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物語の落としどころはそこなのか~映画「流浪の月」 [映画時評]

物語の落としどころはそこなのか~映画「流浪の月」


 物語は、二つの糸からできている。一本は、予期しないまま犯罪の当事者とされ、刑期を終えた後もSNSで好奇の視線にさらされ続けている、原作の言葉でいえば「デジタル・タトゥー」の問題。もう一本は、犯罪者とされた男の、肉体上の問題。社会的(公的)問題と個人的(私的)問題と言い換えることができる。二つの要因は折り重なって、物語の主人公である男女を社会的に疎外していく、つまり「流浪の月」を眺めることになる-そんなお話である。

 家内更紗(広瀬すず)はファミレスで働きながら中瀬亮(横浜流星)と暮らしていた。同僚の女性に誘われ、飲み会の帰りにあるカフェに立ち寄った。物静かで細身のマスターがいた。更紗には、それがだれかすぐにわかった。
 15年前。更紗は少女期に父の病死、母の出奔という家庭崩壊を経て伯父と叔母に引き取られたが、その息子から性的虐待を受け、孤独な日々を送った。ある日、雨の公園のベンチに座っていると、いつも見かける大学生らしい男・佐伯文(松坂桃李)に傘をさしかけられた。それまで会話らしきものはなかったが、通じるものを感じて更紗は文のアパートに向かった。
 二人は数日(数カ月?)をアパートの一室で過ごした後、たまたま外出した先で文は逮捕、更紗は保護された。少女不明事件として捜査が行われていた。二人の間には犯罪を構成する要素はなかったが、世間はそうは見なかった。ロリコン大学生による誘拐事件。これが、二人に押した烙印だった。刑期を終えた後も、好奇心に満ちた事件の続報がSNSで流れた。
 文とのつながり(性的な意味でなく)を忘れられない更紗は、たびたびカフェに通った。微妙な変化に気づいた亮は、カフェと文の存在を突き止めた。亮は更紗との結婚を望んだが、更紗は後戻りできなかった。更紗と文、亮、文を慕う女性・谷あゆみ(多部未華子)の間で、葛藤が始まる。亮とあゆみは去り、文と更紗だけが残った。そして文は、自分の肉体上の問題について告白をする。

 ラストに近いこのシーン(原作にはない)が、作品の評価を分けるのではないか。原作では、個人的な問題を公的レベルで回収するという作業が多少行われているが、映画ではあくまで個人の肉体上の問題はそのレベルの問題、という処理がされている。原作にある「赤い糸より存在のきずなが優先する」ことが、映画では明確でない。物語の落としどころはそこなの? という違和感である。抑制のきいた、緩急をわきまえたオーソドックスなつくりだけに、その感がする。
 少し言い方を変えてみる。
 文の問題は、自身で超えられない問題として映画では描かれるが、本当にそうだろうか。超えるべき問題として道筋を描かなければ、新たな普遍(多様性の認識)にたどり着くことはできないのではないか。そうでないと、この映画(原作も含め)で描かれたことは、所詮は個人の問題に収斂することになりはしないか。

 話は飛ぶが、昨今の映画では、かつての松本清張(「砂の器」)や水上勉(「飢餓海峡」)のような「大きな物語」がなくなり「小さな物語」が横行しているように思う。「流浪の月」も、SNSの問題を取り上げながら最終着地点が大きな物語に回収されていない、といううらみがある。原作、映画とも惜しい一作。
 2022年、監督・李相日、原作・凪良ゆう。


流浪の月.jpg


流浪の月 (創元文芸文庫)

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