」(杉田、382P)という「戦中派」としての共通感覚を、二人は持っていた。だからこそ、三島は橋川の思想に共鳴し、著作を読み、学習したという。前掲の宮嶋によれば「橋川は(略)本人の意思に反し、まるで、三島の思想的な(政治的ではない)ブレーンのような立場」だった。
 しかし、橋川は「奇妙な非対称性」(杉田、399P)を貫いた。なぜか。
 橋川は、三島の求めに応じて評伝を書いている。そこで「ノーベル賞候補三島由紀夫をではなく、一人の平凡な青年の戦中・戦後史を描くという方法をとった」と述べている(杉田、399P)。別の言葉でいえば「非凡なる凡人」としか考えない、ということである。愚直だが優れた批評精神を持つ知性としての三島(杉田、400401P)に愛着を感じていたのだ。それゆえに、三島の死に当たっての橋川の言葉は次のようなものだった。

――その死が、あの戦争期の自己欺瞞(=自己陶酔)への痛烈なイロニイであってほしいと願わざるを得ない。

 三島の行動を、その仮面性を見抜いているかのような冷めた視線である。

◇なぜ今、橋川なのか
 橋川文三の思想的格闘を、ブルドーザーでさらうように一気に展開した感のある一冊。どうどうめぐりと思われる個所もあり、読破するには忍耐力が必要だ。それでも、かつてこの思想家(歴史家)に大いなる関心を持った身には興味深い内容だった。そのうえで言えば、なぜ今、橋川文三なのか。
 著者もこの点が気になったらしく、冒頭近くでこの問いを立てている。明晰な知性を持つ政治思想史家である橋川は、実はどうしようもない歴史意識の欠落と無感覚に苦しんだ人だったのではないか。こう考えた。そして、橋川の著作を読めば読むほど、歴史意識の欠如を思い知らされた。このままでは、21世紀を展望する歴史観を持てないのではないか―。
 これは「なぜ今」の答えになりえているだろうか。私は少し疑問を感じる、というか答えがすとんと腹に落ちない。

◇竹内好がいないこと
 最後に、気になったことを二つ。橋川が「師」と仰いだのは丸山と竹内好だった。竹内が章立ての中にいないのは少し戸惑いを覚える。「あとがきにかえて」には、後編として竹内、西郷隆盛、北一輝との対決を論じるとあるので期待したい。
 柳田国男との対決の中で「パトリ」に深く言及している。この概念を語るのに谷川雁を避けて通れないと思うが、なぜ欠落しているのだろう。「アジア同時革命の射程」(杉田、481P)を論じるのであれば、なおさらだ。

 などなど、すべてを書ききれないが、ヘビーな一冊である。
 河出書房新社、3900円(税別)。 

橋川文三とその浪曼橋川文三とその浪曼


  • 作者: 杉田俊介
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2022/04/26
  • メディア: 単行本


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